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選ぶつもりで選ばされ、世界は閉じる 2 [世界]

愛も時には退屈なものです、と言った

のはゲーテだが、どんな情熱も僕らには

小休止を必要とするから、在庫の薪が

燃え尽きることもある。また薪がたまる

まで待てばいいし、そうなることなのだが、

その間には、いつもの散歩道を逍遥する。

熱があり、だるくて仕事ができない時も

似たような小康状態が訪れる。

(発熱は)無理できないと宣言されたの

だから、公明正大に休養できるので、

かえってさっぱりするのだが、僕は肩

の荷を下ろして、楽になる。晴れて

好きなことだけをすればいいと、許さ

れたようなものと考える。

それでも倦怠感はあるから、できる

ことは限られる。すると、僕らができる

ことはこんなように限られたことをして

いるだけなのかもしれないと、弱く考え

てみる。

少し休んでみるつもりの時の音楽も

そのような音楽になる。弱っていれば、

それに合わせた調子の音楽がチョイス

される。僕らがそう選ぶからだ。僕らは

外の運とか言う癖があるが、それを

選んでいるのは僕らの(体や心の)

ほうだろう。

蛇口から水を出しても、勢いよく出す

時は、力があまって、暴れたい時だ。

弱ってしまうと、水の勢いさえ恐れて、

少なめに出し加減をする。

僕らは自分の状態に合わせて、社会や

その時の状況に合わせる。なにかに

強制される時は、思ったよりも少ない。

だから、反対に極度に注意力を強制

される生活というものを想像できない。

または、自分とは違う生活の刻苦の

与えられる場所やその苦しみは日常

の外になる。そういう時、世界は閉じ

られていると感じるだろうか?

感じるようなら、多少の熱ぐらいでは

倦怠感も感じないかもしれない。感じ

る暇がないのかもしれない。

世界が開かれるのは、僕らの心が

開かれなくては、そういう扉は開かれ

ない。あまり刺激の強さで疲れてしまわ

ないように、僕らは通常、心は閉じ加減

にしている。

そして、仕事の必要などで範囲を決めて、

そこから弾けてしまわないように、小刻み

に開け閉めをするが、次第にわかった

ことにして閉じていても、気を配らなく

なる。それはどうしても窒息感があるので、

開放感を求めるのが、体の自然だ。それ

がルーチンワークになってしまうと、僕ら

は自分のいつもの生活からの逸脱を

恐れるようになる。馴染んだ生活が一番

になると、それは惰性の快楽に生活の

運動を任せるようになるから。

足りないとか、トラブルなどには他の手を

借りようとする。社会は公共でそういう

補完をする機構を備えている。それを

利用しようとするのは、常識な感覚に

なっている。そして、それがそのまま

ありのままから離れて、砂でこさえた

我城という世界だとは見えないでいる

ことだ。さまざまな物事があるから、

一概に言えないが、世界がなにがしか

であるのは、僕らがなにがしかである

からだが、閉じたものには、そのなにが

しかは見えない。目の前にあっても、

それはいつもの風景に溶け込むかの

ように、その人の生活のなかの当たり前

に名前のあるものになっていて、それが

あるべき位置や情感を放っていない。

子供と大人の見るもの聞くものが違うか

のようにその微妙さは、決定的に世界を

変えてしまう。

流されるまま眺めるのと、興味があって

注意深く見るのとでは見るものが同じ

ではない、というように世界は固定化

されたり、拡がりを見せたり、とその

運動が異なる。

この世に美というものはない。その美を

見出す眼や耳があるだけだ。世界が

美しくないのは、まずあり得ない。だから、

それは見えるし、聴けるはずなのだが、

そう感じないとしたら、不思議だが、それ

はまだ見たことがない、聴いたことがない、

ということなのだ。見る、ということをした

ことがない、そのわけを知らない。聴く、

ということをしたことがない、またその

わけを知らない。

初めは知らないものにつき合うのは、

退屈だったり、嫌気がさすものだ。慣れ

ないことだから、さらにそうなのだが、

この慣れの意味が問題だろう。

好きなものを見たりするのは、制限がなく、

見飽きない。どこも見たことがあるのに、

また同じ処に帰っていき見ても飽きない。

そこにあるものはなんだろう?

子供が赤い消防車に夢中になると、

なんでも消防車を欲しがり、遊んで、

また他の消防車も欲しがる。親が持って

いるじゃない、と言っても、聞かない。

際限なく、消防車を集める。この時、

子供は消防車を見ているが、大人は

それが「消防車」であるのを見ている

だけで、子供のようには見えていない。

子供はまだそれを証言できないが、

消防車という認識を見ているのではない

ことだけは確かだ。色も艶も、そのサイレン

も走る姿も見ている。全部好きだからだ。

それが子供の生きる活動だから、僕ら

は知らずに感動させられ、さしてそれに

気づかず、子供だなぁ、と思うが、それ

がわかっていないことを告白している。

子供だなぁ、だから何?無知だというの

だろうけれど、それを愛するのは僕らの

自分ではないのか。

僕らの大半はそうして心を閉じて固定化

の道を邁進する。その中ではよくても、

言うことは人と生きること、隣人愛だが、

実際は行動は自分の狭いルールで許容

できることで親切であるだけで、心は人

を信じてはいない。誰かが心に踏み込ん

で来れば、怒って、追い出すだろう。それ

が実際の行動になる。そして、本人は

それに気づいていないかもしれない。

そうなってみて、反省もしないし、相手

を責めるのだろう。だから、それは

通常の不可解な行動の範囲だと、

(がんこ)老人相手にはそう思っていて

いいだろう。

流されるように教育されて、自分の

納得する基準を持ち、それが相手を

寄せ付けなくなったのだから、自分も

例外ではないくらいに思っていて、

丁度いいのではないか。

それは社会的に円満な人間だと周囲

から思われている人でも、まったく例外

ではないということが重要な点だ。なぜ

なら、僕らはまさにそういう世界の真ん中

にいるからだ。認識は美や愛からは離れ

ざるを得ない。

寛容な精神や言葉を繕うことはできても、

教養や真似事では、心は開けない。

だからと言って、仏門に入会して、山で

千日修業がいいのかと言えば、それは

いいだろう。

ただし、それは一時しのぎでのことだ。


環境を変えて自然の中でサバイバル

をすると、精神はなるほど浄化されるが、

それは泥の中で生きるより、きれいな水

のほうがいいだろう、というのと同じで、

僕らは社会で生きなければならない。

山で何十年もひとりで生きてしまった人

もいるが、心はさっぱりするだろう。だが、

それは人生や人間関係、また生活全般

の解決策になるだろうか?

