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なつかしきものたち 漱石篇 [漱石]

「先生と僕」という漫画文庫本が

届いた。待っていたのは、期待が

あったからだ。読みたいのは期待

があるからだが、それは内容の

原理、考え方、文のうまみ、謎

の説明、最先端科学、・・・

要はそこに自分のどんな興味を

満たせてくれる答えがあるか、と

いうことだが、視覚で水墨画や

書道のように見本として見て

みたいものもある。

「先生と僕」は少し違う。

先生は夏目漱石のことだ。彼の

ことは普段は避けている。読む

べきなのだが、そうはしない。

漱石の人の筋というものは僕と

一緒だからだ。そこからの枝葉が

細々とことなるだけで、彼の所作・

行動はすべからく僕の芯にからん

でいるのがすぐわかる。

「坊ちゃんの時代」という、長い

漫画がある。300頁の本が第五部で

完結というから「先生と僕」の上下

2冊文庫とは比較にならないくらい

長い。関川夏央のストーリーに谷口

ジロ―という漫画家が絵にしたもの

らしい。その五巻目だけを購入して

読んでみた。すぐちがう、とわかった。

漱石ではない、ただのおっさんが描かれ

ていた。漱石気質を共にする僕だから、

ためらいなく言える。この感傷的な

漱石は(関川が書いた「二葉亭四迷の

明治四十一年」のように)明治の時代を

一作家・ジャーナリストによって描く

ように明治を読むものだろう。

第五巻は漱石の晩年なので、特に

修善寺の大患で30分死んだ時(医者の

話)にみた夢は、まったく漱石から

かけ離れていたので、そう思ったの

だろう。若い時の辺りは見ていない

ので、多少は違うだろうが、漱石が

そこにいないのは確かな気がする。

谷口ジローは自然冒険ものや動物を

描かせたら、相当なものなので、この

作風とは合っていないかも。


「先生と僕」は期待通りで、漱石と

その門人とのやりとりが想像以上に

面白い。

次の連載が決まっていて、その題名

も決まっていない。しかし、門下の

森田草平に漱石は予告を出させた。

「先生、適当にとおっしゃられても、

どんな内容なんですか」と尋ねても、

「まだ決めてないから適当に」という

答え。

ここで声に出して笑ってしまった。自然

を知っている、漱石は。

困った森田は自分の付けた題によって

小説の行方が変わるかもしれない責任に、

同門下の小宮に相談した。すると、机

の上にあった本(ニーチェの「ツァラ

トゥストラ」だった)を二人で?「適当

に」開いて目に入った文字が「門」だっ

た。

こうして3部作の最後の題は「門」に

決まったそうだ。そして、漱石は

連載小説に’門’を絡めて書いたそうだ。

門下生は、さすが先生、とこういった

エピソードが四コマ漫画で書き連ねら

れていて、すこぶる面白い。


漱石は江戸っ子だった。江戸っ子は

祖父・親・子供と三代東京に住み続け

て、その子供に当たる人が真の江戸っ

子になる、といい加減な言い伝えがある。

漱石はその江戸っ子で、僕もその三代目

になった。それでその気性がわかる。

坊ちゃん気質で、理不尽に押し付け

られたり、権勢から上から縛られる

のが生理的に嫌悪なのだ。

「私の個人主義」という本があるが、

これは漱石の個人主義論ではない。

果たし状である。

これは学習院の卒業式だかに招かれて

講演をしたものだ。その講演記録。

初めにこの学習院に初めて入ったこと

を断る。学習院には落ちたのか、入れ

なかったらしい。三島由紀夫は時代が

違うが、学習院を首席で卒業して、

昭和天皇に時計かなんか貰っている。

漱石は東大の文科を首席で卒業して

いる。

学習院は政財界の著名人の息子などが

多く在籍したから、漱石はゆっくりと

丁寧に個人主義っぽい話をしながら、

言いたいのは、「お前ら、これから日本

を背負って立つのだから、しっかりしろ。

人間で大切なことを忘れるんじゃない」

とかいうような内容のことを、それに

直接は気づかせなかったかもしれないが

言っている。お坊ちゃんたちに啖呵を

切っているのだ。

その気質が「坊ちゃん」を書かせた。

松山の先生は1年で嫌になってしまった。

坊ちゃんと同じ、笑。



これまで漱石の研究や評論がなぜに今

まで途切れもなく、延々と続くのか、

この漱石人気はなんなのか、とブログ

に書いたことがあったが、ともかく

当時から漱石の家には人が集まって

来た。それが明るい者もシャイな者も、

漱石に惹かれる。

日常の彼には感情的な性格のわかり

やすさがあって、それが愉快だったし、

まか不思議な突拍子のなさも手伝って、

漱石をおかしな魅力に見せたらしい。

その上、細かい指導や指摘は的確だっ

たから、漱石の江戸訛りをからかう

者も笑ってばかりはいられなかった。



あの芥川龍之介もその随筆でこう言う、

「僕が小説を発表した場合に、もし

夏目さんが悪いと言ったら、それが

どんな傑作でも悪いと自分でも信じ

そうな、物騒な気がし出したから、

このニ、三週間は行くのを見合わせ

ている」「兎に角そういう危険性の

あるものが、あの人の体からは何時

でも放射しているんだ」「君も一度

は会ってみたまえ。あの人に会う

為なら、実際それだけにわざわざ

京都から出てきても好い位だ」と

手紙に書いている。

(「芥川龍之介随筆集」から)



