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自分たち、野郎ども、集まれ [本]

ずいぶんと前だ。10年近くになるだろう、

自分の本の整理で、興味が何に集中

しているのか、そういう分野がどれほど

あるのだろう、と書き出したことがあった。

確か、94種類に上って、その分野に

それぞれ3冊から7冊くらいか、含まれる

ので、総計は400~500冊くらいだった。

小説や娯楽に類する分野は含まれて

いない。

全部は読めないと、知っているつもり

だった。その時でさえ厳選してそれ

くらいだったが、蔵書の総数では四千冊

を越えていたからだ。

最近、五百冊を処分した。しかし、それ

から50冊は買い込んだだろう。なので

減っても、また増えていきそうだ。

今では五千冊は下らない。が、作家や

評論家の蔵書と比べたら、10分の1

ほどでもないだろうが、7分の1ほど

には少ない方だと思っている。

この本には、それぞれ著者という厄介

な棲み着いた者がいて、それぞれの

概念世界を展開している。書く者は

おおむね知識人や文化人が職業と

して書くのであるから、飯のタネだ。

ニーチェも当時は自費出版だったが、

今では市販本で数社の出版社から

邦訳されている。

彼らはそれぞれが自分であり、自我

である。それがないと意見らしいこと

は言えないから当然だが、著者が

死しても、本は死なない。どうも

冥途から未だになにかを語ろうと

している。それが厄介なのだが、

どこまでが真理の影で、どこからが

自我の投影なのかが、グラデーション

になっているので、あいまいでわかり

にくい。必ず自分というフィルターから

投影されるから、知とプライドが何らか

の影響を及ぼしてくる。

これは僕の被害妄想に違いない(笑)

のだが、彼らは僕を襲ってくるものも

いるのだ。(冗談だから、笑)

が、冗談ではない。楽な本はセラピー

(心理)関連で一般向けのコーチング的

に書かれているものだろう。読む箇所が

少ない。

字面を追うだけで何が書かれているか、

わかるから、どんどん行を飛ばして

斜め読みできる。普段から資料読み

では、味わい抜きで内容把握だけで

ぶっ跳んでいるから眼球の動きが気味

悪いほど速い。

今日も人に勧めて、自分では読んで

いないので、会った時の予習にその本

を読んだら、10分で半分近く進んで

しまった。(80頁。他の分野では、相応

に時間がかかり、こうはいかない)

それがどうもいつもより読書への扉を

変化球だったが、開いてしまったらしい。

余分な隙間から、他の本の内容概念が

悪鬼のように押し寄せてきたのだ。

しかし、とても入り切れるような隙間では

ないので(そりゃそうだ)、ぎゅうぎゅうに

押し合って、その圧迫感だけ僕に押し

付けてくる。とうとう読書どころではなく、

このことを書いてしまおう、となった。

つまらんね、こんなことのために時間を

使うなんて。だが、これが心には鎮静剤

になるのは心得ているので、僕の対処

療法として、もう生活の上で確立している。



気が落ち着いたら、僕はやがて黙考に

入るはずだ。そして、坐っているだけで、

なにもしない、茫然状態だ。それって

もしかすると、その押し寄せた自分たち

(本の著者たちの自我)に集まってもらって

話を聞いてやっているのかもしれない。

そんな冗談ともつかない考えがなんとは

なく、想起されるのだ。それがすべてとは

思えないが、呆我の状態とはそういう

ガーデニングで植物が枯れないように

水をやるようなのも一部だったの?

