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A Cup of Tea (を透明に説明する) [詩らしき]

何もかも不思議だという気がする時が

ある。

こうして書く気もないのにパソコンの前

に座ることや、夜が毎日やってくること。

絵でも 構えたり、きっちり構成しないで、

思いつきのようにその場で無為に描く線

からのほうが、できたあとにいいと思える

こと。

願いは意識しないでも、忘れてしまった

方が、それがなにかをしながらの時に、

ふとやって来ているのに、気づく。


僕には書けない、そういう時はいつも

音や楽器、歌声を聴こうとする。

僕のその日の周波数があるらしく、

それに合うものをアルゴリズムで

出てくる音楽に賭けてみる。それが

ほんとうに周波数が合ったのかは、

よくわからない。ことは僕がそれに

乗れるだけの柔軟さという心になれ

るかどうからしい。

音とともに歩けるようなら、周波数

がどうかは、関わりがないように

思えるから。

僕が変わらなければ、何も変わら

ない。あなたが変わらなければ、

なにも変わらないように。強けれ

ば硬直性に突っ張るし、弱ければ

臆病に怖気づいて、僕らの自由は

なにに左右されているのか。


A Cup of Tea というささやき

に未来が約束されたような、テーブル

に座っているようだ。

僕から道が遠ざかるというのは、

ハスキーボイスに導かれるように

新しい道程を探すことだと、まるで

天国への道だと教えられている

ようだ。

どこまでも僕らは僕らだと、確信

という鏡で見通せるようなら、僕ら

の自信は揺るがない。

しあわせの芯を尻尾のように捕ま

えることがある。向こうが入って

来るのか、僕の手が吸い込まれるのか、

そこにある感覚は雰囲気という空気

だろう。整えた音がそれらを備えて

いるのは、誰もが感じ、創作者が

操ろうとしたものだし、そして、

どちらもそれがどこから来るのかは

知らなかったようだ。


ピアノを弾くようにキーを叩いて

いると、学校がビルのようにそそり

立って、砂煙を上げているのだ。

なんという世界の喜び、どんなに

美しい声でそれを歌い上げても、

それが底流から湧き上がってくる

細いトンネルの筋道を僕らは見た

ことがない。

それを知ったら、しあわせのために

苦労したりすることが信じられない。

僕らの音は欠片(かけら)ではない

のだ。そこにあるというなら、そこ

にはない。あるのはそれを可変させる

心にある。

たったひとつの心はないだろう。


犬の気持ちがわかる時、僕らは犬の

心になるのだろうか。動物も音楽を

通すと、透明なテンポの楽器の音色

になるのだろう。そういう時に、僕ら

はなにかに語りかけている。

僕は夜の日本海のほうに揺られ、やがて

夜の太平洋のほうに、反対へと揺ら

れて。

ローンサム、ちいさな灯りは燃えて、

肩を押して、眠気を覚まそうとしてく

れる。

ガガギグギ、壊そうとする雑音も、

苦痛は与えられない、暗い隅に

置かれたマシーンに塵を落とす

嬉しさをいつ発見したのだろう?

孤独のベールを揺らす風に、整頓

された静謐さをしっとり感じる、

倉庫や左遷された机の侘しい傷。

どこかに連れて行かれるよりも、

夕闇が帳を下ろすこの窓の光景を

眺めるほうがいい、と。―あくび

でも?


死んだほうがいい、という気持ちは

それが心の醜さだと気づかないと、

知らないうちに育ってしまう。

気づかないうちにカーテンのうすさ

を壁だと思っている。

曇り空を流れる胞子も、晴れた空を

渡る胞子も、変わらないのは、雨に

打たれないこと。それを知っている

のだから、植物の命というのは、驚く。


ルーズになってきた。

ある程度の束縛のリズムがあったほう

が楽しいのは、自由の法則?

楽でいいんだと言うほどにリラックス

が恋しいんだろう。自由になりたい、

という気持ちになりたくないから、

上着を脱いでみるが、暑かったのか、

汗はかいたのか、なにか考えていた

みたいで、急にあの絵を見たくなった。

鼻をつまらせるような廊下の匂い、

照明(ライト)と正義(ライト)の

重なりなどあるはずもないが、夢で

見てもわからなかった。

最初の劇の暗い幕開けで、子犬を

散歩に連れている夫人に出会って

しまったら、恐れることも、嘆く

こともないはずだ。それは観客の

側の話なのだが、たぶん、その夫人

が舞台に上ってくるのを予感したの

だろう。


晴れたいだろうか。

卒業の月日を式の日まで数えたい

だろうか。それは、それこそ、私の

心のままに。あなたの心次第。

晴れていても、夜は夜。まだそのまま

でいてほしい。


心の帳は間違えた基準を示して、僕ら

を悩ませるだろう。基準は変えればいい

のだが、変える必要がないと思い込ん

でいる僕らがいる限り、無理だ。

どの基準が適切か迷うのが、正しい

悩み方で、それはもう悩みではなく、

時間の解決する迷いだ。


解放の月日を式の日まで数えたい

だろうか。それは、それこそ、私の

心のままに。あなたの心次第。

晴れていても、夜は夜。まだそのまま

でいてほしい。


夜まだ自由の時間。

私の紅茶は?

CupofTea.png

:::

午後のこと、座間市の放送があった。

買い物に出ていたが、聞くと、僕と

同年齢の高齢者が11時から行方不明

(徘徊だろう)になった、と。お、

こりゃ僕のことかもしれない。身長

や服装を聞いて、自分ではないと

確信した。そうか、では出頭する

ことはない、このまま買い物を続け

ようと思った。一瞬だが。(笑)


自分がどこにもいないのならば、

自分はどこにでもいることになる。

だから、誰もが僕という自分になって

しまうことが不思議なことではなく

なる。これが言葉の世界ではなく、

体験だとしたら、誰がそれを現実的

に想像できるだろう。

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東風吹かば、 春を忘れるな [春]

