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錯綜するのは時間と罪 [罪]

時間は ないのに   

僕らは 時間の 中にいる 

Whiter Shade of pale 、そう 蒼い影 

Procol Harum 、彼らが  歌っている


灰になってしまった  僕の 人生が 

妻は  無口になった  

話し相手が  いなくなってしまったから  

心の 基底に ぴったり 寄り添う 

君が  歩いてくる、 ゆっくりと  



間違えていた、 と 急に

ハッと する  

なにもなかった かのように  

過ごしたと 思ったわけ ではなかった 

でも  君の 僕を見つめる 眼は  

悲しげで  さし迫るよ   胸が 



叫びたい 衝動が 

空へ 向けて  今にも  



悲しみから  逃れられない 

ああ  罪を感じる  人たちよ 

黒い 自分という   影 

僕らは  なぜ  それを  そう

見るのか  

コーヒーカップが  音を立てる ほどに 

心は  震える  



僕は  スキップして  今を  

未来へと  飛び越そう としたよ  

新しい 道程が  光 差し  

導いてくれる と  

甘かった   腹を たてて  

悲しみを  捨てれば  

別な 扉が   開いた  

口惜しさと  嫉妬しかない  

微妙に  妖しく 明るい  扉だった 



どうすれば よかったのか  

僕は  間違ってはいない  

だから  

君を  嫉妬して  悔しい思いは  

すぐに  

憎しみに  変わった  

歪んでいても  力は  力だ  

悲しみから  立ち上がる(?)には

これしか なかった  



ジャンプして  罪を 逃れ 

未来への道を  開いた気に なっていた  

でも  増えたのは 憎しみの時間 だった 

僕が間違ってなければ  

相手が  間違えてるのじゃないの? 

だから  相手を  憎んで  

なにが   悪いの?  

許すまじ、 叩き潰そうという

力が  ふつふつ  湧いてきた 

・・人が また そういう穴へ  落ちた 

  

悲しみよ  僕は  泣いてきました 

いくら泣いても  どこを  さ迷っても  

底知れず  悲しい  

君よ    悲しい! 

どうすれば  う う  いいんだ  



幾 千年と 続く  そのメロディ  

僕は  その時間のなかに  

二年と 少し   入っていたらしい

どうして  逃げなかったのか 

わからない  

なにも  感じようとしなかった かのように  

続いた、 無為な 日々     枯れ葉を

握ると  粉々になる ように 

空気が  カラカラと  固まっていた

あの 日々  

  

ジャンゴォー! 

泣くなんて  なんの役にも 立たない  

沙漠の 心に  流す 涙も  

なかった  

二年と、  なにも 覚えていない!  

「 もういい、  君が  生きていれば  

この同じ地上に  いれば!  

それだけで! 」 

そんな 慰めも  役に立たず  

むなしく  心は  枯れ続けた  

続けた!  

続けた!