さて、指摘しよう。僕らは間違いを

しただろうから。「京都から出て

きても好い位だ」と芥川が書いた文で

僕らはああ、遠いところから来ても、

という比喩だなと思った。が、前提は

まるで違う。京都まで今は新幹線で

2時間で行ってしまうだろう。その頃・

当時どれくらいかかるか、想像して

みると、新橋から神戸まで鉄道が開通

した。なんと20時間も乗っている。

丸1日どころではない。早朝、4時に

電車に乗れたとしても、着くのは深夜

0時。

いや、京都だから大阪で乗り換え

だろうか。神戸よりも早く着くこと

はあるまい。どこかで宿泊して、

また朝に乗るのだろう、一日以上だ。

つまり、芥川は今の感覚で言えば、

夏目さんに会うためなら地球の裏側

から(旅客機を乗り継いで)来ても

好い位だ!と言ったのだ。これで

ほんとうに驚けるはずだ。それが

夏目への芥川の評価!なのだ。芥川

には漱石はふつうの人ではなかった

のだ!

明治の本を読むなら、僕らは明治人

にならなければならない。そうしな

いと、歴史は生きない。僕らの人生

も生きない。なつかしいものたちも

まだ今も生きているのだ、その

当時に。僕らは本を読んでいて、

油断してはならないのだ。そして、

やはり油断してしまうのだ。楽しみ

で読んでいるのだから。

どっちもどっちだ。

どっちでもいいが、両方のことを

自覚して選んでいないと、僕らは

自分を片手落ちな人格にする、と

いうことだ。


ピアニストの天才だったグレン・

グールドはその奇矯な振る舞いや

作曲者の楽譜を自分の演奏用に書き

換えるのでも、有名でそのために

不評も浴びた。しかし、その演奏を

聴けばわかるが、他の追随を許さ

ないテクニックがあった。

その伝説で有名なのは、晩年に没し

たその枕元にあったのは聖書と漱石

の「草枕」だったことだ。グールド

は「草枕」をこよなく愛した。それ

は後日談でわかる。

枕元にあったのは「三角の世界」

(=「草枕」の英訳タイトル)だけ

だった。彼の死後に父親が聖書を

置いたと、グールドの助手が証言

しているそうだ。

三角の世界とは、四角な世界から

常識と名のつく、一角を摩滅して、

三角のうちに住むのを芸術家と

呼んでもよかろう、という一節

から取られている。

グールドは「草枕」をニ十世紀

最高傑作の小説のひとつと言って

憚らず、従妹には電話で一冊全部

聞かせたそうである!


漱石は死後五十年以上も経って、

こんな熱烈なファンができるとは

想像もしていなかっただろう。

「草枕」は教科書に載ったが、

「坊ちゃん」の人気に押されて

消えた。

難解だと言われる「草枕」は人生

の書だったろう。


夜の空の淵で、明治はまだまだ近く

に感じる。僕がもっと明治を理解

するようになれば、言えるのかも

しれない、

明治は遠くなりにけり、 と。




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漱石のパリ [漱石]