自分たち、野郎ども、集まれ。    ・・と。



本の数だけでは、部屋の惨状は想像して

もらえないだろう。そこで僕の寝床の書物

を公開すれば、何が起こっているのか、

少しは気づいてくれるかもしれない。::

部屋1.1.JPG

布団は折り畳んであるので、ここはその足元

に小机を置いている。図書館で借りる予定の本

をメモ整理したりしている。

部屋2.1.JPG

すぐ隣に石油ファンヒーターがあるが、数冊

本を上に置いたら、どんどん重なってしまった。

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その横へと視線をずらせると、同じように本が

散乱し始める。ずらっと眺め渡してみよう。

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次はブログでも紹介した手作りの本棚。

斜めの棚板が気に入っている。上の段。
部屋5.1.JPG

下の段。
部屋6.1.JPG

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↑ここに折り畳んだ布団が見える。枕もとの

あたりだ。


部屋8.1.JPG
床も本だらけ。

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床も本だらけ、2。まともに歩けない。本をまたぐ

ようにして部屋を横切る。

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床の3。

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床の4。一部前のとダブり。

考えたことはないが、この部屋の散乱に

いる自分をどう思うか、それはどこか不安

ながら、どこか安心する自分がいる。それは

この混乱状態は、僕の頭とか、無意識の

世界に相対している自分の混乱と釣り合って

いる気がするからだろう。わからない世界

ではあるといっても、秩序の保たれた状態

であるはずがない。整然とした無意識、

それは想像もできない。

まだ、本は残っている。

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これでこの一部屋の本の映像の全部

なのだ。他の二部屋のほうがまだ本棚に

整理されているが、まだ大学生の頃にも

夏休みに昼夜が逆転して、昼寝て、夜は

起きている生活をしたが、同じように

寝床の周りは本とゴミで埋め尽くされて

いた。外で働かないで自由な身分に

なると、同じことをするものだ。

しかし、南方熊楠には負ける。彼は

英国に渡って、英国図書館に雇われたが、

家は牛だか、馬だかの小屋の二階を

借りたが、夏だったのだろう、イギリスの

学者が彼を尋ねていくと、南方は褌(ふん

どし)一丁で坐っていて、いつ食べたかの

どんぶりやごみが散乱していて、本は

何冊も積み上げられたものが埋め尽くし

ていて、坐る場所もないのに、大層驚いた

という逸話がある。それはそうだろう、

日本に帰国して妻を娶ってからも、その妻

が初夜を明けて、体がかゆいので布団を

見たら、シラミだかがびっしり。驚いて

天日干しをしたら、熊楠に叱られた。

その理由がふるってる。シラミは飼って

いたものだから、殺すな、ということだ。

馬小屋で寝泊まりしていたくらいだから、

シラミの布団などなんということは

なかったのだろう。

しかし、次第に女房も熊楠のペースを

覚えて、逆にリードして叱るようになるから、

夫婦は面白い。

僕の子供も妻も、本が多すぎるのを

嫌うが、一度馬小屋の二階で生活

させておけばよかった、と思う。(笑)



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守本奴=シュホンド・本のジプシー [本]

何か大事なことを忘れている、という感覚が  

ある。それは結構、大事なことなのに思い  

出しにくくなっている、という感覚で、なにか 

分からないが、もの忘れしたような感じ 

ではなく、忘れてはいけないものだという 

感じがつきまとっている。気持ちの悪さよりも、 

危険な兆候だという、警告の不安がある。 

読書を始めて、その想いが強まる。 

僕は読書が好きではないから、数十年前にも 

工夫したことがある。やり方はごく普通で、 

始めは6頁をともかく読む。1頁で嫌になっても 

6頁までは読む。そして、3日したら、それを

10頁にする。と、読むページ数を増やしていく 

方法だ。3ヵ月もすると、100頁くらい読めるよう 

になって、少ししたら、500頁の小説を半日で 

読もうとして、読み切った。読み切ったのは 

いいが、無理をしたらしく、頭痛が始まって 

しまった。3日くらい続いて、長編の速読みは 

もうやめようと。が、それで終わらなかった。

また不読書にもどってしまった。3,4カ月の 

ハネムーン読書期間だった。今もそれをくり返し 

始めているのだが、今の方が気持ちがゆるい 

所為か、次から次へと本を読み途中で変える 

ので、同時進行が10冊以上になり、この1週間 

でも7-8冊の中古本を購入したところで、この 

本好きは病的と言えると思う。もう人生残り時間を 

読書に充てても読み切れないが、捨てる本を整理 

している所為か、まるで捨てる分を穴埋めするかの 

ように、今まで通りに興味と好奇心にまかせて、

気になる本は決して捨て置かず、図書館に 

なければ購入するし、書店で見て気になれば購入 

するのである。1日10冊は捨て続けないと、整理 

することにならないのではないか? 

