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散文詩へと降りる階段を [散文詩]

音楽が聴こえ始めたようだ。音楽が

他人であるよりは、少し心乱される

くらいのほうが、それくらいでないと、

楽しめないようだ。 

そえだ信と添田学はどちらがペンネーム

なのか、と昨日は考えていた。

語りかけているのが、ゴスペルなのか、

ストリートミュージッシャンなのか、そこ

から文学臭や街角のオペラから漏れ

てくる歌声が聴こえてくるようであれば、

なおいい。

窓を開けて、世界を迎え入れる。

それはビジュアルで美しい世界を

前提としているんだろう。僕の何が

どう介入しているのかは、気にしなく

ていい。  

今晩も、蛍を見に行くことはないようだ。

その気にならないのは、不思議なことだ。

自分のなにをそれに、どう合わせよう

というのか。

少年の頃に読んだ、ジャングルの物語

とか、ジャングルの樹々の厚い葉っぱ

たちの匂い。

原色のどぎつい色が灼熱の街に似合う

のはどうしてだろうか。どうして街ごとに

それぞれのメロディがあって、それは

その国・地方の情景を背景にして、聴けば

それがすぐに現れるのか。聴くまでは、

とても思い出しそうもないし、まず出て

こないだろうとわかるのも、不思議だし、

それは独特なのだ。

僕らはそれがその国の音楽だとわかるが、

それが自分の国からは決して生まれない

だろう、とわかるようなメロディもあるのは

気の遠くなる過去を思い出させるようだ。



僕らの体に刻まれたのは、体の特徴

ばかりではなく、父親のメロディも組み

込まれているし、母親の和音も節や調子

があるように、奥に隠れて因子になって

いるのだろう。細胞が古くなって、分裂

が止まる頃に、それが現れて、過去に

戻されるのだ、ほぼ強制的に。

そういう風に概念を辿らなくても、美しい

歌声はそこにある。声を聴きながら、

それを美しいと感じるものはなにに拠って

いるのだろう。

Confusion 、

僕らは心乱すものを求めて、それを美しさ

と呼んでいるのだろうか。

Slow Down 、

アー、 と コゥーを、混ぜたような

細い声が  透明に見える。

長い彗星の尾を  引くように

伸びやかな  その 響き 

なにかを  掴んだ!  その時は

どうして  皆も それがわかって

感動の渦が   生まれるのか。

そして、周囲の皆が 感動しているのが

お互いに  わかっている。 

これは   なんだろう。

その感動の前には  誰も

なんでもなかったことを  忘れて、 ・・

声が  胸を  つらぬいた。

僕らは  その力 の前に 

死んでしまう、   一瞬。

死ななければ、その夢に  参加できない。

現実は  だから、 一瞬で   覚める。

が、  覚めない。

その余韻が  思いのほか響いて 

それには  触れることができる。

その振動に 触れて  僕らは 

共鳴する。

こうして   僕らは  感動する。

共鳴の 余韻なのだ。

それは決して  交じり合わないが、

一瞬  交差する。

夢と  現実は  どちらも  

実現しない。

僕らは  その余韻を  そ、楽しむ。

僕らが感動しているのは、

現実を  知らないから。

夢を  ほんとうは 知らないから。

生は  死とともにある時、 すべては

実現するのだろう。

それは  今、 というなにか、  だから。

いつまでも  仮のものを  実現した、と

思い込んでいる  そういう状況で

僕らは  楽に生きられる  のだろう、

のだろう、 ・・ と 。  。  。



7000mを 越えると、 頑強な体の

プロ登山家でも  生存は ただの

生物生命維持の  存続を賭けたものに 

なってしまう。

酸素ボンベがないと  あるいは  よほど

ヨガの呼吸を 修行しないと  

酸素が  間に合わない。

今年も  ヒマラヤに来た、父に会いに。 

同じ登山家で、  ヒマラヤで亡くなったが

遺体を  おろす方法が  ない。 

辿り着いた8000m、 親父はいた。

雪を払ってやると、 同じ顔をしている。

亡くなってから時間は止まっている。

細胞の分裂の分子運動が、遅くなって

いるのだ。

少し、頬笑む。 もう父親の 年齢を

越えてしまったからだ。  オレは

親父より、 歳を取ってしまった。

彼のほうが、若いのだ!

奇妙だが、これが現実だ。これが?

現実は、まるで「夢」のようじゃないか。

魔法でないと、親父を年齢では越えられ

ないはずなのに、親父は もうすぐ

オレよりどんどん 若くなり、

あと15年もすれば、 オレが親父の

親父になってしまう。

夢のようだ。この現実は、まるで夢だ。

住む世界が、環境が変われば、僕らは

現実が変わってしまうのだ。

固定化された現実は、地球の陸地の

平坦な大部だろうが、別世界はいくら

でもある。



音楽も夢を運んでくるようだが、これも

夢の現実を運ぶために、音階・音程・

音調を使った、僕らの方法の一つで

あり、ひとつの、 迷いなのだ。

僕らは  迷いの中にいる。

そういう特別な世界を 造っている。

そして、自らの始めたことなのに、

しかたなく、ここにいると思っている

のだ。

ここは  ほんとうは  どこなんだろう?



