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もっとハードボイルド風に [ハードボイルド]

なにかを自分に試してみようとする。それ

は何か?と自分で自分に聞いている。

啓蒙ではなく、啓発というやつ。

その弾を自分にぶち込んでみようという

んだろう。もう何もかも終わった気分だ。

今更、なにか余計に考えようなどと思わ

ない。これはこれですっきりする。

そうだ。隠せはしない。僕はもう冒険

なんか望んでいない。きっと、そうだ。

虚しさとの緊張とのバランスで、冒険の

死の危険の緊張下に自分を置きたかった

だけなのだ。他に、現実で釣り合いの

取れる行動が思いつかなかった。

ナンガ・パルバートに登ることだって、

どこまで本気だったか、わかりゃしない。

15年も坐り仕事で、運動をしなくて、

すっかり足腰が弱ったのも、あれだけ

悔しくて嗚咽して、泣いたが、それでも

そのほうがよかったのではなかったか。

こうなってしまうと、ベイビー、どっちが

よかったかなんて、わからなくなっちまう

もんなんだぜ。

東京が恋しい、とかバケイションから帰り

の夜の電車で、車窓から街の明かりが

増え、戻ってきてそうセンチっぽくなった。

啓発は啓蟄じゃないだろう。辞書では、

冬ごもりの虫が土の中から這い出る

季節、とある。電車の中の自分はそう

だったかもしれない。

自然の海・山をバケイションしても、

やはり、東京の街の明かりが恋しく

なるのは、商店街に生まれた刷り

込みのような子供という生物事情の

ことになるのだろう。

僕が虫だったら、人生は考えなかった

だろう。セミは7年か?土の中で育ち、

啓蟄をしてから、木に止まって2週間も

鳴き続けて、ポックリ木から落ちて

しまうそうだ。ここは算数で面白い。

というのは、7(年)という数字は素数だ

から。

それは天敵に食われてしまう。土から

出たら、ガブリ、とやられるのはたまら

ない。そりゃそうだ、いくら人生を考える

脳はないと言っても、絶滅はヤバいくらい

は心得ているものだ。

天敵は何だか知らないが、普通は大抵、

発生の周期というものがある。2年3年とか

の周期があって、奴らは時々大発生する。

7年というのは、それにぶち当たらない

ための、彼らの発生の周期にいかに

会わないでいられるか、という確率が

低いという問題なのだ。頭じゃないだろう。

何度かひどい目に会ったために、周期が

伸びて、それが素数になるのは、人間の

考えたことであって、自然はそうなる

だろうってことだ。計算なんかしない。

彼らの必死がそういう結果を生むのだ。

僕が人を殺さないのも、必死の選択が

あるからじゃない?殺しは割に合わない、

という冷たい因果があるからじゃない、

と思うわけだ。いやさ、生き続けるなら、

社会ルールの守備を考えるが、それだけ

では攻撃にならない。殺したくはないが、

時にはゴキブリも殺したりする。(笑)



ハードボイルドってのは、いつの時代の

ことを言ったのだろう。一つの型があって

それが流行りのダンスの腕の角度が格好

良く見えたように、真似したい型であって、

個性だと思っている。それはもうすでに

世間と何かを共有していることだろう。

オリジナルはそれを最初にやった奴で、

真似した有象無象(うぞうむぞう)じゃない

だろう。受けたから、自分も受けたい。

それはもう、ひとりじゃない、皆と個性を

共有して楽しんで満足していること、

だろう。なんで僕らは寂しさを寄せつけ

ないようにと勘違いして、はしゃぎたい

のだろう?

そうして僕らはすべての個性やイレギュラー

や天然・自然(じねん)を平らにして、

一般化して、無個性にしてしまおうと

する、知らずに。

これは社会化であって、個性化では

もちろんないがこの人間運動はむしろ

自然な社会化の本質であるような

気がする。

自我の弱さから群れるのが一番の

盾であり、武器であるのは、数万匹の

魚が外敵から身を守るために群れて

行動するのにも現れている。社会化

とはこのことを指してるんじゃね?