まるでジプシーのように土地を転々と旅するように 

本の中の世界を夢見て魅かれ、一応中身も見て 

だが、本を買い、溜めてしまう。守銭奴ならぬ 

守本奴だ。 

頭の中にはりっぱな読書計画が凛然と立っている 

のだが、いつも好奇心に負ける。勝ったことがない。 

全敗。少し、考えて、今は必要ない、と買い控える 

くらいで、2,3冊買うのを1冊控える程度だから、 

大したことない、昔はそれを「焼け石に水」と言った 

ものだ。ともかく、500冊は整理してしまおうと、 

努めている。 

前回の記事で気になったのは、僕の書く時の 

二重基準と前提事項となるものは、自分では 

分かっているが、読者はそうではないというの

を失念(忘れ)していることだ。 

僕は「最悪のシナリオは」と書いた時は、それ 

は「そのシナリオは起こりようがないが、方向と 

して指摘するならば」という意味合いで書く。 

しかし、人の考えは様々で、最悪の場合と 

断わったつもりでも、その言葉どおりが僕の

意見として伝わるらしく、僕の書くものは 

落とし穴が多いことがなかなか理解されないし、

また、されにくいようだ。 

他人(僕も他人)の書いたものは、その文章を 

辿る上で一部の疑いの眼の光を閉ざしては 

ならないのが、鉄則なのだが。これは習慣の 

問題なのかもしれない。

理性は知と感情要素の飽くなき融合を目指す 

ので、そういうように育てるもので、経験を

加味しないと、その土壌さえ失う。強い経験

ほど、それが受け止められれば、良い土壌 

になる。その人なりの按配があるから、自分 

がわかれば、わかるなりに育てるのが、丁度 

いい按配となる。獲得するのが目的ではない 

ので、自分の背丈に合えばいいことだ。 

それ以上を望むのは、また別のことになる。 

それは自分を変えたいと言ってることだ。


僕はこれまでを思うとおりにやってきた。だから、

後になって失敗したと思っても、遅いということ 

もあるが、そもそもその時に戻っても同じ決断 

を下しただろう、と自分でわかる。これで後悔 

しない、という約束を自分と交わして、決断して 

進む。だから、僕は後悔しないのではなく、 

後悔ができない、不可能という意味でできない 

のだ。だから、現実から眼を反らせるというのは

自分を裏切ることになってしまう。それで、<他人 

を信じない>こと、<それ>を信じる。それを 

信じることが人を信じることにつながっている 

と思う。 

’信じること’と”信じない”ということではなく、

’信じること’と’疑うこと’の双方に足を載せて、 

そのバランスを取るのが、理性の役目・効能 

だろうと思う。デカルトはそういう人だった。かの 

「方法序説」に最初にこう書かれている。:: 

「良識はこの世で最も公平に配分されているもの 

である。というのは、だれもかれもそれを十分に 

与えられていると思っていて、他のすべてのことで 

は満足させることのはなはだむずかしい人々で 

さえも、良識については、自分がもっている以上 

を望まぬのがつねだからである。そしてこの点に 

おいて、まさかすべての人が誤っているとは思われ  

ない。」::

