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この世はそれを必要としなくともいいものとしてある [この世]

どうも演劇の島村抱月と画家の

岸田劉生を混同していたきらい

がある。「麗子像」の絵が有名で

教科書かどこかでお目にかかって

いる。二人とも号が和名なので、

印象が似通っていたから混同した

のと、それほど興味を引かなかっ

たからどちらがどちらでも、

よかったのもある。

なんでも鑑定団をまた偶然見るこ

とになった。途中まで見たが、強い

印象を受けたのが、岸田劉生の漫画

だった。はがきの裏やなんか、そう

いう正式に描いたものではないが、

その妖怪に水木しげる風でもあるが、

リアルがあった。どうも実際に見た

のではないか、という気がしている

と、本物で50万円の値がつけられた。

鑑定団は故人の作で、それが本物か

どうかで値段を評価する番組なので、

いたずら書きでも高値になる。それ

よりも岸田劉生で彼のことが知れて、

興味を持った。

だいぶ病気を全身に抱えていたそう

で、胃潰瘍と尿毒症で39歳で亡く

なっている。70枚以上の娘の写生画

を描いているが、同じ麗子が二人も

三人も登場する構成になっていたり

する絵もある。

人物は潔癖症で、病的な神経質で

トイレでペーパーを一丈(約3m)

も使ったりする。これは知的障害者

の管理でそのホームをチェックする

仕事ではそういう人がいて、よく

トイレを詰まらせていた。ともかく、

ゴロゴロとペーパーを回す音が続き、

終わらない。長く出さなくても大丈夫、

とか言っても、素直に聞いたことは

ない。

また、癇癪もちで気に入らないと、

あたり散らすなど、胃潰瘍ともに

夏目漱石に似ている。

テレビでその作品の紹介があって、

そこで「道路と土手と塀」が出て、

その空の抜け方にこんなに見えた

のか、と印象が一遍に変わって

しまった。妖怪の印象もこの絵が

保証している、と思った。

リアルなのだ。こういう空は日本には

ない。日本の空気は湿気が多く、薄

青い空になる。これは外国の空だった。

しかし、観たのだ、と思わせる。

このリアルさはそのままで、天才なの

だろう。印象派やゴッホの絵に感動して

そこから油彩に入り、ゴッホ調が多かっ

たが、次第に岸田の和の油絵が出来上が

った。と言っても、娘の無表情な不気味

な絵にこだわった理由はなんだろう。

道と坂と塀-1.jpg

:道路と土手と塀::

ものを突き通すことはある、とこういう

絵を見ると、やはり思わざるを得ない。

しかし、こういう想像は単純なあれか

これかに陥るのだろうか。

見通す眼は闇を見る。それは闇という

暗さではないが、視覚では確認できない

ので、どうしても暗いイメージになって

しまう。リアルさが現実を見る眼では

どうも暗い闇に導かれるのか、妖怪

とかを想像してしまうのかもしれない。

インドでは神様は伝統的に長い歴史

を持つので、生まれた時から生活に

沁み込んで、そういう生活の中で

ガネーシュとかの象の神様と一緒に

人は育つ。

本名ガダハ・チャットパダヤーナは

後にラーマクリシュナ(有名な伝統

の神の名前)に改名し、インドで認め

られた聖者であるが、どうしても神様、

カーリー女神だろうが、を見たいと

願った。相当、煮詰まるまでいろいろ

学習・修行したのだろう、ある夜?神を

見れなければ死ぬという決意をして瞑想

に入って、そして、諦めて(途中だが、

ここが大事。もうだめと真剣に思わな

ければ、実現しない)、死のうとすると、

そこに女神が現れて、一体となった。

彼はそれまでの勉強もあったのだろうが、

聖者になり、ヒンドゥー教の改革を行った。


人は死ぬまでに思い詰めて、もうこれ

までと諦めることができた瞬間に、

どうも死の装置が働くらしい。チベット

では「死者の書」ではその死の迎えが

来ること、その直前にすることを細々

と教えているらしい。

体では、スポーツで最大限苦しくなると、

体はそれを死の手前と自動判断して、

自分で解消できる分の快楽成分を中枢

神経に送りこみ、急に楽にしてやる。

(近年、それがドーパミンとされて

きたが、ドーパミンは何かが起こると

期待させる物質だそうで、ワクワクだが、

快楽物質ではないとわかった)

