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心の掃除と楽しみ [日記・思考]

深夜はとくに冷えるようだ。

徒然なるままにの心境がますます

深まるように冷えゆく気がする。

雪が降ったかのように、空気が

シンとしている。

その中には孤独ということが

よく当て嵌まっている気がするが、

残念なことに一般の孤独にはなれ

ない。人との隔絶感、社会との疎遠、

家族との断絶、友人・恋人との些細

なトラブルの遮蔽感、そんなつらさ

をいうのだろうが、それは自分との

不適応によって起こっている。自分

が外の世界に対して起こしている

もので、本人は自分が責められて

いる気がしているが、村八分にし

ても本人が村の掟を破った罰だろ

うに。

僕らは常にお互いに理解し合って

いるが、期待と効果、またその需要

(要望)と供給(褒美)は釣り合っ

ているのではない。期待の割に効果

が得られないのは、期待が強いほど

には的を得ていない営業や誘いである

のだろう。強さも大きさもそれぞれ

の知識や価値観・そのものへの基準が

異なっていて、うまく嚙み合ってい

ない。理解しやすいのは、その点に

ついてのお互いの気持ちの表れであ

って、さすればさらに交渉なり検討

なりが必要になる。

気持ちだけではダメというのは、

気持ちが必要だが、十分ではないと

言っている。細かく言うと、大きな

カテゴリーで何を理解していないか

はお互いに分かるものだ。

そうではなく、その中でなにをどの

程度理解しているか、どの部分の理解

が足りているか足りていないか、それ

を自分と相手との差で見分けること

が必要になる。

そういうことだから、その場の人間

関係というのは半無限大にそれぞれ

の人ごとに異なっている。そこで

お互いに理解不足なのが出発点だ

から、はじめからこれはわかっている

だろうと相手に期待するのは、実は

無理なことに入る。

そこで礼儀を弁えて余計な摩擦を

起こさずに、話し始めるのが第一段階

ということになる。

いつもいい加減な会話で済ませること

ができるから、大切なことを伝えたり、

理解が必要だったりすると、そこも

いい加減に済まそうという癖が出る。

言ったじゃない(私の意味で)、言っ

てることが違うじゃない(あなたの

意味では)というすれ違いも起きる。

そうそう大切なことはないので、

普段通りの習慣でいい加減なお喋り

流に話してしまうのが、誤解の基に

なっている。

だから、大抵の人は手紙を書くのは

嫌がるものだ。時間がかかる。字に

すると意味が決定されやすいから、

いい加減に書けない。メールでも

挨拶や連絡ぐらいで、大切な内容は

手紙と同じで伝えにくいだろう。


僕らには「話せばわかる」という

言葉があるが、それはまず相手が

聞く耳を持っているかが重要だ。

そういういろいろな事情で、お互い

というものは誤解しやすいのが、

現実の現状というものだ。そこで

当たり前に常識での理解を前提に

して相手に期待することが、まず

期待できないことを知ることだろう。

ここで言うと、僕らの常識はあなた

たちの常識ではないし、微妙にも

大きくも食い違っているかもしれない。

私の言葉はあなたの理解している

言葉ではないのが、まず前提に検討

を加えて考えねばならないことだと

思える。


だから、僕にとって人はいつもそこ

にいる。いても理解には程遠い。

挨拶して、差し障りのない会話で

笑えばそれでいい。理解し合えない

ことで、寂しさを感じる必要はない

のだ。テーマが複雑で重要になった

時に慎重さが要るだろう。

その気持ちの分け方ができていれば、

あとは理解の不足をどう埋めるか

だけで、じっと状況を見て、考えず、

何が起きていたかを見て取るだけで

いいだろう。

もう解決の方向に進んでいるのだから、

孤独にはなりようがない。


しかし、孤独感がないにせよ、まだ

嫌なことは残っている。退屈という

やつだ。楽しいことを探すのは、スト

レスからだろう。そのストレスを見つ

けるまでは楽しさに惹かれる。落ち

着かない。食べたり、飲んだり、

トイレに行かなくていいか、などと

余分な用事を作り出そうとする。

いい加減な処で妥協することも多い

が、それは先延ばしにしただけな

ので、いずれ片づけなければならな

い。これは何をしているのか。どん

な意味があるのか。


心の掃除である。そういう小さなごみ

を心に残して増やしても、見えないが

確実にものごとは見えにくくなる、と

僕はそう見ている。フロントガラスを

磨くようなものだ。視界が悪ければ

事故も起きる。理解力も鈍る。

見たくないものもよく見て見切って、

そこを見ないように塞ぐこともない。

車ならわかりやすいが、心は見えない

から掃除は怠りやすい。

自分の内に腐ったもの、臭いものを

見切らないうちは、他人や社会を非難

するのはた易い。それらはわかれば、

自分への非難に変わって、自己嫌悪に

なって戻って来る。

自己嫌悪するほど自分を見切って、

それを正しく認めれば、やがて自分

をも人を好きになるように好きになる。

これはわがままな自分を甘やかして

好きだというのではない。

だから、自分を理解した分だけ、人を

理解できるのだということも、あな

がち間違いではない気がする。


こうして夜長に書いていると、あっ

という間に1時間も2時間も過ぎて

いる。退屈させないために書いて

いるのかもしれないな。

ともかく書いていて、途中で何を

書いてこうなったのかが、わから

なくなる時がある。

ともかく書いてしまって、あとで

読み返してなにを書いたのか、

半ば反芻してみよう。

で、

― また楽しからずや。

室町時代であっても、夜の空気に

「室町時代何年目」とか書いては

いなかっただろう。今夜は、しかし、

そんな室町の夜と同じなのかもしれ

ない。たまには室町の空気を嗅いだ

ほうがいいのではないか。

で、

― また楽しからずや。




         1.30 少し 2.4
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快い世界の真理リズム [真理]

長いので、目次:息切れしたら、

           休憩を。


1.快くない真理リズム

2.わからないことの永遠性

3.快い真理リズム


1.快くない真理リズム


思い返せば、なにも書くことがない

と言って、その理由を反発的な自分

を鼓舞するのが目的だと言って来た。

何もないと言えば、そんなことはない

と反応する自分がいる。その自分を立ち

上がらして反発の勢いで書くのが狙いだ、

という意味合い。

それはある程度、当たっているが、

ここまで長い時間が経ってみると、

ほぼほんとうに書くことがないのは、

他方、無の内容からしてそのままの

事実だった。

この世に書くべきことがあるとは

思えなくなったのは、偶然や最近の

ことではない。この世という、地球

や動植物・人間社会という世界には

避けようもなく、逆らえないような

仕掛けがあり、そのシステムには

当然な目的がある。

それは見かけの自由というもので

あり、その内容は大きなくり返しの

中に小さなくり返しがあり、それ

ぞれのくり返し(パターン)は同じ

ように見えても、同じこと(内容)