と決めてみたくなる。

これが流れとして、強いとされる人間に

群れて、それがいじめのリーダーであっても

逆らわないようにするのが、群れることの

第一命題ではないか、と。今の先生も

校長も弱い。自分の保身は恐怖からの

逃げを象徴している。社会で頭角を現す

には、プライドは強いが、内面の一定の

弱さを必要とするんじゃね。自我もやはり、

自分と同じで複層の現れ方をする。自我

が強すぎる人間は周囲に合わせられずに、

孤立化も平気という意地の生活を歩もう

とする。

バカなのだが、そのバカなのが個性なのだ。

ちょっと頭を下げれば済むのに、とか、

気にしないでスルーすれば、時間に任せ

ればいいのに、と僕らが思うことができ

ないのだ。だんだん人を信じず、お金とか

なにか発散・依存するものに託して、本人

はどんどん歳とともに意地っ張りに、剛情

に、頑固になってゆく。そこまで視野が狭く

なるということなので、驚くことに本人は

覚悟しているだろうと思いきや、まったく

自覚していない。自分が負けん気が強い

とか意地っ張りではなく、人に情を寄せる

優しい人間である、と思っていることだ。

そして、大抵の場合、それは正しい。

そういう面も、一面というようには持ち

あわせているのが、人間の性格・性質の

不思議さというもんだ。

言葉で彼はこうだと言って、それで片付い

てしまうような人間はこの世にはいない、

というのは僕の経験論だ。厄介なのは、

他人のほうが「その人の自分」を理解

していることが、その本人がこれが自分

だと思うより、はるかに多いことだ。

これに似たことは日常でよく起こっている。

例えば、鏡。僕らは鏡を見て、自分の顔

を良く知っていると思っているが、ちゃう。

人があなたの顔を見るようには見えて

いない。あなたの右半分の顔は、あなた

が自分の左半分だと思っている顔だ。

初めて大写しの写真の正面顔を見れば、

自分の顔に違和感を感じる。

あなたの声は頭骸骨に響きながら、

あなたは自分の声を聴いている。だから、

初めて録音された時の自分のやや甲高い

声を聞いて、自分の声だとは思えなかった

はずだ。

僕らは自分を知っている、と勘違いして

いる。その表面でさえ、そういう誤謬が

あるのだから、真正の内面とか、自分

とかは想像もつかない。

僕らは僕らの真正の姿にうまく嘘を

ついて、どこか理想的に考える癖がある。

だから、自信というのは最も崩れやすい

プライドの盾だ。僕らが心乱れる時、

群れたがり、逃げたがり、自分を安心

させようとして、酔いたいと思う。

酒を飲む、それもいいだろう。人助け

をする、それもいいだろう。趣味のこと

に集中する。仕事に集中する。映画を

観る。ほんとはそうしたいというよりも、

忘れて安心したい。もうその時点でなに

から逃げたり、離れたり、というその対象

を見ていない。たとえ、眼の前にあっても

眼を反らしているかのように、見ていない。

実際に心の視界には入っていないのだ。

そういうあいまいさの由来はなんだろう?

そんなものは、あるのか? ある。


蟻の社会と人間の社会は似ていない。

女王蟻は一生子供を生み続けるが、

自分のその状態を奴隷のようだとは

思わない。蟻の社会はそれぞれが

それぞれの役目を果たすようにできて

いて、誰かが命令して社会を築いて

いるのではない。都会で蟻の巣の

引っ越しは、道路向こうである時には

悲惨だ。車に轢かれても、轢かれても、

その死骸を残しながら、いくつもの

グループがその車道を横断移動する。

いつ新しい女王蟻を渡すのだろう?

たぶん、旧女王蟻が寿命になったので

引っ越しをするのだ。危険を冒して。

誰も決めていないだろうに。どうやって

それを全員が知って、同意してという

営みが行われているんだろう?

