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見える?見えない いる?いない [生きるわけ]

こうして坐っていることが、それを

直に話題にしようと思ったことは

なかった。今、それは変に思えた。

今までは自分に反発を起こさせる

ような、挑発をしたのだけれど、

それがどういう効果があったのか

を別にしたとしても、坐った時は

まぎれもなく書き繋いで来たのだ

から、それはふつうに特別なこと

だと自分でも認めていいではないか、

と確信した。それが初めてのこと

だった。

何を、例えばそれが何かに拠って

いなくとも、因果とか世界とか、なに

か命題を示さなくとも、どうもいい

のではないか。それが心の写しとい

うものではないか。

この心ひとつがあれば語るに困る

ことはなく、いつでも片隅にでも

引っかかった言葉のひとつで、それ

は自分の中にあったものだから、

なんらかのテーマを従え、そこに

戸愚呂(とぐろ)を巻く蛇のような

ものではないか。つむじ風のように

軽いものかも知れない。

これはこれそのものが語るに十分な

ものを備えているということなの

だから、ただ話すように語ればいい

のだが、そこに概念的なテーマがあれ

ば、もっと歓迎されるのだろう。



恐らく、ものを読むということは、

少なくともひとつは絶対なことが

ある気がする。それは落ち込むよう

なことは読みたくないし、まったく

期待していない、それどころか避け

てしまうだろう、ということ。

それについて語るのはやめよう。

さんざん話してきたし、また同じ

処についてくり返しになりました、

というのではつまらない。

もっとも、いくらでもくり返す必要

がまた一方であるのも事実だが、

それを詳しく語るにも資料読みが

必要だ。

ずいぶん前に「旧約聖書」を印象

読みしたが、驚くべき、期待しな

かった結果だった。あれは何だった

のだろう?

それは旧約聖書を読む必要に迫られ、

日本聖書協会の「口語訳 聖書」を

読もうとしたが、旧約部分だけで

1300頁ちょいある。読み通すのは

かなり困難と感じたので、見るだけ

にしようとした。ほぼ読まないので

ある。それはまず通し読みをする前

に印象付けとして、前頁をめくって

眺めようとしたのだ。1頁を3秒で

区切った。

3秒間眺めたら、次のページへ進み、

また3秒間眺める。そこで気になる

箇所があった時は、数行を読む。

読まないのは意外につらい。眺めて、

次、眺めて、次をくり返すと、速い。

が、それでも単純計算で、1300頁

× 3秒 = 3900秒。つまり、

1時間以上かかる。ところが、実経験

では30分くらいにしか感じなかった。

西洋の本や小説、評論を読むと必ず

聖書から引用された隠喩が出て来る。

その意味合いがわからず、とうとう

覚悟を決めて、聖書に手を出した

ものだが、このあと聖書をちゃんと

読むことはなかった。これは今でも

不思議だが、その頭に入るはずもな

い読書法で旧約聖書、たぶん細切れ

で数十ページは読んだ、の印象が

わかるようになった。

僕は絵を見るのに相当きつい時間を

過ごしたので、視野は広い。今、

眼の前に見ている、確実な範囲より

もそれから外れた視界で意識して

いるはずがなくても、本の棚(書店

で)を見ていると、見ている場所

から30cm位離れていても、目に

飛び込んだようにその背表紙の文字

が来る。それでどこにあるのか、

周囲を探さなくてはならなくなる。

その広い視界も一役買っているかも

しれないが、旧約に登場する神に

ついてはあと少しずつ部分読みを

するだけで、その印象は捉えている

のがわかった。もう、西洋の翻訳本

を読んでも旧約を取り出して調べる

か、と考える瞬間もなくなった。

眼、だけでこれだけの容量を広げら

れるのだから、その他の五感も僕ら

は閉ざし気味であるのは明らかだと、

僕は思う。

僕は概念を否定したいとは思わない。

ただあまりに頼り過ぎで、もっと僕ら

の生命上で肝心な点を僕らが日常に

見過ごしてしまっているのを、まさに

見過ごせないだけだ。

その頼り過ぎは科学の成功による勢い

が強いためそういう論理的思考・能率

的思考が教育に都合がよいため、長い

習慣と制度によって固められてしまっ

た所為だが、今やその視覚の方向から

すべてを眺める考え方と思想が定着

してしまっている。人間とは、と問わ

れると、人間性ではなく人間工学で

考えようとする。そのためにそれが

現実という闇のバロメーターであり、

支配者(現実)に対して消化不良を

起こしており、実社会での衣食住は

もとより、インフラや娯楽にまで

不適応を及ぼしている。

それに気づけないほどなので、皆、

部分部分で対応しかできていない。

それではもぐら叩きのようなもので、

一時的解決しかもたらすことができ

ない。

自閉症というのは、個人的には面白い

病だ。押し付けられるのが苦痛で10年

も引きこもるとか、誰か闇から手を伸ば

しているのかと思うくらい、・・・これ

はだいぶ横道が長いので今はやめる。

オリバーサックス著の「火星の人類

学者」で取り上げられた患者の一人、

テンプル・グランディンは女性の動物

学者で社会的に成功している人で、

彼女はまったく人類のひとりとも恋愛

することができない。彼女の書いた

自閉症患者による自閉症を説明した本

を、気になった人は読んでみるといい

だろう。


あるなんの学者だったか、彼は妖精を

信じていた。シャーロックホームズを

書いたコナン・ドイルもその昔、イン

チキの合成の妖精写真にだまされたの

は有名だが、それくらい欧州では妖精

はふつうに信じられている。

アイスランド?だったか、その国で

は驚くことに妖精のための法律がある。

各地で温泉が湧くのでボイルするので

あるが、そのボイルする前にその穴を

開ける地下に妖精がいないことを証明

しないと許可が下りないらしい。マジ

で妖精が信じられていることだ。迂闊に

ヨーロッパで妖精を子供じみた話だと

笑わないほうがよい。変な目で見られ

るのは、あなたのほうだ。


なぜ、旧約の神の雰囲気・思想な様子

が読まずにわかったのか。なぜ、欧州

では人は妖精を見るのか。

学者の話だった、彼はある時眼を痛め

て、数か月か、目に包帯をして光を

見なかった。そして、医者にもういい

だろうと、包帯を外した時に部屋に

妖精が飛び交っていたのを見たそうだ。

詳しくは知らないが、2,3日は見続け

られて、その後消えたそうだ。

これは信じることによる、心の強制の

投影現象と言えそうだが、どうも完全

に否定して打ち消すには、いるとも、

いないとも証拠は出てこないようだ。



僕はもう一度、読む必要もあるので、

その前に1頁3秒の印象読みを「聖書」

で再トライしてみるべきだと考えて

いる。


人は何を見て、何を見ないのか。それ

には厳然とした理由がある。そこに

浮かぶテーマは、人は信じたものを

(錯覚・幻覚を問わず)見てしまう

こと。

では、僕らが見ているものは、ただ

の幻か。そうではないだろう。物質

の分子の壁がある。仮想現実に生き

ているとは(映画・マトリックス

のように)、思えない。それは以前、

言ったように僕らがまず特に意識し

ないで、生きているのを信じている

ことだ。自分がゲームのコマのただ

の電子信号による死なない加工品だ

とは思うことはできない。それは自分

が死んでいると言うようなものだ。

信じている限り、自分は存在して生き

ている、と誰でも思っている。

それが信じていることだ、無意識に、

無自覚に。そこに確たる意味・理由は

ないだろう。

では、何があるのか、

それが僕らが生きようとする理由だ。

説明できない、衝動のような、生存

していればそれでいいのではない、

なにか、だ。


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