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A Cup of Tea (を透明に説明する) [詩らしき]

何もかも不思議だという気がする時が

ある。

こうして書く気もないのにパソコンの前

に座ることや、夜が毎日やってくること。

絵でも 構えたり、きっちり構成しないで、

思いつきのようにその場で無為に描く線

からのほうが、できたあとにいいと思える

こと。

願いは意識しないでも、忘れてしまった

方が、それがなにかをしながらの時に、

ふとやって来ているのに、気づく。


僕には書けない、そういう時はいつも

音や楽器、歌声を聴こうとする。

僕のその日の周波数があるらしく、

それに合うものをアルゴリズムで

出てくる音楽に賭けてみる。それが

ほんとうに周波数が合ったのかは、

よくわからない。ことは僕がそれに

乗れるだけの柔軟さという心になれ

るかどうからしい。

音とともに歩けるようなら、周波数

がどうかは、関わりがないように

思えるから。

僕が変わらなければ、何も変わら

ない。あなたが変わらなければ、

なにも変わらないように。強けれ

ば硬直性に突っ張るし、弱ければ

臆病に怖気づいて、僕らの自由は

なにに左右されているのか。


A Cup of Tea というささやき

に未来が約束されたような、テーブル

に座っているようだ。

僕から道が遠ざかるというのは、

ハスキーボイスに導かれるように

新しい道程を探すことだと、まるで

天国への道だと教えられている

ようだ。

どこまでも僕らは僕らだと、確信

という鏡で見通せるようなら、僕ら

の自信は揺るがない。

しあわせの芯を尻尾のように捕ま

えることがある。向こうが入って

来るのか、僕の手が吸い込まれるのか、

そこにある感覚は雰囲気という空気

だろう。整えた音がそれらを備えて

いるのは、誰もが感じ、創作者が

操ろうとしたものだし、そして、

どちらもそれがどこから来るのかは

知らなかったようだ。


ピアノを弾くようにキーを叩いて

いると、学校がビルのようにそそり

立って、砂煙を上げているのだ。

なんという世界の喜び、どんなに

美しい声でそれを歌い上げても、

それが底流から湧き上がってくる

細いトンネルの筋道を僕らは見た

ことがない。

それを知ったら、しあわせのために

苦労したりすることが信じられない。

僕らの音は欠片(かけら)ではない

のだ。そこにあるというなら、そこ

にはない。あるのはそれを可変させる

心にある。

たったひとつの心はないだろう。


犬の気持ちがわかる時、僕らは犬の

心になるのだろうか。動物も音楽を

通すと、透明なテンポの楽器の音色

になるのだろう。そういう時に、僕ら

はなにかに語りかけている。

僕は夜の日本海のほうに揺られ、やがて

夜の太平洋のほうに、反対へと揺ら

れて。

ローンサム、ちいさな灯りは燃えて、

肩を押して、眠気を覚まそうとしてく

れる。

ガガギグギ、壊そうとする雑音も、

苦痛は与えられない、暗い隅に

置かれたマシーンに塵を落とす

嬉しさをいつ発見したのだろう?

孤独のベールを揺らす風に、整頓

された静謐さをしっとり感じる、

倉庫や左遷された机の侘しい傷。

どこかに連れて行かれるよりも、

夕闇が帳を下ろすこの窓の光景を

眺めるほうがいい、と。―あくび

でも?


死んだほうがいい、という気持ちは

それが心の醜さだと気づかないと、

知らないうちに育ってしまう。

気づかないうちにカーテンのうすさ

を壁だと思っている。

曇り空を流れる胞子も、晴れた空を

渡る胞子も、変わらないのは、雨に

打たれないこと。それを知っている

のだから、植物の命というのは、驚く。


ルーズになってきた。

ある程度の束縛のリズムがあったほう

が楽しいのは、自由の法則?

楽でいいんだと言うほどにリラックス

が恋しいんだろう。自由になりたい、

という気持ちになりたくないから、

上着を脱いでみるが、暑かったのか、

汗はかいたのか、なにか考えていた

みたいで、急にあの絵を見たくなった。

鼻をつまらせるような廊下の匂い、

照明(ライト)と正義(ライト)の

重なりなどあるはずもないが、夢で

見てもわからなかった。

最初の劇の暗い幕開けで、子犬を

散歩に連れている夫人に出会って

しまったら、恐れることも、嘆く

こともないはずだ。それは観客の

側の話なのだが、たぶん、その夫人

が舞台に上ってくるのを予感したの

だろう。


晴れたいだろうか。

卒業の月日を式の日まで数えたい

だろうか。それは、それこそ、私の

心のままに。あなたの心次第。

晴れていても、夜は夜。まだそのまま

でいてほしい。


心の帳は間違えた基準を示して、僕ら

を悩ませるだろう。基準は変えればいい

のだが、変える必要がないと思い込ん

でいる僕らがいる限り、無理だ。

どの基準が適切か迷うのが、正しい

悩み方で、それはもう悩みではなく、

時間の解決する迷いだ。


解放の月日を式の日まで数えたい

だろうか。それは、それこそ、私の

心のままに。あなたの心次第。

晴れていても、夜は夜。まだそのまま

でいてほしい。


夜まだ自由の時間。

私の紅茶は?

CupofTea.png

:::

午後のこと、座間市の放送があった。

買い物に出ていたが、聞くと、僕と

同年齢の高齢者が11時から行方不明

(徘徊だろう)になった、と。お、

こりゃ僕のことかもしれない。身長

や服装を聞いて、自分ではないと

確信した。そうか、では出頭する

ことはない、このまま買い物を続け

ようと思った。一瞬だが。(笑)


自分がどこにもいないのならば、

自分はどこにでもいることになる。

だから、誰もが僕という自分になって

しまうことが不思議なことではなく

なる。これが言葉の世界ではなく、

体験だとしたら、誰がそれを現実的

に想像できるだろう。

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