相撲取りになる人は、マラソン選手には

向いていないだろう、くらいのことは言える。

その意味で、山の生活もしてみないよりも、

してみたほうがなにがしか悟ることはある

のだろう、とは思う。

あなたのことはあなたが一番知らなければ

いけないことだ、と感じ入るような行動と

経験を積み重ねるうちに、気づくこともある

のだろう、くらいのことは言える。 7..24



僕の話に結論はない。結論を求めるのは

教育や会社・社会の慣習・事情による

ものだ。

どうして結論を求めるのか、結果が現実を

支配するから?どうだろう?ほんとうに

そう言えるだろうか。怪しい。

そういう社会の結論を急かす動機は、現実

自体にある。今、決断して実行しないと、

現実の環境や条件は変わってしまい、今の

結論さえ役に立たなくなることが、起こる

からだ。現実に対応するのに、僕らは(人間

が独自に発明して設定した)時間に追いつく

必要があったのだ。

だから、今はできないだろうが、時間を

取っ払ってしまうと、不思議だ、時計を

示す針も数字もなくなるから、この世の

時刻表がすべてなくなる。これは大変な

ことだ、一つの基準でも生活の大きな

ものである場合、僕らの生活は崩壊して

しまう。見かけは。

しかし、今まで通り、物はあるし、機構は

ある、エネルギーもある、インフラもある。

時間がない。

適当な時に適当な手段を使って、目的地

に行ったり、目的のための行動を推し

量りながら生活するだろう。

請求書もなくなるから、供給企業は別な

考え方に拠る請求を政府に決めてもらう

ように求めるようになるだろう。それが

決まるまで、電気もガスも水道も使い放題、

となれば過剰な需要から、供給不足になり、

公共機関といえども、一時ストップせざる

を得ない。

しかし、想像できるだろうか。時間で組み

立てられた社会であれば、僕らは生活を

時間に拠っている。依存しているから、

その仕組みが壊れた以上、多くの不具合

が生じて、それ以上の膨大化した不安が

すでに不安を抱えた人たちを襲うだろう。

世界では暴徒化するのは早いだろう。

日本のほうが遅れるし、銃社会ではない

から、地域的な暴徒しか起こらないかも

しれない。 

その原因は時間がなくなったから。そう

だろうか?その直接の因はそうかもしれ

ないが、例え時間が無くなったとしても、

それに対策してこなかった責任はどこに

あるのか?

それこそ、福島の原発が津波に襲われた

ときに、堤防の高さに万が一の不安は

あった。それでも無視されたから、被害が

大きかった。

時間は津波ではない。世界標準時で決まって

止まることもない。急に暴走して、混乱する

こともない。そういうことで、信頼して安心し、

時間がない状態には無関心でいい。そう

いうことだろう。だが、そうでもない。

世界標準時であってみれば、それは電波

配信されている。ということは、コンピュータ

がなければ機能しない。正常な時間の運動

は実はコンピュータ次第なのだ。だから、

コンピュータが壊れれば、時間は止まる。

そんなことがあるのか? ある。

すぐ、3年先に太陽の巨大フレアが予測

されている。2025年には、その強力な

電磁嵐のために、全世界の電子機器が

バグを起こして、正常な機能を失うことが

すでに見えている。

僕らの政府はこの事態になんら対策チーム

を立ち上げることができるだろうか。常識

に囚われた古い頭で、この時間のない世界

を、生活を捉えられるのだろうか。デジタル庁

の情けないホームページを見ると、かなり

心配になってくる。

ずいぶん、外れた一つの道を辿ってしまった

が、その根本の原因をもう一度考えてみる

なら、僕らの心の閉鎖状態が関わることが

わかる。常識や時間に囚われた生活の

慣習に意識が曇らされていることが、その

第1原因だと。

僕らは用意された生活から自分の生活を

選んでいるだけで、それが社会の恩恵でも

あるが、それに依存した場合、僕らが知らず、

すでに心を閉ざし始めたことを知らない。

人間関係は問題じゃないのかもしれない。

そういう人間関係についての知識が、もう

それに悩む要因になっているのであれば、

その常識を疑う他ないのだが、そんなことを

する人を、たぶん、見たことがないだろう。


僕の話は、どこでも終わる。放っておくと、

次第につぎのことに移ってしまう。世界は

循環している、特にこの世は、だから、

すべての問題はどこかで、ちいさなどこか

につながっている。

すべてを疑うしかないではないか、と考えた

人は正解。そこからが重要な課題。そんな

膨大なことは考えられない、と諦めるか、

少しずつやるか、と思う人。

僕らの人類は初めからその積み重ねに

あるのだし、一部の結果しか出ないで、

それでもその発見からさらに膨大な

世界を見出す。キリがない。つまり、

このことで何かを見出すためには

初めから際限のない、半無限な世界

を受け止めるしかない。過去の人たち

がそうして来たように。

初めは皆、同じ。無とか、無常とか、

際限のない問題、世界を受け止める

しかなかった。これは底の底から

事態を受け止めて、そこからそれを

感覚で精査して、全体が見えてから、

考察を加えて図式化する、という先人

たちの伝統の話だ。

それは今でも変わらない。


::

これでブログを始めて7年、今まで

技術不足や深層にたどり着かず、それ

で書けなかった本音の2つ目か、3つ

目かを書くことができた。 

よかった、よかった。

                                  7. 26
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選ぶつもりで選ばされ世界は閉じる 1. [世界]