がくり返さないというルールがあり、

その全体では常に変化していって

しまうということだ。

その様相はなにかの不足に対してそれ

を充実させた場合、そのためになにか

が不足を起こして、またそのための

充実が必要になるというような例に

見られるように、常に不規則なリバ

ウンドがあって完全な解決は用意

されていない。

それどころか、その時に必要なことは

やはり、現実にしなくてはならない

ことだし、それが終わることはない

ので、このシステムも経過も不完全な

解決の連鎖も歴史を通じて継続され

ている。

それは表面で矛盾という様相を示し

て現れるので、そういう形に組まれ

ているために矛盾を解決するつもり

でも、すでにそういう行為自体が矛盾

を内在した母体(物事のあり方)に

対して行われるので、僕らは矛盾を

増やし続ける結果になってしまうの

である。

その時々の解決はほぼ絶対に必要な

ことなので、僕らはそうして部分を

解決しながら、全体ではそれを矛盾

した巨体に変えていってしまう。

そうなると、そこそこの矛盾した重大

な問題を解決しても、部分なので

全体社会からすれば周囲の矛盾した

環境やルールに押しつぶされて、埋も

れてしまう結果になるのだ。

僕らの知的文明社会が陥り続けている

社会問題はすべてがこのシステムに

よって発生して、ますます混乱を

極めるように自然に誘導されて、その

コントロールが困難を究めていく。



自然に還れという言葉が再び蒸し返さ

れるのだろうが、自然を理解する

のは自分を理解するのと同義なことが

人間にはある。       1.23 




2.わからないことの永遠性

いつも喉に引っかかったように、言おう

として言えてないこと。それはこの言葉

通りではなく、少し込み入った事情が

ある。

わからないことを、わからないままに

することで、それを現状の人の認識

ではカテゴリーに収められないもの

として、例えば近いのでは、言葉に

できない複雑な感情とか、微妙な

感覚とか、人とは違う感覚の仕方、

それは共感覚というコンプレックス

とかあるけれども、それはまだ表現

できる範疇(カテゴリー)にある

だろう。そうではない、想像を超える

次元での感覚が必要だと推測される

もの、それが今もわからず、そして

これからもわかり得ないという不可識=

わからないものの在り方だ。

例えば、無の表現は、永遠の表現は、

それは表現され得ない。しかし、

その表現された言葉で、ある程度

想像できると人は考えやすい。

確かに、まったくきちんと想像はでき

ないが、ぼんやりとしたイメージは

持つようになるだろう。それで正解

なのは、まさにそれこそがわからない

もののイメージに合っているからだ。

そうするとその感覚は記憶からも心

からも隔絶したものであるから、

そもそも伝えることが不可能なもの

に分類されてしまう。

感じたことがないものを示されても、

そういうものには誰も興味を示す

ことができない。

それをお話のように語るなら、怪物

のように恐ろしいものに出会ったのは

はっきりしているが、意識を取り戻し

た時には、その内容は何も覚えていな

いし、説明は無理なという話だ。

それでもそのわからないものは、

そうしてわからないものに分類して、

いずれわかるだろうが、まだわから

ないものとは確実に異なるわからなさ

だとしなければならないだろう。

それは宇宙がまだわからないもの

だらけだが、人が生き続ける限りは

いずれ長い時間と新しい技術と方法

で解明できるものだから、宇宙の謎

も“まだわからないもの”=いずれ

わかるもの、であり続ける。

ほんとうにわからないものは、僕ら

の心を越えて、意識の彼方にあるよ

うに思える。その感じは人それぞれ

の感性に任されるだろうが、決して

たどり着くことのないものを想像

させる。

そういうものを想定して、僕らは

せいぜい「わからないものがあること

を知る、それが真に知ることだ」、また

は無知の知が真にわかることだという

言い方を発明して何も知らなくても

それで済ます(悟りすます)だろう。

宇宙というものを何も知らなくても、

「宇宙」という言葉でそれを示した

と思えるように。



永遠性のわからないもの、それがどう

なのか、意識の広大な広がりに木霊

した反響なのか、それに過ぎないのか

どうかもわからないが、それが無意識

に引っかかるくらいは、僕らの物性の

世界にわずかながら共通したものを

備えているのは確かなことだ。そうで

なくては、それについては空想に過ぎ

ないから、誰も共感し続けた歴史を

僕らは持たなかっただろう。

僕はこう書きながらも、自分が薄氷

の上で冒険しているのじゃないか、

という無謀さを危惧しているぐらい

なのだ。数十年、それ以上をかけて

も、それを確かめたと言っていいのか

わからないほどの痕跡を見つけただけ

なのだ。そして、もちろん、それさえ

もあるなしでは確信できたとしても、

内容ではどんなものだかと追及すれば

99、7%は誤解してしまうのだろう、

それはもっと違うものなのだろうと

考え、それは確信じみてさえ感じる

のだ。

だから、これは僕の心的な、心を越えて

心を失くして、さらに存在感覚の危う

さを通して得た事実に過ぎない。

人間の体が棲めるような世界ではない、

という感触も、体の反応であって、

ほんとうはどうなのか、というのは

判断・想像を止めて、判断を控える

べきであって、それがわからないもの

への正しい態度というものだと考える。



明確なのは(と思えるのは)発展し

たり進歩することではなく、僕らが

これまでの歴史を理解したらどう

なるのだろうかということだ。そこに

泡のように浮かんだ宗教や思想、科学

による文明、社会の文化、つまりは

自然と人間について理解したらどうな

るのだろうかということだ。

政治経済の及ぶ隅々まで緻密に理解する

手間はいらないだろう。それら本質への

理解がすべてつながって、溶けあう

ものもあれば、溶けあわず織りなすもの

もあるだろう。

そういう全体が想像できるほどに僕ら

が世界を把握したのなら、どうだろう、

ということ。

これは通常の言い方ではないのが察せ

られれば、明確なのは、その理解に

立った時、世界が目の前に広がるとい

うことだ。そうしたら、あとはどうな

るか、どうするかというのは、二義的

なことになる。それが明確だいうこと

を言っている。      1.25- 26a.m.




