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帰りたくない自分へ、は自分を蹴飛ばすこと [自分]

<これは人生と出会う8日前の晩に

書かれたもの>「地球は人生の一部

でしかない」参照。



言葉でそれを同定させたい、それが

すべきことだと、思っていた。

わからないままにそれを表現する

とは、どういうことか。

それだけでも答えを出せるのなら、

“なにかなし得たのではないか”、と。

そう、その時はまだなにかをなし得る

ことが大事だと考えていた。まさか、

なにもなし得ないとは、人は考えたく

ないものだ。

こうして書いてゆくだけで、なにかを

それなりに主張してゆく思いの成就が

ある。この動きに囚われているのだが、

これを意識するのは、自己撞着(自己

矛盾)を起こすことなので、無駄な動き

に終わると考えていた、それで考えて

はこなかった。

だから、それを考えてみようという

のも、当たり前でつまらない。

そこから飛び立ちたいと思うと、

自由という切符を買いたいと思う。

ところが、こういう日は自由の

切符は手に入らないものなのだ。

流れに乗って、どこへでも行って

いいという気分にならないといけ

ない。それにはむしゃくしゃした

動機があるのがいいようなのだが、

整えた心はつまらない。その滑らか

な油一滴がこぼれてこない。

こうであっても、いつものように

こうしてなにかを思いつくのを待っ

ているのではない。おお、なんと

明るいのか。 開こう、 心を。


どんな共感、詩興、愉快が来ても

それに掴まらないぞ。


詩が書けるからって、それを書くの

は書かされてる気分がするじゃないか。

やめよう、偶然の流れに乗るのは。

それでどうにもならなくても、かまわ

ないってものさ。

もう古臭くなった、腐臭さえし始めた

んじゃない?と思えるような僕らの

ストーリーに乗るのは、当然のように

嫌になったさ。

そこで、まとまるなよ。

そこで止まって、皆、店を開いている

けど、それってどうなの?

落ち着きたいし、君は“ナニカになった

な”、と言われるのも誇らしいのも、わか

るさ。でも、それはそれだ。

趣味が違う。好きな色じゃないくらいの

意味だ。

また歩き出すさ。

そう、

そうだと思う。


恰好いい、と言われたくないために

不精を隠したくない。人にやさしさを

施して、気配りの人と呼ばれたくない。

それじゃだめだ、と言われる人間に

憧れていないが、いい人間よりは

面白そうに見える。なかなかダメに

なることができないからだ。こんな

プライドの砂糖菓子のかけらでも

齧っていたいのだろう。

でも、そんなことを追及すると、批判

という感じになってしまうから、やめて

しまおう。

オオ! ワン、ツー、・・ドラマー 

どこかに流れるものだな、

言葉も

人生も。


腹が、急に、減る。

卵料理の映像を想像してしまった

からだろう。

熱いフライパンの上で、たまらない。

(食パンにスクランブルエッグを載せ

て、食べる。うまい)



平常心とか、私心をなくすとか。

言ってる。心を開くのと、平常心と

どう違うのか。そんな違いに目が行く?

どうでもいいんじゃない? それ。

自分を信じる、愛を信じる、とか。

どうでもいいんじゃない? それって。

自分に責任負えなくて、焼けで

無謀にやんちゃ行動するって、それ

は自分を信じること? 違うよな。


自分をわかる者なら、自分が何者で

どんな人間かはどうでもいい。それは

信じられない対象だからだ。そこでは

ともかくも自らの心の状態もどうでも

いい。これから何をするにせよ、この

心を持った体がするのを、間違いなく

下支えするだけだ。

愛を信じるというのは、寝ぼけている。

愛は僕らがそれを愛だと評価する「もの」

でも「こと」でもない。電気の明かりを

点ける、という変な言い方くらいに

ぼけている。

君のために死ねるも同じ。そういう

自分のことがどうでもいいというのが

無意識な前提にある。そこから行動

することで、評価ではなく、行動で

測る。くり返すが、私は君を愛して

いるよね、と確認のために言って

いるようにも聞こえてしまう。「僕は

君を愛しているから、君のために

死ねるよね?大丈夫だよね?ね?ね?」

バカみたいだ。



そういう行動をすれば、それがわかる。

愛とか自分とか、信じるとかの言葉は

必要ない。ドラマではお芝居だから、

強引に表向きにするために、言葉で

説明する形で言わせる。

あるのはそれをした?しなかった?

その前には何も現れていない。その

後には言葉は現れなくなる。

これは他のことで日常に誰もが経験

している。しかし、内容の性質から

そのボリュームは受け取る人の容量・

腹次第だ。それでもその芯は確実に

わかる。



どうして人は生死を顧みずに何かの

ために危険に飛び込めるのか?そう

じゃない。信じるも愛するも。同じ

意味しかない。言葉の意味は無意味で

それは行動を指しているから。

人がそのために行動できるのは、そこ

には行動しかない、動くものしかない

からだ。動けばそれはなにかをなしつつ

ある過程の運動だ。だから、生か死では

なく、生死を超えた運動だけがある。



生きることは、どう生きるというのは

後天的な選択肢で、すでに生きている

という事実がある。それはすでに信じ

ている=生きていることを示している。

僕らは生きる意味を問う前から、すで

に生きていることで、生を信じている

事実を証明している。

だからと言って、わけもなく死ぬのは

人生に負けたことだとか、批判しない

ことだ。若さとは馬鹿さでもある。

馬鹿は深い事情も知らないうちに死に

たがる。胃痙攣くらいで、癌の末期の

症状だくらいに思う。それも経験不足

で仕方ない。死ぬ奴は死なせとけ。

目の前の不思議さ・美しさが見えない。

そして、見えないわけも誰もが教えない。

見えない者ばかりだからだ。

ここにある。

なにが?と皆が考える。名前とか性質

とか知ろうとする。

考えないでもここに物があるという

不思議がある、それがわからない

からだ。見ることも長い間に忘れられ

てしまった。そのうち評論の神様と

呼ばれた小林秀雄が、絵画を30分も

眺めている、という話は笑い話に

なるのだろう。だから、絵画を眺め

るのも平常心だということも、わから

なくなってしまった。私心をなくして

見るのも同じだ。映画のストーリーや

感情移入をして同情したい・されたい

だけで、どこにも平常心などなく、

捨ててかかっている。

僕らはここまでなにをして来たの

だろう。多くの文明と便利さ、考え方

と文化、それは衣食住の充実。

生活は文明文化で足りているように

さえ思える。

だが、まだゆかしき精神遺産は残って

いる。伝統や文芸は空の殻だが、それ

を突き通すと見えてくるものがある

のではないか。



:::

あまのじゃくは皆が捨ててきたものを

拾って集めるものだ。アフリカの子供

は貧困のため、ゴミ捨て場でそれをして

いるが、エイズの注射針に指を刺して、

病気になったりする。

あまのじゃくで発達障害タイプで貧し

くても、現代でもまだ生きる方法が

あるはずだ。

希望?

僕はそれをよく知らない。知りたくも

ないのだろう。健全な絶望のほうが

まだ石炭くらいには燃えてくれそうだ。


               2.3

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kiyokiyo

ようしゅうさん
おはようございます。
今年も梅雨に入りましたね。
実は、当分の間ブログをお休みしようと思います。
また、復帰しましたらよろしくお願いいたしますm(__)m
by kiyokiyo (2023-06-11 07:23) 

ようしゅう

kiyokiyoさんへ 

体調がすぐれないとかでないといいのですが、・・。
また復帰する日を待っています。報告、ありがとうございます。
by ようしゅう (2023-06-11 23:30) 

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