ストレスというのは一種の疲労の症候群

のことで、ストレスという病気はない。

うつ病はないけれど、いろいろな病気や

その病気の前の状態には、うつ症状が

時にともなったり、べったりともなうこと

もよくある。

僕らは毎日のようにストレスとうつという

症状を耳にするほど、それらが蔓延して

いることを知っている。が、それは確定

した病気のことを指しているのではなく、

昔は不定愁訴と呼んだ未病のことを

(大半は)いう。病気ではないけれど、

その前兆をいう場合、未病と呼ぶが、

それらが本来の意味ではなく、ほとんど

病気の扱いをされているのにも、気が

つかなくなったほど、僕らは病気以前

のあいまいな状態に置かれていること

が日常で当たり前になってしまった。

さらに、

それを平気で、ストレスとかうつとか

言って済ましているほど鈍くなったの

にも慣れてしまい、気にしなくなって

しまった。


僕は昨晩から、変な気分を味わって

いたが、食べすぎとかのストレスから

くる胸やけだろうくらいに考えていた。

だから、放っておいた。

今日も今日で昨日の秦野に出かけて

陶房で粘土に集中したせいだろう、と

気にしていなかったが、昼まで寝て、

そのあと午後も夕方まで2時間も寝た。

入浴もして、疲れは粗ら方、取れたの

だが、胸のあたりが燃えカスがズブズブ

いうように苦しい。これは何だ?

わからなかった。しかし、自分の健康には

半世紀も体で試す実験やそれらしいことを

して、自分の体の場合は?という問いを

してきたので、それなりの知識が記憶に

あった。それらの情報を組み合わせたり

して、自分の健康の特徴を一応知って

いた。

そのせいで、今回も体の所為ばかりでは

ないと思ったので、精神に沈着してみた。

原因は昨日の陶芸らしい。だが、それが

どう作用したのだろう?思い当たらなかった。

なんとなく尋ねながら、そのままの意識で

過ごした処、引っかかるものがあった。

陶芸のための付属品を揃えることに、わず

かな抵抗感があった。この小さな感覚を

拾うのは、多分今にしてできるようになった

のだと思う。10年でも体に問い続ければ、

意識が体の反応や心の反応をきちんと

対応する機能を作ってくれる。瞑想も一役

かんでいるだろう。

答えは陶芸に対しての欲だった。それが胸

のつかえになっていた。でも、そこからだ。

どうしてつかえになったのか?

答えがわかると、解決はすぐだ。考え尽くし

ているので、あとはルートが自然に解決と

しての答えに導く。

僕はのんびり陶芸をやろうという初期の

考えから、やり始めてから欲が出た

らしい。作品にのめり込むことを考えて、

あれも必要、これも必要、あれを学んで、

これを学んで、早く学んで、と焦り始め

たらしい。作品のアイデァアも出たが、

朝、見直すと、大したアイデアでは

なかった。 のに。

そこで、少なくとも今年はできるだけの

進行でいいので、速く進める必要は

ないのだ、と自分に言い聞かせた。

それで終わりだった。のんびり系と

お急ぎ系を間違えたのだ。

僕は思うに、現代人は今まで以上に

二重の生活が必須になってきている、

と感じる。最も多いパターンは、社会

生活と個人生活を分けることだ。それ

はさらにそれを二つに分けることが

自然なのだが、今は複雑になるので、

これまでの常識範囲で話すと、社会の

ストレスはお急ぎ系の仕事からくる。

そこで切り替え「られる」ことが必要に

なる。無理に切り替えようとすることさえ、

それはストレスになるから、徐々に切り

替えに慣れるのが大切になる。

(細かい区切りは、それこそストレスに

なり、現実的ではない。継続できない)


ひとりであることと僕らは孤独を結び

つける。それは鍛えられていない自我の

弱さからくる。それは悪いことではない。

ただ、弱さを意識して、他人の助けが

どうしても必要だと自分に言い聞かせて

いるので、自然に他人からの甘えを

求める。その状態では、他人が大切

だから、ひとりになるのは助けがない

状態だと、その状態の孤独さを想像

以上に怖いものにしてしまう。

他人がいなくてもだいじょうぶだと思える

には早すぎるので、まずは興味のある

自然の虫や植物、少し人間から離れた

風物を眺める。眺める時間を増やして

みる。

その時、ひとりだからと、なにか有為な

作業をしてはいけない。それは気を反ら

して、ひとりから意識を離す作業で、それ

ではひとりである意味はない。

まず、自分が一人である、それを認める

にはそういう静かな環境が必要になる。

自分の部屋が要るだろう。

外界を離れるのだから、パソコンも、

スマホも、音楽も、コミュニケの取れる

ものも放してしまう。簡単に、この世

(世間)がない状態がベストだ。

ここでひとつの大きな問題が起きるの

だが、それは今回無視する。でないと、

肝心の話に進まないから。

その時、この世がなければ、と思えたら

いいのだが、そう思うことができない

くらいに自分はこの世とか他人を必要と

している、という意識が昇ってくる。

これが大きな先入観で、潜在概念で、それ

をいかに認識するかが、次へのステップ

になる。

ひとつ例を示すと、(以前の既出だが、

女性の社会がある。小さな部族だが、

女が力仕事から、食料の調達から、何

でもやる、働く。男はぶらぶらしていて、

博打ばかりしている、そういう珍しい

文化が中国の山中にある)

:それで女性は、妊娠して子を産むまでの

期間、男に守ってもらう必要があるため

に男の筋力と生活力に依存してきたの

だが、これも人類の歴史に匹敵して

長かったので固定した先入観になって

いる、 久しい。:

その考えはひとつの固定された生存観念

で、それが絶対だと思う人は、肉体ではなく、

精神でひとりになったことがないだろう。


僕らは静かな部屋でひとりの時間が持て

た時は、なにをしようか、とすぐに時間の

有効活用を考える。これが社会生活の

習慣によるストレスの因になっている。

僕らの体が夜寝て、昼間のストレスを

夢見で解消しようとするように、精神の

ストレスも解消したいのだが、心が寝て

も社会生活に結びつけられたままでは、

時間に追われる状態は、無意識に

続いてしまう。

だから、ひとりの時間には、ひとりに

なることが必要であるにも関わらず、

そのひとりになることができないでいる。

こんな簡単なことが見失われている

ために、産業革命以降の近代から

どれほどのウツ症状とストレスを

生みだしていることか。

僕らはひとりになる時はそれを必要と

している。それに応じて、音楽を聴いたり、

本を読んだり、媒体で映画や動画を

見たり、趣味に興じたりするが、なぜ

そうしているかは、問わない。心に聞く、

尋ねるという習慣を持っていない。

だから、その時自分が本当はどういう

状態で、悩むべき状態なのか、知ること

がない。なので、それを知って、なるべく

早く問題を見つけて、対処したいのだ、

という自分でなければ、何も解決せず、

何も進まない。

この世にはそのままでは使えないが、

便利な考え方やノウハウの情報が散乱

している。それを実際に役立てるには、

会社の仕事のように、なんとしてもその

問題を発見して、対処したいという自分

の姿勢が肝心だ。

そうでないと、悩みたくないためにとかの

逃げの理由で僕らは好きなことを、実際

はその気がないのだが、その習慣で娯楽

や趣味に興じることに、自分を追いやる。

ひとりの自分を受け止めたくないから。

受け入れるのはまだだ。まず、受け止め

ないと、なにも始まらない。

受け止めるためには、その状態を感覚で

受け止めて、状況・状態を見て、聴ける

ようにすることだ。考えない。まず、何が

あるか、どのような状態か、見たり、聴い

たりして、感じる。

それで事件や事故という問題が全体で

掴めたと感じたら、そこからまとめるため

に考える。それまでは一切、気持ちの

高ぶりに負けて、考えはじめるのは

禁物だ。

それは前に書いたが、感情が絡んだ

問題の場合は、やたら考えたくなって、

無駄に堂々巡りしかできなくなるからだ。

その問題の実態が見えなければ、暗闇

に手を伸ばしてなにか探ろうとするのと

変わりない。それにはまず、自分の感情

を抑えて、そこに勝たないと、うまく考える

ことはできない。考えることは本来、夢

なのだ。現実に対処するには、やはり、

まず現実を抑えて、把握するのが重要に

なる。

嫌なことはしたくないのが人間だ。だから、

問題によってはかなり近づくためにも、

工夫が必要になる時がある。これも

千差万別の理由があるので、一概にこう

すればいい、という処方箋はない。と言うか、

この世にあなたのための処方箋はない

のが当たり前なことで、なんとか自分で

考えるという態度と行動を取得して、

自分が主体として考えることをすれば、

経験の数が増えて、考察をして新しい

発見を増やすうちに、自分で工夫できる

ようになる。            7.18



       つづく  to be continued


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原因も結果もない全体世界 [世界]

