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大きな得心も 小さな老化も 因果の不特定な表れに見える [因果]

(読んでみたら、23年の元旦に書いた

 らしい)



よくあるのは座椅子でうたた寝をして、

ともかく眠いと感じているので、布団

に入って寝てしまうことだ。そこまで

はいいが、寝返りをうちながら、おか

しいなと思い始める。どうやら寝ても

眠れそうにないからだ。

そうなってからは30分以内に起きだすの

だが、そのまま我慢して眠るまで待つ

こともたまにある。その時は数時間かか

るので、忍耐の時間になる。

起きる時には朝はとっくに終わっている。

昼か、昼に近づいているか、風邪や疲労が

ある時には、午後に起きることになる。

そうすると寝ているのが主な生活だと思う。

猫の14時間睡眠生活に迫っているな、と。


夕方がすぐに来るので、一日がすぐ終わる

感じだ。老人の怖さは、こういう生活にも

慣れていって、当たり前に感じるように

なって行ってしまうということなのかも

しれない。体の筋肉や関節の頼りなさから

痛みを避けるためになにもしないように

なり、億劫さが生活を占める。

そうやって体の痛みから逃れるのは、

もう習性になる。これまでも他の面で

体に対してもそういう社会生活を選ん

できたからだろう。これが一般的な

老化現象の経過というものだろう。

それが嫌なら、動くしかない。痛く

ても筋肉や関節に関わるものなら、

動くうちはまだ矯正できる。

正しい姿勢で歩いたり、を常に意識

して歩けば、足が片足が湾曲したり

はしない。

心も似ているが、どうだろう、苦しみ

を活性化させても若くなりたいだろうか、

若さを保つのは困難ではないが、それは

通常、心と体のギャップを広げてゆく

ので限界がそれぞれの個人差であり、

それなりの哀愁はあるだろう。心は

やがて老化に引きづられるが、それが

ギャップを縮めることにはつながら

ないと、諦めつつある、という感じが

つきまとう。

体と神経のバランスがよくて、筋力が

強いことは相当、老化に耐えるはずだ。

晩年まで頭も体もしっかりしている

基本の条件を備えているだろう。

しかし、そんな計画で生きてきた人は

いないだろうから、気がついたら、

こういう生活をせざるを得なかった

という人がほとんどなのだろう。


と書いてみるが、朝晩の不規則な生活

は学生時代に始まったことだった。

夏休みに夜と昼間が完全に逆転した

生活になってしまったことがあった。

その時に無に吸い込まれたかのような

記憶喪失の時間があったのを思い出す。

なにもかも変わってしまったと感じる

べきだったのだが、心の準備ができて

いなかった。それからそれを理解する

のに、&それを発見するために多くの

年を費やす。

山で’寝ないでも死なない’のを知った。

死ぬ前に人間の体は意識もなく、寝入

ってしまうから、寝不足は心配しなく

ていいのだ。それは寝なくてもいい

ことではない。睡眠が必要な時は自然

に寝入ってしまうから、それを規則的な

生活に照らし合わせて、よくないことだ

という悪感情を持たなくていいという

ことだ。心配は余計なことになる。

(不眠症は病気)

