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大人になるほど子供になる人たち [子供らしさ]

何を考えていたんだろう、と思う。僕の一日は  

その大半は、考えて過ごすことが多い。  

考え方が違う。意識して左脳的ではなく、右脳的  

というのだろうか。知的な思考というより、感情的  

な思考でもなく、感覚的な思考という比喩が近い  

だろう。計算するようにはっきりと対象を思い  

浮かべるのではなく、なんとなく呆然としている。  

それが考えている状態でもある、というあいまいな  

状態だが、集中した時と似て、時間は速く流れる。  

それで半日の大半を過ごすことができる。  

何を考える、とか、何か対象が決まっているので  

なく、意識が流れるのにまかせてそれを眺める  

傍観者のように見ている。その状態全体で考えて  

いる、が成立している。なにも反省・反復しない。  

何を考えていたんだろう、  

思い出した。   ・・・・  

I Know  ・・・   

僕は高校入学の時に、どんな気持ちでその門を  

くぐったのだろう?そんな断片が、急に思い浮かぶ。  

これから書くことには無関係なのに。  


気持ちが揺れ動くと、詩想が入ってくることもある。  

それは僕には避けてはいけないので、詩に入って  

しまう時もある。その時の気分のように、なにかが  

それを選択して、続きをする。なにかを目的に  

したり、計画したりしない。起こるがまま、感じた  

ままというのが、近いのだろう。わずかに違うような  

気がするが、気にすることもない、無視していい  

微妙さだ。  

ここで淋しいかい?と聞かれる気がするが、一瞬で  

それはどうでもいい、ただそう聞かれることが  

気持ちいい、と答える。声をかけられる、気を  

使われることに、そんな必要はないと知りながらも  

それが快いことを否定はしない。やれやれ、  

面倒な答え方だ。ただ、楽曲のセリフが耳に  

入って来ただけではないか。  

こうして僕は言おうとしたことや、考えたテーマを  

どんどん後ろに置いて来てしまう。どんな目的も  

持たないかのように。どんなテーマも関係ないか  

のように。   

そうなのだ。  

これが自分を持たない者の流れであり、謂わば  

運命。どんな自己実現もする必要がなくなる、  

という。考えられないかもしれない。  

僕も、そうは考えていない。考える瞬間に自己は  

自然に生まれ、謂わば発動するから。  

なにがブログで発言しているのか?  

僕が操作する、または自分の双璧である、知性か?  