僕の経験では、プールで500mも泳い

だ時にそれに見舞われた。体が勝手に

泳ぎ、手足は勝手に動いているよう

だった。もうこの後何時間泳ごうが

決して疲れはしない、という異常に

リラックスして、ハイテンションな

状況を味わったことがある。

ランナーズ・ハイも同じ原理だろう。

僕らの体も心も主人の「自分」の死

を感じると、勝手にハイになる作用が

働くのだ。神でも何でも見たいものを

見るし、あこがれや希望のものを作り

出して、それと会話さえし始める。

僕には幸い、そういうものを信じな

いので、現れるようなことはないようだ。

と言っても、解釈に困る神秘やその手

の現象は何度も見ている。信じてしま

うほどの感動があるので、信じる人が

いても別に違和感はない。僕はそれ

を今でも検討課題として、確実なもの

として真理的には信じていないだけだ。

信じたくもないが、なにせこの世はそれ を必要としなくともいいものとしてある

のが正しい状態だから。


キリストも人々が信じないと、信ずるこ

とのない者たちよ、と嘆いている。

コップ一杯の葡萄酒で多くの者の腹を

満たした逸話は、たぶんほんとうだろう。

それくらいの気の誘導ができなければ、

メシアとしての指導はできないだろう。

そして、それのダークな面では、頭か

神経かがコントロールされて、ジョン・

レノンを殺したり、安倍晋三を殺傷し

たりするのだ。信ずるものは救われる、

とか言うが、なにをどう信ずるのか

それを誰が判定するのか。裁判所では

もう事が終わっている、遅い。


僕は闇から、創造の門を見出して、

会話のように結末を想定しないで、

話すように書く、という僕の書く感覚

も引き出すことができたので幸運だっ

たろう。もう8年?になるか。こんな

にも文章を書き続けるとは思いもしな

かった。苦労ばかりの文章を書く職業家

にはなるまい、と諦めたのがよかった

のか。


闇では美しいものが美しいわけではない。

反対に、醜いものが醜いわけではない。

そのどちらでも認める容量が大事な時も

ある。そういう判断は気持ちに破られる

こともあり、知や情、体や心の感覚の

ひとつが主人公だということもないのだ。

が、僕らはほとんどそれらのひとつを

中心に選んで、他人や環境との不適応を

日頃から常に迫られている。

ともかく、うまく誤魔化せればそれで

よし、というのが僕らが認めている、

仕事以外ではそんな余裕はないよ、と

いう習慣である。ので、人生を能率で

測るのもまた自然な過ちにも陥る。


誰も疑わない。自分が他人のように

おかしい、とは。異常ではなく、オリ

ジナルなのだと思いたがり、そう思っ

ている。

僕は社会から乖離しての個人の行く先

を確かめようとして、死に損ない

失敗して、愛の助けを借りて自分との

借財を返し続けて、それが終わった時

に社会人がわかった。オリジナルなど

一人もいない、世間が実質上で勝手で

いい加減なものだと、あてになるものが

ひとつもないと確かめられて、そこから

世間の人間を見る眼が反転して、照射

されて社会に生きるために社会に沿って、

それはたとえ不適応でも寄り添って生きる

群像だった。そこで不思議に僕は孤独に

ならなかった。ほんとうに僕らは、(言い

たくないが理解困難だから、)平等だと、

安穏に生きることができると、知った

から。

僕らは大事な処に手を加えて改良する

性質を備えていないのではなく、そう

せざるを得ない性質・常態を理解し

にくいことが(=理解できないような

処が)あり、また生来そのようにでき

ている。

そこが不理解の中心になる。闇の中心の

ような処に立つと、台風に目があるよう

にそれが見える。それはそうだろう、

そのために命まで賭けて、激嵐に突っ

込んでくる、船も飛行機も、また人も

いない。

僕が子供の頃から火事・地震・雷・

豪風などの天災が大好きだったのは、

偶然だろう。その人にはその人の

道ができる。僕は高い山に登った時

のように道を曲がり、より高い場所に

出れば出るほど、見える景色の同じ

場所が違って見える新しい展望に

感動して、ともかく追及を止める

ような性格にはならなかった、なれ

なかった。

他人も同じ道を辿れば同じだと考える

のは、馬鹿げている。そういうはっきり

した時間軸も過去も未来も存在して

いない。

のど元過ぎて暑さを忘れる、というが、

少し違うが、やっと坂道の頂上(峠)