孔子は朝に道を聞かば、夕に死すも

可なり、と言った。これは天の理を

知ることができるなら、すぐに死ん

でも構わない、という激しい言葉だが、

それは彼の求道の情熱を言ったものだ。

その通りの人だったろう。ただし、

それは彼が道を知ったなら、その場で

死ぬだろうということを言ったもの

ではない。気持ちはそうだったろうが、

現実にはその天の理がどれほどのもの

かを孔子は必ず試すためにまだ生きた

だろう。


僕にはその天の理に値するものは因果

という仏教に出てくる理と同じものに

見える。因果は理という概念では

ないが、それに相応しい形をしていて、

そこから引き出してくると、それが

因果の法則になり、通俗化するとそれ

が因果応報の法則に見える。が、それ

は気持ちのことで、因果応報は人々の

気持ちを代弁したものだ。それは勧善

懲悪の別様である。

因果は悪に虐げられた人たちのために

あるわけではない。ところが、僕らの

そういう感情はすなわち、そういう結果

になるように部分の影響を及ぼす。その

部分がまったく因果の間違えた解釈だ

ということにはならないので、因果応報

の形に見える半分は正解だろうし、その

案件は不特定だが、散在してある。

わかりやすく話す方法は超能力のことに

して語ることだが、そうすると「その

こと」よりも能力の才能性に目が移っ

て、その才能があればすべてOKだと

いう短絡な答えから逃れられなくなる。

能力は便宜の方法として語っているの

で、嘘も方便ではないが、五本指が

六本指になればいいと思うことと

変わらなくなる。

普段から伝わって来るものがあるの

だが、それは長年の習慣から、僕ら

の目には死角になっていたり、耳に

は無視することになっている雑音の

ようなもので、見ない、聞かないよう

にしている。だから、その感覚を呼び

起こす必要があるのだが、それは常識

を覆して、さらの状態に五感を追い

やらないといけない。

それは修行にも似て、楽なことでは

ないので、誰もしないようなこと

なのだ。


正しいほうへ、とか、良いほうへ、

とか、役に立つ方へ、とか無駄になら

ないほうへ、とか、人が喜ぶほうへ、

とか、それが全部、常識の方向なの

だが、これを疑う人はある年齢以上

になると自分を信じているので、

疑おうともしない、そうする前に

そういう常識に反する非常識をすで

に捨てている。

いらないものだから、二度と拾うこと

もない。それが学ぶということだと。


まず初心に戻るというのは、判断力が

着く前に戻るを意味している。だから、

自分は自分の道(ルール・信条)が

あると思っているが、それが過去の人

の示した基準であって、それを自分で

おおまかに選んで来たので、自分のもの

と思っているが、それはこの3,4000年

の間に示されたいくつかの基準的な言行

であって、これまでに統合された形跡も、

統合されようとした形跡もないものだ。

その狭い範囲から自分が信じていい、

とか役に立った、なるほどと感心した

とかで(自分が)選んだ言葉なりの教訓

などの教養である。

それが今の常識をおおまかには年代別に

区切って受け入れられているだけで、

僕らはほぼそれを全体の観点からは

否定したことがない。

そもそもそんなに長い歴史に支えらえた

(ように思える)教示を否定できるか?