白い画面を見て、多少驚く。パソコン

の前に坐って書こうとしていたこと

を思い出したからだ。そして、その

緊張感もなく、音楽を聴きながら

書くことを忘れていたのに、気が

ついたから。

なにかふわふわして気持ちが定まら

ない、そんな感じ。

音楽を止める。

このほうがいい。なにかである必要

はない。意味もない。

檜の風呂に入ると、木の香りがして

心地いい。そういう風になにもない

空気に嵌ってしまったかのようだ。

すると、それでよい、となる。

終わる、

終わり続ける。

変化が起こるのを待つのだろう。

起こるのは期待していないから、

起こるとは思っていない。

考えを動かさなければ、このまま

だろう。


そう、前から書いてみようとして

いたのが、「火星の人類学者」だ。

長い。書いたらばの話だ。


それでもう、その気を失くしている。

不精になったというが、そんな気は

ない。もともと不精だからだ。

だが、書くことは楽しかったから、

不精は消えて、言葉にならないもの

言葉にしにくいものへの挑戦のよう

に挑んでいったのだが、そういう

楽しみがうすれた。

なぜだろう。

少し、混乱したままだからだろう。

物の世界は感性という感覚を突き通す

ような世界で、今までは言葉で整え、

表現主体の精神の世界を相手にして

いたからだろうか。そんな気もする。


絵画はその中間の性質があり、精神の

要素も強いし、感覚が中心の世界でも

ある。しかし、陶芸というモノづくり

の世界に入ろうとして、入ったと思った

地点で戸惑っているようだ。

ものがやって来た、得も言われぬ体験が

あったのでそれを疑えなかったが、その

あとがいけない。粘土をいじりながら、

それは自然に出て来るものだろう、と

思っていたら、最近は全然でてこない。

五里霧中という熟語があるが、そのよう

で一向に拉致が明かない。

何も考えずに昨日、教室に出て作りかけ

の壺を完成させたのだが、口に装飾を

凝らしてアクセントを加えるつもりだ

った。三つくらいのアイディアをイメ

ージしてこれだという感覚を捉えよう

としたのだが、ダメだった。そのアク

セント自体が失敗だと感じられる。

それで諦めて、口を細めるだけに

したのだ。

完成前壺.jpg

これが形だけの完成前・直前の姿。


白磁花器1.jpg

::シリーズやきもの入門「はじめての

   磁器作り」から:

図書館で以前に借りた本をまた借りて

きたのだが、開いて驚いたのが、同じ

形の白磁器だった。この写真はすっかり

忘れていた。見たかもしれない。

たぶん、見た。それでこれはいい、と

思ったのだろう。それが焼き付いて、

覚えてもいないこの丸い胴体に四角い

首の壺を作ることになってしまった

のだ。

まず最初から、ーこの作品を作る際に

壺を作ることにした。初めから、

同体は球に決まっていた。そこから

の首は決まっていなかった。

次の回の教室で首を四角に決めた。

そこから口になにか装飾を施す

ことを考えた。いつくかアイディアが

あったが、実際に粘土を見ていると、

どれも合わないように感じた。

それでやめた、という少し紆余曲折

があって、この壺の最終形を決めた

のに、本の写真に同じ体形の壺を見て、

これが作りたかった(と以前から

無意識に思っていた)、それで悩んだ

末にこの写真の形に辿り着いたのだ

という気がした。

迷ったのは、作る形が決まっていて

それにたどり着く必要があったから

だ、と思い、そして思わせられた

という気もした。

どうも物の世界に食い入るには、

迷いがあり、そこらを十分に見極め

て準備しなければ、この’もの’への

感性を失うのではないかと。

濱田庄司の作品を見て、興奮して

いた、つい最近の昨年11月頃の

あの熱がない。あの熱とともに

ものへの貫徹した直感があった、

そう反省させられた。



どういう生き方をするかというのは

それほどに微妙な問題なのだろうか、

と。民芸運動や地方の陶器を見て

回ったりが、まだ大事なのかもしれ

ない。なにか見落としているのだ。

もう少し、本気で取り組め、と

言われている気もして、改めて

沈思黙考したほうがよさそうだ。


小花瓶は完成した::

梅と花瓶2-1.jpg

梅と花瓶1.jpg

陶芸教室の先生が僕の花瓶にと、梅の

枝を折ってくれた。匂いがよい。


こちふかば、 ・・・・

東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 

 あるじなしとて 春な 忘れそ 

 ::菅原道真 「宝島集」




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肋間神経痛の痛みは17分? [神経痛]

放たれた矢はその方向の使命や思いの

ままに自らを装飾して、初志のままに

飛ぶものらしい。矢を放った者が

もう少し右に向かわせれば、と思って

も後の祭りらしい。

せいぜい慰めになる音や楽器を聴いて

この憂さを晴らそうかと、思うが。

心の上をテーブルの上を転がる玉の

ように、気持ちも気分もゴロゴロして

いる。

たぶん、と言ってみる。言ってみた

だけの油のような空白が広がる。

そのあとになにか言いたいことがある

ような、そんな展開を自分に期待して

いる? まさか、なぁ。 

悲観するとか、楽しく見るとか、そんな

ことが、ただの言葉としてガラスの

ように砕けて、キラキラのダストのよう

に闇に散ってゆく。

ほんとうに僕らが生きることは、正当な

こと、または正統なこと、もしくは

ほんとうに正しいのだろうか。

僕は儚いものを惜しんでいるのだろうか。

過去に過ぎ去らないように、頼もうと

でもしているんだろうか。それが叶わない

ことだと知っているなら、これは未練な

情なのだろうが。叶わないことが少しも

未練ではないのだったら、これは虚しさ

なのだろうが、僕の心には今、なにが

テニスボールのように転がり続けるのだ

ろうか。

僕が自分に尋ねたいことは、これじゃ

ないか、という会話を思い起こしてみた

ところだ。君にはなんの不安もないと

いう不公平感があるんじゃない?

そういう君の考えこそ、無駄なおしゃ

べりではないのだろうか。

不公平など自分の優越を確かめたい、

未熟な生活へのスタンスではないか。

僕らは生きることにもそこに感謝したり、

感激したりを求めなくてはならない、

そういうのが一般的で、ふつうに

生理的に人間だということなのだろうか。

そういう反語的な言い方をしているのは、

それは違うだろう、と言いたいのだ。

それは違う。

そんな疑いや否定的な不安を煽らなく

ても、すでに生きている、という事実が

ある。僕らはすでに放たれた矢なのでは

ないか。矢を放ったのが過去の自分で

ありながら、僕らはわからずに自分の

意志だと言うかのように、今の自分の

方向に進んでいる。

僕は聞いた気がする。1マイル進んだら、

2マイル先が見えるんだよ、と。

2マイル進んだら、4マイル先が見える、

と。その意味はわからなかったが、希望

があるのはわかった。それを、だから

信じたのだ。

それは何も語らなかったが、その先に

答えがあるという、見えない、見せない

期待があったのだろう。勝手に思って

いただけだが、そういう僕らの姿勢が

影絵のように時間が流れるように重な

って、やがてそれはデジャブだと

気づき、思うようになった。

そこまで行けないのよ、と歌う女の子

がいた。そんな時代の歌もあった。

それをまるで名誉か誇りであるかの

ような歌も現れ、その高らかさに人は

賛美したが、人々の高揚にもかかわらず、

もう今では思い出だった。

過去の栄光だったろうか。そうではなか

ったような気がする。そういう希望を

求める僕らがいつの時代にもいた。そう

いうことではなかったのか。

こういう興奮とそのあとの寂寥をくり

返すという、それが僕らの運命なの

だろうか。

くり返す刺激、長く伸びる怠惰、それを

継続するために僕らは何かをするのでは

ないだろうに。それが僕らの生活では

ないだろうに。

これが僕らの憂さの正体ではないだろ

うか。山があり谷があり、ではなく、

山があるから谷がある。僕らはそれに

準じて、峠を越えたり、登ったりする。

その時にそれをする必要があった。

それを絵に描いて眺めるという悠長な

ことではなかった。

その時にそのことがあり、それをしな

ければならなかった。

そうでなければ、そうなので僕らは

自分の思想でそうしてきたと、言うの

かもしれない。その内容はそうでは

なくても、僕らは言葉を選ばずに、

間違った言い方をしてしまうだろう。

そうして、その言葉が回りまわって、

僕らは正しい言い方を失うのだ。

世間はそう言うつもりの誤解ばかりの

言葉にあふれる結果になってしまった。

地獄に堕ちるという言葉さえ怖がる人

がいるという、妄想が定着しているの

だが、

(今、灯油ストーブに火を入れた。

少し、早いが、胸の肋間が痛む徴候を

見せたのだ)