ムジカ、  ・・・ まじか。

僕らの自分。その自分のなにがそれを

知っているのだろうか?知っているから

不安が去らないのではないのか?

気がつかないようにする一方で、不安

の穴が広がらないように、修復を考え

ている。それを見ないようにして、見ている

気にさせなくてはならない、不安な自分が

いる。そいつをどうにかしなくてはいけない。

神に頼ろうか。感動して、それに拠ることに

しようか、とその国に伝わる方法で、ほぼ

限定で考える。宗教はその手軽な手段に

なる。

音楽でひとつになろうとするのも、そのひとつ

なのかもしれない。合唱して、合奏して、

何か一つに全員で合わせることで、その

世界を合わせる、仮初に。

僕らはそれらでもマンネリ化してしまうが、

夢との一瞬の交差は忘れない。感動が

匂いのようにまとわりついているからだ。

その余韻を求めて、方向もわからずに

活動を試す。その現実の破れ目に癒され

るのを期待して、からだろうか。

僕らが人生を変えるのは、決してそこに

真実に出会うからではない。真実と

想定したものは、概念になり変わるが、

その強烈さは、現実の荘厳さだろう。

僕らは現実に目覚めて、人生を変えて

しまう。変えなくてはいけないことを、

知ってしまうから。その動機が心に

刻まれるように生まれてしまう。

なんてことはない。僕らは楽観された

世界を楽に生きているのだが、現実

はそういう状況に遠慮はしないから、

あらゆる不具合が、そういう状況が

生まれる。その時だけ、それに対して

だけ適応しようと頑張るが、終わると、

それも忘れて、現実から離れてしまう。

僕らは安寧な世界に身を委ねている。

自動車の運転をしながら、まだ大丈夫、

と酒の量を増やして、飲んでしまう。

必ず事故るのはしかたない、運転を

止めるか、酒量をもっと控えるかしない

と、人生はうまく回らない。

神の声を聴きたくなるだろう。ソクラテス

のように、生きる意味をそこに見出し

たくなるだろう。そうしてきた人は多い。

ただ、僕はそれで神に会ったという人

はあまりに少ない、ほぼいないことで、

それはおかしい、無視されてるだけじゃ

ないのか?と思う、そういう人間だ。

僕は人間の神にも超人にも出会わず、

言葉にならないものに(強く、激しく)

出会った。

これもひとつの限定された出会いなの

だろう。大乗仏典にしたように、仏教を

概念化(便利品)するようにはできないが、

僕は必然的に学ぶ姿勢になる。

例えば、宇宙を地球の1億倍と少なめに

見積もって、クリアした宇宙はそのまま

ではない。知の征服を喜んだ晩、そして

数日後には宇宙を見上げると、そこから

さらに1億倍に膨れ上がった、どこまでか

見えもしない宇宙を見る。悟るのは、永遠

の先には永遠が広がっていること、僕らは

そのいつもその一歩手前の永遠の中に

いる。

― 自然に考える。僕らは永遠にそれを

くり返す。それも解き明かした永遠よりも

抜群に大きくなる永遠をくり返す。

そりゃ、誰だって神に負けてしまうよ。

それは諦めたくなる。だから、自分という

現実から離れてしまうのだ。愛を逃げ場に

してしまうのだ。超常現象を経験した者は

少数派だが、少なくはない。それでも彼らは

安価な愛や崇高な神の概念に拠ろうとして

しまう。そういうあなたは選ばれた人間なん

かじゃない。

(ここにある私・あなたを)諦めないで、と

僕は言いたい。

今の永遠に見える、実際の永遠も僕らの

現実であり、夢なのだ。生命がそのなに

かしらが、僕らにはある。その中心にある

ものを、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・、それだけでいい。

僕は最高度に疑うことができるが、その

必要はない。安心できる。それがあるから。

生命の中心に。

なぜ、偉大とか、善良なるとか、崇高なとか、

最高のとか、全知とか、聖なるとかそういう

装丁・装飾をしないと落ち着けないのか、

僕らは。

いつも、なにかを差し置いて、誰を慰撫しよう

としているんだろう?



その 美しい声

その誘いの  気持ちよさ

その誘いに  乗らない

盤石の  この世界

また  滋養を楽しみながら

盤石の   その味わいよさ

そして  盤石であるために

僕は  心で  脆弱になる

必要で あれば

心は  好きな時に  捨てればいい

脆弱でなければ  生きれない時がある

そして

それにしても

盤石でなければ  どこにいるのか?



祈りたいときには   祈る 

アレル ヤ  

アレル ヤ



必要で あれば

心は  好きな時に  捨てればいい



脆弱でなければ  生きれない時がある

祈らなく てもいいのなら



それにしても

ほんとうに  それにしても

盤石でなければ  どこにいるのか?



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