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恐怖の克服は知らぬ間に [克服]

どこかに誰かがいるとして、それは失った 

人なのか、否定しようとした神なのか、 

見知らぬ自分という無意識なのか、僕は 

今晩、反省を迫られた。それは謎として

そのままだろうけれど、僕らが無限の 

可能性を秘めていて、その一部が開花 

して特殊な能力を示すのならば、そして、

それが今も人生の指針として健気に 

働いているのならば、僕らはその反作用 

という実力以上の影響を被らなければ  

ならないし、そういうようにできているだろう。 

僕はその力を行使してきた。そういう状況 

証拠はいくらでもあるし、自分でしか証明 

出来ないから、それは小出しにならざるを 

得ない。個人の感想を越える言い方もできる 

し、してきたが、くり返せば、やはり、信憑性 

に欠けてくるからだ。

自分で信じるものを信じきれないと感じる 

この頃であってみれば猶更だろう。 そういう

ものを信じるのは決して自分で捨てはしない 

だろう、が、それの具体的な正体や構造と 

いうものは明らかではない。だからといって

それがない、とはまず言えない、そう感じ、 

そう思っているからだ。

パスカルは神を信じないよりは、信じたほうが

得が断然多い、だから、神を信じるに賭けない

ことは自ら損することだと、確率の数理論を

提唱した天才らしい発想をしていて、僕は 

それを軽薄な精神として無視していた。 

しかし、自分以上の存在、人間以上の存在は

ちょうど自分が人間だとインプットされた

コンピュータが、(コンピュータを作り、その

中心の基準を“人間”と記録した)人間に

ついて考えるようなものだろう。自分が人間

だと思っているコンピュータを僕らは軽視

するだろう。彼らに人間がわかりっこない、

と。

神は人間以上と規定される。だから、僕ら

がそれを脳や心で考える以上、僕らを軽視

できる存在と定義するはずだ。そうしないと

神についての話は始まらない。すると、僕ら

は神を規定できないという矛盾にぶつかる。 

コンピュータが人間を理解しえないと僕らが

思う以上、僕ら人間は神を理解しえないと

いう命題になってしまうのは必然だ。 

僕ら人間は理屈で無限の可能性から、

思ったことを実現できる可能性を秘めて

いるとは言え、またそれを実行してきている

とはいえ、存在している神を想定した時点 

でもうそれについての思考はすべて無駄に 

終わるのが宿命だと、僕は昔考えて、僕は

神を想定したいろいろな場合についての

「誤解された神」について否定しようとして 

きた。

しかし、旧約聖書の神についてその存在に 

ついて考え始めて、その彼のなかに実際の

想定を超えた神の性格をそのまま一部に 

しても継承してしまったようだ。それで矛盾 

が生じてしまった。僕の考えることを神は

前もって知っているはずだ、という命題を

克服できなかったことだ。この細かいが、

誤解をしたままではいつまで経っても、神 

の全知全能の亡霊に悩まされ続けること 

になる。それに、今晩、遅ればせながら

気づいた、というわけだ。 

僕らの知と心が想定する人間以上のもの

を想定することは、必ず、人間には理解 

できないに違いない、という答えを導く。 

そこには現実的な僕らのための答えは 

まったく期待できないし、感覚的に実感する 

ことが不可能だから、たとえ十分な正解を

見ても聞いても、僕らはそれがなんなのか、

さっぱりわからない。 

僕はそれをいかにして克服するか、という 

まともではない無駄な努力をしていた。 

知の考えだした神は怖くない。理解できる 

からだ、理解できない力をもつ概念存在 

として。ところがそれを旧約の神にも認めて

いたら、特に人の思考を読むということを

認めていたら、僕らは身動きができない。

それを考えようとしたのは、僕は無意識を 

利用できるのでは、と僕の環境からそう 

思ったのだ。無意識に考えさせれば、僕の

自意識にはわからず、考えを進められる、 

と、そうすれば僕の本心は彼にも読めない

だろう、と考えたのだ。よしんば?無意識に

交流があっただけに陥った、自分自身に

よる自分への精神的な罠だった。

そこには自分の意思が曲げられてしまうと

いう恐怖が底にある。それは恐れる必要の 

ない無駄な工作・工夫というものだったろう。

旧約の彼が人間の心が読めないのは、 

まさに旧約聖書に書いてあることだった。 

だから、人間にこれでもかの試練を与えた 

のではなかったか。なぜこんな簡単なこと 

に気づかなかったのか。(まともに向き合わ 

ないと、簡単な目の前のことが気づけない)