続けた 。 。  



気がつかなかったが  

僕は  時間と  闘っていた  

幾千年とを  相手に  

取り戻せない という  時間を  

呪わずに  

その 理不尽を  認めは しなかった  

なにか  なにか   この悲しみを  

抑えて  元に戻すことが  

できる筈だ、と  



人を 愛すことは  悪いことではないはず 

それで  この悲しみは  なんなのか  

愛したい  

人を   君を  

愛したい   

君に  (ああ) 逢いたい  

ぁ ぃ た ぃ  

もう  叫びの 衝動もなく  

僕は  銅のかたまりの ように  

歩いている  



思い返せば、  遠くに

叫びたい 衝動が 

空へ 向けて  今にも  



悲しみから  逃れられない 

ああ  罪を感じる  人たちよ 

黒い 自分という   影 

僕らは  なぜ  それを  そう

見るのか  

コーヒーカップが  音を立てる ほどに 

心は  震える  



罪は ないのに   

僕らは 罪の錯覚という  

影の 中にいる 

Whiter Shade of Pale 、そう 蒼い影 

Procol Harum 、彼らが  歌っている





:: 解題風に  

「蒼い影」はいい曲だ。<10代の中ごろに

出会ったが、71歳になる今年、まだ聴いて

いる、>という感想が Youtube にあったが、 

50年以上か、すごいな。

なるほど僕と同じ感想だな、と頷く。 

善と悪というテーマで書くつもりのものが

あったが、その一部をここで載せるのが

相応しいので、書こうと思う。 

善と悪は感情の問題で、対立した概念を

問題としたのではないのだが、それは

置いておいて、今、年に数回だけ訪れる

音楽の日々に突入したらしい。

その日々になると、音楽の虜になって

一日中でも音楽を聴いて過ごすことが 

できる。普段は音楽は気分次第で、

気分が乗るのは1日くらいで、あとは

気にならないくらい、聴こうとしない。

今は、昨日聴いた日本ポップスが頭に

残り、ことある毎に演奏をするのだから、

たまらない。考えることより、聴いている

ほうに傾いてしまっているのだから、本物

だ。 

時間と罪だが、罪に関してその感情問題

を取り上げよう。

愛の対立概念は憎悪だというのが、

通説だろうが、僕は異なる見解だ。

愛には愛の対立する様相があり、憎悪

にはその対立の様相がある。それが

対立の概念枠に概念として置かれている

だけで、例えば、クジラは魚に見えるが、

動物だというのが科学的見解だ、という

に似ている。

愛と悲しみは本来、同じものである。水

と氷のように。僕らの知は不条理な現実、

理不尽な環境・事件を前にして、深い

絶望に襲われる。それはこれからどう

対応していいかわからないことから、不安に、

そこから適応できないと思い込んで(考え)、

壁を前にしたように悲しむ。それは自分

という知で解決できないというのが答えだと

思うからで、知は知によって’知ではないもの’

を解決できない。自分は悲しむ自分を「悲し

まなければいい」という正しい答えで解決

できないのと同じ。この時に時間が自意識

と共に現れるので、僕らは自覚と共に自分

を意識できるので、時間も自分と共に存在

していると感じる。 

実際は自分と共にでないと、時間はない。

我を忘れて楽しかったり、気絶したりすると、

我(自分)を失うので、時間の経過がなく

なったり、短く感じる(途切れ途切れに我に

返っている)。

この不適応の問題は自分の不手際とか失敗、

となって僕らは自分に責任を負わせる。 

責任を果たせない、間違えたので、それが

感情的に罪の意識を形成する。それは

自覚しないが、内面では顕著なので、感情が

悲しみとして反応するのだ。心で泣いてしまう。 

そのままだと、多くの人が自分自身の「体(てい)

たらく」(ネガティブ)な姿を見たくないので、

その悲しみを忘れようとして、愛から憎しみの

側に心を移す。憎しみは相手に罪を着せよう

とする行為がプライドを盾に発生させる感情

行動である。また、虐待などで痛みを経験した

ことが、憎しみを無意識に反応・反映させる。


憎悪の対立感情は始め嫉妬になる。これも

お互いに水と氷のように同根・同質である。

悲しみはまだ乾ききらないと、相手を許す

働きが憎しみに一気に突っ走るのを防いで

いる。しかし、それは長く続かないので、

やがて明るい・浅い憎しみ=嫉妬から、

暗い・深い憎しみ=憎悪に代わる。


僕は正しい道筋で悲しみを消化するまで、

死人のようになりながら、その時を待った。

と言っても何が起こるのか知らなかったし、

それはいつも起こるとは言えないだろう。

僕が信じてはいても。(それが二年と少し

の月日だった)それでもそれは姿を現した

のかもしれないが、愛の片鱗・序章に過ぎ

なかった。 

憎しみは相手が存在している間は、力が

湧くが、その憎しみの理由や相手が消えて

しまうと、その間の緊張の負担が体をすぐに

蝕みはじめる。

ストーカーは相手につきまとう自分の心理を

愛だと誤解する。それは相手を自分が死んでも

支配したいという、自分のものにしたいという

自己所有を拒否された反発で、憎しみの結果

の行動である。愛は初めから相手のしあわせ 

しか見えないので、自分から離れていくことが

多い、たとえお互いに好きだとしても。

リベンジはスポーツだと、負けた次の、来年とか、

試合に強い力を発揮して優勝したりと、役に

たつが、一般にリベンジや復讐は結果を見て

しまうと、心身を蝕む作用があるので、注意

はもとより、気持ちに流されるだけではない、

その覚悟が第一だ。 

ユーモアで余裕をもってかかってほしいのが

お勧めだが、気持ち的に矛盾するので、

無理だろう。 


悲しみは自分に向かって前を向き続けるから、

つらいのだ。誠実や努力は、目標や正しさを

目指すという姿勢、それだけでは解決策には

なり得ない。

僕らは絶望した自分を見て、なにを信じれば

いいのか。この時の信じることは宗教入信

とかを意味しない。

信じるものがないから、真に自分ではないもの

を信じることができる、と言ったら驚くかもしれ

ない。ここからは信仰や神を設定する僕らの

心という問題、そこから絶望は自らが生む

ものだという過程を通して、僕らがいかに

誤解や錯覚を生みださざるを得ない境遇

に話が進むが、今は余白としておく。

まとめとしては「愛と悲しみのグループと、

嫉妬と憎しみのグループは別のもので、

その本質同士は無関係だ。」ということで。


・・・・・・・・・・、


でも  君の 僕を見つめる 眼は  

悲しげで  さし迫るよ   胸が 


叫びたい 衝動が 

空へ 向けて  今にも 




3.. 25 、 4. 1 ・・ 2days
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