3.快い真理リズム

それでも世界は回る、とはよく言った

ものだ。

全体で自由は窒息してしまいかねない

が、僕らの日常は僕らが適応している

限り、自由そのものだとまで言える

ほどだ。これも大局と小局では矛盾し

ているように見える形態だということ

なのかもしれない。

それでも世界は回るように、この運動

は僕らを活かし続ける力がある。そこ

には自由とか平等とか平和という矛盾

に満ちた概念はない。そういうことを

考え続ける不毛な地平ではない、生命・

性質・性格・運命傾向の活動がある。

愛はよく知られているし、最もそこ

に相応しいと思われているだろうが、

中心であるにしても、全体の核や芯で

はないようにも思える。部分にとどまる

のは愛がすべてではないからである。

例えば、水・空気・光が生物に必要

不可欠な三大要素であるなら、そうい

う意味で、愛もその一つだろう、と

いうことで、その要素すら僕らには

明らかになっていない、と思える。


それが単純な単体であるようなもの

であったら、それともうひとつの

違いが1%少しであるなら、同じもの

と見なしてしまうだろう。機械は

人間とチンパンジーの遺伝子の違いは

1%少ししかない、と数字で教える。

僕らは人間はチンパンジーではないと

信じている。数字は間違えていない

だろうが、その違う遺伝子の200くらい

の影響はそう信じさせるほどに大きい

ということだ。

宇宙の彼方でも、彼方でなくてもブラッ

クホールなどの物性や距離を機械は数字

で送って来るが、それがどこまで信じ

られるかは、僕らが科学を妄信してい

ない範囲でのみ、信じるべきだろう。

それは迂闊には信じないほうがまだ

健全な知識を保てると、僕は思う。

僕らが太陽が地球を回っていると

信じていたのは、まだ15世紀だと

したら、その盲信から700年しか

経っていない。しかし、もっとそれ

以前にその知識はあっただろうと

推測される。人々の間にそれがもた

らされたのが17世紀?くらいでそれ

まで待たねばならなかった。

1万年以上もの無知があった。

僕らの地球という頭脳に塵積もった

ゴミのかけらを取り払ったような

ものだ。だから、今の知識がどれ

だけ豊富に見えようとも、それは

取り払った塵の一部にしかならな

いだろう。

全体を鼓動しているのはそういう

知識としての概念をはるかに超えて

いるものだ。その脈々したものを

汲み取れば、そこには真理のリズム

が聴こえるはずだ、という俗なこと

しか言えない。それは夢ではないか

らだ。わからないから、宇宙の交響曲

とか鼓動とか、勝手なことが言えるが、

それはある、現実なのだ。

僕は恐れる。それを目の当たりにし

たら、卒倒するだろうことを。

ニュートンはたぶん、永遠に正しい

のだろう。僕らは真理の大海を前に

して、砂浜で無邪気に遊ぶ子供な

のだ。

こういう体たらくな言葉でしか言え

ないのは、それがあまりにも未知の

巨魁で、比較のしようがないからだ。

想像を超えるというのは、想像外な

のだ。悟りという言葉がとんでもなく、

千首観音のように全知全能に近い

様相を表すように、絶対の境地を

生みだすように空想に堕してしまう

のだ。

それはそこにある、一つの事実なのだ。

決して判断や想像を施してはならない

ものとして、ある。一瞬、それに交え

ても、それを戒めとだけにして判断を

とどめ置くことを忘れないようにする

だけだ。

このリズムは、しかし、柔らかい風に

吹かれるように、快い。

          1.26夜-27a.m. 2.1

試し書き.jpg

何を書いていいのかわからない::陽秋:画


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人生を選ぶ前から始まっているもの [人生]

時に 悲しみは  重く 

のしかかる 

別れるまで 自分の 気持ちに

気づかない


自分の夢に  囚われた 

正しさを 求めようとして 

自分の 優位さ  楽な加減に 

しかない 甘えを  求めて  

選択しようとして 


今まで  つきあったのは 

自分なのに  

目の前にしていた  彼女なのに 

結婚と  彼女との  両天秤に 

どちらかを 選ぼうとする 

誰かに 相談した  ことは 

どういうこと だったのか 


君の 抱いたその人を 

彼は 会ったことがあるのだろうか 

知っている人だった  のだろうか 

その人の意見が  

どれほど 正しく聞こえても 

その人は  彼女を知らない 

君は  言葉ではない  彼女を 

知らないのだろうか と  そう 

考えたことは? 


君の 想いは 別れには 

心が 苦しくて  胸が 

痛むことを 訴えて

自分の 楽さ加減が 優位に立つことを

誰かの  意見に  求めていない

だろうか? 



見かけの 結婚と彼女と の 

どちらかの 選択ではなくて 

自分と  彼女との生活との 

どちらかが 楽しめる生活か 

という選択 


それは  いつでも どこでも ある 

選択肢なの だろう 


君は 自分を選ぼうとして 

彼女の 中に入った 自分の心を

知らない  

そこから 考えることができない 

そこが 苦しい  痛む  

それは  何だったのか? 

今も  あるものだろう 


君がプロポーズした時 

君の中には 彼女がいた 

やめたくなった時には 結婚への

希望という 自分がいる 


なるようになる というのは 

よく言われた 言葉だが 

こういう時は よく

当てはまる 


プロポーズした後に 考え直すでは 

彼女も これ以上  話せなければ

同じように  考え直すだろう 

どうなるのか 

それは わからないことに

思えるが  

決まったように  進んでしまうのだろう

あとで  わかることだ 


悲しみが  来るのなら  

日ごとに  自分が  なにをしようとして 

なにを したのかが  

わかってくる  

傷ついたのが  自分ではないことにも 

失ったものが  なんだったのか 

日ごとに 

わかってくる  



それが  悲しみであるのは  

いくつも あるのだろう 


まるで 散らかった 衣服のように

僕が 知っているのは それが 

選択をしたことに 拠る、と

いうものではないこと  

どちらに 転ぶかというのは 

もう選択の前に 決められている 

そして  それを  拒否するには 

とてつもない  気持ちの悪いことや 

到底 出来そうもない 暴挙とも 

勇気とも言える  蛮勇を 

振るわなければ  ならないから 

僕らは  おとなしい 選択を  

する  


また どんな選択をしても 

それは 砂地獄に 足を 

入れたのなら  もう 

そこに  吸い込まれてゆく  

それは やり直しても 同じ

選択をする  というくり返し 

それは どれか選ばなければならない

時が 至ったかのようだ 


選んだ人生は ひとつで 

二人分の  人生の時間は ない 

百もの 人生を選べても 

いつ どの人生で  どんなことを 

したのか  なにを決めたのかなんて

誰も  覚えちゃいない 

そのひとつを 選んだということが  

決まっている  

どれを選んだかというのは 

微妙なことで  小さなことだと

人は  思わない 

選んだらどうなるか わかるような 

決断に  人は 迷わない 

どちらかわからないのは  はじめから 

その違いが 微妙だから 

だから  選んだものを 大事にできれば 

それは それだけのもの 

うまくいかなければ  それは 

それだけのもの  

新しい決断の 時が  きたこと  

それは 新しい事態であって  

前から知る由もなかった  

だから  うまくいかないのであって

その前の選択を 誤ったからという

のは   身勝手な 意見なのだ



もう十年もすれば 

その答えも  わかるかもしれない 

だが  それまでは  待てない  


その時  

その時の なにかを 

決めなければならない だろう


僕らの 自由というのは  

その程度の 自由を  示している 

それは 君が 自由だったら  

それが わかるから 

自由な人間は  選ばない 

選択肢に  迷わずに  

どちらでも 構わないと

知っている 

その時の 自分を 信じるしかないと

知っている 

だから  その時に 相応しいものを

自在に  選ぶのだ 


友のために  死んでも構わなければ

死ぬ選択をする だろうし 

生きなければならない 理由があるのなら

友と  別れるだろう 

自由ならば 



そういう時でも  

どういう時でも  

別れには  悲しみが  あるだろう 

好きで  選択 できるわけじゃない 

そういう 人生の選択ならば 


生きるのか  死ぬのか  

僕らは  

なにを  生かすのか 

死なすのか 


その時に  人生の 一瞬が  

訪れる  

誰も 気づくことのできない 

一瞬が  入る 


だから  

何を 選ぶか よりも  

選ぶ立場に  つらい立場に 

身を置くことが  

大事になる 




:::

説明が要るのは、結婚か彼女かの

選択、というどちらでも同じに

結婚するのではないか、ということで、

彼女の計算では彼が選んだ転職先を

全国転勤を前提にしたから。

彼女には産休でひとりで子供を育てる

覚悟があって、生活費は協力できない

というもので(なにかあっても金銭の

保護は譲らない)、彼は単身赴任の

結婚生活にメリットがなく、疑問に

感じたもの。それもプロポーズして

から迷い始めたもので結婚と彼女と

のどちらかの選択はそういった意味

でのこと。

僕は彼女に会ったこともないし、

話したこともないので、あまり僕の

彼女の意向については信じないほう

がいい、直接尋ねて自分で確かめる

ように、と言った。

僕は点数表をつくって、数字でどう

するか決めてしまう方法があると

言った。その代わり、その数字の

決定でYESかNOを決めなくては

ならない。決断の方法だから。

今、ここでそう決めるなら、教え

てもいい、細かい条件の立て方も

併せて。

そこで彼の体は震えてしまった。

彼の迷いは迷いそのものよりは

決断が恐怖だったのだ。その恐怖

は何に拠るのか、それはそのまま

彼の課題だった。その他の楽な

ことなら手伝ったが、これは彼の

人生の決断だったから、彼が自分

で決める必要がある。(彼は決断

の方法を選べなかった。1日か、

数日かまだ考える余裕が欲しいの

だろう。)