人間の社会もそこは似ているかも

しれない。僕らは思ったよりも、自分を

知らない。そして蟻のように誰も決めて

いないのに、越えねばならない時代や

自然の大波がやってくると、突然の

進化をする。遺伝子やDNAの使われて

いないように見える配列から、新しい

組みあわせを輩出するか(?)して、適応

種となる人間をつくる。使われていない

脳の部位とか、DNAを調べても無駄かも

しれない。それは準備のための予備

として、種の進化のために備えられて

いるから、という考え方を僕はする。



僕ら人間が思春期に恋をすることから、

女の子は体が女になる頃には、父親の

匂いを嫌がるようになる。それは似た

遺伝子との性結合を嫌い、多種多様な

遺伝子の形態になるように、なるべく

違う型との結合を選ぶためだ。だから、

それは種族依存の本能に拠っている。

あなたの恋の相手はある程度、範囲が

決まっているのだ。それには逆らえない。

虎とライオンが交尾しないようなものだ。



自我の強い者のほうが孤独に強く、

弱ければ群れに頼ろうとするのは、

そういう体の内部事情があるのだろう。

どの時代の転換点を見ても、その時の

天才たちの発見・発明によってその後

の世は動かされ、変移してゆく。

そういう突然変異を生むのも、数多くの

精神異常者(一部が天才)の発生という

ことにヒントがありそうだ。

僕らが個性を失えば、恐らく時代や自然

の変異に適応できなくなるのだろう。その

ために多くのDNAだか、遺伝子だかの

新しい配列が必要になるのかもしれ

ない。

今の世がこの先も続けばいいとは、

保守的な考えだが、それは大自然界

では認められていないだろう。

だから、頑固者も、意地悪な人間も、

欲深な性格も多くなっては困るが、

いなくなってはもっとまずいことなのだ。

僕らはどんな存在であっても、生きること

を許される存在なのだ。僕らの微細な

細胞でさえ、どんな考えを持っているやも

しれない。それがいつ役に立つかなどは、

いつの時代も予想したことはないし、

できなかった。

僕らの社会秩序はそのままでは腐って

しまう、ゆるやかな人工野菜だ。大きな

変換点では、相応の年齢者には受け

入れがたいことが起きる。

僕らはそれを長い歴史の上で、予測

することも、うまく受け止めることも

できていたろうか。

それがすべてではないにしろ、ほぼ

それに流されるのが、僕らの事情で

あるのなら、あんまりそれに深入り

しなくていい。僕らは僕らで個人的な

自分なりの人生を修正して楽しめば

いいことだ。そこが保守的な人々の

自由の場というものだ。

酒に強ければ、もっとハードボイルドに

ウィスキーの琥珀色に酔ってもいい

だろう。

健全というのなら、ちょっとの不健全

が夢か現実にないと、それは人生を

支えきれないだろう。それらには

自然の理のバリエイションがあって、

ほんとうに確立したり、確実なもの

(例えば、真理とか真実とか)はない、

というのが偽りのない僕の気持ち

かもしれない。

そこそこの真理や真実でとどめて

おきなさい、と、あ、誰も言っていない。

(たぶん)

誰か言っていたということにしようかと

思ってもみるが、もう書いてしまった。

引き返せない。

まぁ、いいか。人生出たとこ勝負だ。

福島の原子炉が爆発しそうな、あの時

冷やそうとしている水を止めはしなかった。

総理大臣が止めろ、と怒鳴ったが、吉田

さんはわかっていた、水を止めたら、もっと

大惨事(ひどいメルトダウン)になると。

それで、あれだけで済んだのだが、誰も

総理や東電に現実に逆らった吉田さん

に感謝はしなかった。この名誉も命も

超えた行為、これがほんとうのハード

ボイルドかもしれんな。


歴史の評価は社会の評価である限り、

持ちつ持たれつに与したものたちの

秩序であるので、必ずしも頑固な個人

への正当な評価ではない。だから、

あなたが嫌われていても、それは

正当ではない理由からであるかも

しれない。



どういう朝を迎えたいか、

どういう夜を過ごしたいか、

そういう生活のなだらかさに密着したい。

そこで、おやすみを言おう。



:― あなたの夜は誰も奪えない。




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