できる。



それには鏡を見ながら、それに写し出さ

れた虚像を見ながら、鏡の背面を想像

することにある。これは比喩だから、鏡の

裏側に回っても、そこにはなにもない。

しかし、見えるものがそのまま見えなく

なる地点がある。見続ければ、そこまで

見るのに困難はないが、それはやり方が

いろいろあり、その方法が重要なのでは

なく、それを透徹してしまうまで、見て、

聴くことが大事なのだ。

例えば、弓道で弓の師匠に手足を押さえ

てもらって練習すれば、上達するのかと

考えればわかることだ。いつまでも自転

車の補助輪をつけていれば、いつまでも

ふつうに自転車に乗れるようにはなら

ないだろう。

弓道でそれを覚えるのは、呼吸が無に

なっている時だ。自転車に乗っていて、

無になって体のバランスを乗り物に合わ

せようとしている時だ。僕らはこの時、

無意識に孤独になる。

この時には真の意味で孤独になる。孤独

は自分が人に頼りたい心情を映す鏡の

ような働きをする。寂しくて孤独になれ

ないのがそういう心の位置を示している。

自分にはそれを支える実体がなにもない。

自分自身が裏ではそれをよく知っている

から、なにがしかの頼りになると思う

自分以上の人・モノ・観念、なんでも

いいがそういうものを心に祭り上げ、

それをまるで初めからそうであったか

のように信じ(ようとす)るのだ。

その人は信じるのだが、それが見える

第三者なら、それは信じているのでは

なく、信じようとする状態だと見えて

しまう。

こうして僕らの常識は守られている。

世間はそういう常識がゆっくり廃れる

もの、早くに廃れるもの、廃れはしない

核をもつもので、時代ごとに中身が移り

変ってゆくが、それは僕らが亡くなると、

僕らの常識の一部が確実に廃れてきた

ことではっきりしている。それでも

その時代時代の人は自分の常識は疑わ

ないだろう。

それは現在でも、初めて海外へ出かけ、

生活してみると、日本社会や家庭・学校

で信じた常識の多くが通用しないことに

気づかざるを得ない。


こんなことがわからないのか!と怒る

ような場面に出くわしたら、(非常識・

常識はずれを見たら)一度それが自分

の常識に抵触するからではないか、と

自分に返って、自分の内面を検討して

みたほうがいい。

それが考えなのか、心情なのか、感覚

なのか、それぞれだから、いろいろと

面白いことがわかるかもしれない。


つまり、僕らが嫌がるのは自意識で感じ

てしまう孤独であって、それは僕らが

孤独に慣れない時間を多すぎるほど

生活に費やしてきた結果なのだが、

孤独はよくないという常識が、孤独の

理解を阻んでいる。

もちろん、通常で孤独・孤立は嫌な

ものだと感じる。僕らの中の自分は

虚像だが、そうは信じないようにする

のが、自分という本質概念の性質・性格

だからだ。

頭でわかる、ということと体でわかる

ということ、また物事のひとつひとつ、

それらを知るということが、それらを

自分の表現や言葉で書き直したり、描き

直したりする行為になって、いろいろ

異なった表現をすることができるから、

その結果を自分に見て、自分がその

「物事」を理解したということが知れる。



自分では自分を知ることができないとは

そういうことで、自分を知ったと、自分

の行為をあとで反省して(=知って)確信

できる。

自分で自分に確信は、直接はできない。

それでは自分で自分を知ることができる

となってしまう。

ここが理解しがたいことで、自らの行為

で得心するしかない。



―なんてことを、今年最後にまたくり

返してしまったことだ。これも気づけ

ない老化の一部かもしれない。また、

くり返さざるを得ない僕の業なのかも

しれない。

例えば、

年末も新年も僕らの心情でつくられて

いる。カレンダーはそれを図式化して

概念と知識でそれを伝える。生活の

一部だが、少しも万能ではない。

犬や猫はカレンダーを理解しないだろう。

それはそういうものだという習慣での

考えからだが、僕らの誰もそれを問題

しないし、動物をしつけしようとはし

ない。なぜだと問うのならば、その前に

“その”なにがわかっているのだろう、

それはなにがわかっていないこと

なのか?

動物にはそこまで関わらなくていい?

チンパンジーと人間の遺伝子はいろいろと

比較するにしてもその特質を考慮しなけ

ればならないが、単純に数だけにすれば

98,8%が同じで、2万1千くらいの人間

とは250個くらいしか人間の遺伝子と

異ならない。

98、8%ともなれば同じだと言いたい

くらいだが、見た目からして人間は裸

の猿だ。

ニャーと言えば、猫だと思うが、ニャー

は猫の人間に対して使う声で、猫同士

ではほぼ使うことはない。だから、猫

のニャーは動物界での猫語に分類され

るのだろう。

僕らの通常の会話の言葉ではないのだ。

というわけで、全般で僕らはほぼ動物

のことを知らない、と言える。

ところが、僕らの体の成分や機能は

ほぼ猿と同じなのだから、動物と異なっ

てしまうようにしてきた進化がある。

それは動物を知れば、僕らの90%以上

を知ることだと言っても過言ではない。

つまり、僕らの常識を動物の段階まで

持って行っても、根本的な知識を得ら

れる可能性は十分にある。

逆に人間のレベルで常識を云々しても

たかが知れてる、と言えないだろうか。

スルメになってしまった人間から、

その特徴から、元のイカを想像する

ほうが難しいのではないか。

動物の分野にまで及ぶことのほうが

僕らが常識だと思っていたことの疑義

が明らかになりそうだと、僕は思うの

である。

と、時刻は元旦になってしまった。

明けまして、・・とか。ニャー。





これは常識への刺激として。


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