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日々の喜びの印象 [喜び]

これは感慨だと思うのだが、ふつうに感傷

なのかもしれない。

今、確かに自分はここにいて、坐って、自分

を感じている。僕がここにいること、それが

不思議なことだと、今夜ほど感じるのは

なぜだろうか、と。それで書きたいことの

すべては終わってしまう。

ここから書き出すのは、僕が自分から外の

なにかに抜け出すからだ。それと関わると、

書くことが一気に増える。

ところが、僕が僕にこうして満足していると、

いつものようになにも書くことがない、と

わかる。

そして深読みができるのは、僕がこの心境

はまだ誰にも伝わっていないのではないか、

と思っていることだろう。だから、その小さな

不安のような確信がそのことを僕に言わせる

のだ。

僕の周りには、説明できない’気’が満ちて 

いる。それは僕が’気’を満たしているの

かもしれない。この’気’を最も説明して

近いな、と感じるのは僕らが感じる’愛’なの

だと思う。今夜はほんとに何も書かない気が

するし、そうなるだろうと思う。

僕にはこうした文字が流れる時間という、

それを空間に感じることが快い。

僕らの’愛’にはそれぞれの人の歴史が、

つまりは感情が積み重ねられて、それは

愛の透明感を損ない、汚れて見える。

僕の趣味は愛の理想形なのではないか

と思う。彼女はその人に応じた形を取る

のが普通だから、僕らには僕らに応じた

様々な愛のパターンが存在していると 

感じる。

だから僕にはそういうものからは離れ 

たいので、適当な不純物があっても、濁り

にはならない愛の透明感が好きだ。

情熱の愛には僕の体は自然に遠ざかる。

それは今は忘れよう。

この満たしている、そして満たされている

感覚はそのまま自分の体や心のなんとも

言えない存在のように感じる。

詩はここで、いらない。

その言葉に捕まると、次から次へとどこか

へ流されてしまうから。その感興が楽しくて。

今はここに居続けてみようと思っている。


僕らが意味や理由とか、目的への労働

や義務といった心の束縛から離れると、

こんなにも精神的に満たされた気持ちに

なるものか、と思う。内面では感嘆して

いる。

それだけを今書き続けているのだが、

いくらでも書いていられると思うのは、

やはり、この状態が不思議なもので、

説明とか表現とかというものとまったく

別なところにある、そうでしかない液体

のしあわせというものにどっぷり浸かって

しまっているからだと(黙)。

伝えるためには、僕らの多大な誤解の

海に漂っている言葉の常識やよく皆が

知っている名前やレッテルを拾って、

それらの無限にも感じる関係性を紡いで

行かなければならない。

因果が現れた時はまだ、ずいぶん遠くへ

来たもんだという達成感があった。それ

からまたずいぶん歩いたつもりだったが、

そういう僕が見えなくなってしまった。

そして、目の前にすべてがあるのが感じ 

られるようになった。

僕がどういう境遇で、どういう環境で、まだ

心身にそれほどの不自由を感じない

どころか、それがどうしてか実はわかって

いる、という感興・状態にあるのが、僕が

究極に求められるすべてという、広がる、

そして広がりすぎるその感興・状態その

ものでもあるのだ。

一歩踏み出せば、世界は迫り来て、僕は

世界を支配してしまう予感に震える。動物 

も電気も植物の種子の数千年もの閉鎖性

と開花性があふれ出す。その予感だけで、

人は生きていける。

生命は僕らのものであり、僕らだけではない

生命体の・・・・、と知らないことまで言い出し

そうになる。(笑)

人間の動物としての基本というものが、

ともかく、秘密という形態でしか知られない、

という僕ら自身の’因’自体から発生している

ので、この矛盾はいつまでも続くし、いつ

まで続くのか、まだわからない。



少し、歩き出してみよう

君の声が  聴きたい  

だみ声でも 息吹を 寄こしても

いい  

小さくて 可愛らしい

幼児のような  無知な 愛嬌 

空の 高い、も

池の  青さも 

同じような  距離感に おもえる  

上は  下、だったり するよ 

探すのは  君には

愛が 飛び回る様子を

眺めようと  背伸びを  するよ  

人の  壊れた心に  反応して

泣いたりする  けれど  

それは 君の  心を

壊さない 

もう  笑っている  



そういう世界からの見方はもちろん、 

ある。そこから語ることは可能だろうか。

共感覚というのは、音が聞こえると色が

見えるのと、文字を見るとそこに色が

現れる、というのが代表らしい。他に

多くの例があって甘いが三角を感じる

とか、異常なのだが、少なくとも380万人

から3800万人、近年では3億3000万人 

いるという信じられない報告もある。

共感覚の持ち主は皆と違うことに幼少に

気づくと、それを隠そうとして、学習して

しまう。そういう人たちにはどこまで

常識的な感覚の学習が可能なの

だろうか。僕らがどれだけ人を理解する 

のに絶望的とも言える状況にあるのに、

それに気づかなくてもいい、と考える

神経の存在に敬意を表したいくらいだ。

つまり、社会のいい加減さにはそうした

(不安を隠すという)有益な理由があり 

そうだ。真面目過ぎるほどに取り上げ

てはいられない、という生活態度が

必要なのかもしれないし、気づかなけ 

れば、そういう生活の姿勢になるだろう。

うまくいっているわけだ。

だから、社会的無知を人は気にしすぎる

傾向があるが、人間への無知には気に

しないようだ。それが皆、同じ自分に

囚われている様相だというのは、実に

この世はよくできている、と感じざるを

得ない。 

それは昔はきつい皮肉であったが、今

それは皮肉でも皮相でもないから、

そんな風には見えない。それが様々に

絡み合っているのが見えて、簡単には

解きほぐれないのがわかるから、僕は

傍観的な立場を取れるし、時にそれに

能動的な行動も取って、疲れていたりする。


それは結果に関わりなく、どこまでやって

どこまでで止めるか、僕に任されている。

それらがしっかり整理されてわかるから、

僕にコントロールの感覚が生まれ、それ

が満足に満たされるのかもしれない。

できることはなにか、それは僕にとって

なにであるのか、欲しているのか、

いないのか、どれからするか、どこまで

する、そういうたて糸・よこ糸を縫い付ける

技術に通じれば、正しいとか、間違えて

いるとか、気持ちに沿っているとか、沿って

いないとかは、二の次なので気にしなくて 

いいとわかる。 

僕のすることには、始めても終わりが

なかったり、中途から中途までしか、

しなかったりする。だから、自分の仕事を

するのみだ。誰もそれを管理できない。

もちろん、僕自身も。


僕はどこにいるか、という感興がある。

と同時に、僕はここにいる、という愛情が

ある。

ここにいる、というのは愛情だったんだ、

と気づく、今。

自分(という役目)も少しは役に立つものだ。



午後の5時、 目が覚める


午後でもなければ  5時でもなかった 



眼が  覚めた  
















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