第4章はもう書いた、と言った。その

通りなのだが、なぜ投稿しないのか。

それは僕の性格もあるが、終わらせ

ない、という気質からだろう。日光東照宮

のように一ヶ所をわざと間違えて、逆柱

に設置する。99%完成は、終わりでは

なくなる。その建築物の永遠を夢見て、

完成させないという俗信を逆手に取った

思想があった。

僕も似ているのだろう。最後を投稿

しなければ、終わりにならない、という

考えがあるという、どうでもいい考えだ。

しかし、それが心に一度食い入ると、

固定観念になってしまって、なかなか

抜け出せないものだ。自分の考えなら

簡単に自由になりそうなものだが、

これが意外に自分で意識を管理する

くらいでないと、相当注意を働かせない

と、この観念は先入観となって、なんと

なく継続しっ放しとなってしまう。

そして、こうして自分で自分に早く投稿

せよ、と嗾(けしか)けることになる。

それは言ったが、どうでもいい。

僕はいつも非常に早く、終末や結果を

見てしまう。予測しないで、直接感じる

かのように、まだ来ていない未来に

がっかりするのだ。その結末が望んだ

嬉しいものであっても、どうしてかそれ

が一時的なもので、その先に望みが

持てないからだろう。それはまたその

時の問題なので、問題かどうかも

わからない段階で落胆は気が早すぎる。

かと言って、終わらせるべきものは、

終わらせるのがよいのであって、無意味

に長引かせてもそれがなんだろう。


僕はこう考えるようになった。なにか

原因があるから結果があり、そうで

あるなら、すべてはなんらかの結果を

もたらさなくてはいけないものなのだ、

ということを信じなくていい、と。

どうしてか。

それが僕らの先入観であるからであり、

それに特別な理由があるわけではない。

でも、そう考える理由は必要だろう。

因というのはなにかの固定した原因と

いうことではない。因は何か。

それはそれを定点に決めることで

あって、僕らがそう決めたに過ぎない

ことだ。

これが始めの通過点だが、どう

だろうか。原因はとても強く心に食入って

いて、どうにも疑えないのではない

だろうか。あなたはあなたの親から

生まれた。だから、あなたがこの世に

いる原因は親である、と。

いろいろな原因が考えられる。例えば、

あなたの祖父と祖母がいたから、あなた

の父と母がそれぞれの祖父・祖母から

生まれた。と考えると、その祖先が候補

に上がって、それを辿ればキリがなく

なる。

または、精子と卵巣の関係でその原因

を考えると、1億の精子の競争で生ま

れたのだから、どの精子でもよかった

のでない、と考えると、他の精子だと

どう違うのか、という疑問も生まれる。

そういう視点にしてみると、体の構造

という処にも原因がありそうで、これも

辿ればキリがなくなる。

だから、原因は僕らが任意で決め

なければ、原因は何も決まらないと

わかる。決まらなければ、決めない

限り原因は存在しないし、何かの結果

から考えて、そこを直接の原因とする

場合に、その原因の候補が浮かぶ。

そこから必要な原因を特定・選択する

ということなので、物事はあらゆる原因

と結果が転換しながら、あるいは原因

が結果に、または原因が次の原因に

変異しながら、流れてゆく。

その一部を範囲を限定して拾い上げる

ことが原因と結果を決めることだ。なに

を問題とするかは僕らの個々の問題で

選択だ。初めから決定している原因

も結果もないということだ。

これは今までの概念の欠点のくり返し

の話だ。知の欠点は概念で現実を

捉える道具でありながら、概念を現実

とすり替えしてしまう脳の誤解を止めら

れないことだ。

つまり、原因も結果も概念である限り、

現実では限定的に扱うべきである

ことだ。でないと、問題の答えに誤解

という冤罪が増えてしまう。頭が切り

替わるまでは、慎重に扱わねばなら

ない。


現実を扱うのは生活でいつものこと

だが、物事は原因と結果でつなぎ

あってできているのではない、無常な

流れがあるのみで、そういう風に感じて

いるなら、それこそが錯覚だということ。

それでは錯覚の世界をいつのまにか

作り上げ、その中で暮らしてゆくことに

なる。大勢の人がそういう夢に囚われ

ている。原因結果論ーその夢は幻想

の類だ。


僕らはいろいろな夢を見ている。考え

は重要だ。その考えがないと、そういう

ようには行動しないという鍵を握って

いることが多い。逆に言えば、考えに

よって行動するパターンが多いという

ことで、何をどう考えているかは、その

本質が概念のみでしか知らない場合

は、経験を加味する必要があるが、

考えが正しければ行動も正しいと

思いがちだ。勘違いは現実と衝突

してからわかる。重要なことはそれ

では遅い時もある。そして、それを

恐れていてはなにも行動できない

ことも確かなことだ。

ある程度の知識や経験は30代まで

で済ませるのが理想かもしれない。

読書と旅行はいいだろう。あとは

あなたが実際に降りかかってくる

問題を自力で解くことだ。それは

問題に対して正しく問うことに大半

がある。正直になる時期が必要になる。

それは学校を卒業しても実社会では

用意されていない。

現実はいつも理不尽で、解決不能に

見える問題ばかりが起こるように

見える。僕らは現実の社会で働く歯車

になりながらも、どこかで、あるいは

どこからか自分の時間をもって、自分

の問題に対決する場面を作らなくては

ならない。

問題は複雑多岐にわたるように見えるし、

僕らが対決して受け止めない限り、ことは

先送りになるだけで、問題は古いゴミの

ように心の底にたまり続ける。体にも

アレルギー物質がたまる食環境の構造

では心身で僕らはストレス発散にも疲れて、

うつ症状を起こすしかなくなる。それも

自分を見直す好機かもしれない。そうで

ないと、そうでもならなければ、僕らは

何もしないかも知れないし、 ・・・・。



自分は何が得意か、何に向いてると

思うか、そういうことは重要だ。大切な

ことでそれを伸ばすにしても、褒められて

伸びる子と、叱られて伸びる子がいる。

そういう違いについては、それぞれの

人がそれぞれの自分を問題にして問う

しかないだろう。それはもう学問では

ない。学問は概念頭に改造される恐れ

がある。しかも、それに気づけない。

西洋と東洋の、またその他の地理的

環境も関係する。そんなもののすべて

を案内するのは無理な話だ。

概念は人間の体を外科的に眺める

ことだ。内科的に、または東洋医学的

に眺めれば、別なものを感じなければ

ならなくなる。知情意・そして感覚・直観

の総合でことに当たれれば、これも

理想的ではある。そして、時にはそれ

さえも越えなければならない体験も

するだろう。それが人生の醍醐味だ。

本に書いていない問題が必ず来る。

答えをネットや図書館、相談で寄せ

集めてみても、容易に解決に導かれ

ない。それが醍醐味なのだが、それは

新しい事態で、誰も当たったことは

ないし、僕らが生きるというのは、そう

いうことを意味しているからだ。

わからないことを言いだしているから、

それこそ真に近づいたことなのだが、

知に興味のある人は、知を捨てて=

考えないことで、その意味に近づく

ことになる。これ以上は経験して

その経験への考えを煮詰めてみない

と、そしてその無意識的な熟考を長く

過ごしてみないと、わからない。



これは哲学ではない。今、生活して

いる世界(地理的にも、国家的にも、

想像的にも、ガーデン的にも、昆虫

的にも、宇宙的にも、概念でも)を

見ること・聴くことであり、また全体

を感じて、時には超えてしまうことで

もある。

美しい世界は知の問題を考えなくて

いいだろう。愛したい世界は心に

足りない感情を呼び起こす自分自身に

関係しているだろう。観客になりたい

心理世界は僕らの二面性を示して、

自我の弱さに関係しているだろう。

ちょっと見回しても、僕らが放って

いてそのままにしている世界は多い。

それは原因・結果の世界ではない。

原因であり、同時に結果である切れ

目のない流れを生みだすもの全体

である。

こうして説明しようとすると、説明に

ならなくなってくる世界のことである。


この処、夜明けを迎えることが多く

なった。また、朝になった。

朝は、違う。何が違うか、まだわから

ないが、ただ地上に太陽の日差しが

戻ってくるようなことではない。まだ

涼しい頃に陽が昇り、夜が終わる

その短い間になにかが起こっている。

光を迎える、そこになにかがある、

そんな感じ。

東なんてデタラメで、太陽が昇る位置

を知っている人は知っているが、角度

にして年間60度くらい違う。ともかく、

どこが真東だかわからない。僕らは

歩く時に右から足を出すか、左からか、

自宅の階段は何段あるか、確認した

ことはあるか。シャーロック・ホームズ

になる必要はないだろうが、僕らの

それほどに日常にくり返していても、

意識しない限り、ちょっとした小さな

ことには僕らは無関心。どうしてか?

それを知っても得しない、知っても

価値を利益をもたらさない。それこそ

が僕らが無知に陥っている証左なの

だ。資本主義のベタな意味に心が

べったり浸かっているだけなのだ。

僕らはある意味、漬物人間だ。

良し悪しではなく、誤解も俗信も移り

行く正解も見分けがつかない世の中

に漬かっている。それが僕らの常識

だ、という意味でもあるが、 ・・・・。





::

戦争はくり返されてきた。ロシアの悪行

は置いておくにして、ゼレンスキーの

悪行は確定されていないが、演説に

現代の危険(プロパガンダ)を感じて

いる。どちらも戦争の悪い轍を踏んで

いるのは間違いない。情報の現場に

いなければ、何も判断が下せない。

日本のお昼のTV報道のコメントを観て

いると、漫画か冗談に思えて仕方ない。

             6.23
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ああ、豈図(あにはか)らんや、中枢神経か [世界]

<5月、GW直前の記事になる>


GW、ゴールデンワーカー=黄金の働く人、

・・ ではない。(笑)