何もない、と思う。思おうとしている、

思うべきもの、思い出してもいい、そう

いう心に浮かぶ点景だろうか、なにも

ない。それが音の流れに合わせるだけで、

ここまで来てしまった。

これがいつもなにかを書こうとして、

最初に入る心境だ。違ってしまったのは、

わかるだろうと思う。最初に来るものが

後半に来て、もしかすると最後に来て

しまったことだ。

こんにちわ、いつもの幕開け、僕。

だが、ここまで書いてしまって、これ

から始めますというのは、いかにも

時機を逸したようだ。

(実はパソコンを30分も離れていた。

肋間神経痛が前兆通り襲って来て、

胸の痛みにしばし苦しむことになった

からだ。鎮痛剤を飲んで7,8分、

楽になってきた。そんなに薬が速く

効くわけはないから自己治癒で、

少し自前の沈痛物質を放出したの

だろう。息をハァハァさせる痛みは

去り、30分後、今のことだが、

完全に楽になった)

いつか書いてみたいと思っていた、

何を語るのでもない、退屈な文を

こうやって書けるようになってし

まったのだ、という感慨をして、

胸の痛みとともに終わりにしよう。

さようなら、勝手な僕。笑えない::

(Ha, Ha)

            22.10.14
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偏った先進世界としあわせを貪る日本という象徴をパロディに [観光]