が見えて、これからその向こうにどん

な景色が開け、どんな道を行くのか、

そういう自分が楽しみだ、という処

まで、別な次元に感じるが、また来た

ところだ。

これまでの多くの道があったが、どれ

も覚えていない。振り返れば、自分を

時に慰めるために、しっとりと水に

浸かるように過去を振り返る必要が

あったが、なにをしてきたか、など

そんな余裕はなかった。人生は油断

ならない場所だ。人はそれで、反対に

年齢や老化とともに人を信じ失く

してゆく。それは反面自然だが、もう

反面はもっと大きな展開を、そういう

世界を見る必要がある。

人を信じれないのは当たり前では

ないか。神様ではないのだから、

必ず、過ちを犯す。だから、そうで

はない部分を公平に判断に加えるべき

だ。それは虚しい結果に終わらない。

そう生きるのも。僕ららしいからだ。


彼が(ある種の)善を信じるなら、

それは危ない。僕という自分も他の

善を信じているからだ。たぶん、その

土俵とか、環境・文化レベルという

さまざまな土台が異なる。そういう

世間の事情を面白いとそれを、面白い

と思う。それも善ではなかろうか。

僕らは宗教でも思想でも風俗でも

伝統でも、その内容にはたとえ表面

は不完全でも中心には完全さがある、

と信じ、信じてきた。



僕はそれを充てにできないと、いう

より他に信じる方法はないと思う

ようになった。僕が完全でない以上、

僕なりの正しさがここにあるが、完全

なものはどこにもない。そして、人は

なんとなく気に入ったものを指針に

するのを知っている。また、それを

ある程度秤にかけてどう賛同を得ら

れるかも知っている。そして、完全さ

の抽象性に怯える。

怯えないためにはふつうの社会人が

都合がよい。怯える必要はないが、

ふつうの社会人はどこにも見つから

ないだろう。僕らの迷いはそういう

風にして限りなくつむじ風を起こし

続ける。

台風の目は普段、見たくないからその

自分の見たくない方向にある。僕らは

自ら見ないようにして、一部の過去の

情報・書籍・映像から自分の道を導き

出そうとしている。それは外部にある

社会で生きるのに役立つことで、僕ら

の心は休まらない。

だから、死んだこともないのに、死ぬ

ことを恐れる。それは痛いことや苦し

いことの延長線上に、この先にはもっと

怖くてつらいことがあるという想定に

過ぎない。想定なら、それが天国・

極楽であっても同じように空想になり、

とんでもない誤謬を抱えて生きること

になる。

わからないものを見ないことで、すでに

なかったこととして認める処に着地する。

その時点で指針は指針ではなくなって

いる。

僕らは交通事故を想定して毎日を暮らす

ことはないだろう。社会を暮らすことと、

自分の心と暮らすことは同じことでは

ないから、まったく別な生活法・レベル

の工夫が必要になる。


ここでまた出発点に戻ってしまった。

あとはそれぞれの実験的な、自分の行動

を常に反省する、その上でまた行動する

ということにかかっていると思うのだが、

僕の場合は僕の読む本を心に独自の指針

として、常に「壊し続ける」指針として

造るしかなかった。(網紀のように覚え

るためではない)

毎日、心の中心も芯も動こうとする。よい

時もあれば、そこに坐れず、うまく行か

ない時もある。こうして書き残したこと

も、それなりに役立つ時もあるが、実際は

静かな行動や小さな冒険の行動にかかっ

ている。書いているだけでは勇気は試され

ない。それでは心が錆びてしまう。

::という伝統的な古い意見は正しいと

思う、この頃だ。



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