そして我々の意見が違うのは人の考えがまちまち 

であるからであり、理性が少ないからではない、 

と言う。しかし、意見の違いから人同士の争いも 

起きるから、誰もが理性を備えているという 

デカルトの考えは矛盾する。デカルトは理性 

の人だったと、それで分かる。誰もが判断力 

をもっているとしたが、その良き判断力(=理性、

とデカルトは考えていた)は誰もが備わって 

いるのではなく、経験の質に裏打ちされている。 

人が経験の積み重ねによって、知恵もつくのは、

年の功とも矛盾しない。デカルトには生まれ 

ながらに備わっていたのだろう、天才の所以だ。 


僕はなにを失ったのか、むしろなにを失い 

つつあるのか、自分ではなんとなく分かって 

いるつもりだが、それこそがまさに失いつつ 

ある状態だということも、承知しなければなら 

ない。自己を自分で分析するという反省で、 

また、一種の技(わざ)であり芸じみたものに 

僕は感じている。  

君は「自分がどこにいるか」と気にするだろうか、 

考えたことあるだろうか。僕は思う、逍遥として 

想う。時には悩ましくも、僕はどこにいるか、と 

探しているようだ。それは答えをみつけたい 

のではなく、たまには自分を見つけてやらなけ 

れば、と思うからだ。自分があれば、アイデン 

ティティも大事になるだろう、僕には知性が 

自分だとは思えないように、感情が自分だとは

思えないように、逆に、そういうように性格やら 

生まれやら、顔つきや社会の出自やらの裏に 

自分がいるとは思っていない。僕という人間の 

一部として、知性や感情のように、一部の役目 

を果たしているとしか思えない。自分は僕の 

部分だ、という気がいつもしている。だから、 

時にはかまってやらないと、と思うのだ。 

なのに僕は他人に依存しようとは思わない、

意見が他人と同じでも違っても気にしない。 

ただその他人Aが自分Aだと全面的に認めて 

いるその自分自身の誤謬から漏れてくる

ものにとり憑かれている、その部分が気に 

食わないのだ。尊敬できる人物も、慈愛の 

人もいるだろう、でも、それぞれ人間なん 

だからそれを避けられると思っては 

いけないのだが、やはり自己尊重が邪魔 

するんだろうね。自分は違う、とどこかで 

思うんだろうね。それは僕の体で半世紀 

も経験して変わらない自分自身にうんざり 

したりするんだが、そういう自分にもどって 

くるのもまた楽しみである、という、そういう 

有情も時としてある。

そういうあれやこれやがあって、’日常’と 

いうものを過ごしてつらつらと考えると、 

余程のことでない限り、なにが悪いとか、 

善いとか言えないと思う。 







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因果と本  島へ [本]

「頭の寄り道」で、本を読むと困ることがあると、報告した(注:アメブロ)

が、困ることではなくとも、もうひとつ報告しなくては、と思うことがある。  

本を読むと、疑問がどんどん発生して困るという、負の面ではなく、  

また正の面でもないのだが、世間は思ったよりも進んでいることだ。  

まず、因果との対面があった、50代から話し始めると、それは  

イメージなのだが極度に強い印象なので、忘れることができない。  

通常の僕らが知識を覚えるとか、想像のイメージを直感で掴む、  

といった印象とは、(大げさにはしたくないが)レベルが何段か  

違うものらしい。

そして、その印象ははっきりしていながらも、やがて僕はそれ  

が「それ(因果)」と僕にもわかる、わかりやすいイメージで  

示されたのだと、思うようになった。つまり、それを見た者は  

頭のイメージなのだから、きっと各人各様にその図を描くだろう、  

と考えたのだ。インド人はそれを見慣れた占星図のように、

曼荼羅図にみたのかもしれない。

(もし、似たような経験をされた方は、少し言葉を交わせば、

それがなにか、ほんとうに同じかお互いにわかるのと思うので、

メッセージででもお知らせください)  