憂鬱が恋しいという気分はふつうでは

ないだろう。それを解いてしまう前に

もう少し、この気分を詮索してみたい。

この気になる「気」の質を聴いたり、

触ったりして見ると、実際には見えない

ばかりか、聴くことも触ることもでき

ないが、その気になって手を貸してみる

と、それは憂鬱ほど強いものではなく、

物憂さだとわかる。

物憂いのだ。

老人病のようなもので、なにをしても

楽しく感じない。筋肉がだれて緊迫感

を自分では演出できなくなったのかも

しれない。

ただもの憂いのだ。以前には郷愁を

求めて、それは憧れに近い気持ちにも

なったものだが、なにかしたくても

なにをしても虚しい気持ちが先行して

しまって、それに負けてしまって、

憂い憂いとなり、ウィン(勝ち)には

ならないようだ。

理由は今日が自主休日だからだろう。

基本、気を遣うようなこと、重労働は

しないで静かに過ごすのがルールなの

だが、楽しませるべき自分がなにも

反応しないのでないかという、腑抜け

になっている。

こういう時にバロックの古典音楽が

一番聴けるというのは、不思議な気が

する。古典音楽が聴くのに神経を遣わ

せない理由はなんだろう、と思うが、

なんとなくわかっているような気が

して、強いて答えを求めるまでも

ないと内心で考えている。

こういう時に思うのは、自分はこれ

さえあればいつでも夢中になれると

いうものがないことだろう。

惰性がある。昔からの麻雀ゲームと

この古典音楽とそれからこうして

書いていることだ。今は頭と会話し

ているだけで、なにかが這入って

こない。這入ってくると、緊張して

集中して書くので夢中になるのだが、

それもない。ただ、惰性である。

休日は気分が盛り上がらない。

リアル現実でもなく、現実の夢気分

でもなく、リアル夢でもない。夢の

中で(仮想)現実にいるようなもの

で、現実はただの退屈な自分の置か

れた気分なのだ。

A.夢の中の現実とB.現実での夢気分

とはどう区別がつくのか、というと

B.の場合は現実の背景があるので、

ピリッとした現実をどこかで感じて

いる。その上で夢を見ているが、

むしろ見ようとしているだけで、現実

に迫られている気がして、小さな緊張

が抜けない。それでわかる。

惰性な気分になれない。

その気分はふつうは区別をつけてい

ないから、自意識に昇らず、感じてい

ないはずだ。夢も現実も意識から

すると、それぞれが二重構造になって

いるというのが、僕の環境なので、

それが自論になっている。

論としてあるだけで、それを自覚して

生活する必要はさらさらない。思考

生活という特別な沈黙の時間を過ごす

時に現れるものだ。


三日前に人の説明を1時間半くらい

聴くという事態があったので、相当に

疲れた。わかっていることなら、無視

して聞き流せばいいが、ポイントとか

金銭にかかわるので、相手がわかって

いることを、こちらは不十分な理解の

レベルで聴いているから、所々が記憶

から飛んでいる。

よくわかったのは今の教育環境や娯楽

の環境がデジタルに支配されていると

いうことだった。デジタル思考になって

いるのだが、本人は気づいていないの

だろう。だから、僕はまた聴きに来なけ

ればならないだろう、と途中から思い

ながら、しかたなく聴いているという

事態にもなっていた。

こういう事態になにかが欠けていると

いうのを僕は強く感じるのだが、それは

時代の感覚からは離されている、という

ことをも感じさせた。

アメリカのロサンジェルスだったか、

昼食を外食にすると、一人4600円で、

ペットボトル飲料が290円かかる。

日本の3倍の物価高だ。それだけ給与

の水準が日本は先進国と言っても、

世界では低開発国並みに低い。

これをどうとらえるかは、一見では

言えないだろう。アメリカの文化と

いう発展形の歴史という背景があり、

そこに黒人奴隷の時代とヒスパニック

の準難民の受け入れの経緯がある。

異民族とその人種差別など、その文化

的な軋轢からわかりやすい指標を人々

が求めたのは自然なことだ。

それで数理・論理の考えでの区別・

差別が広まったのは自然な推移だと

僕には思える。できるだけ表に出し

て議論で民主的に問題にあたるという

風潮も出てきただろう。

その弊害はその数理論理思考からはみ

出した心情や感覚について心理学に

頼り過ぎていることだ。小学校にも

警察にもどこにもセラピストがいて、

なにかあるとその診断を受けるのが

義務化されている。

反動としてだけではないが、反動と

しても親が子への性犯罪や変質者の

猟奇犯罪も多い。

特に50州の連合国であるので、各州

で法律も異なり、プロテスタントと

カトリックの確執も続いているし、

プロパガンダの応酬はマスコミ・司法

などどこの分野でも盛んである。嘘も

不正も勝つための正当な手段として

暗黙裡に認められているのが現状で

ある。

心が一方に偏れば、その欠けたものを

求めるようになる。さて、ここで飛躍

してしまうが、コンピュータやAIの

普及・進化で数理的な考え方の侵蝕も

深まった。これは世界的な傾向だ。

そこで、コロナが起きて、自粛生活に

なったので、さらに欠けているものを

求めるようになった、とは言えないか。

世界の南アジアでも、欧米でも行きたい

観光地の一位は日本である。

なぜ日本か。それがわかれば、すべて

わかるだろう。

半分はゲームやアニメなどの娯楽の

楽しさにあふれていて、コスチューム

なども自由に楽しめるからだろう。

もう半分は日本古来のものを求めて

いる。まだ平和でいつの時代も日本

は文化でも世界をリードしてきた。

それは縄文まで話は広がるが、そこ

まで行くと話はまとまらなくなるので、

一言で日本が培った文化の裾野も底の

地平も広いということだ。

そこには思考で語れない大事な事項が

ある。世阿弥の花は語れないものの

イメージだ。それが無意識な事項で

あるのは間違いないだろう。



テーマが大きくなりすぎて分散して

しまった。大事なのは、丁寧に調べ

てそれを整理して硬軟に結論する

ことだ。答えはひとつではないだ

ろう。



もの憂さは体からきている。この

三日間は昼まで寝ていた。早朝に

起きてお茶を飲む。また寝て起きる

のだが、そこで起きてしまわないで、

しあわせを貪ろうとして、昼まで

寝てしまうのである。さすがに、

休日とはいえ、三日も続けると、

だるく、それが心を物憂くする。

そんな話である。

世界の偏向1.png

                                             陽秋:画                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   
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朝と夕焼け・ 織部日記6. [日記]

早朝に朝陽が昇る前の朝焼けを見た。

なかなかであったが、今までのもの

に比べては、少し、色あせて、さっぱり

した色合いと色調だった気がした。

偶然、同日の夕方に同じような夕陽を

見た。その日のうちに朝陽と夕陽の

同じ色合いの光景は見たことがない。

それらを見た時は微妙に色合いが

変わっていく微妙な違いが見れる時

に出くわしたのであって、いつもは

タイミングが合えば、同じに同じ

なのだと思った。

興が削がれた。

朝も夕も同じ太陽とその背景の色と

いうのは、ちょうど同じ瞬間に立ち

会うということが少ないために、それ

ぞれいい色合いだと感心してきたが、

同じではそれができない。

夕陽をカメラに収めたが、画像の方

が迫力がある。これはどうも僕の

感受性が疲労のためか?脆弱だった

せいかもしれない。

同じ夕陽1.JPG

画像では光の透明感が、絵の具の色彩

になってしまって、陰鬱でさえあるが、

それが秘めたエネルギーのようなもの

を感じさせて、力強い。

山は丹沢の大山である。


屈人織部の日記 6.

雑感です。

なんでも鑑定団を見て、これまで

たまっていた感想がはじけた気が

します。

陶磁器への知識には専門の豊富さを

感じますが、どうもそれが値段に

なるといけないと思ってしまいます。

千利休の花入れが出品されて、偽物

の判定でした。3000円でしたが、

僕は気に入って、それなら買いたいと

思いました。本物なら、億単位で買う

人が何人もいる、と話していましたが、

そうでしょう。値段ではなく、本物

だからです。それは投資のことであっ

て、ものの値段ではありません。

大事なのは、今それを気にいるかどう

かであって、本物かどうかではない

からです。

投資の世界は資本主義の建前です。

なんでも鑑定団の鑑定人もそこは

承知しています。本物としての価値

を異常に高めるのは、ダイヤモンドが

毎年カラットの値段が上がるのと一緒

で、ダイヤモンドの価値は下がらない

ことをアピールするものです。

ダイヤモンドはほぼ独占商品でその

カルテルが毎年、いくら値段を吊り

上げるかを会議で決めるわけです。

そうして安定さを売り物に、ダイヤの

購買を誘うという訳です。

そういう市場原理が鑑定団にもその

周辺の取引や売買の業者にも歓迎

されて、陶磁器などの値段が否応なく

上がり続ける、それが今の世界市場

の常識ということです。

そういう本物には高価で手が出ない。

そこで僕などは思いました。本物

そっくりの偽物(かなり難しい)を

作りたい、と。高値で売るのでは

なく、ちょっと良い品に相応しい

値段で求められる本物志向の芸の

味わいを堪能できる仕掛けです。

使って楽しむのが陶磁器の魅力

ですから、買えなければつまらない。

初めから偽物だと銘打って売り出せ

ばいいのです。現代の若い陶芸家に

は、そういう人が出てもいいのでは

ないか、と思います。いい作品を

美術館や写真集でだけ眺めていても

つまらない。埒が明かない。

ものは手に取って、その手触り、

重さでなんぼというものだと思い

ます。

歴史上でも本物偽物は大事なこと

かとは思いますが、茶碗や花器

などはお茶を飲んだり、玄関に

お花を飾ってみて、しっかり

なんぼなんだ、と僕はやはり思い

ます。

こんな話もあります。

何の学者だか忘れましたが、生物や

動物関係でしょう、類人猿などの

ある頭骸骨を手に入れました。その

頭蓋骨から来る感じが、剣呑で、

恨みにも思われたので、そこを訪れた

人が口々に、早くその頭蓋骨を手放し

たほうがいい、と言いました。それ

ほど陰険さを感じさせた骨でしたが、

それから1年でしょうか、しばらく

してからまた訪れた人たちは、同じ

骸骨を見て、とても柔和な優しい

感じの頭蓋骨に驚きました。

どうしてかと、聞きましたが、学者

は大したことはない、ただ私はこれ

が気に入っていたので、毎日撫で

まわしてやっただけだ、と。

ものというのは、それを人がどう

扱うかで変わっていくものらしい。

まるで飼っている犬や猫、または

まだ自分が固まらないうちの子供

を思い出すようです。

頭蓋骨に対しても、人は気味悪い

という感じから先入観で見ていた

だけのようです。

そうすると。陽秋風に分析して、

自分の親はどういう親であったかが

自分を解くカギの重要な手がかりの

主だったひとつだという推測が成り

立つのではないでしょうか。

親は自分の希望を子供に託そうと

します。父から見た視点、母から

見た視点というものを僕らは

無意識に持っているのではない

でしょうか?

