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日常の生き死に [生と死]

細かいところが気になるこの頃だ。 

韓国ドラマの女優がでかい鼻だし、好きな 

タイプではない。それは相手にしてみたら、

僕の言うことなんぞ、なんでもないのだが、

しかし、その眼は理知的で澄んだ泉を遠く 

に見ているようだ。そして、その眼も好み 

ではないのに気づくのだが、目が離せない。

惹かれるのだ。これは好悪の情を越えて 

何かを伝えている、という状況なのだろう 

けれど、それはどうでもいい。ともかく、

ドラマの役とか、よりも彼女の素はどんな

女性なのだろうか、とわかりもしない役

からは外れた、演技外の彼女がどこかに

見れるのではないか、と演技の隙間に注目 

している。

長いドラマで初めのころからは、彼女も顔が 

変わってきて、目が変わったので顔立ちさえ 

理性的に見え始めている。  

こういうのは幻想とか、夢を見ていることなの 

だろうけれど、そこに見える理知の姿はそう 

いうものでなければ言い表せない。ふつうに 

自分の好きなものにかぶせて夢を見たの 

ではない。自分の望みを幻想に投影して見た 

のだろうか?そういうものではない、透明と 

言ってもいいくらいな、すっきりした理知という 

形を感じた。どうして僕が心を止めたの

だろうか?