「 時に 悲しみは  重く 

  のしかかる 

  別れるまで 相手への 気持ちに

  気づかない  」


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東風吹かば、 春を忘れるな [春]

白い画面を見て、多少驚く。パソコン

の前に坐って書こうとしていたこと

を思い出したからだ。そして、その

緊張感もなく、音楽を聴きながら

書くことを忘れていたのに、気が

ついたから。

なにかふわふわして気持ちが定まら

ない、そんな感じ。

音楽を止める。

このほうがいい。なにかである必要

はない。意味もない。

檜の風呂に入ると、木の香りがして

心地いい。そういう風になにもない

空気に嵌ってしまったかのようだ。

すると、それでよい、となる。

終わる、

終わり続ける。

変化が起こるのを待つのだろう。

起こるのは期待していないから、

起こるとは思っていない。

考えを動かさなければ、このまま

だろう。

そう、前から書いてみようとして

いたのが、「火星の人類学者」だ。

長い。書いたらばの話だ。

それでもう、その気を失くしている。

不精になったというが、そんな気は

ない。もともと不精だからだ。

だが、書くことは楽しかったから、

不精は消えて、言葉にならないもの

言葉にしにくいものへの挑戦のよう

に挑んでいったのだが、そういう

楽しみがうすれた。

なぜだろう。

少し、混乱したままだからだろう。

物の世界は感性という感覚を突き通す

ような世界で、今までは言葉で整え、

表現主体の精神の世界を相手にして

いたからだろうか。そんな気もする。


絵画はその中間の性質があり、精神の

要素も強いし、感覚が中心の世界でも

ある。しかし、陶芸というモノづくり

の世界に入ろうとして、入ったと思った

地点で戸惑っているようだ。

ものがやって来た、得も言われぬ体験が

あったのでそれを疑えなかったが、その

あとがいけない。粘土をいじりながら、

それは自然に出て来るものだろう、と

思っていたら、最近は全然でてこない。

五里霧中という熟語があるが、そのよう

で一向に拉致が明かない。

何も考えずに昨日、教室に出て作りかけ

の壺を完成させたのだが、口に装飾を

凝らしてアクセントを加えるつもりだ

った。三つくらいのアイディアをイメ

ージしてこれだという感覚を捉えよう

としたのだが、ダメだった。そのアク

セント自体が失敗だと感じられる。

それで諦めて、口を細めるだけに

したのだ。

完成前壺.jpg

これが形だけの完成前・直前の姿。

白磁花器1.jpg

::シリーズやきもの入門「はじめての
   磁器作り」から:


図書館で以前に借りた本をまた借りて

きたのだが、開いて驚いたのが、同じ

形の白磁器だった。この写真はすっかり

忘れていた。見たかもしれない。

たぶん、見た。それでこれはいい、と

思ったのだろう。それが焼き付いて、

覚えてもいないこの丸い胴体に四角い

首の壺を作ることになってしまった

のだ。

まず最初から、ーこの作品を作る際に

壺を作ることにした。初めから、

胴体は球に決まっていた。そこから

の首は決まっていなかった。

次の回の教室で首を四角に決めた。

そこから口になにか装飾を施す

ことを考えた。いつくかアイディアが

あったが、実際に粘土を見ていると、

どれも合わないように感じた。

それでやめた、という少し紆余曲折

があって、この壺の最終形を決めた

のに、本の写真に同じ体形の壺を見て、

これが作りたかった(と以前から

無意識に思っていた)、それで悩んだ

末にこの写真の形に辿り着いたのだ

という気がした。

迷ったのは、作る形が決まっていて

それにたどり着く必要があったから

だ、と思い、そして思わせられた

という気もした。

どうも物の世界に食い入るには、

迷いがあり、そこらを十分に見極め

て準備しなければ、この’もの’への

感性を失うのではないかと。

濱田庄司の作品を見て、興奮して

いた、つい最近の昨年11月頃の

あの熱がない。あの熱とともに

ものへの貫徹した直感があった、

そう反省させられた。


どういう生き方をするかというのは

それほどに微妙な問題なのだろうか、

と。民芸運動や地方の陶器を見て

回ったりが、まだ大事なのかもしれ

ない。なにか見落としているのだ。

もう少し、本気で取り組め、と

言われている気もして、改めて

沈思黙考したほうがよさそうだ。

小花瓶は完成した::

梅と花瓶2-1.jpg

梅と花瓶1.jpg

陶芸教室の先生が僕の花瓶にと、梅の

枝を折ってくれた。匂いがよい。


こちふかば、 ・・・・

東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 

 あるじなしとて 春な 忘れそ 

 ::菅原道真 「宝島集」


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障害者は怒られても自分のことだと思わないことができる・他 [発達障害]