夏目漱石の第1稿を書こうと思うが、それは下の「漱石の 

パリ日記」が届いたからだ。以前に書いたのは、漱石に 

重要な転機を与えたのは、ロンドンはそうだが、その前に 

立ち寄ったフランスのパリ万博の1週間が大きいという 

ことを言った。その資料は見つからなかったが、ある処から 

この本が出ているのを知って、取り寄せたら、なかなか有望 

だという気がする、楽しんで読むつもりもなく、200頁なので、 

ほぼ1頁2秒ペースで資料読みで読んでしまった。全頁を 

通して、気になる処だけ注意して詳しく読んだが、このほうが 

楽だった。1時間もかからない。

漱石のパリ日記2.JPG


あとから、付箋を眺めてみると、意外に多かった。16か所に

なった。ここは書いてしまわなければと思うくらいに、不調で、

頭がはっきりしない。 不調と言っても書けない不調もあれば、 

気を入れて書ける不調もある。 

最近は明治期に集中することが多いので、2階のトイレに 

入ろうとして、明治の空気の匂いを感じて、しばし、明治に 

いるようだった。そして、意識の分析をすると、こうだった。 

瞬間、明治のなんらかの写真とか風俗絵の記憶に触れたが、 

それを1,2秒の記憶に引き伸ばした。瞬間はほぼ記憶に 

ならない。それでその1,2秒を捉えて、その匂いをさらに 

余韻として伸ばした。かくして、1分弱は明治にいるような 

錯覚に浸れたということである。これは思い出すことと 

ずいぶん違う。思い出は感情に結び付いているので、それ 

に浸ると長くなるが、僕のは匂う記憶、というようなもので、 

長くは引き延ばせない。明治はすぐに消えた。 

そのあとで、ポストに「漱石のパリ日記」を見つけたので、 

やっつけてしまう気になった、という経過だ。 

この頃の漱石は英文学に迷っている。自分の仕事として 

それに一生を捧げる意義を見出せないからだ。この英国 

留学にしても、はじめは断りに行っている。確か、英語の 

ためではわからないから遠慮する、とかで固く考えないで 

いい、というので、自己流に英文学と受け取ってもいいの 

だろう、とそれなら断る理由もなくなるので、引き受けた、 

と言った次第だと記憶している。その個所を探したが、 

見つからない。 

渡欧の前に、親友の正岡子規のところに病床見舞いに 

寺田寅彦と行く。その時、談笑したようなことが書いて 

あるが、それはないだろう。明治29年から子規は病状 

が重くなるのに苦しめられている。激痛に泣いている。 

漱石も人相も変わってしまったであろう子規に世間話 

でもなかっただろう。 

現にこの9か月後には日本洋画家の中村不折が渡欧 

する前に来たが、もうこれきりとわかるくらい衰弱して 

いたらしい。二人は言葉を交わさないまま、別れたという。 

ミイラのようだったと、他にも記述がある。 

不思議なのは、そういう子規への評論の扱いである。 

僕は偶然、ネットで漱石の「京へ着ける夕」を、短文だが、 

読んで、子規と漱石はふつうではないと感ぜざるを得な 

かった。

「あの赤い下品な肉太にくぶとな字を見ると、京都を稲妻いなずま

の迅すみやかなる閃ひらめきのうちに思い出す。同時に――ああ

子規は死んでしまった。糸瓜へちまのごとく干枯ひからびて死ん

でしまった。」(京へ着ける夕)


子規は結核菌が脊椎カリエスを起こしたとか、なんとか 

だったらしいが、強靭な精神力で喀血しながら、最後まで 

書や絵、俳句を書いていた。帰省する折だろうか、奈良 

に遊び、そこで発句した、<柿くヘば 鐘が鳴るなり 法隆寺>  

が有名で、よく知られている。 

その子規だが、漱石は「ああ子規は死んでしまった」と 

いうようには書かない人間だ。それをそう書いたの 

だから、そこにどんな慟哭があったか、と僕は思ったの 

だが、文豪も京都は寒いとか、そんな感想文が目立って 

いる。評論家も同じだ。 最後の文章が寒さの極めつけ 

で決まっているからだ。その文章もすごいが、それは 

子規を思い出す背景に重なっている。 

どうもこう書いていても、いまだパリが西欧の第一印象 

で、それが重要な作用を及ぼしたはずだ、までしか 

言えない。そこだけ書いておこう。 

パリの日本公使館に二等書記官である安達峰一郎 

がいて、彼は仏語に堪能で、イタリア語も英語も 

できた。漱石は彼との会話で刺激を受けたらしく、 

「僕は順に行けば来年の十月末もしくは十一月 

初めに帰朝するのだが少し仏蘭西に行っていたい。 

どうも仏蘭西語が出来んと不都合だ。せっかく洋行 

のついでにやって行きたいが四ヵ月か五ヵ月で 

いいが留学延期をして仏蘭西に行くことは出来まい 

か。狩野君から上田君に話してもらいたい」と、 

翌年の2月に手紙を書いている。長い、ロンドン生活 

について綴った後に、である。

パリ万博や「巴里の繁華と堕落は驚くべきものなり」 

と日記に書いた漱石がそこまでフランス語にこだわった 

のはどんな理由だったか。

帰朝して、その後、男の子が二人生まれ、彼らにも 

フランス語を習わそうとしている。明治四十年、四十一 

年に生まれた子らである。鏡子夫人の「漱石の思い出」 

に、学校は「暁星」がいい、と言ったそうだ。その理由は 

「まず小学校でフランス語をやる。中学へ行ってそれに 

英語が加わる。しかしほかの中学よりは程度が落ちる 

というから、中学へ行ったら英語は自分が教える。それ 

から高等学校へ行ったらドイツ語を教わる。すると大学 

へ行ったころには英仏独三か国語に通じることができる」 

というもので、それから暁星から帰ってきた二人に自分で 

フランス語の復習をさせた。「それを隣の部屋できいて 

ますと、莫迦野郎、莫迦野郎の連発で、とうとうしまいには 

男の子が泣き泣き書斎から出てくる」と、なったらしい。 

これには、可笑しくて爆笑してしまったが、漱石の西欧の 

文明文化への強烈な関心は、そのまま日本の文明開化 

への疑心という裏返しであった気がする。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

 
::
その前にパリ万博の規模や性格とロンドンでの生活を 

調べる必要があるだろう。

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