その時、人生で「やった!」と思うのはしばらく後になる。これは  

ちょっと段階があって、それがすぐに「答え」そのものだと理解

できたことだ。そして、それに見える五万通りの川の流れが法則に  

見える流れ(イメージ)ともわかったので、それに沿えば、すべての  

この世の謎は解決できる、ということだった。おかしなことに  

それのすぐの感興は喜びであっただろうに、それは覚えていない。  

それよりもすぐ後に来たのが、重い「がっかり」だった。  

これは重くて、実際に落胆してしまったのだ。どうしてかと、  

それはすべての謎が時間をかければ解けないものはない、と  

誤解してしまったからだ。それは反面、間違いではないが、  

それほど単純なことではなかった。  

僕の知的欲望、ま、好奇心だが、それは強力で謎を解くためには  

三度の飯も要らないようなところがある。  ところが、それがどんな  

謎も解けてしまうとあっては、逆に重大な謎はすぐに解かないように

して、残りの謎を大切にしようと考えたのだ。 それだけで僕がいかに  

謎おたくで、知的欲求が性・食・眠・賭け・などの欲求を上回っていたか  

知れるところだ。それで短い一時期だが、自分は人生の目的を達した  

という自覚が生まれて、しあわせな気分に過ごしたことがある。  

そうではないことも、その因果の川に現れていたが、まだ因果という  

すべての解答の地図を、そこまで読みこなせていなかった。  

と言うより、因果のイメージが解答そのものではなく、地図に過ぎない、  

実際にそこに行かなくては、そこが何で、どうなっているかは、ほんとう

にはわからない。ということにまだ気づいていなかった。それさえも  

因果の地図を駆使して、考えているうちにたどり着いたものだった。  

自然の摂理は山と動物との知識と実際の交流がなければ、解けない  

ものだった。しかし、知っていることは知っていた。むしろ、それを生き  

ようとしていた。そして、それを体でも感じるようになった。無理はなくも、  

無知で無防備な、自我を忘れた日々に流れるすべてを目の当たりにした

観察で。  

そうしてやって来ると、いつのまにか僕はすべてを自分一人でやって来た

ので、それらから発見したことはすべて新発見だと、自分の知識の狭い  

守備範囲からそう思ってしまった。たとえば、バッタが道端で死んでいた、  

とそこから北朝鮮がまたミサイルをいつ発射するかまで、長い長いつながり

をたどればわかってしまう、という僕のイメージ世界だ。それはある面で  

間違えていないが、実際には現実的ではない。  

そうこうしていると、読んでいる本からポツンポツンと同じ考えが述べられて

いるのを読む。もうこの国際関係についての本質的な見方は、もう10年前に  

北村幸伯という著者によって書かれている、とか。その本質的な見方が  

すべてかどうかわからないが、その著者の考えは同じなので、読んでも  

そうなのだ、と賛意しかない。だが、歴史事項なので、どういう条約が結ばれ  

たのかという知識量はその本のほうが当たり前にあるので、そこが勉強に

なる。 皮膚に「考えるような力」があると、あいまいな段階だが思っていたら  

もうそれを25年だか、研究している人がいるとか。数少ないが、そういう本に  

当たりだす。  

僕が自身をそういう意味で過信するのは、初めて日本でマイコンという  

私のコンピュータ=略してマイコン、が発売された時に、もう僕は口笛を  

吹くだけで作曲ができるとか想像していた、期待していたのだが、それは  

まだまだで、アプリケーションができて、それが進化してからの話で、  

僕の期待からは20年も後のことだった。他にも先走りの思いつきが  

30年後に事件として実際に起こったりして、自分の耳に届いていない

ものは、全部新発見だと勘違いしていたのだ。  それでもそれは  

自分にとっては、知らなかったのだから、新発見に違いない。  

他にもそういうのがまだ出てきて、「新」ではないと。  

それよりも、最先端の世間の発見に対して、それに対しての考え方が  

脆弱な見方しかできていないほうが気にかかる。そして、それは究する

ところ、自分とはなにか、につながってくるのだ。それは個人が解決しても、

解決してもしつこくやって来る。なぜなら、それは個人でも団体でも説明

可能なことではないからだ。生きることは単純化すれば、なにかすることだ。

反対は何もしないことで、それは死ぬことなのか? そのままなら、体は  

そう解釈して、そう受け取っている。だから、その片鱗でも明らかにする

ことは体の一方的な偏見を知る、という価値がある。  

無意識に悟ってしまった人もいるに違いない。だが、近辺や世間で  

そういう情報は得られない。誰もうまく説明できない。よく同じレシピで

同じように作るのに、作る人によって味が変わる、鉄人が作ると?