<障害者は怒られても自分のことだ

  と思わないことができる>


電車に乗って、眠りやすいのは

そのリズム感だ。もうある程度の

年齢になれば、電車に乗り慣れて、

地下鉄でもその轟音に驚かない。

初めて乗った時の幼い頃の記憶

などないからだ。

昔の電車は線路につなぎ目に車輪が

乗ると、それなりの音がして、眠る

などできないことだったが、すぐに

慣れる。今ではそれより小さい音に

なったし、慣れたのでその音が快い

リズム感になって眠気を誘う。

谷戸山公園へ、それは広い窪地の

野球場のような林の中に道を切り

開いた自然公園で遊具などはない。

自宅からの近さでは最も自然が

楽しめる場所で、久しく歩くこと

はなかったが、この処、見直して

歩きはじめた。

「イギリス人は歩きながら考える。

フランス人は考えた後で走り出す。

スペイン人は走ってしまった後で

考える。」思想家でもあり元国際連盟

スペイン代表を務めた故マダリアーガ

という人らしい。

僕は歩きながら考えることが多く、

考えるのには適している、と思って

来たので、イギリスタイプなのだと

思ったが、そのイギリスタイプが

振り返ってみるとよくわからない。


谷戸山自然地に来たのは、散歩が

目的ではなくて、考えることが目的

である。

前に教えないで教えるのが僕の方法

だと書いたことがあるが、はじめから

そういう手法を取っていたのではな

かった。

高校の時に世界史の先生が雑談で

1日30分の(家庭)学習を続けられ

たら英雄です、と言ったのに驚いた

ことがあったが、そんなことで英雄

になれるのかと思ったからだが、

ただその1日30分というのは、確か

に大変だ、と自分につけては反省

した。僕は継続的な勉強とかの、

同じことをじっくり続けるというの

が、生来嫌いで、苦手だったから、

1日30分の継続の大事さは、わかる

ようになった。英雄は意味が違う

だろう。英雄のように立派なことだ、

というくらいの意味合いだ。

僕は変化のある生活や冒険を好んだ

ので、それはできないことだと思い

続けてきた。それはその通りだった

が、ひとつだけ継続してきたことが

あったのに、50年もして気づいた。

考えることだった。考えることを

する(=考えることを考える)のでは

なくて、何かと言えば考えることで

乗り切ろうとしてきた。仕事もトラ

ブルも自分の調子も、考えることで

それに適応・対応・対策をしてきた。

相手の気持ちも感覚も考えで理解

しようとした。それは偏っていて、

つらいことだった。


ある時彼から相談事があって、小さな

イベント祭りの担当になったという。

それに僕も興味を持ったので、恒例

に聴いて、その他のことを尋ねると

おおよそのことはわかった。


彼には自信がなさそうだったので、

仕事の施設や段取りの時間差での

やり方から、その日の細かい注意点

まで教えて、完璧な進行をお膳立て

してしまうと、彼の仕事はうまくいき、

給与も上がったのだった。

ところが、彼はふつうなら起こら

ないはずの社会的なミスをした。

その成功のシナリオを描いた僕に

礼をしなかったのだ。ありがとう

ございました、のメール文だけで

済ましたのだ。この礼儀知らずを

遠回しに教えてやったのだが、

驚くことにその忠告も効かずに、

無視された格好になった。忘れた

らしい。

それでおかしいと反省して顧みて、

彼の意外な知的障害を一つ発見した

のだ。彼のコミュニケの力(ちから)

がないのは知っていたが、彼は重要な

事案を自分がへり下るような、プラ

イドを刺すようなことにはその重要性

を飛ばしてしまう、忘れてしまう癖

があったのだとわかった。大事なこと

ほど自分が面倒と思うと、何事もなく

けろっと忘れてしまえる、という精神

障害だった。

そう気が付くと、これまでに少し

可怪しいと思えることの理由がわかる

気がした。相手が話がわかったかどう

か、眼の前にしていればわかる。だが、

それが数時間か一晩ですっかり忘れられ

てしまうとは考えない。これは知的障害

の一種だった。

しかも、彼はこの後自分はできる、と

己惚れてしまい、仕事のミスもするよう

になった。

そのことは、直接どうでもいいこと

なのだが、彼には考えさせて、彼が自分

で考えて分かったことをさせる必要が

あると思うようになった。なので、ティー

チングやコンサルティングはせずに、教えない

で教える方法を全面的に採るように

なったのはこの時以来で、2年前という

最近だろうか。

この方法だけで全般にすべてうまくいく

というものではないので、適時適応な

方法を採るのは、昔からいつも変わら

ない。       1.19



<うまくいってもそれがいいか、うま
  くいかなくてもそれでいいかは、

           わからない>



微妙なことを書いても、それに

当て嵌まったり、共感するには

わずかな刺激では誰も共感しない。

いくつもそれを書いていれば別

なのだろうが、そうすると別な

壁が持ち上がる。その共感の

記事に到達する前に、ブログを

読まなくなってしまうことだ。

わかりやすいことを刺激的に

書いていても、通俗なエンタメに

陥るだけなら、しないほうがいい

と考えてしまう。そして、すぐに

真面目で窮屈なことばかりでも、

読むのに退屈してしまうだろうと。

人の心をつかむのに成功して、次に

失敗して、失敗しながらも次の

成功につなげるテーマを織り交ぜて

書くのが理想なことなのだろうが、

それは自然に反していて、自然から

生まれた人間には全人間の自分の

楽しみをコントロールするのはでき

ないことだ。

そのうちに人気に支配されて、100㎏

の巨漢が人気になって、もっと体重を

増やせばとなって150㎏、200㎏と

ますます人気になって、自分の体が

重すぎて歩くこともできなくなり、

ついにお腹の脂肪を切除しなければ

生きられないとなり、手術。これが

アメリカでの宝くじが当たった男の

脂肪が硬くてチェーンソウで腹を

切らなければならなかった実話なのだ。

好きなことができるというのは、自ず

からその限界があるということを教え

る自然の教訓だ。自分の好きなものを、

それが何であっても過剰な摂取や行動

には、その悪い見返りがある。

だが、それで命が助かるなら、それは

悪くないだろう。そこまでやれたのも、

良かったと言える。

冒険だと考えればいい。人気も出たし、

悪くない気分で、むしろ良かったのでは

ないか。それが考え方における、なに

ごとも実はうまくいっている、という

生活への評価ではないのか。

うまくいくというのは自分の考え方で

うまくいかないだけで、見方を変える

とそうではないことも多いのだろう。

何事も自分の思い通りに行くことが

異常で、そのほうがむしろ命に係わる

危険を呼ぶのではないだろうか。

生活はかなりの程度で、成り行きに

まかせてしまえる。そのようにできて

いる。これを利用しようと考えるのは

よくない癖で、僕らは肝心なことでも

いい加減に扱ったり、中途で止めて

しまうことがある。流れで扱いが

消えるまで、または自然に止まる処

までついて行かない。そこで運命の

消化不良が起こる。流れは自然のもの

なら、僕らの自分がそこで介在して

決めてしまうのは不自然で、悪い流れ

をつくってしまうことなのだろう。

この原則は簡単なものだが、その時

その場合に応じて正しい判断を下す

のは、それなりの知恵や経験がものを

言うようだ。その中心にあるもの、

物事の核とか芯とか呼ばれるもの、

それは知識では得られないことも

ある。



問題のない人生も、トラブルのない

生活もない。問題を抱えていても、

うまくいっていれば(そう思える

だけで)、ギターの弦の音色も気分

がいいものだ。


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自分と鏡(知)の裏側の徹夜の散策 [孤独]

