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織部日記 5 魯山人とピカソの印象 [印象]

これは印象記なので、決して僕の

魯山人とピカソへの核心な意見・

感想というものではない。

出会った二人のエピソードから

織られた手ぬぐいのようなものだ。

ちょっと面白いエピソードだと

思ったので、想像も加えて書いて

見ようと思った。

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つい、陽秋の口調になってしまう

のは、まだ慣れていないようです。

ほとんどWikipedia・他の魯山人情報

なのですが、70歳に近く、彼はロック

フェラー財団の招待なのか、欧米の

展覧会を訪問し、ピカソなどに会って

います。ピカソに進呈したのか、自作

の陶器を箱に入れたものですが、

ピカソはその箱の美しさを絶賛して、

中の器には一言もなかったらしい。

魯山人はこれを怒って、肝心なのは

中身だよ、と(誰かに)言っていた

とか。これは魯山人を現す良い

エピソードだと思います。

まず、魯山人の芸術観ですが、彼は

美食家で、陶芸・美術に劣らぬぐらい

多くの料理の味わい随筆とでも言う

のか、日本の料理を愛し、それを

書いています。実際自分でも料理を

して、美食を追及して飽きません。

魯山人1-1.JPG

彼は民芸運動で民窯の日常の陶器を

高く評価した柳宗悦らの民芸運動を

軽蔑していました。ここに彼の芸術

観があります。彼は美食家らしく、

高価で贅沢な味わいや芸の美にこだ

わったようです。

およそ美食家でこだわりのない心の

広い美食家というのはいません。

こだわるから、全員心のせまい人たち

です。もしも、心の広い美食家などが

いましたのなら、それは世間に遠慮

した気の弱いか、お人よしの人で

しょう。

魯山人はそうではなかった。冷えた

ビールが湯上りの?席に着いてから

1秒でも遅れようものなら、怒鳴った。

横柄で口やかましかったのです。それ

で女中は3人辞めたとか。それどこ

ろか、妻は6人を取り換えた。大体

1年で離婚しています。恐らく、

内々のことに他人を入らせない人

だったのです。なのに、気を使わ

ないと、小うるさく叱った。

そういうのに耐える女人に縁があり

ません。6人も結婚すると、そういう

良妻に出会えそうなものですが、これ

はどうも運命的に決まっていて、変え

ても、結果はあまり変わらないで、

似た人を選んでしまうのが世の常。

僕の半世紀の周囲の世帯の観察での

経験ですが。

それは魯山人が不倫で生まれた子で、

しかも父親はそのことで自殺してしま

っています。そういう出生の過去が彼

に暗い影を落とし、それを振り払う

かのように、狭い心は他人を批判し、

それもいやがらせや意地悪な指摘に

もなっています。彼は我慢できる口を

持っていなかった。人間国宝への

推薦まで断っている。

これは子供の頃は他人の家にもらわれ

ていった、魯山人と同じ境遇を経験した

夏目漱石が文学博士号を授与された時

に、本人の承諾もなく勝手なことを

するな、と当時の文部省に返還すると

申し出たが受理されなかったのを

思い出します。

漱石は兄たちが次々に亡くなり、本家も

跡継ぎがいなくなるので、漱石=金之助

を跡取りとして返してもらうので、不義

の子、魯山人よりかは傷は浅かったの

かもしれません。



魯山人は芸にこだわりました。それに

こだわらずに、民芸を賞賛した柳宗悦ら

には反対したわけです。たぶん、芸の美

なくして、なにが美術だ、陶芸だ、と

いうことでしょう。

ところが面白いのは、魯山人が用の美を

理解していたことです。彼のつくる皿や

陶器などは芸術的な派手な染付などは

なされていない。素朴な、少しもの

足りない、それでいていい味わいを出し

ている作品が多い。

なにしろ、生涯で陶芸家が数万点の

作品を作る水準を超えて、彼は

10万点の作品を作り出している、

巨魁だ。

若い頃には朝鮮に行き、3年ほど住ん

で、役所勤めをしている。朝鮮の

