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欲望が止まらない無限システムについての一試論 [欲望]

昨日は休日だったので、なにもしないで

溜めた疲労を体に出すことで終始した。

今朝のうちは、それでだるかった。

昼も過ぎて、少し外に出る気になって、

ふと着想することがあった。それは本を

買い続けることへの疑問なのだが、

ただの強い知識欲・好奇心の発露くらい

にしか思わなかったが、無と無限について

誤解があると気づいた。

駐車場に出て、一回りする間に答え

は出ていた。そういうこともあり得そう

だ、と。


もっともっとと言って、際限のないのが欲

の特徴だと言われて、またよく耳にして

育ったが、そのシステムは解明された

とは言えない。わかりきったことならば、

僕らの欲望はもっとコントロールされて

いいはずだからだ。実際には手痛い

失敗をくり返してその経験を基にしな

ければ、僕らは我慢を実行しようとは

しない。

ひどい例としては、ある作家が肉が

好きで肉ばかりの食事を10年か、20年

か続けて、大病を患い入院して、とうとう

肉食ばかりはやめたそうで、またある

漫才師の相棒はヘビースモーカーで、

とうとう咽喉癌で声帯を切り取る手術を

する羽目に陥った。それからのリハビリで

僕らにはわからないが、家族にはわかる

程度に言葉らしき発音ができるように

なったが、強く喫煙を非難していた。

自業自得だが、自分からは止められ

なかったのだろう。

欲望にはどうして、ここでストッパーの

ようなものが働かないのか?考えて

みれば、それは疑問だろう。

単純に感情の要素は知的計算の結果

よりも行動に及ぼす影響力は強い。

もう食べ過ぎになるな、と思ってもそこに

好物なものが出てきたら、大抵、食べて

しまう。そのあと下痢をした経験があって

も、今回は大丈夫かもしれない。100%

下痢するわけではないから、自分を騙し

て食べてしまう、そんなこんな、だ。

この誘導はなにによって起こるのか、

それがゼロと∞(無限)に結びついた。

0と∞は別な抽象概念だ。それは数学

の世界の話だが、0や∞を基本にして

仮の数学体系を作ることは、多分可能

だろう。しかし、それを現実にその内容の

定義を考えると、0は心では「無」になる

だろうし、∞は「宇宙」に比較するくらいの

広大なものになるだろう。それを僕らは

想像することは現実的にできない。

物があったのに、無くなったというのは

超神秘なことだ。それは物を失くした、

だから無い、ということとは違うからだ。

有機的無機的な物象としての存在が、

まったく消失して、この宇宙から存在を

消してしまったことだ。

それは想像の外へ出てしまった。想像しよう

がない、その方法がない、ということになる。

それは無限においても同じで、終わりの

ない状態なので、どこまで行ってもという

想像自体が誤っている、考え方を誤解して

いることになる。

この時、∞を1としても、心でそれは矛盾

だと思う。言葉の∞は=無限だが、概念化

するにはどこかで区切って、名前をつける

必要がある。例えば、刃が一枚のものは

ナイフだが、二枚(組み合わせた)のもの

はハサミだというように。 

どこかで区切れるのならば、それはすでに

無限ではなくなってしまう。心はその果て

なきを知っているので、具体的に想像は

できなくても、あいまいに済ますことは

できるから、無限というのはあいまいな

もので、言葉としてでなければ、成立しない。

要は中身が決まらないことだ。それは無

でも同じことで、抽象でも「有」の中でなけ

れば、それを具体的に頭に思い浮かべる

ことはできない。

つまり、僕らの心の中で、「無」と「∞」は

似たような共通の特徴を持っていて、誰の

頭にもその全体像を結んだことはない。

有史以来、数万年も。

今もその事情は変わらない。だから、僕ら

の欲望が限界に達すると、理性ではこれ

以上は諦めるべき、結果が伴わず、無駄

に終わるから、という判断が示される。

しかし、その人がある欲望に執着して

いたり、それの生き甲斐で生きている時

には、そこで飽和してしまう。もう手段が

残されていない。それを捨てると生きら

れない、という場所に追い込まれると、

もう思考が停止、または侵蝕されてしまう。


限界というのは、そういう人に簡単に

あいまいな概念の交換をさせることが

できるし、それをするのだろう。

それが「無限・限界突破」を「無」に変換