知のことを考え始めると、そこ

には必ず自分という、個という、

孤立という、なにかひとつのもの

があるという想定をしようという、

ある衝動がその背後にあるのを

感じてしまう。

この衝動によって屹立するのが

知であるなら、これは自分と同義・

同じようなものという気がする。

なにかであろうとするこの衝動は

X X X X X ・・


そんなものを書いてもしかたない。

それは意味や意義を求める僕らの

知の衝動の根源を見るだけに終わ

ってしまう。それも見るとなれば、

あまり現実的ではないテーマだ。

考えないようにして書いてみようか。

その方が非現実的だと思われるが、

なにかが浮かぶかもしれない。

なにかがあぶり出されるように浮き

出るかもしれない。

ものは三次元である、という言葉が

浮かぶが、これも知識に拠っている。

物質の三次元世界のような観念を

いうのだろう。こういうものや事への

既成概念で頭が埋まっていることを

伝えるものだ。

言葉はそれ自体で関連性というもの 

だろう。つながる単語がすべてつながる

ように僕らは考え、そうしなければ

デタラメになる、と。そう思ってい

るが実はそれほどデタラメにはなら

ない。

デタラメな文を作るのは困難なことで、

単語をつなげるたびにデタラメか確認

しないと、すぐに単語ふたつでも意味

が通じてしまう。それほど僕らは物事に

対して既成値に関連してしまう言葉群

を持っている。

そのために散文詩を書くのはそう難しく

ないが、言葉の意味から離れた詩を

書く時は奇異な言葉への感覚に頼ら

ざるを得ない。意味はないが、感覚的

に面白いのだが、それも少数派の意見

かもしれない。

よくわかるのは、人は人だということ

だ。

それだけではなんのことかわからない。

人がものを理解すると表明するたびに

「ああ僕のと違う」、と思う。それで

その違いがわかることで、その人との

違いがわかることになる。部分に過ぎ

ないが、違いはその時は鮮明に感じる。


だんだんぼやけてくる。僕らの脳は

相手や物事を認識すると、それ以上に

追及しない場合、その確認で安心する。

安心すると、それへの反発や抵抗が

頭で整理されたのでその衝動が収まり、

初めからわかっていたという感覚に

化けるのだ。初めの違いの感覚は

劣化して、そうして忘れ去られる。

よほど強い時にその印象ばかりが残り、

経過はやはり忘れられる。

これは人間の認知機能の自然な経過に

思えるのだ。細胞の活性化するエネル

ギーにも関連しているのだろう。

細胞分裂が盛んな時期には記憶力は

それほど鍛えなくても、強い人は

驚くほど強い。知識が増えて、いい

加減になるのは、知識の必要量が

爆発的に増えるので、やがてそうなる

のは避けられない。

立て板に水のように、切れるほど口が

回っていた落語家も年齢で、回らなく

なる。


こうして考えないで書くと言っても、

相変わらず必要最小限に「考えて」

書いている。

これは僕の場合と言えるのか言えない

のかはっきりしないが、僕はしゃべる

ように書くから、以前のように書こう

と思う事に囚われて、うまく書こうと

しなくて済むので、書くことは楽なの

だが、以前は考え考えで苦しかった。

どう言おうか言葉の構成を考えるのは、

おしゃべりではないからだ。

なにか確実や確かなこと、期待に応え

られるようなことを書こうとすると、

その意識が書きながら、その文章に

チェックを入れようとする。これでは

後戻りばかりで思うようには書けない。

思うという、あるいは考えるという

のを言葉の組み立てではなしに、行為・

行動に切り替えて考える(チェック)の

は後回しにして、ともかくノーコンで

いいから書いてしまうことが秘訣だ。

おしゃべりに言い直す暇などないの

だから、ともかく最後まで言い切って

しまう。最後まで書き切ってしまう。


もうこれまで書いてきたことがあと

から後から出てくるようだ。まるで

放課後に残って廊下掃除をしている

ようだ。それは自分の頭の記憶回路

のような場所のことだが。

音楽を、メンデルスゾーンを聴いて

いるが、相変わらず曲名に興味がない

ので聴き流しているが、以前のよう

に曲に誘われて気持ちが動くことは

今日はないようだ。

動くと、今頃は詩文に変わって、その

興に入っている。

夢はどこへ行ったのだろう?

特に切り離して思っているのでは

ないが、夢で言葉をつなぐ作業は楽し

くて、適当な緊張感のうちになにかが

言葉のうちを流れてゆくようだった。

そこになにがあっただろうか? 


君は いたのだろうか 

その 君 という言葉でなにを

表そうというのか、 確かなことは

何も知らないで書いてきた。それは

少しは、引っかかり、疑問があっ

たが、それにこだわらなかった。

リズムに乗るように 言葉が走る

ほうが 先で 速かった。気にして

いたらお喋りは止まってしまう。

お喋りは会話だから、思考は入るが

むしろ気持ちの部門なのだろう。

気持ちを中心にして、知が言葉を

介在させる。気持ちが先導するから、

女たちの井戸端会議は有名だが、

男の井戸端会議は聴いたことがない。

しかし、実際はある。会社帰りの

飲み会では上司の悪口が通例だ。


そういう飲み会もコロナでどうなの

だろう、それともコロナ前から廃れ

ていたのだろうか。


この平板な感覚。自在感のなさ。

それほどに自己世界の問題は解決

してしまったのだろうか。これが

ただ世の中はなるようになるという、

一面の真理を代表していることを

表している、それだけのことで

なければいいのだが。

しゃべっていることは、行動を

促していることではないが、行動

の動機にならないことでもない。

そこにまた、この文章の意味を

読みとろうとしてもらっても、

半分とか、5mmとかズレてし

まうのだが。



このように意味のないことを読む

のは僕らは慣れていない。慣れても

しかたないという考えがすぐに想起

されるだろう。そういうシステムは

確実に存在するのだろう、頭の中に。

損した、金返せ、時間返せ。

また読者が減って、このブログが

終わる。


離島にまだいた時に、夜の堤防に

子猫を連れて行った。ケージから

出てくると、少し歩いただけで、

ここがどんなところかわかったら

しい。周りは海ばかりだと。

そこで猫はケージに自分から入った。

もう帰ろう、というのだろう。

まるで、自分の子供のようだった。

理由は書かないが、息子を抱いて

夜の街を徘徊したことがあった。

説教のつもりだったが、なにも

言うことはなかった。やがて息子

が「もう帰ろう」と、こちらの心

を見透かしたように言った。

子猫も同じだった。

人も猫も、孤独になるとどこかへ

帰ろうとする生き物なのだろう。




帰ろう、  家へ

還ろう、  人間へ

そう安心しておいて、思う、

一体

どこへ?

どこに?



そんなものが  

どこに?



::


あと2時間25分で

日の出が見られる。

天地の 雷同はないだろう

寝ている!
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朝陽を待つ [日本]

バッハの曲をチェロで演奏していた。

それを見ながら、思った。

流れる曲をその音色から聴く人は

チェロを想像して見ながら聴くの

ではないかと。そこにはクラシック

と歴史が醸し出されている気がする。

僕は精神的で、若い時から、クラシック

でもポピュラーでも、それがどういう人

が演奏して、どんな楽器が使われて、

とか気にしなかった。

聴いたのは飽くまでも、曲の精神性

で、なにが表現されているか、が中心

だった。演奏者や指揮者によって曲が

変ってしまうことを理解したのは、

1980代以降だったように思う。

子供の頃はそのためか、曲は頭に

創作お話をする、その飾りだった。

聴きながら、想像で物語を織りなし

てゆくのが楽しかった。

それがやがて、音楽の精神を聴く

ようになり、音楽を演奏でも聴き

分けるようになっていった。

音楽だけでも、その人によって、

同じ音が鳴っていても、同じ曲想や

音色を聴いているわけではないのだ。

音でさえ、だ。

だから、僕らは解釈や意味が少しずつ

違う言葉の組み合わせを聴きながら、

だいぶお互いに異なった解釈をする

のが一般的なことなのだ。

孔子が六十にして?だったか、耳従う、

と言ったのだから、六十に達して

いない人が人の言葉を聞き間違える

のは、大変ふつうで一般的なことなのだ。

だから、メールでも手紙でも、何回も

読み直すのは無駄なことではない。


それは僕らの脳が狭小で独りよがりで

自分と異なるものを排除しようとする

排他性があるからだ。それはもともと

あるもので、経験や教育によって軽減

されていくし、公平な見解に部分で

達する人もいるが、その狭小さが

なくなるというものではない。

チェロでもバイオリンでも、見た目

ではない。弾ける人が当たり前に

見えるのはいざ僕らが弾いてみたこと

がないからだ。

まず、きれいに音が出ない。それで

この楽器でよくあの美しい音がだせるな、

というのが初体験の感想になる。


 この処、しあわせではない。しあわせ

という恒常な状態や境地とか、ある

わけではないので、これは単にしあわせ

から遠ざかっているのを示している。

そうすると、頭が翻る。

ではその質問を、しあわせ感を寄せ

ない自分はどういう状態なのだろうか、

が向き合う姿勢になるだろう、と。

しあわせである必要を感じないの

ならば、これは少なくとも、不幸せ

だとか、苦しい、だから楽になりたい、

しあわせになりたい、とは思っていない

のだから、不幸でも苦しい状況でもない

ことが伺える。

そこを深く読んでも、意外だが、プラ

イベイトを出さないという信号が送ら

れてくる。そんなものあったのか、と

思うが、そのプライべ~はなんだろう?