うまくなる?と言われるのは、それに近いことなのだろう。その答えは

僕らの「気」にありそうだが、自己の発見はそれほど社会的に外的なもの、

既知のものにあるのではなさそうだ。  

なので、悟りについてわかったように書いてある*本はすべて誤りである、  

と言ってもさして差しさわりはない。内容の話であって、その本の売れ行き

に関わる話なら、別だが。 

このことを書いておきたかったので、今回書けたのはめでたい(笑)。  

正直ついでに、その動機も話してしまおう。それは小林秀雄だ。彼を  

読まなくなってから久しい頃、絵画についてピカソを理解したと、ピカソの

ある絵からようやくその直感にたどり着いたと思っていた。絵画と

いうもの、その世間の見方から、画家が目指すというものとのギャップ。  

絵の見方、というのも小林に学んだ。小林は「ただ見ろ」ということだけを

言っていた。それはつらい経験だった。ただ見るのは、僕らの脳は退屈で  

耐えられないのだ。その苦痛の向こうに光があった。3回美術館へ行って  

「ただ見る」ことで、計5時間くらいだろうか。死ぬかと思った、おおげさだが、  

死ぬほど初めはつらかったということ。   

それから絵を見るのは楽しくなり、一目で絵がわかるようになった。それは  

画家がなにを狙ったか、ということだ。そのためのタッチ、光やものの描き方、

色調、構図があった。そうこう10年も経っていただろう、ひょんなことから

小林の近代絵画で調べることがあり、開いてみた。ガーンッである。

「近ごろの絵は解らない、という言葉を実によく聞く。どうも馬鈴薯らしいと

思って、下の題を見ると、ある男の顔と書いてある。極端に言えば、まあ

そういう次第で、さて解らないということになる。絵はなにかを描いたもの  

でなくてはならない。そして、この何かは、絵を見ない前から私たちが  

承知しているものでなければならない。まことに当たり前な考え方で

あって、実際画家たちは、長い間、この当たり前な考えに従って絵を  

描いて来たのである。例えば、パスカルは」(小林秀雄「近代絵画」から)  

僕は小林の絵画観よりも進んだ気でいた。発見が多く、理解は素晴らし

かったから。ところが、その何年もの努力のたどり着いたものが、ポン  

と初めから書かれていたのだ。小林は抽象絵画はあまり好きになれず、  

ピカソを書いて終わっているが、ピカソもルノアールほどには深い共感の

元に書かれていない。僕は抽象絵画を発見し、好きにもなったので、  

小林を越えたと思ったわけだ。その点はわからないが、絵画というものが  

何に出会ったのかは、ちゃんと書かれていた。僕と同じ考えなので  

驚いてしまったわけだ。すでに彼は達していたそこに、僕は読んでも  

文章の意味しか読んでいなかったのだ。たぶん、潜在意識には  

入ったのだろう、その言葉の意味を方向にして、絵画鑑賞・思考を  

追い続けたのだ。どちらが先かというのが重要なこともあるが、こう  

いう本物との個人的な出会いでは、どちらがよりも、それに確実に  

出会うことの方が大事なファクターになる。  

それにしても大事な出会いとなった本は、時々それを読み返すことで  

よく言われているように、また新たな出会いがあるようだ。 12. 29


* 衒学的、哲学的とか、抽象的な言葉で書かれていれば。と言っても

それは一般論を出ないので、「大悟達」とか、言葉が大仰なものは

まず怪しい。現代で悟りについて書くとしたら、今の悟りはどうか、昔の  

悟りはなぜわからないか、悟りのイメージを壊してから、新しく構築すべく、

その説明に入ることになるだろう。 12. 30


*明日、15日に島へ出発。Wifi を用意しないので、ブログ掲載は 

1週間おやすみします。帰ってから掲載しますので、よろしく。

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