彼らがどういう人間だったのか、

というのは僕らが思ったよりも

深い意義を備えている気がします。

特にその親への気持ちへの根っこ

には伺い知れない熱い秘密がある、

という気までするのは、言いすぎ

でしょうか。




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海岸スピードウェイと 生理列車の夢 [夢]

朝の7時である。こんな時間に起き

ぬけるのもめったにないが、ブログを

書き始めるのも、まずない。

それは夢を見たからだ。久方ぶりに

壮大で爽快な夢で、10年ぶり、

もっとかもしれない。

覚えているのは単純な場面で、海の

上を街道の上を疾走するのだ。

はじめは海水浴場だと思ったのだが、

それはポスターに並んだ5,6人の

モデルの女の子が海にいるからだが、

沖合は海がもんどり返っているかの

ように分厚く盛り上がっていた。が、

そこには高速船やら泳ぐ人が小さく

見えて、海の今にも荒れそうな様相

を除けば、平和な光景だった。

すぐ近くにも眼鏡をかけた半裸の

海水浴客の中年がいたが、その人

はCGで制作したかのように、所々

銀箔や黄銅箔のように輝いていた。

人間ではなく、サーモグラフィー

のようになにか投影された立体映像

だと思えた。近くの女の子もいたが、

この子の顔はモデルの6人組の真ん中

の子と顔が同じで、手抜きの映像

なのでは?と思わせた。

ともかく海岸の水のスピードが凄い。

その女の子たちも同様のはずなの

だが、それらしい様子はなく、

僕だけがもの凄い高速で海の上を

運ばれてゆく。顔を横に向けると、

沖合から遠くの岬・半島が見え、

海は半濁して、波が渦巻いている

ようだ。

体は仰向けなので、眼の前は真っ新

で真っ青な空が雲一点の染みもなく

快晴に拡がっている。さわやか、

爽快に僕は体ごと海の上を走って

いる。ともかく気持ちいい。

そのうちに街路灯の先っぽが並んで

いるのが見えたので、ここは海水

浴場ではなく、今は海岸線の道路の

上に盛り上がった5m以上の分厚い

海水の上を運ばれているのがわかっ

た。もう海水浴客も高速船もいない。

そのうちに盛り上がりのピークに

達して、空しか見えないが、そこの

目の前になにか白い大きな物体が

あった。浮かんでいるが広告塔の

ようなものだろうか。

ダウンし始めると、この海岸道路

に出る曲線で港町の建物が並び、

そこを見ると、ディズニーなどの

企業がここらの土地を買い占めた

といううろ覚えのニュースを思い

出した。それでこの海の高速も

デモンストレイションでやって

いるイベントの一環なのだな、と

妙に納得した。

そのうちに水位は低くなり、反対

側の海に出てしまったが、そこで

は小学生らしい子供たちが泳ぎの

教室なのか、大勢で二列に並んで

海に堤防沿いに入っていく横を

走っていた。もう海水がない

岩場に到着してしまうという時、

そこの海に漁師だろうか、6,7人

が少し遠くの海で立って仕事を

している小さな人影を見た。

岩場を歩くのか、歩かずに漁師の

いる海に入ってしまうのか、わから

ないうちに目覚めてしまった。

しかし、その津波のように海水ごと

破壊的なスピードで運ばれる快感に

興奮して、忘れないうちに書いて

しまおうとなった。

爽快、快適、ジェットコースター

よりよほどリラックスして楽しめる。

めったにない気分のいい夢だった。


::
この記事は「成り果てぬ夢を~」を

書いた10.4の晩に見た夢だ。


昨晩見た夢は気味のいい夢ではない。

僕は医者だった。電車のとある一両に

乗車するが、指示だけをして、すぐに

降りるつもりだ。それはこの車両が

女性車両で乗っているのは、おばさん

ばかりで、けっこう年寄りもいる。

20人も乗っていないかもしれない。

僕が指示している内に電車は動き

出してしまった。それで下半身裸

になった人を見ないように、車両の

隅に移動するが、中の大変な様子

を見て、今までいい加減に済まして

いたのが変に責任を感じていた。

白いレースを筒状にしたようなものを

生理の女性の下半身から1mくらい

伸ばして、なにかを出すつもりらしい。

看護師でもないおばさんたちが、それ

をかいがいしく手伝う。その他の

女性乗客は一斉に黒っぽい幕を窓や

戸口にかけ、カーテンのように引き

下ろして、中が見えないようにする。

こんなことしてたんだ、と医者たる僕

は他人事である。ここらで半分覚醒

するのだが、夢と自分の思考の区別が

つかない中で、女性の下半身から

胎児?子供?のミイラの死骸が出て

来るのを見たような気がした。

夢判断では生理は幸運で、ミイラは

凶だと。どっちなのかわからない。

もともと当てにならないのだ。

::

最近では書いて説明できる普通の夢だ

った。言語野とか感覚野の膜?が重なる

ような漠然とした夢や未来ロボット風

の先端技術の複雑な夢は、自分でも何を

見たのか説明がつかない。時々だが、

そういう夢、よく見る。

陽秋の夢1.png

陽秋:画
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さらば さらば その毛皮よ [ものと精神]