それがあったからではないか。好きでもない

女優に夢は見ないだろう。だから、それは 

特別なサインであったはずだ。  

そう思うと、僕はずいぶん昔から、時々 

そういう知性を見たがっていたのではないか、 

と思い出す。そして、見てきたのだ。 

それは僕が根底から記憶に残っている 

残像であるなら、それが僕が記憶に残って

いるのも覚えていられないほどの、過去の 

記憶なんだろう。そう思うのだ。 

思い出せば、そういう時に僕はそれを求めて  

いるから見ようとしているのだ、それはもう 

思い出すことができない青春の一シーンなの 

だろう。どうして僕はそれを想う以上に、信じ 

ているのか。それがわかる。

この小さな、ささやかな気づきがこの先も 

忘れられないのだろう。これで顔の部品が 

整ってきた。鼻と口は50代で会った。それに

目の感じが奥に理性を感じさせるものと

わかったわけだ。それがわかったからと 

いって、何かを思い出せるのか。そして、

思い出せたからといって、それはもう取り 

戻せない過去、という悲しみしかもたらさ

ないのかも知れない。 

僕らは短い命の燃焼を過ごす、一度。 

ほとんどがその後は記憶を追いかけて 

いるだけになる。どんな運に恵まれても、

なんらかの妥協に迫られる。たとえ、 

相手を間違えても、その人への情熱は 

愛の足跡をつかんでしまうらしい。 



風の音は 聞こえない 

風のこするものが  風の音になる 

その音の 向こうに  はるかけき 海が 

見渡せる だろうか 

青く  夏の  そのどれもが  

できごとではなく  

人の  想いの  空気圧になる  

思い出だった  

どんな過去も  こうも 透明に

なってしまう  

ものか 

なにも 記憶は  残して くれないが 

想いの  熱さも   ぶ厚さも  

そこには  漂う  

君の なまえを  呼びたい  

あなたは  風に  なるかもしれない  

が 

僕は  風に  なれない  



僕らはすべての青春を季節のせいに 

してしまう。過ぎてしまうけれど、また次の 

年に復活して、やってくるかのように願い 

をこめて。

掴まえられないものを、掴まえようとして

いるような歯車に絡めとられてしまう 

ようだ。

ああ、こうして坐っている位置を変えようとして 

腰をずらせる動作が、微小に胸を打つ。この 

動作を意識しながら、その意識がしあわせに

満たされている、その空気のようなものを。 

なぜこんな動作に感動しているのか。それは 

語れば、おかしく、笑われるだけのこと。 

こうして左の手の平を見つめるように、手を 

上に向けると、その手になにかガラスの玉が 

載っているのだ。それを確かめるように、

手の平に意識が集中する。見えている限り

では何も起きていない。そして、その意識の 

玉は見えないながらもある、と考えることが 

できる。そして、内面ではその考えを否定

して、実際はその向こうの世界で存在して

いることを確かめる。そして、確かめられない。

ただ信じる。 

・・・・、 それができる。そのことができる、

ということがすべてだとわかっている。

だから、しあわせを感じられる。 

自分を信じられない者に、なにを信じろと 

言えるのだろう。だから、自分の外にある 

宗教や科学(理論)や美術品や神社を 

信じなくてはならないのだろうか。 

それは自分が自分を頼れないことを(無意識

下で)知っていて、知には根拠がない、外から

自分の代わりをもってきて、心にそれを置く

ということなのだが。 

それを気にしろって言っても、意味がない

だろう。人生と言うと、それはこれまでの 

時間の記憶をまとめて言ってみただけで、

その便利さが気に入っているだけで、人生 

の中身を想ってみたことがない。

だから、人生を語る、という言葉に違和感を 

もつ人は多くいると思うのだが、そういう 

ことだと思うんだ。たぶん、人は自分を社会 

のなかで比べてそこでつけられた名称で 

何かであると思えるのだろうけれど、それは 

それでそう思えることで完成している。そして、 

本当に完成しているなら、それで満足する 

はずなのだ。なんの不安もなく、死を迎え 

入れることだってできる。できるのだったら、 

素晴らしいじゃないか。 

ただ、僕の見た媒体・文献などではそうは 

いかない記事が多かったように見受けられる 

だけだ。

紙(や概念)の上に人生はない。どんな 

データにされてもそこにあるのは、自分の

抜け殻だろう。自分(というもの)が思う限り、

自分(というもの)は自分の思い通りになら

ない。もう知っているはずだ、よね。  





::

走ってる、走ってる。そんな「時」の列車に乗って、 

行きかう人が多くの人を見ている。しがらみ 

とかいう、そんなスカートに巻き付かれたり、 

無理やりな生活に縛っておいて、そこからの 

脱走を考えてばかりいる。前向きという言葉を 

使って、その場で足踏みをしているか、澱みに 

浮かぶ泡の歩みのように、くるくる回って、 

仕事やなにかの目的をこなしているような気に 

なっている、なりたい。 

リラックスって、全部捨てちゃう。愛も知り 

たいって、それも全部捨てちゃう。知りたい 

って、必要がない。それは知るものじゃなくて 

自分を捨てた時でないと現れないもの。

自分が意識されなければ、自分をどうのこう 

のも考えられない。僕らは自分を避けて自分を 

見ないが、楽しさのなかでも自分を見失わない 

ことはできない。楽しいことを求めるのは、自分

を忘れることだから。楽しさに罪はないが、 

なにかを避けるために楽しさを求めるのが日常 

ならば、僕らは本当に望んでいることをして 

いない。

根底として自分(というもの)は自分を知りたく 

ない。向き合うのを避けようとする。そこで僕ら 

は一人になると、目的もないのに、なにかに

かこつけて、ぶらぶらと外に、なにかありそう

な街へと出かけてゆくのだ。 


人と会うのは生きるためだ。一人になるのは

精神的に死ぬことだ。生きると死ぬを一日の 

うちに何度もできるが、その人の経済や生活 

次第でそれは限られる。その細かい生き死に 

のくり返しで僕らの人生は成り立っている。 

そして、これはほぼ誰も意識していないし、 

できない。非日常というのは僕らの日常で

言われる幻想世界をいうのではなく、精神的 

な死をいう。

三段階ぐらい究極的に思える死を超えると、

ある人はそう考えたのだろうと想像するが、

それは悟りを段階ごとに三回繰り返した 

ことだ。そうなると生き死にの区別は感じ 

ないだろう、と僕は想像するし、想定している。

こうなると線香臭い話でしかないのが残念 

だが、今はアバターになって、何度死んでも

復活できるという考えが習慣になる、そう 

いう時代だ。誰も精神の死に目を向けない 

だろう。 





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