することだ。欲望の限界は突破されると、

そのまま無限に変換され、さらに「無」へ

とあいまいな中で変身する。

似た者同士で、しかも思考は停止して、と

なれば誤解が生じるのも仕方ない。

(ここで限界突破はよく思考停止と言われ

るが、実際は思考機能は停止しない。それ

がそう見えるのは、思考の結果が行動の

規制に向かう動機を失っているからだ。

頭では、それはよくない、と考えた概念が

知識として浮かんではいるが、だから、止め

なければという動機に結びつかない。心は

限界突破の結果、無か無限の闇に放たれて

しまって、もうなにかを区別して行動に結び

つけるという足場を失ってしまっている。

だから、思考は浮遊するばかりで、いずれ

消えゆくのだ。)

僕らは飽和すると、考えもなしに、無限

(または底なしの無)に1を足す。2を足す。

それはいくつ大きな数を加えても、無限

より大きくはならない。

かくして、そこに違和感を感じることなく、

僕らはもう飽和していっぱいいっぱいの

欲望にさらに欲望を重ねて、膨らませて

いく。無限プラス、いくら足しても無限

だから、それは尽きることがない。

心と精神に重大な欠陥がなくても、睡眠欲・

食欲・性欲・運動欲・知識欲・などは生きて

ゆく上で欠かせない。心が不適応によって

欠陥が生じていると、喫煙・ギャンブル・酒・

女遊び・禁制の薬などがやめられない、

ほぼ病気、依存症となる。

僕の場合は好奇心・知識欲の一部で、

もう本を買っても読み切れないほど、溜め

込んでいるにもかかわらず、本の購入を

止めることはできない。そして、知識もそう

だが、それよりも書物という厚さ・形態・重さ

装丁というもののほうに惹かれる。なので、

読めればいい、ではなく、書き込みがある

のを大変嫌い、できれば味わいのある装丁

を好む。



理性のある人は必ずしも、すべて100%

理性的な行動をするわけではない。が、

理性的に現実的な判断をする者でも、

自我を強調させやすくなるその国や分野

のトップや権力者になると、飽和しやすく

なるので、独裁になって、権力を集中させ、

トップになっても、どこまでも管理できない、

無駄な権力でさえも手に入れようとする

だろう。

チンギスハーンやアレキサンダー大王は

精力が人並ではないので、長く続いた戦い

に部下が疲れていて、故郷に帰りたいと

思っても、まだ戦うことがしたい、戦い続け

たいという意欲は衰えない。もうその

ストッパーが壊れていたのだろう。若ければ、

それだけゲーム感覚も強いから、現実の

感覚も失っていたのだろう。

ヒトラーはそこまでの精力はなかったらしく、

気力が低下すると、そばに置いていた

主治医から興奮剤の注射を打ってもらって

いた。1945年の敗戦の頃にはそれも効か

ないほどで、精神にも悪い影響が出て、

味方のドイツ将校や将軍を解任したり、

粛清したりして、自分の墓穴を掘っていた。


自我の飽和は、自分が壊れたに等しい。

宝くじとか当たって、自滅する人は

金額がいつも使用している生活費や年収

の金額を大幅に超えてしまうと、自我が

飽和(この場合は有頂天)して、思考が

停止しているから、自分がどんな状態か、

自覚することができない。僕らも心に

富裕な金額がしっかり刻まれないで、

偶然大金でも手に入れたら、すぐに飽和

してしまうだろうから、宝くじとか買い

続けている人は、大金をいかに安全に

分散して管理するか、対策しておいた方

がいい。当たったら、すぐにぶっ飛んで

しまうから、その瞬間からの対策である。

10年、もしくは20年買い続けると、1等や

高額賞金が当たる、と確率は教えている。

時には苦しい生活でそれを継続するのも、

理性的な行為であるから、その努力を

したくなくて買う人の一獲千金狙いの心情

とは矛盾しているのかもしれない。


0と∞、それが心にどう定義できるかで

そういう欲望に巻き込まれる喜悲劇に

遭遇しなくてすむかもしれない。たぶん、

九死に一生を得た人がその不思議で

強烈なショックから、その強い動機も

得て、無とか無限に接近しようと無意識

に瞑想など始めるのだろう。もちろん、

現実にどういう状況が自分に当て嵌まる

ヴィジョンなのか、その多様性から選択

するというのもあるだろうし、その場合

そこからそのシミュレーションに接する

応用も大事だ。



心や精神は’言葉’の無常でもあり、その

宇宙でもあるから。


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