人はほんとうに長く生きたいと

思っているのだろうか 

父は百まで生きる、と言っていたが、

八十六くらいまで、がんばった

と、認知症の場合はそう言える

の  だろうか  

現実が満たされると、内心は

むなしさが   支配する 

時々思うのは、人は死にたくない

と  いう

むしろ恐怖から長生きしたいと

言うのではないか、と 

長生きしても友は周囲から 

いなくなってしまうし、なつかしい

生活の場面は変わり行くだろう 

体に合わせて頭も老化しなければ

かえって、つらいのではないか 

それができなければ、そのつらさと

ともに  長居をしなければ。



終わってほしいと思うようになる、

と確信しているが、人は違うのだろうか

人はあまり自分の言葉を

突き詰めては考えないから、多くは

自分が何を言っているかは

気づいていないことがある


リアルな夢を 見ていた 

僕は  

むなしさの嵐は  吹きすさんでいた

けれど  その分 僕を守るものがいた

今は それを身近には 感じなくなった

僕が  寂しくも  つらくもない

所為だろう 

心の不思議さに 精神で立ち向かい

精神が  どこまでも 広がり

気の遠くなる 彼方の感覚を 

漂ったけれども 

ほんとうは 防御できないものに

対して

開放するしかなかったのだろう 

心を 精神の形で  解放していた

けれど、  それはやはり 言葉に

とどまるしかなかったのだろう  



自分というのは それを精神の

ことに     形にして、   

言葉のことだが、表して

なにかであろうとする 

世の中もそれをなにかとして、

成果として

認めようとする 

僕は反対に 心に従って 

心を開放するつもりで 精神を

工夫した

心のあいまいさに従って  精神は

最後まで これという形を

取れなかったようだ 

そして 辿り着いたのは「もの」の

デザインという意匠ではない 形を

見出したことだ 

形は見えているのに  見えなくなる

瞬間があって 

そこでは形と 形のないものが

融合しているように見え、聴こえる 

それはもう 美しいとかいう もの

ではないだろう  

その聴いた気持ちが それを美化して

そういう言葉にするが 

あるのは この胸の高鳴りだけ 

なのかもしれない。 



知らなかった、  

ものに至るということは こういうこと 

だったということに。 



こうして書いていると これが 

たわ言だということが このリアルな

現実では はっきりとわかる 

それが僕の 内面の確かな証明だと  

また 僕にはわかることになる 

現実を自己という精神をかぶって 

生きる者には それは幻想でしかない

だろう 

が、

リアルな夢を生きることを  

知った者には

それが どれほどのものか がわかる

理解を超えたものに 出会うという 

喜びが どういうものであるか、が。



それを伝えることは 

それを作品にすることではない  

ただ伝えたい 

初期の頃には 何を書いても 

詩を書くつもりはなかったのに  

何を書いても  詩になった  

そういう心の残滓が 掃き捨てられた

時に  言葉はただ 伝えるだろう 

自然は 自然という言葉では表せないが

そう示せないと 不便だろう 

言葉を使うな、と言っても

拗(す)ねているだけになるだろう 



さらば  僕らの言葉よ 

さらば  あいまいで 抽象でしかないもの

と言っても 

伝えるのは 言葉だ  

僕らは 面白い  

伝わらない手段で  なにか大事なものを

現した気にならないと 

落ち着かないのだろう 

それは  根本が 不安だからではないのか

すでに。 

その暗黙のルールの上で  

社会や 電車を  走らせているが

脱線事故や 制度の崩壊を招きながら 

その中心の欠点には 

気づいてはいけないのだろう

もうすでに皆が皆 知っているつもりだから  



さらば  自分よ  


さらば  初めから存在のないものとは 


別れられない 

そういう影の存在を 創り上げ 

その反映を感覚してはいるが 

僕らは  初めから 行きもしない  

帰りもしない 自分から  

離れられない運命を 背負っている 

僕らの 毛皮だ

自分は 自分では  見えないから 

誰が 言うのか  言えるのか  


さらば  さらば と 




:::
妻と小さな喧嘩をする。翌日には

笑って話しているが、あなたは私

がいないとだめだから、ときた。

それは愛情表現であり、それとその

裏に隠れているのは、私をひとりに

しないで、という不安をカバーする

自分がいて、絶えず自分を存在させ

ようとして動いているアイデンティ

ティ、またはプライドの側面という

もの。本質的な人の自己理由なの

だろう。

もうお互いに言っていることなど

抵抗・反発は感じるだろうが、

ほんとは気にしなくていいのだが。


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無用の用、無自己の自分、曜変天目、・・ [自分]