答えは早くも出たようだ。

どうもその時が来たようだ。もう独り言

しか出てこない、テーマを変えるべきだ

と今この時の自分はぼんやりした僕に

、逆か、今この時の僕はぼんやりした

自分に指示する。書いてもつまらない

ことなので、1か月か、その後に(事後)

報告にしよう。


つひにゆく  道とはかねて

 聞きしかど 

きのふ今日とは  思はざりしを  

       ::-菅原 道真 


道真が晩年に病気になって、これ

から死ぬ心境を謳ったもの::

<まさか、今日明日に死ぬとは思わ

なかったよ>

ここにはどこか覚悟のようなものが

感じられて、ふと思い出した。

今までやろうとして先延ばしにして

きたことを、いざやろうという時も

そんな覚悟を知るものだと。


新しきは 常に もがもな

 朝の日に 長閑けし

  沁みる温気 かなしも

          :陽秋

元歌

世の中は常にもがもな渚漕ぐ

   海人の小舟の綱手かなしも

     :源実朝(小倉百人一首)


こういう歌が記憶に残るのは

やはり、日本人だからなのだろう、

と思うのだが、それも還暦を回って

から日本に目覚めたからだろうか。


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肴と感覚のもつれと ひとり世界 [精神]

生活は漸進する。発見に気づくのも

その衝突か出会いの時・日であろうが、

その意味合いはだいたい後になって

深掘りされた形で気づく。

今日はそれでその「悲しき熱帯」を

探していたが、見つけるのにだいぶ

時間がかかった。書くにはもう少し、

準備が必要だった。頓挫。


今日は変な感想を抱くことになった。

7か月疎遠の者からメールが来たのが

7日だった。年賀の挨拶だったが、遅い。

気のつかなかったのだが、2年か、疎遠

の者が昨年の30日にSNSを送って来て

いたのに、10日ほど遅く気づいた。

返信はまだしていない。3か月前に

引っ越しただと。これも遅い。

いつもはメールに返信が来る人は、この

20日ほど来ないので、気分だろうが、

これも遅い。

誰も彼も何らかの理由で連絡が遅く、

誰も自分の事情を話さない。事務的に

つけ加えるだけでだいぶ印象が違う

のだが、気がつかないか、僕には

気を使わなくていいと思っているかの

ようだ。こんな部下ばかりだったら、

会社は潰れていただろう。


それはこちらにも責任の一端はある

ようだ。それは僕が孤独を感じない

にせよ、一般的には孤独な状況だ

からだ。と言っても、これくらいの

状況は誰にもあるものだが、違うの

は言ったように僕は感じないが、

ふつうは孤独を避けようとする

からだ。

今日気づいたのは、突き詰めれば、

孤独になりたい自分と、孤独でいた

くない自分がいることだ。ひとりで

なければ十分に感性を働かせられ

ない、という適応の点がひとつ。その

状況に居場所があるというやすらぎ

感覚がふたつ目。それが孤独になり

たい自分、または孤独でなければ

ならぬ自分。

もう片方の孤独で居たくない自分は

普通の人の状況でもあるが、僕の

場合は対面でなければできない話が

溜まってしまうことだ。ブログを

書いて、精神面の理屈や紀行などの

話では収まらない、他人の過去の

犯罪や奇行に関する話など、それは

例えばだが、記録するのはぼかして、

遠慮しなくてはならないので、

気の許せる相手に話して大いに笑い

合いたいものだ。

そういう時に呑めない酒も飲みたい

と思うのだ。

この1年くらい前からは感覚がころ

ころ変わるのを経験する。音楽も

急に好みが変わったかのように、

今日はよく聴ける音というのが登場

する。頭の記憶ではもう聞き飽きた

という圏内なのに、いざ聴くと、

それを他の曲に替えようとしてい

ても、急に惹かれて聴き入って

しまう。

焼き魚も食べたくない日もあって、

嫌だな、と思っていてもいざ食べて

みると、脂の乗りもよくて、一番

うまいおかずだったりする。

年をとると涙もろくなる、という

のがあるが、それと似たような現象

なのだろうか。今までの経験から

思っていた印象から、初めにそのもの

への態度・先入観があるものだが、

それが凹凸に感じる・感じられる

ほうに裏切られるのだ。

これは楽しい裏切られ方で、こういう

毎日であるなら、楽しみが増すもの

と思う。


量子のもつれは詳しくは知らないが、

関係のある粒子(素粒子)が二方向に

別れると、その片方の運動を測定して、

左回転だとすると、それがわかった

瞬間にもう片方の粒子の回転が反対の

右回転になるのが観測される、という

もので、それもこの粒子間の距離に

無関係だという、驚くべきもの。

なぜなら、光で光年単位の距離が離れ

ている銀河系でも、この粒子たちは

同じように反対方向にセットされる

からだ。

常識では考えられない。つまり、光

よりも速く、なにかがつながってい

なければ、それは不可能だからだ。

アインシュタインはこれに反対して、

認めなかった。しかし、今日の観測

ではこれが確かめられている。

もちろん、宇宙にはそれを可能にする

別な理論が発見されていないだけ

なのかもしれない。

この量子のもつれは僕を想像の世界

へ連れ出す。:::



僕の孤独を愛す癖はその自我の芯が

エネルギーだったとして、そのエネ

ルギー波に浸っているのが充実して

穏やかなのだ。そして、それは根本の

エネルギーであって、社会的自分では

ない。なので、地球世界も宇宙も、

国際社会、日本も、社会組織も、

家族も、ゴミ箱も、ミトコンドリアも、

そこには属さない。しかし、話す相手

は自分だ。この時、僕は僕をコント

ロールする自我体と自我の意識体に

分かれていて、量子のもつれのように

ひとつでもいいし、分離してもかまわ

ない。

意識では僕はその“エネルギー”と“自分”

とが不可分の統一にして複合体と

してある。必要エネルギーが99%

で、必要自分は1%くらいだろうか。

量ではない、その双方があって、

お互いに支え合える関係になって

いる。

これらの自我エネルギー、意識自我、

自分(ほぼ自意識)、の一人の人間を

自我エネルギーの芯がその全体を司っ

ている。それは意識ではないので、

知ることはできず、五感の外にだけ

感じることができる。

それがひとつのすべてである、・・・・

と急に部屋の窓から下弦の大きな月が

昇って来たのを見た。まるで半分の

ボール皿だった。半月も東の空から

昇る。

僕は孤独というよりも自我の体系を

無意識を通じて精神生活で成熟させ

たような気分になった。



はるかけく  月の頼りに

          遅くなく

この身の  かくも  ありとは 

          言えず  

  なしとも  言えず
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人間の直観と犬猫のロマン [直観]