黒っぽい旅客機なみの軍用機が、300m

ほど離れた家の屋根に隠れて、それほど

低く飛んで、いずれ着陸しようとする。

米軍の厚木基地に着陸するのだ。

それは厚木にはない、名前だけだ。

何事もない、それでいて不穏な空気は

個人的なものだ。

大晦日のようなものだろう。世間は

夜通しで電車が動いていて、特別な

遠足のような楽しい雰囲気があるが、

個人的には何もない。元旦の0時が

来ても、何も起こらない。

昨日も近隣に買い物に出かけたが、

車が多い。いつもとは違い、片側車線

だけ渋滞で、その反対車線は車が

いないという有様だ。それで地元住民と

しては抜け道ばかりを選んで、渋滞に

巻き込まれずに帰ってくる。

GW,ゴールデンウィークかぁ、いつも

同じで車を利用して、遠出はしない。

車でなくても、まず出かけない。

東名も21km渋滞とか、うちのも笑って

いたが、出かけなければ笑っていられる。

僕が極度に渋滞が嫌いなので、出かけ

ないのだが、これは僕の生理作用による。

運転するのは自分なので、車で走るべき

時は適当に休憩・仮眠して、2日間ぶっ通し

で運転したこともある。まだコロナ前の4年

前?の話だ。

なので、運転している時に運転をさせない

渋滞は絶対悪なのだ。(笑)  ともかく、

そういうのは時間の無駄を感じさせて、かと

言って、読書ができるわけでなく、渋滞は

缶詰状態ではなく、監獄状態なのだ、僕に

とっては。読書にしてもDVDを観るにしても

それはそれほど楽しくなく、黙考して自由を

楽しんでいたほうがいい。運転中は何が

起こるかわからないから、それが一番でき

ない。

旅行で最も好むのはひとり旅。次に気の合う

人と少人数でする旅。楽しいのは少人数

の旅だが、その欠点を補っておつりがくる

のが一人旅だ。寂しさというのも、ふとすると

なかなか風情なのだ。それを思うと、いかに

自分が贅沢な時間の中にいるかがわかる。

寂しさがそのまましあわせになる。そして、

充実した時を過ごしていると、満足する。

移動して、留まり、留まっても2,3日だ。

調査とかなら別だが、移動してゆく、その

無常さが快い緊張を生んでくれて、飽き

させない。旅情はなにも観光の物象が

外にあるばかりではない。自分の内側に

なければ、旅はただのむなしい移動に

なってしまう。これは楽しかるべき旅が

むなしくなった離島への3年目くらいの

旅で味わった。同じ場所なのに、夢が

なくなってしまった。島の探検に行こう

という意欲がまったくなくなってしまった。

それは予兆でもあるかのように、岩場

から落ちて大けがをする羽目になった。

それは救急車を呼んでストレッチャーで

運ばれる初体験で、その楽しさがあった

のだが、夢は取り戻せなかった。

この夢には「気」が必ず付いていて、

気分を高揚とさせる。気といっても、

見えず、聴こえず、なものなのでそう

言っているだけで、ある種の感覚には

なるだろう。これは思い出してわかるが、

人間の脳に備わった適度な脳内麻薬と

呼ばれるものだと思う。これは自力で

発生させることもできるが、マラソンとか

で苦しくなると自然発生するし、日常で

微量に放出されている。これが僕らの

前提としての楽観主義になる気分要素だ。

生まれてから通常であるから、僕らは

幼少期に虐待やスパルタなどで妨害され

ない限り、楽天的な考え・気分を日常で

持つ生物だ。

神経障害者が現代では大幅に人口に

比例してだろうが、増えているので、この

楽観性が阻害されているように見える。

何度も書いたが、学校の先生はその

半分が神経科に通った経験を持つし

(精神不安定)、癌になる人は人口の

40%(古い資料で)だが、それと同じに

神経・精神科クリニックにお世話になる

人も同じように羅患するという。ロシア

の作家ドフトエフスキーもてんかんだった。

有名人で神経障害者だったと想像される

人は多い。天才がそもそも障害者のなか

の社会適合が可能な特殊な者を示すの

だから、そこに落ち着くのかもしれない。

特に最近では自閉症に積極的な診断

をする傾向で、社会との適合を持つまで

閉じこもって(ひきこもり)自分を守るの

が自閉症だという解釈がアメリカでは

広がっている。レモンの楽曲でヒットした

米津玄師は自閉症だったというから、

そこそこ信憑性はあるのだろう。



この頃はどうなのだろう、薬害といって

年寄りの入院患者に薬を大量に飲ませる

傾向が、どの病院にもあったらしいが、

下火になったのだろうか。病院の経営は

厳しいらしいから、今は薬よりも、検査、

検査なのだろう。ただ、それがどういう

検査なのか、必要を自分で決めるのは

簡単ではないだろう。

僕は健康おたくなので、「家庭の医学」の

本で調べてから医者に行く。自分である

程度の知識と見識を持たないと、医者が

何を言おうとして、何を言わないのかが

わからない。が、医学はまだ好まないので、

医学事典は読みこなせていない。

自分の持病についても、長いつきあいだが、

著名な医師とその弟子にあたる医師とに

別な時期にそれぞれの医院で診断して

もらったが、意見が異なっていた。弟子は

師匠の医師を批判するようなことを言って

いた。専門家で意見が異なるのだから、

自分で決めるしかないとなってしまう。

それでも疲労限界から発病して、入院も

したが、それは失敗だった。医者の

誤診を指摘して、自分で検査数値を

(結果としてだが)調整して7日で退院

したが、一時的だったので、またぶり返し

が何回もやってきた。

体の一時的な調整は、なぜかできるよう

になった。現在、持病での飲み続けていた

医院の薬は(勝手に)やめて、市販薬の

ものを飲み続けていた。それも今は

時々に抑えている。今は持病よりも、

体がすでに衰えて、疲労しやすい体質

になっているから、それとの調整で暮らし

てゆくのが、正解な日常だと観念して

いる、この頃だ。これを称して、ふつうに

人間をやっている、と。そう思っている。(笑)