<曜変天目茶碗は長い前置きの後に登場します>


随分以前になるが、釣りに行って

ただ釣り糸を垂らしてくるだけでいい、

と言う男がいた。それは絶対におかしい

と思ったので、なにしに釣りをしている

のだ?意味がないではないか、と反論

を考えたが、大したことではないので

敢えて言わなかった。釣りは魚を釣る

ためにするのに、餌をつけずにただ

釣りの真似をするだけでいい、と言う

のだから、その時はわからなかった。

しばらくしてから、そういうことが

あってもいいな、と多少許容すること

になったが、次第にはそれも風情が

あるか、ぐらいには理解したようだ。

今夜、考えていて、釣りをしない釣り

人になった。ブログを書こうとして、

ブログを書かなくてもいい、ただ

書こうとして、坐っているだけで

いいのではないか、と釣りをしない

釣り人の心境になった。

それは心の重力を考えていたからだ。

心は漠然としているから、僕らはそこ

で足を地につけたように立っていたい、

と思い、その方法を自分なりに確立させ

ているはずだ、という着想から始まった。

両足を揃えて立っていると、その底には

ちょうど地球の重力に引かれて立って

いることができるように、僕らは心の

中心に引かれるように立っているに違い

ない。そう思う。

心の漠然に任せてしまったら、僕らは

中心を失い、立っていても、揺られて

いるようで、フラフラしてしまう、と

考え、感じ、実際に不安になってしまう。

しかし、心にわかるような中心はあるもの

だろうか? ない。が、あるだろう。

なければそれがあるように思うのが僕ら

だからだ。知らずにそれを作っている

のだろう。まず、僕らが中心を求める

以前、すでにないものをつくるのは、

自分だろう。自分は分身の知を動員して

確固たる自分を確立させる。ないものを

知られては自己証明がなくなって、自分

が自己撞着して、不安の底に落とされる

からだ。この自己を中心として、そこに

安定のための考え(概念・観念の自己証明=

アイデンティティ)を定着させることを

試みる。

それは言葉で言えば、秩序であり、信念で

あり、信仰であり、確信であり、レベルが

下がるとあらゆる偏った主義・主張や活動・

運動といったもので、それを心の中心に

置いて支えとすると、それを信じている間

は安心できる、といった具合だ。

それは自然に犯すべからざる権威や象徴に

なるので、プライドの壁をまとうように

なる。かくして、この狭き概念の範囲が

その自己の生活になり、世界を固定して

しまうことになる。

その中心に玉乗りをしているような感情

が支配するだろうから、玉がいきなり

動かされるようなことが起これば、玉の

上でバランスを取るための動作をする

だろう。それは生活や実際の場面では、

プライドをかけたものになるので、慣れ

ない者はムキになってバランスを保とう

として、相手の攻撃的な言論・言葉を

許さないだろう。

あなたの権威や秩序と信じるものが、

否定されれば、それを停止させる感情

が即座に動いて守りを固める。

それは体の自己防衛とはかなり似て

いて、僕らの知らない反応が速く対応

する。似ているのは、僕らの脳を通さ

ずに、無意識な反応をすることだ。

異なるのは、体の場合は脳を通さずに

反応できる訓練が積まれていること、

心の場合は知と情と感覚が連携しない

で、その場合は唐突な短絡した反応

になってしまうこと。

多くは自分がわかる論理的な理屈等で

否定されて、その正しさに気づくと、

理屈で答えない、逃れるとするか、

感情的にそれを無視して、ただいい

がかりの言葉で攻撃的になる。または

それに答えない、など。


これまでにも書いてきたが、少し進もう。

自己が中心なのはわかるが、それを外し

た時、僕らは玉から落ちると思うし、

たぶん、落ちるのだ。そして、パニクる

と藁にも掴まるのだろう。

では自分の信念が崩れた時はどうすれば

いいのだろう。生き甲斐や秩序が失われる

絶対の不安が押し寄せる時、そう感じた

時、僕らはどうしたら。

僕の答えは、それこそが答えだった

のだが。

それはその不安定で、絶対の絶望的な

不安が、自然状態というものだった。

むしろ、そう信じ込んだというのも、

ありそうだ。だが、これは自己の中心

を生きてきた人には、信じることは

無論、わからないことだ。かつては

僕の最初の出来事はそうだったから。

自己を離れるということは、例えば、

急に盲目になり、世界は闇ではなく、

「見えない」という視界がない状態

になることや、これまで育てられた

両親が15,6歳になって、突然本当の

親ではないと告白されたりすること

や、腕をつかうスポーツの選手になる

ことを夢見て、その才能もある子が

突然の事故で、両腕をうしなって

しまうとか、その時の悲しみ・絶望は

あるだろうが、どれもそれなしでは

生きられないということではない。

それを克服した子の、人の記録は

多く残っている。彼らが失ったと

思ったものは、本当は自分という

自己だった。克服した人は皆、別な

自己を育てたのだろう。

秩序も善悪も法律も完全なものはない。

それが僕らを支える指針であることは

事実だが、それも変えればいい自己の

内のひとつなのだ。僕らはそれ以外

知らないので、自分というものが唯一

だと妄信・盲信している。



今夜、僕が考えていたのは、どうも

玉に乗らないでいいのではないか、

ということらしい。自己という中心

を見出さないで、この混沌のさ中で

バランスを取るのではなく、そのふり

をしているだけでもいいのではないか。

そんなことのようだ。

僕らの現実というのは、バランスの不安

から生み出された、半分が仮想現実と

いう、あいまいでいい加減な社会・

世間とそっくりなものなのではないか。


リアルな現実は、例えば、今の僕の場合

は目の前の「もの」にある。

屈人織部として、曜変天目茶碗を夢に

抱いている。

曜変天目茶碗1.JPG

曜変天目茶碗:国宝 静嘉堂文庫美術館蔵

中国の宋の時代の物であるが、日本の

国宝に指定。中国にはこの曜変天目茶碗

は、ひとつもない。偶然が生む完璧な

天目茶碗は世界に五つしかないが、

すべて日本にある。

中国の故宮美術館という膨大な皇帝の

歴代コレクションがあるが、この珍重

なまれな茶碗をひとつも手元に置か

なかった。理由がある。

焼き物は古来から政権の安定を求め

られてきた。それで同じ形・色合い

なども同じものが宮廷では求められ、

天目の模様は変化であり、凶兆と

捉えられかねなかった。それで陶工

は天目が現れると、死刑にされるの

を恐れて、全部その場で割って

しまった。中国に残るはずがなかった。

国宝の五つの内、三つが中国製と

いうのも奇妙な話であるが。






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大きな得心も 小さな老化も 因果の不特定な表れに見える [常識]