直観と直感との違いについて、私見だが

気がついた処を書いておこうと思う。

これも心の状態なので、直観そのもの

という実態も、また直感も単体で存在し

たり、発露したりすることはないだろう。

必ず、半直感的・半直観的とが複合して

現れるものだと思う。

しかし、僕らの知性の役目は現実では

なく、頭の中を図式化・概念化するの

が仕事だから、区別するのである。

その伝でいくと、直感は主に勘のいい

とか勘の鈍いとかいう、「勘」に近い

ものをいうようだ。ピンとくるのが

直感。

そして、直観には構図があって、その

物事についての経験・知識がふつうより

も多過ぎて、いちいち覚えていられない

ぐらいだが、或る集中した瞬間や緊張した

瞬間にその情報の欲しい部分がピンポイ

ントで得られる力が直観に類すること

だろう。これは将棋のプロを見れば、

わかりやすい。彼らは長考するが、その

最初の一手は僕らが考える一手よりも

相当先の一手であり、彼らにはもう

考える必要がないのだ。もう何万手も

そういう場面を指して来ているので、

考えなくても、その経過は百手近く

省略することができる。

よく引き合いに出すのは過去の大山

名人が帰る時にコートを取りに来た

座敷で若手が対局していたが、その

盤面をちらっと見て、コートを取り

帰ろうとする時に(例えば、)「それ

三5角で詰みだ」と言ったいうエピ

ソードだ。

若手だって巷の将棋の天才として

棋院にやって来て試験に合格して

いるから、並ではない。その彼らが

発見していない詰み手をほんの数秒

で見つけてしまう。これが直観という

積み上げた知識が無意識のバックに

あるという例だと思う。

なので、この直観はかなりあてになるが、

直感はその裏付けが十分ではない場合も

あるので、当たるも八卦、当たらぬも

八卦となってしまい、勘に頼って失敗

した例は多い。経験と知識がモノ言う

世界だ。

純粋な直感も、純粋な直観もないだろう、

というのはそういうことをいう。なんの

知識もなくて直感を働かせるというのは

現実にあり得ない。

直観がずばり当てるのは不思議だが、

大抵はそれを発揮した自分も驚いている。

僕らは無意識を意識できないからだろう。


そうすると、昔から言われる「一を聞いて

十を知る」ということは、直観のことを

指して言っているのだろう、と想像がつく。

現実でそれを厳密には区別できないから、

一を聞いて、五を知ったのか百を知った

のかは、わからない。教訓の話は例えの

話であることが多い。

しかし、動物的な直感もあるから、人間の

知識の幅を越えてしまうと、世界が広がり

過ぎて、わけのわからない範囲にまで及ん

で、話はまとまらなくなる。


ここからロマン主義についてどのくらい

だろうか、10分?20分?その間くらいか。

考えはまとまったが、「いやらしくて」

書く気が失せた。

18世紀の「赤と黒」を書いた知事のスタン

ダール。牢内のマルキ・ド・サド。マルキ

は侯爵をいうものだと。フランス革命を

経て、フランスは愛・自由・平等を旗印

に掲げた。愛も自由も平等も多くの矛盾

を孕んでいる。

しかし、ロマンには永遠の隠し味が含まれ

るので、美しい花が咲くという錯覚に包ま

れたまま今日につながった。

一休さんも晩年まで盲の尼僧との愛欲生活

を綴り、妄執と無欲の(むしろ狂気じみた)

バランスを取ろうとした、という。

一人一人の生活においてはロマンは未だに

解決できない体の主軸を保っているらしい。


オスの犬は生涯にメスと出会えることは

ほぼない。メス猫は1年目に近く去勢手術

を受ける。人間に飼われる家畜にはロマン

は絶望的になさそうだ。子犬・子猫は

商売人の優良?ブリーダーによって生産

されている。

人間バンザイ!という漫画を鉄腕アトムの

手塚治虫も描いていたニャー。ワン(うん)。
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人類進化を考えた奇妙な夢 [夢]

自分でも何を調べているのかわかる

のだが、自分はどうやって調べている

のかはわからない、という不可思議な

感覚がある。その資料の本を読んで

いるのだが、その途中でなにかに気づ

いて考えだしたまでは覚えているの

だが、結局その後どうなったのかがわか

らない。その考えがいつ終わったのか、

経過はどうしたのか、考えながら

階を移動したり、別のことをしたりは

まま覚えているのだが、それでどうな

ったかが、まるでない。

あの本、読みかけたままで、それが

すべてでその後が夢中になったせいか、

何もない。思い出して、そのことに

気づいたくらいだ。


なので、夢の話だが、

これもよく覚えていない。ただ印象が

とても強い部分があって、そこばかりが

残っている。

思い出して気づいたが、これは進化を

彩った家族構成だ、と。

はじめは、どうも争いのある世界に

いるらしい。田舎なのか、原始時代な

のか、洞窟のような処で壁向こうの

隣人を攻撃している。それも壁の

隅の上のほうに空いた穴から、馬草

のかたまりをどんどん投げ入れて、

相手のリビングにあたる部屋を直接

攻撃している。馬草が飛び散るから

相手としては相当な迷惑だろう。

そして、投げ入れながら、外の世界

でも戦争をしている。ここで隣と

和解して協力した方が、外の戦争

を終わらせるためにもいいに違い

ない、と思っているのだが、理由も

なく、それができないようだ。

記憶がないか、場面が飛んで、洞窟

から出て外にいる。家族は自分も

入れて四人らしい。これから逃走する

から四人でジャンケンして、方向を

決めよう、ということで。

僕の左の奥に父親がいるらしいが、夢

の癖で見えない角度がある。しかし、

姿はゴリラか猿人だと知っている。

左前には兄がいて、これもアフリカの

黒人である。右前には母親がいて、

アメリカインディアンっぽい原住民風

だ。

これは進化の過程を踏んでいる。猿人は

アフリカにいた。人間に進化してから、

世界へ散らばったというが、ベーリング

海峡は長らく氷河期で氷に閉ざされていた。

これが溶けてから動物も人間も海峡を

渡ることができて、アラスカからアメリカ

大陸に移動したらしい。それをその過程

で家族構成になったらしい。

夢はあまり続かない。

父のゴリラは洞窟に残ることになり、

三人が散らばった。僕が行った砂漠には

道に女が這いつくばっていた。それも

全裸だった、その上、全身入れ墨で

黒のカーテンレースをピッタリまとって

いるかのようだった。それだけではなく、

彼女の両腕はなく、それで蛇のように

這って歩いていたのだ。そばに兄だか

恋人だかの男がいて、・・・・・

とここまでで終わってしまう。

進化の家族と全裸入れ墨蛇女が強烈

すぎて、他を忘れてしまったのかも

しれない。


初夢ではないが、今年初めての強烈

な印象での初夢に思えた。蛇女は

旧約聖書のアダムとイブが楽園を

追われた姿なのかもしれない。

誘惑者の蛇と誘惑話に乗った女が

合体しているのに、今気づいた。

聖書の成立年代の紀元前4-5世紀

よりも2000年前だろうと言われる

古代メソポタニア文明のギルガメッ

シュ叙事詩に聖書と同じ洪水伝説

など記されているので、旧約の天地

創造は想像によるものであてになら

ない。

そこで天地創造の光あれ、と神が

言った瞬間に天使も生まれたのだ

という、追加の解釈も生まれたが、

あてにならない文に解釈しても

無駄だろう。

日本の縄文時代も1万2千年?も

続いたという根拠の発掘がなされた

のも最近の話なのだから、紀元前

3000年から前1世紀あたりまでの

歴史はこれから相当に変わってゆく

可能性がある。


10年後に見る夢の、進化の家族(の夢)

もそれを取り入れて、縄文人が加わる

かもしれない。そもそも僕は紹介されて

いない。夢を見ている僕はなに人だった

のだろう?

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