それでこれまでは僕が恐れるとおりに、僕を

阻止するためにいろいろな制限・制止条項を

僕に与えるだろう、という自分の考えのとおり 

に僕は自分で自分を制止してきたらしい。 

島では命の危険に及ぶ事故をする隙さえ

与えてしまった。



さて、これを取っ払おう。  



どうもこれまで旧約聖書の神という存在が

僕の恐怖の対象だったらしい。らしい、という

のは自分では気づかないようにするのが、

自分の恐怖への僕らの対応だからだ。 

僕らの自分はそれをうまく隠すから。 

自己という防衛の本能から、これも自然の

摂理でもある。  

心は広い。それを出たり入ったりしていても、 

小局に囚われがちになると、大局はなかなか

見届けられないようだ。 

どうして気づけたか、というと、そう考えたのは

今なのだけれど、たぶん、ウクライナ侵攻の

ことで情勢を呼び込んでいたからだと思う。 

戦争地のなかにいると、恐怖は中和されるから。

今、自分がしあわせでいるだけでは不十分 

なのだ、という理由のわからない気分に満た 

される。何が壊され、なにを失うか、それが

現実に行われている、そして、それから心

を離す。無視さえする。彼らが泣こうが 

わめこうが、知ったことではない、と冷たい 

気持ちを呼び込む。そうすると、涙が心に

あふれる。洪水だ。濡れネズミになった

荒廃した激戦地で僕は泣いている。 

恐れていてはいけない。その悲しみが一日 

を満たす。なにができるというわけではない。

それでいいのだ。そうして自分を切り離す。 

そこまで行ったら、できることは限られる。

それを世界に伝える。 

それが昨日だった。冷静に戦況・会談の 

行方は見えていた。でも、それは僕を変え

たらしい。自分の今までの気づかなかった

究極の恐怖を観たからだ。僕らは自分で

考えて、恐怖を克服なんて、できない。 

自分に囚われている限り、僕らはなにも 

できないと考えるが、そうではない。 

具体的にどうすれば、を教えろとか、具体策

がないのに何を言ってるんだ、という意見が 

あるが、その意見がもうおかしい、ということ 

に気づくのが最初だろう。君はなにを経験 

していないのか?そうすればわかる、という 

のは、いつも後からやってくる。経験の 

自然に湧き出す反省から。考えるのは

それからだ。反省をまとめて、そうすれば

次になにをすべきかが、考えられる。 

ただ頭の教科書・教養になっている他人様

の意見をあちこち組みあわせるんじゃなくて、

自分で考えられる。 

そうすると、自分の言葉が新しくなる。それで 

わかる。新しく言葉を紡ぎだしている、と自分

でも感じる。それが第一歩を踏み出したこと。

そのうちに新しいものに挑戦してみたくなる。 



僕はまだ、止まらないようだ。ほんとうに今 

自分が前を向いている、と感じるのはこう

いう時だ。




:::
これは先月、3月1日に書かれた。

今、4月13日。書かれた2週間前後の後

には、旧約の神が人間を痛めつけた動機に

ついては気がついていた。人間の考えが

わからないからかもしれないし、またわかって

いたとしても、同じように試練として人間を

痛めつけただろう。

それはたぶん、人間から愛を生むためだと

想像するが、その検証はまだできていない。

するまでにはまだ時間が必要なので、先走り

してその考えがあったことだけをメモして

置きたかったので、ここに書いた。

愛というのは西洋的なもので、その重要さが

わかりながら、使うとなにか違和感を感じて

いるものだった。僕が日本人で、仏教や儒教の

影響を受けているためだろう。仏教も儒教も

正しく受け継がれた事例は局部的で、むしろ

中国にも朝鮮半島にも肌合いが悪かったようだ。

景教として日本に入ってきたキリスト教は、

宣教師も日本人の奴隷を確保するのが目当て

だった節もある。

それでも神を日ノ本の太陽神になぞらえて

(謂わば聖書を脚色して)愛の布教には成功

し始めていたのだから、それは僕らの心の

中心を捉えるものを備えていた。歴史は紐

解かれていない。
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