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突風が吹いて喪失する [喪失]

思えば、近年ア夏ア暑くてなにもできない。ただ30℃ 

越えが過去るのオ待っていた。  

思えば、疲れア突風のように創造の感覚オ吹き 

アらってしまう。うすれゆくその感覚がなくなることア  

この先、僕オ愕然とさせるだろう。創造の才能アなくても、  

そのアイ景オなくすことア故郷10オアスれてしまう気が 

する。それがあるから書くことに不安アなかったのだろう。  

なるようにしかならないだろうが、どうなっても今よりよく  

なるようアならないだろう。            7.31

ノートパソコンで打つと、は、ひ、へほ、わ、を、が打てない。 

酸性の液体をキーボードにこぼしてから、調子が悪くなった。 

ふつうか。  

ノートで書くのがめったにあることではない。

それで上のように打っておいて後から直すのだが、一度  

直してから、次の記事をすすめて、ミスしてその記事  

もろとも削除してしまった。暑いので、もう一度直すのが  

面倒。なんとなく読んで、なんとなくわかればいい。  

才能という問題は、なにかとなにかがコラボしたような  

感じで、そのあいまいなものを才能と名づけた、とそんな  

感想を持っている。いつか考えてみようと思っていたが、  

今はまだ昨日の熱中症の後遺症で頭も体もすっきりしない。  

背中もコリの痛みが来ているので、神経もままならない  

ようだ。2時間時間があるので、書けるところまででも  

それなりに書けるだろうから、書いておく。  

僕は創造というものがどこか、別の世界でもいいが、  

どこかにあるものだというのも、考えられなかった。  

天才のことを調べていたので、それは謎中の謎に  

思われた。だが、僕の狭い経験から察するに、創造  

にはなにか入口があった。扉かもしれない。  

還暦から(現実に戻るのを前提にしないで)潜在意識  

に潜るのを始めたが、人生も運命の一部もそれに  

まかせると、いろいろなことが起こった。それで今まで  

自分に起きた不思議なことが実際は、すでにその  

無意識からの連絡通路を通ってきたものだとわかるはず  

だったが、わかるのは無意識との通路を閉じ始めてから  

だった。そう、僕は回想をしようとしている。僕はそれを  

始めてもう3年も経つので、失うものもあった。無尽蔵  

ともいえる言葉の発想力は、明らかに以前より落ちた。  

言葉だけでなく、パソコンの前に坐れば、詩興、感興やら  

思考の塊が押し寄せて、何も前もって準備せずに、その場  

で書けた。どこかで終わらせなければ、というくらい長時間  

それは途切れず、書き続けられた。それだけはモーツアルト  

の作曲の楽しさに比類できるかもしれない。何度も感想した  

ようにこの信頼度は高く、書くのは自由度も高く、思うように  

書いていたという錯覚があるくらいだった。  

その理由も書いたが、これは脳の不思議だった。僕らは  

自意識で考えるだけでなく、無意識下でも考えている。  

これは思考を商売とする、例えば数学者とか、そういう人  

は納得するだろう。寝て起きてみたら、昨晩考えていた  

問題が氷解していた、という話とか。そういうことや、  

小さな似た出来事が彼らに起きているはずだからだ。  

自意識はひとつのことしか焦点を当てられない。同時に  

2つを考えるのはできない。するとしても、才能を要して  

自意識と無意識を瞬間で交替させながら移動することだ。  

これは経験的仮説で、この実感が事実かどうかは   

わからない。どちらにしても一つを考えながら、もうひとつを  

十全には考えられない。負担がかかる。僕は無意識で  

考えている時(と想像)は、自意識で考えるのは、難しく  

考えることが重かった。

この経験は天才たちの創造の謎を垣間見た気がする。  

彼らは努力しない。向うから来るのだ。それを表現する。  

芸術や学問や思想などそれによって違う。才能はそこに  

道具のような働きをする。創造という夢を直接そのまま  

表現はできない。自分の夜の夢を思えばわかる。いい  

景色を夢見たからと言って、それをそのまま表現でき  

ないし、違うものになるのだが、その違うものにしても  

表現にはそれなりの技術力が要る。そこには努力が  

必須なのだ。またそこに天才を発揮するピカソのような  

初めから何でも描けた人もいた。一目で記憶して、次の  

日には全く同じ絵を描いて持ってきた。ピカソの悩みは  

どんな絵でも描けるという、そのことだった。それに  

ついては書くと言って、まだ書いてない。  

創造というのは僕には別世界の何物かだと感じる。  

天才たちがそれをどう考えていたかは定かではないが、  

はっきりした形のものではなかったのだろう。説明  

できたのなら、誰かが説明していただろうから。  

僕の二重思考は出来上がっていたので、無意識に  

入ってからはなんの瞑想も必要なかった。ただ坐れば  

いい。楽しかった、 ・・ 実に ・・・。  

この創造を前提に考えるようになったから、才能は 

いろいろなパターン、幅を持つようになった。無意識  