陶器にも出会っているでしょう。

帰国後は、陶芸の師匠にも出会い、

陶器に目を向けたようです。

自分の作品の値段・価値を高める

ために会員制の料亭をつくり、飛び

切りの料理を振舞うという宣伝も

している。それは成功し、魯山人

の器で料理を出すのがブームになり、

器全体の価値を上げるのに貢献

したのです。



さて、そこでピカソですが、彼は天才

です。今どきの天才評価は堕落して

酷いもので、記憶力が優れている、と

テレビに出ただけで天才と呼ばれ

たりしています。それから比べれば、

ピカソは超天才と呼ばなければならない

でしょう。当時のパリでシスレーとか

今でこそ有名ですが、そういう天才画家

の集まったカフェで皆、絵を描いて

いましたが、その中でピカソは格別で

した。

独特な絵を描いて見せる仲間の絵を

一瞥して、帰り、一晩でまったく同じ

絵を描いて持ってきた、というのです。

模写ではない、見た記憶だけで寸分、

間違いなく描けました。美術学校で、

その課題をたった一日で仕上げてきて、

先生を驚かせました。

つまり、ピカソはどんな絵でも描けて

しまう、しかし、実のところ、その自分

の天才ぶりに悩んでいたと見受けられ

ます。凡人にはわからない、贅沢な悩み

でした。

僕はそこからキュービズムの抽象画を

生みださざるを得なかった、ピカソ

の飛躍があったと思います。

ピカソの陶器はざっとYoutubeで見て

みましたが、どれも絵やデザインと

いうものです。言ってみれば、それ

は陶器の壺ではなくても、皿では

なくても、画布の代わりであれば、

何でもよかったのです。そう見え

ました。

いかにもピカソの意匠で、彼の好き

な対象が描かれていました。

ピカソが民衆の陶芸に貢献したかった

のではないか、という評者がいましたが、

どうもそれは胡散臭いです。あった

かもしれませんが、それは社会的な

意味だけで、芸術へではなく、彼に

は陶器は見えていないように思え

ます。飽くまでも画家だった。陶器

のために陶器のための絵を描くと

いうことは、なかったでしょう。



ピカソは軽い障害者だったらしく、

簡単な計算もできないらしい。それ

がまた天才らしい、不適応性ですが、

女性にはやさしく、またもてたと。

ピカソの前で二人の愛人?が出くわ

して、つかみ合いの大喧嘩になり、

ピカソはそれを楽し気に見ていた

という。こんな素晴らしい見ものは

ないと語っていたといいます。

こういうピカソの眼は魯山人の

気難しい、口やかましが顔に出て

しまっているのを、見逃しはしない

でしょうし、たぶん、箱の美しさ

に中身の陶器には何も言わずに、と

いたずらをしたのかもしれない。

魯山人はそれをまともに受け止めて

ピカソを批判した。そういう情けない

次第であったように思います。それ

をいかにも天下のピカソにも批判を

してしまうという褒め方をするのは、

見掛け倒しの批評でしょう。

魯山人は自分が我慢ならなかった。

だから、誰も人に本心を見せなかった。

逆に、それを覗こうとしたら、妻にでも

怒鳴り散らしたでしょう。

晩年はちょっとした人情の言葉にも

涙ぐんでしまう、ふつうの寂しい

孤独な老人だったようです。

美食家の最後は「肝臓ジストマ」による

肝硬変でした。僕は食に美があるとは

思いません。美食はどうしても歪んだ

方向に見えています。寄生虫によって

亡くなったのは、因果のその末葉の

一部である応報によるものに思えます。

(応報は条件次第で、あったり、

なかったりします) 自然な成り行き

でした。


それにしても、魯山人の器は見事です。

写真でしかないのですが、僕はその

重さごと手に取って見ているらしく、

その手応えに感心します。

魯山人は料理のために陶器をつくり

ました。用の器としてその風味は真似

てみたいものです。

魯山人2-1.JPG
「知られざる魯山人」より―

見るたびに、唸ります。うなっても

しょうがないのですが。 

う~ん。
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