もうできることは限られている、とは

思っていないが、そう考えた方が気楽だ。

限られれば、その範囲内でできることが

大容量になるからだ。つまり、自由になれる。

これ以外の自由のあり方への解釈は妄想

になる。突き詰めて考えてみればわかる。

僕らは限界があるから、そして、事実と

しての限界はないから、そこで自由に

なれる。若い考えは無制限の自由を想う

が、そうしたら、社会も法律も、男も女も、

理想の体型とかルックス、精力、すべて

の勝ち負けもすべてが思い通りになる。

これはうまい中華料理を毎日三度三度

食べ続けるようなもので、始めはいいが、

子供の頃から食べつけないものは、

飽きてしまい、しまいには苦痛になる。

中華料理は見たくもなくなる。それは

すべてが思い通りになるということも

同じで、その全能力にうんざりしてしまう。



女でも男でも友人でも、自分の考えるの

ではない人間を神として造るしかなくなって

しまう。それも抵抗されたりのトラブルが

あるだろうから、すぐに消してしまうだろう。

最後は銀河系と銀河系とをぶつけて、

自分も宇宙もろとも滅ぼしてしまおうと

いうのが、1年後か、百年後か、千年後

か知らないが、それくらい孤独になるの

が落ちだ。それが人間の孤独という運命

だからだ。



人間が孤独になるのは、自分が不適応

(理解できない、納得できない)を起こす

からだ。つまり、すべてが理解できて、

そのあらゆる関係への対応をそれなり

に納得して生きるのならば、孤独とは

無縁になる。そうならざるを得ない。

苦しい時はそれを少しずつ緩和して、

楽しい時はそこにはまらないように節制

して、その上で楽しみや悲しみ・苦しみ

に情緒する。それは単なる感傷ではなく、

諦めでもなく、信じられないだろうが、

喜びである。

僕らはすでに世界に在る。それは

それ自体がそういうことだと、日常

で感じることにある。

なんか、仏教の説教じみてきたな。

が、そういうことなので、法華経とかを

写し読みしたのではない。ほとんど

読んでいないし。

どうしてそんな予測ができたか、いや

できない。<=豈図(あにはか)らんや。>



::
最近、自分の言っていることがすべて

ではないのがわかってきたので、(前から

それはわかっていたが、その知っていた

部分とは異なる、それを包み込む事柄で)

自分臭さを出しづらくなってきた。僕らは

自分臭さに惚れているので、これを出さ

ないでは快感を、それが微量でも、得られ

ない。書くということも、どんな芸術もそれを

避けられず、逃れられない。それがまた、

自分と共通項のある、気が合う人間との

接点になっている。だから、僕は聖人も

神様も好きではないのだろう。尊敬する

人は多い、死んだ人でもう自分が変わら

ない、で多すぎるくらい。自分を尊敬でき

ないのは、残念でもあるが、 ・・。

利口だし、要領がいいし、時に賢くもある、

そういう人は、自分もだが、尊敬はできない。


そばに行くと、胸があたたかくジーンとなる人

がいる。それは僕にとって尊敬を越えて

しまう。

たぶん、有識な社会人や少数の犯罪者の

中にもいるに違いない。「生きざま」という。

過去の映像とかで見るだけで、まだ会った

ことはない。これが男女の場合は遺伝子

の誘惑という危険の徴候なので、誤解

のないように。



ああ、豈図らんや、僕らの世界。
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夏が来れば・世界を変える [世界]

< 夏が来れば >


夏になると、遠くへ行きたい気持ちが募る。  

そう言うが、改めて見直してみると、気持ち自体  

が遠くへ行きそうになっている。胸から手が  

伸びることがあるのなら、風や空気の間を  

縫うようにして上下に揺られながら、山へ  

向かう、そんな想像がある。   


< 世界を変える >


この世界が  この瞬間に   

崩壊してしまわないことに  

感心している  自分が    いる   

体の中では   

5%のビールの泡 が  

ジンジン 弾けている   

君は   こんな言葉で   

酔えるとは  言わないだろう   

ハイネケンというのは  ドイツっぽい  

いい名前だ   

これ以上  君に  何を   

確かめようと  言うんだろう   

ラクダの  背を 撫でるように    

世界には こんな感触が   ない   

大切なものが  なにか   

これほど  わからないもの はない

僕は  それほど  わかっていると  

そうでは   なかった   

それが  なくて   苦しんで、わかる  

気がついて  わかるものが  

あっても    

交換したくない  手に入れたものは  

そこに  あるもののように   見える   

そのために  大切なものと 言われるものが  

つまらないものに  見えてしまう   

僕らは  最後の最後まで  苦しみ抜いても   

わからない  

自分という  名前がほんとうに  価値が  

あるというものでは ないと  

気がつくまで  苦しみを  いつも   

選択する    

人を  いじめ  傷つけ  だまして  

押さえつけてしまう  

その  悲しみと  憎しみから  

力を  もらおうとする    

その場所では  暴力は  甘い味 がして   

自分を   疑えない   

君は  そこにいる   

見ようとはしないが  その後悔や   

晦渋な 気持ちが   

自分という 悪を  育てている   

それを  一瞬で 見失い   

愛が  見えなくなってしまったが   

それを  暗い情念で  穴埋めしている   

自分の 正当性を  誇りにして  


僕らは  一瞬でも  道を  

失っては  ならない   

でも  失うと  すぐに  悔悟ではなく   

暴力で  それを  補う  

誇りで カバーして  口だけの約束と  

いじめで  実証しようとする  

いじめられないために   

はじめから   その仲間を  宣言するのだ   

忸怩(じくじ)と  ともに   

どこで  道に   帰るのか   

帰れないと  思ってしまうのか  

いつでも     帰れるのだが   

なにが  足りないのか  

自分は  ほんとうに   なにがしたいか   

これほど (ほんとうに) 知りたいのを     

知らない    

悔いの世界に   沈もうとする   

飽くまでも  人から   

勇気を  もらえると   

それで  助走しても  ジャンプは  

できないのに  

気づけよ  

自分を   振り絞る   

その感触を   掴んでみろよ   

また  回り道を  している   

そんなに  自分が  怖い?  