とコラボして完成した形で発想を持ってくる天才たちと  

努力して技術に磨きをかける、異才鬼才と言われる  

才能、それをするために生まれたような飛躍した  

技術力というもの、それらが才能と呼ばれる。 

これが音楽一家とか呼ばれるように、遺伝するもの  

であるようだ、というのも面白い。だが、天才は  

異常で、中の一人に現れる。創造の門は狭き  

門であるらしい。僕は無意識との往復運動の中で  

創造を扉からチラ見して、構造的に感じた。それが  

僕だからか、他の人間だったら違うのか、たぶん  

違う気がするが資料はなにもない。 

僕はそれで天才の真似をする試みができると感じた。  

その心の構造を、心の形でまねるのだ。それが  

詩的作文という成果だったが、まだそれを検証  

したことはないので、詳しくはわからない。  

それは心の形というものだった。それに似せて、  

寄せれば、そこから言葉は湧き上がってきた。  

それを具体的に感じることはできないが、忙しい。 

例えば、100の言葉が眼の前を数秒で流れていく  

ようなもので、どれを選ぶかなど考えてはいられ  

ない。掴んだ言葉を書く。それにつなげる言葉を  

つなげる。変な言葉を掴んだと思う時もある。それ  

でも交換することはほぼない。書きつけて、どんな  

表現になっても構わないと思って、ともかく、続ける  

ことを最優先する。なので、終わってから見てみないと  

自分が何を書いたのか、意識してみないとわからない。  

後から感心したり、面白がったり、自分のものを  

読んでいる感想ではない。書いている途中には  

反省という、していることを顧みることが許されない。  

なので、二重に楽しかった。  

僕は自分の才能のいくらかをまだ手にしている。話す  

ように書くという、考えをシャットアウトして、すでに  

考えた思考を辿るように書き続けるといった具合で  

書いている。それでも以前から比べたら、その自由度  

において失ったものは大きいと感じる。  

時々、そのうちに大きな感興もくるのだろう、と。  

それを待つことはない。来たら、書くだろう。  

まだそれは消えたわけではない。   

僕の言葉は  まだ   生きるだろうか  

糸車を   回すように   

労働に  手を 貸すのだろうか  

失いたくないもの、     だが、   

忘れ去っているもの     

そういうものも    帰ってくるだろうか     

そうなんだ、    こうやって    

あなたの処へ    駆け寄りたい   

君が  必要としていると    わかるから    

僕の  名前は   いらないだろう   

下手な  説明さえ    いらない   

そこに  いさえすれば   

それが  どういうことか    わかる   

もう  僕の手を  放してもいい、 と   

それまで    そこに   いよう   

僕らは   それを  掴むことは   できない  

それでも   薪が  あれば   

それが  燃え尽きるまで は    

炎は   揺らめいているだろう   

炎の  近くで   

どれくらい  経ったら   

立ち上がろう   

それが   僕らの 別れ   

もう  僕の手を  放す時が来る  

君が  大切だったと   わかる   

今は  こうするしかないと   

わからなければ   いいんだが、 ・・・  

ビブラート   

オーボエ   

草色の タグ  

顔と  顔を   近づけて  

残す 言葉が  あるだろうか  

もう一度   

顔を   見せて    

Here   We   Go   Again   

冷たい  風が   

吹いている わけじゃない   

ロマン でもないだろう   

このまま  時が  止まれば   

僕らは   死ぬだろう   

死なないことが   約束なら   

僕は  行くだろう     

今は  失ってしまうが    

生きるには  支えなければならない   

それが    ある     

だから    また    

別れるん だろう   

きれいなことを  考えたわけ じゃない   

美しいことに  かこつけたんじゃない   

眼を つむって  生きることはできない   

そういう時   

君への  言葉が   

唇の 先で   錆びてしまう   

寂しい ね  



僕は 行くよ  





::

自分の死は痛くない。知り過ぎるほど、つき合ってきた。  

しかし、人の死はきつい。その人は死を受け入れられずに  

心痛めるだろう。その必要はないのだが、人は死の経験が  

ないから、未知の恐怖が取り除けない。僕はその不条理を    

どれほど味わってきただろう。そして、死はわがものになった。  

半分は。後はこの世の仮想空間や亜空間の「あの世」とかに  

騙されなければ、見えない道に導かれるのかもしれない。  

(人を救うという仏教修行の坊さんが騙されやすい)それは  

この先に経験することなので、何とも言えない。  

                      8.1
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