それならもっとはっきりした弧を描いて見事な  

曲線という思考の足跡を見せられるんだが、 ・・。  

中心はそこにないから、何を書いているのか、  

そのつもりもないので書いていることが、過去に  

向かって思いつきになってゆく。未来に向かって  

書いてから、そこに新しい真意を見出してゆく。  

出た、 ‥これだ。  

この新しさは過去からは求められない。だから、 

わからないまま書く、進める。自意識という自分  

を捨てるかのように、無意識に書くのをまかせる。  

そうして、僕は、たった今そのことを発見する。  

自意識に刻むことができる。  

なんというややこしい書き方、思考法、儀式、  

理解がしにくい。   

これで「僕はどこにいるか」という問いがふいに  

訪れること、そういう感じに包まれることの、  

以前に書いた答えの他の、もう一つの答えに  

なった。今は「僕は何か」という形になって  

いるが、中身は同じだ。そう、自分を失って  

いるから、その感じが言葉になった。  

ああ、気持ちがいい。自分を失った自分という  

そういう姿を見ることができるようになった。  

それはほんとうに失ってみなければ、そして  

失っただけでは実感できない現象ではないか。  

僕は今、そこにいる。これはこれで、ひとつの  

解決の形だ。  

なんと気持ちがいいのだろう。そして、  

ここで、…ここでだ、YouTube から  

僕を悲哀に誘ったBoth Sides Now の曲が   

始まった。(タイミングどんピシャ)それは  

悲哀ではなく、祝福されるメロディに感じる、  

‥‥ のだ。  

僕はなんと、恵まれているのだろう。  

僕の、 精神は、  ・・・・・。   


悲哀が愛の一部であること(僕にとっては、  

か)を、また断ることもないだろう。雨も  

晴れも天気の一部で、僕らの心や社会環境  

が複雑であるように、気象条件が変わっただけ  

のことなのだ。僕らがそれに抵抗している。  

しかし、雨空を突き抜けて、雲の上に達するのを  

心でやるのは、なかなかのことだから。恵まれて  

いると言ったのは、そのことだ。  


こうしてまた自分のことをくり返すのも、退屈な  

ことだ。できることをするのではなく、過去に  

できなかったという、できそうもないが、そろそろ  

できるようになったかも、ということをしたい。  

こういう感想を、展望が開けると言う。気持ち  

がいい、とはこのことなのだ。  

今夜はこの発見だけで十分だ。人は自分も、  

知性も、愛も置き去りにはできない。でも、 

それから離れるだけでなく、捨てる気に  

ならなければ、そうしたことの体験を手に  

入れることはできない。その体験が物事  

をはっきりさせる。自分を知らないままで  

何を対比して物事を正確に測れるという  

のだろうか?  

その体験が自分を照らすから、自分を知る。  

その体験が知性を照らすから、知を知る。 

その体験が愛を照らすから、愛を知る。  

それらをただ感覚するのは、僕らの日常で  

いつも起こっている。僕らはいつでもどこでも、  

意識を立ち上げれば、自分を感じる、だが、 

それは自分を知っていることではない。

それも知っているだろう、自分がわからない、  

ということを。だから、環境や条件という  

’他’や他人を、周囲である家庭や地域社会、  

そういうものを頼って、比較して考える。それ  

ではイエスか、ノーかを選ぶだけだと、気づいた  

ことはないだろうか?もう答えは条件付きで  

選ばれているではないか。あなたは猿ですか、  

鳥ですか、と問われたら、それを考えるの  

ではなく、他に答えがあるはずだと即座に  

思いつけるだろうか?  

自分とは何か? に応えるのは、そういう  

決まった参考書から答えを選ぶこととは  

まったく異なった手続きが必要ではない  

だろうか。それが僕の、過去の人たちから  

学んだことだ。自分で初めから、目の前から  

探さなければ、という。もう過去の教科書を  

読むような選択をしている青少年の時期  

ではない。  

ほんとうに、ほんとうに幼稚園児と一緒に  

どろんこ遊びをしてほしい。バカにして  

いないで、ほんとうに泥をその手でこねて  

ほしい。自分というプライドを忘れるまで。  

そこから始まる、目の前から。

ほんとうに、ほんとうに。  

僕はもう手遅れだと思いながらも、そう言う。  

それでも、ほんとうは’ほんとう’だから。  

(どろんこ遊びは実際にしてほしい、ほんとう  

であるけれども、また一つの例でもあり、他に  

いくらでもあるというのは、断ってしまった  

けれども断る必要はないと、 ・だよね?) 
 

インドの哲人、J・クリシュナムルティはサファリ  

でライオンだったか、触れようとして手を車  

から伸ばして、係に止められたそうだ。彼は  

樹木でも触れてみなければ、わかったことに  

ならない、とそういったものを感じていた。  

それは別な意味で、単純なことを示す。  

理屈に合わないのだ、権威ぶらないのだ、  

あるものをそのまま、在るものとして扱うこと  

だ。  

また小林(秀雄)の話になるが、彼が運動会  

だろうか、なんだか忘れたが、参加したもので  

10位賞とか20位賞があったらしい。小林が  

その賞をもらったのだが、順番を数え間違えた  

らしく、それを返してくれ、と。彼は返さずに  

持って帰ったそうだ。一旦、人を喜ばせて  

おいて、後で返せとは何事か、と言うの  

だろうか。似たようなことで、小林の知人が  

国宝級の茶碗だったか、持っていて小林  

も気に入って買うと言ったのだが、売ら  

なかった。よせばいいのに、小林が来る度に  

自慢したらしい。ある日、小林が帰ってから  

その陶器がなくなっていた。小林が懐に  

入れて持ち帰ったのだ。欲しいのがわかって  

いて、自慢するのはけしからん、と言うの  

だろうか。小林はその国宝級の茶碗を 

飾って眺めていただろうか?どうも牛乳を  

入れて、毎朝飲んでいたらしい。小林  

というのは、そういう男だ、近代日本で  

有数の知識人・知能と言われた。(笑)  


:: 

大人は子供になれない。自我が確立するのは  

自意識が固まることだ。子供は自我がしっかり  

するまで、無意識と共存する中途半端な状態。

(半分な無知?) 

で、大人は子供のようになる。自分の社会や  

他人との距離や関係を決めた独自のルールで  

日常の既成のルールや常識を破る。  

大人は子供になれない。子供のようになる  

だけだ。




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