よくあるのは座椅子でうたた寝をして、

ともかく眠いと感じているので、布団

に入って寝てしまうことだ。そこまで

はいいが、寝返りをうちながら、おか

しいなと思い始める。どうやら寝ても

眠れそうにないからだ。

そうなってからは30分以内に起きだすの

だが、そのまま我慢して眠るまで待つ

こともたまにある。その時は数時間かか

るので、忍耐の時間になる。

起きる時には朝はとっくに終わっている。

昼か、昼に近づいているか、風邪や疲労が

ある時には、午後に起きることになる。

そうすると寝ているのが主な生活だと思う。

猫の14時間睡眠生活に迫っているな、と。


夕方がすぐに来るので、一日がすぐ終わる

感じだ。老人の怖さは、こういう生活にも

慣れていって、当たり前に感じるように

なって行ってしまうということなのかも

しれない。体の筋肉や関節の頼りなさから

痛みを避けるためになにもしないように

なり、億劫さが生活を占める。

そうやって体の痛みから逃れるのは、

もう習性になる。これまでも他の面で

体に対してもそういう社会生活を選ん

できたからだろう。これが一般的な

老化現象の経過というものだろう。

それが嫌なら、動くしかない。痛く

ても筋肉や関節に関わるものなら、

動くうちはまだ矯正できる。

正しい姿勢で歩いたり、を常に意識

して歩けば、足が片足が湾曲したり

はしない。

心も似ているが、どうだろう、苦しみ

を活性化させても若くなりたいだろうか、

若さを保つのは困難ではないが、それは

通常、心と体のギャップを広げてゆく

ので限界がそれぞれの個人差であり、

それなりの哀愁はあるだろう。心は

やがて老化に引きづられるが、それが

ギャップを縮めることにはつながら

ないと、諦めつつある、という感じが

つきまとう。

体と神経のバランスがよくて、筋力が

強いことは相当、老化に耐えるはずだ。

晩年まで頭も体もしっかりしている

基本の条件を備えているだろう。

しかし、そんな計画で生きてきた人は

いないだろうから、気がついたら、

こういう生活をせざるを得なかった

という人がほとんどなのだろう。



と書いてみるが、朝晩の不規則な生活

は学生時代に始まったことだった。

夏休みに夜と昼間が完全に逆転した

生活になってしまったことがあった。

その時に無に吸い込まれたかのような

記憶喪失の時間があったのを思い出す。

なにもかも変わってしまったと感じる

べきだったのだが、心の準備ができて

いなかった。それからそれを理解する

のに、&それを発見するために多くの

年を費やす。

山で寝ないでも死なないのを知った。

死ぬ前に人間の体は意識もなく、寝入

ってしまうから、寝不足は心配しなく

ていいのだ。それは寝なくてもいい

ことではない。睡眠が必要な時は自然

に寝入ってしまうから、それを規則的な

生活に照らし合わせて、よくないことだ

という悪感情を持たなくていいという

ことだ。心配は余計なことになる。


孔子は朝に道を聞かば、夕に死すも

可なり、と言った。これは天の理を

知ることができるなら、すぐに死ん

でも構わない、という激しい言葉だが、

それは彼の求道の情熱を言ったものだ。

その通りの人だったろう。ただし、

それは彼が道を知ったなら、その場で

死ぬだろうということを言ったもの

ではない。気持ちはそうだったろうが、

現実にはその天の理がどれほどのもの

かを孔子は必ず試すためにまだ生きた

だろう。



僕にはその天の理に値するものは因果

という仏教に出てくる理と同じものに

見える。因果は理という概念ではないが、

それに相応しい形をしていて、そこから

引き出してくると、それが因果の法則

になり、通俗化するとそれが因果応報の

法則に見える。が、それは気持ちのこと

で、因果応報は人々の気持ちを代弁した

ものだ。それは勧善懲悪の別様である。

因果は悪に虐げられた人たちために

あるわけではない。ところが、僕らの

そういう感情はすなわち、そういう結果

になるように部分の影響を及ぼす。その

部分がまったく因果の間違えた解釈だ

ということにはならないので、因果応報

の形に見える半分は正解だろうし、その

案件は不特定だが、散在してある。

わかりやすく話す方法は超能力のことに

して語ることだが、そうすると「そのこと」

よりも能力の才能性に目が移って、その

才能があればすべてOKだという短絡な

答えから逃れられなくなる。能力は

便宜の方法として語っているので、嘘も

方便ではないが、五本指が六本指になれば

いいと思うことと変わらなくなる。

普段から伝わって来るものがあるのだが、

それは長年の習慣から、僕らの目には

死角になっていたり、耳には無視すること

になっている雑音のようなもので、見ない、

聞かないようにしている。だから、その

感覚を呼び起こす必要があるのだが、それ

は常識を覆して、さらの状態に五感を追い

やらないといけない。

それは修行にも似て、楽なことではない

ので、誰もしないようなことなのだ。


正しいほうへ、とか、良いほうへ、とか、

役に立つ方へ、とか無駄にならないほうへ、

とか、人が喜ぶほうへ、とか、それが全部、

常識の方向なのだが、これを疑う人はある

年齢以上になると自分を信じているので、

疑おうともしない、そうする前にそういう

常識に反する非常識をすでに捨てている。

いらないものだから、二度と拾うことも

ない。それが学ぶということだと。


まず初心に戻るというのは、判断力が着く

前に戻るを意味している。だから、自分は

自分の道(ルール・信条)があると思って

いるが、それが過去の人の示した基準で

あって、それを自分でおおまかに選んで

来たので、自分のものと思っているが、

それはこの3,4000年の間に示された

いくつかの基準的な言行であって、これ

までに統合された形跡も、統合されよう

とした形跡もないものだ。その狭い範囲

から自分が信じていい、とか役に立った、

なるほどと感心したとかで(自分が)選ん

だ言葉なりの教訓などの教養である。

それが今の常識をおおまかには年代別に

区切って受け入れられているだけで、

僕らはほぼそれを全体の観点からは

否定したことがない。

そもそもそんなに長い歴史に支えらえた

(ように思える)教示を否定できるか?

できる。



それには鏡を見ながら、それに写し出さ

れた虚像を見ながら、鏡の背面を想像

することにある。これは比喩だから、鏡の

裏側に回っても、そこにはなにもない。

しかし、見えるものがそのまま見えなく

なる地点がある。見続ければ、そこまで

見るのに困難はないが、それはやり方が

いろいろあり、その方法が重要なのでは

なく、それを透徹してしまうまで、見て、

聴くことが大事なのだ。

例えば、弓道で弓の師匠に手足を押さえ

てもらって練習すれば、上達するのかと

考えればわかることだ。いつまでも自転

車の補助輪をつけていれば、いつまでも

ふつうに自転車に乗れるようにはなら

ないだろう。

弓道でそれを覚えるのは、呼吸が無になっ

ている時だ。自転車に乗っていて、無に

なって体のバランスを乗り物に合わせよう

としている時だ。僕らはこの時、無意識に

孤独になる。

この時には真の意味で孤独になる。孤独は

自分が人に頼りたい心情を映す鏡のような

働きをする。寂しくて孤独になれないのが

そういう心の位置を示している。

自分にはそれを支える実体がなにもない。

自分自身が裏ではそれをよく知っている

から、なにがしかの頼りになると思う

自分以上の人・モノ・観念、なんでも

いいがそういうものを心に祭り上げ、

それをまるで初めからそうであったか

のように信じ(ようとす)るのだ。

その人は信じるのだが、それが見える

第三者なら、それは信じようとする状態

だと見えてしまう。

こうして僕らの常識は守られている。

世間はそういう常識がゆっくり廃れる

もの、早くに廃れるもの、廃れはしない

核をもつもので、時代ごとに中身が移り

変ってゆくが、それは僕らが亡くなると、

僕らの常識の一部が確実に廃れてきた

ことではっきりしている。それでも

その時代時代の人は自分の常識は疑わ

ないだろう。

それは現在でも、初めて海外へ出かけ、

生活してみると、日本社会や家庭・学校

で信じた常識の多くが通用しないことに

気づかざるを得ない。



こんなことがわからないのか!と怒る

ような場面に出くわしたら、(非常識・

常識はずれを見たら)一度それが自分

の常識に抵触するからではないか、と

自分に返って、自分の内面を検討して

みたほうがいい。

それが考えなのか、心情なのか、感覚

なのか、それぞれだから、いろいろと

面白いことがわかるかもしれない。



つまり、僕らが嫌がるのは自意識で感じ

てしまう孤独であって、それは僕らが

孤独に慣れない時間を多すぎるほど

生活に費やしてきた結果なのだが、

孤独はよくないという常識が、孤独の

理解を阻んでいる。

もちろん、通常で孤独・孤立は嫌な

ものだと感じる。僕らの中の自分は

虚像だが、そうは信じないようにする

のが、自分という本質概念の性質・性格

だからだ。

頭でわかる、ということと体でわかる

ということ、また物事のひとつひとつ、

それらを知るということが、それらを

自分の表現で書き直したり、描き直し

たりする行為になって、いろいろ異なっ

た表現をすることができるから、その

結果を自分に見て、自分がその「物事」

を理解したということが知れる。

自分では自分を知れないとはそういう

ことで、自分を知ったと、自分の行為を

あとで反省して(=知って)確信できる。

自分で自分に確信は、直接はできない。

それでは自分で自分を知ることができる

となってしまう。

ここが理解しがたいことで、自らの行為

で得心するしかない。



―なんてことを、今年最後にまたくり

返してしまったことだ。これも気づけ

ない老化の一部かもしれない。また、

くり返さざるを得ない僕の業なのかも

しれない。


例えば、

年末も新年も僕らの心情でつくられて

いる。カレンダーはそれを図式化して

概念と知識でそれを伝える。生活の

一部だが、少しも万能ではない。

犬や猫はカレンダーを理解しないだろう。

それはそういうものだという習慣での

考えからだが、僕らの誰もそれを問題

しないし、動物をしつけしようとはし

ない。なぜだと問うのならば、その前に

“その”なにがわかっているのだろう、

それはなにがわかっていないこと

なのか?

動物にはそこまで関わらなくていい?

チンパンジーと人間の遺伝子はいろいろと

比較するにしてもその特質を考慮しなけ

ればならないが、単純に数だけにすれば

98,8%が同じで、2万1千くらいの人間

とは250個くらいしか人間の遺伝子と

異ならない。

98、8%ともなれば同じだと言いたいくらい

だが、見た目からして人間は裸の猿だ。

ニャーと言えば、猫だと思うが、ニャーは

猫の人間に対して使う声で、猫同士では

ほぼ使うことはない。だから、猫のニャー

は動物界での猫語に分類されるのだろう。

僕らの通常の会話の言葉ではないのだ。

というわけで、僕らはほぼ動物のことを

知らない、と言える。

ところが、僕らの体の成分や機能はほぼ

猿と同じなのだから、動物と異なって

しまうようにしてきた進化がある。

それは動物を知れば、僕らの90%以上

を知ることだと言っても過言ではない。

つまり、僕らの常識を動物の段階まで

持って行っても、根本的な知識を得ら

れる可能性は十分にある。

逆に人間のレベルで常識を云々しても

たかが知れてる、と言えないだろうか。

動物の分野にまで及ぶことのほうが

僕らが常識だと思っていたことの疑義

が明らかになりそうだと、僕は思うの

である。


と、時刻は元旦になってしまった。


明けまして、・・とか。ニャー。






これは常識への刺激として。


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