自分を  見るのが、 ・・・・・  



一瞬で  道を失う  

いいんだ、 それでも  

百万回失ったら、  すぐに  

そこで  百万回 戻れば  

それは  一瞬で 済む   

沈んで  沈んで  後悔を深くして  

自分に  戻れないと  

言い聞かせているなら  

他人が  期待しているなんて  

思わないことだ  

そんな 自惚れは捨てて  

小食にしてみよう  それもつらい  

肉も野菜も  バランスが  必要  

どちらかが  多くても  うまくいかない  

運動と 睡眠が  うまく取れているか  

それも  改善しよう   

健康とか、  神経質に考えない  

そして、  空気を  変えよう  

体に  健全さが  戻ってきたように  

感じる時が  必ず来る  

その時には  一人になれる  

時間と空間の  旅をしても  いい  

本は いらない   

緑を  海の青を   山を  雲を  

見ることが  できるはずだ  

反省という、  自分を顧みることができるのは  

そこからだ   

ただ  見る

ただ  思い出して  多くの場面に  

気がついて   涙するようなら  

それからは  考えてもいい   

それまでは   体も  心も  暗いままで  

何も 変わらない  

それなりの  準備が  いる  

それが  自分の 人生なら   

なおさら   そうではないか  



僕は  健康ではない  

それに  一生懸命  努めたこともない  

僕は  不健康を   恐れない   

ただ  不健康が  健康を上回るのに  

気遣う   悪がないと  

健康は  楽しくない  

悪人がいないと  小説は  面白くない  

それはもう  必要悪を  超えたなにか、 だろう  

だから、やたら  悪を否定しないことだ  

健全さは  健康一直線の  ことではない   

そして、  健全さが 中心になければ  

僕らは  すべてに  流されてしまう  

気づかずに  澱みに浮かぶ  泡沫になってしまう  

いつかは  澱みも  流して  

必要に応じて  流されれば いい   

それも  そういう生活のうちに   

わかってくることだ   

自分の 規範を持ってしまうと  

そこからの意見が  すべて 正しいと  

思いがちになる  

自分の意見が  人を不快にさせ  

傷つけるのに   不感症になってしまう  

時に  わざと  そうするのとは  違う   

それに  どれだけ  気づかないか   

それが自分のことだと  気づくようになるのは  

自分も  友人も  世の人も 同じだと  

気づくのと  変わりないこと  

腹ばかり  立つのなら  

自分に  それを言ってみる、そんな    

練習が  効く かもしれない  



どうして  彼は  わからないのか、 と  

お互いに  思ってばかりでは  

なにも  進まない   

不健康の 浸食は   素速い  

人を  だましている時   君は   

君の  健康に  もう   

気づけないのかも しれない    

だまさなくても  交渉する方法は  

山と ある  

苦しいなら  どこかに  

一か所は  自分の言いたいことを  

言える場所を   作らなければ ならない   

それは人でも、 日記でも、  創作でもいい  

閉じ込めているのは  弱いのではなく   

自分も必要だと  言えないからだ  

君にとって  まず  一番必要なのは  

君自身だ    だから   

黙っていては  いけない   

どんな形でも  おかしいと思う処を  

なにかに 結びつけることだ  

気がつきたい人は  いても   

サインがないと   気がつけないものだ  

皆と 生きるのが  生活だ  

それは  主張できることなのだ  

邪悪な環境でも ないかぎり  

君は  自分を  生かさないと   

自分を だましたり、  だまされたり 

しないで   

人を だましたり、  だまされないように  

して   

それは  生きる楽しみ でもある   

そのために 経験する  苦しみ・悲しみは  

きっと  役に立つ   

余分な苦しみや  余分な悲しみは  

避けられるように なる  

それは  自分の主張という 理想の考えを  

追うことではない、  と 学ぶようになる  

ゲームで得点するのが  生きることではないと  

知るのも  そうだ  

僕らは  矛盾を  抱える運命を  持っている  

答えを  出し続けなければ ならないのも  

そのためだ  

物事を  二つの正反対に 割って   

区切ってはならない   

君が  山で  迷った時、   

帰り道を  教えてくれる  山はいない  

それは  君 次第だ  

君が  健全な 中心を  持っているなら   

動物も  君を  助けたりする  

世界は  どこかで   つながっている  

それは  君の中に  有る   



僕は  この世界の 外にある、と  

感じることが  ふと  ある  

それが  疎外感や 孤独では ない時、  

気持ちは  非常に   落ち着く   

それは  朝の 静かな喜び  

夕方の  草の  青い匂い  

夜の空気の  透明な  香り   

すべての 感覚が   

死を 陶冶して  得られたものだと  

わかるように  なった  

それは  どういうことか?  

世界の秘密も  自分という謎も   

分厚い本の  ようなもの   

算数ができるだけ、  国語ができるだけでは   

読みこなせない  

言葉を 超えてしまう  世界の感覚   

知性では  誤解してしまう  自分というグラデーション  

ぼくにも  言いたいことを  言わせてくれ   

そう、僕は  

まだ   

言いたいことを  

言っていない  

(言いたくても、言葉にならないものは)



言えないから、  ・・・   



ハイネケンも  中和したようだ  

僕は  

なんと  幸福なん だろう  

これが  伝えられないとは  ・・・  




** 

量子コンピュータが試作されたらしい。その演算速度は  

スーパーコンピュータが1万年かかる計算を数秒?数分? 

でこなしてしまう。わかるだろうか?今のネット世界は  

もうすぐ崩壊してしまうことだ。その演算速度は、つまり  

人間ではもうそのコンピュータがどう計算したかもわから  

ないし、それを確かめる時間も許されないことだと。  

こちらからの信頼の一方通行だと。検算していたら、 

僕らの寿命が間に合わないのだ。

どういう使い方ができるかを検討するとか、呑気な  

ことを言っているが、自分たちがなにをしようとして  

いるかが、まるっきり、わかっていないと言っている  

ようなものだ。君たちが迎える世界は、君たちに  

どういう準備をさせるのか?しなければならないか?  

それだけで僕は過去の世界に生きているようなもの。  

昭和の時代に安心して過ごしているようなもの。 

だから、自然にしあわせな気分になる。単純なことだ、  

しあわせなんて。

                     7.28
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