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夢を見ていた [気づき]

「夢を見ていた」この言葉が口から

出てきた。思わず言ってしまった。

ほんとうに気づいた時によくあることだ。

嗚咽した時も、誰が声をつまらせて

いるのか、自分とは知らなかった。



僕は夢の側に集中して居場所を確保

していた。そこから客観「的」立場で

現実を見て書いているつもりだった。

それは半分その通りだったが、半分で

自分が夢の側であるという実感が

なかった。そのことに真に気づいて

いたわけではなかった。

ブログの終りを少し向こうに感じ取って

から、しばらくしてから急にわかった。

僕が夢から降りてきたことで、そのこと

が決定的になった。

それは僕らは夢を見ている、ということ

が決定的だということだ。

自分がないとか、知が破壊されると

いうことは起こらないが、そういうこと

をリアルな想像上で体験するのは可能だ。

僕らはどう夢を見ても、いつかは現実に

戻される。

しかし、このことは言っても無駄だ。

僕らはそれを頭で考えるように受け取る

ことしかできない。現実に目覚めること

は到底できることではないからだ。

と言っても、何を言ってるのだ、これ

まで人間がして来た歴史を見れば、

現実に自然を改革して文化文明を築い

て来たし、これからもそれが続くに

違いない、と、反応・反論が返って

くるのは当然と思える。


だから、わかっていないのだ。

僕らは確かにそうして文化文明を構築

して、高度な社会を作り上げたと

教わっているが、それは一方的な見方

にしかならない。そして、偏った見方

であるばかりでなく、忘れて失った

ものを未だに見出すことはないし、

これからもするつもりがないと宣言

しているのも同じだと、まったく気づ

かず言っている。


これが頭の良し悪しの問題ではないと

はわかると思う。感受性の、また直観力

の問題でさえない。

僕らが非常に大事なことに気づくという

ことは、実はあまりない。それはあまり

に実生活に密着していて、子供の頃から

見慣れたり、概念化して気にしなくなっ

ていたり、ともかく頭で処理されていて、

言葉の裏に隠れてしまっている。時々

その一部が幻影のように顔を出すが、

すぐに打ち消されてしまう。気にしても、

とか、気のせいだ、で終わりだ。

気がつくというのは、そのままの言葉を

理解するのではなくて、それにまつわる

連鎖とその関係性がすべて理解され、

納得できるということだ。

通常の頭や情や感性の他に、それを

見ようという非常な勇気を必要とする。

お化けだと思ったら、怖くてまず

見ない。

その恐怖を打ち破るのは、言葉の

示すほうをそのまま見る、という

ことなのだが、ドラマでお芝居の

ようにベタな台詞で出てくるくらい

で、その現実を引き起こし、創るの

は並大抵ではないし、経験がない

から、これが何を指して言っている

ことか、経験しなかった人はわから

ないだろう。

それがそのまま、いまだに現実の中で

夢を見続けている状態だ、ということ

なのだ。  

僕の場合は位置が夢に居た。夢の場合

は現実が逆転するから、感覚では現実

でも、夢のその究極の夢がリアルな場、

というものになる。

そこに順応とか、同化とかは不可能な

ことだった。受け止めるだけで、侵入

させずに、その緊張状態に慣れるだけ

だった。それは唯一の生きる手段に

思えた。半世紀もそれをやって、この世

に足場を移し替えてから、実際にこれ

が限界だと悟ったのだろう。そうして

実装として夢から現実に(精神でだが)

乗り換えると、当然に心は現実になった。

心が夢にある時は、現実はそれほど

リアルではない。

「夢を見ていた」まるでお化け屋敷から

出てきて、外の空気はうまかった、という

具合にその違いが分かった。

僕が夢の側でよりリアルな夢を見ていた

ように、人間の僕らは現実で皆、リアル

な夢ではない、現実からの夢を見よう

としていて、そのつもりだという「皆、

夢を見ている」のが現実だった。


それが僕が「夢を見ていた」という言葉

の次に来る、確実な光景だった。

しかし、それを全面で決めつけるつもり

はない。現実はリアルな現実でしか動か

ない。僕らの営為や努力・情熱はそこに

活かされてはいる。それは限定された

部分のリアルな現実で、だ。

夢の世界からは、その全体が見えるから、

見通すのはまだ楽だ。そのゴタゴタの

中に入ってしまっては見えるものが見え

ない一面と見えないものが見えたりも

あるから。それくらいの優位だが、それ

で十分、自分が本当は何をしているの

かがわかる、時に手間取るが。

僕はまた死を肌身に理解したい。その

せつなさ・むなしさ・悲しさの苦しみが

恋しく、忘れられない。それは今、それ

が記憶になってしまいそうだということ。

せつなさは愛を生み、むなしさは恐怖に

打ち勝ち、悲しみは突き抜けると天国

で、まるで無敵だった。世界の隅々まで

俯瞰し、怖いものがない、というその

ものだった。

その代償は体力・気力・精神力・知力・

感性の“充実した集中“で生活に一瞬の

気も抜けないし、(理想として)抜か

なかったことだ。

それが無意識な夢と自意識の現実と

の往復のバランスという無意識の要求

なのだろう。

それがどうだったという感想が述べる

ことができない。あまりにめまぐる

しくて、ちゃんと把握できたものが

どれくらいあるのかも、見当がつか

ないからだ。

まさに夢の世界だ。

僕らは気づいていない、と言われて

素直にそう思う人もいないだろうし、

言われて気分がいいはずがない。

僕だってそう思うということだ。

僕は人に取り付いた鬼を見たという

女性を知っているが、彼女が見た

というのを未だに信じていない。

それが僕らの常識だ。

やたらと信じるよりも、それなりの

経験なりをした時には、それが真か

どうかわかるから、その時に判断す

ればいい。それまでは否定もせず、

信じる必要もない。

それが僕らの正しい常識の作法だが、

わかる人はそれを超えていることを

僕が言っていると、知っている。

それでいいのだ。すべからく、それ

ぞれの人に歴史があり、まず越え

なくてはならない問題が控えている。

前門の虎というのか、ご愁傷さまな

ことだ。



:::

この文は書かれてから、考えてみたが、

気まぐれな僕が、急にブログをなんの

前触れもなく止めてしまうこと、あるい

はどこかへでかけてしまうこと(海外

とか)もあるのを思うと、予備的に最期

の文章として、生前葬儀ではないが、

意識が明瞭な時の文として、残そうと

投稿することにした。余計な気もするが。

物事はなるようになる、それはなるよう

にしかならないと、同じことだから。


「夢を見ていた」=軽い、ショックだっ

た、自分の言葉が。

現実だった。


哀しい言葉を紡ぎ出そうとする自分

がいる。が、うまくいかない。まだ

攻撃的な自分の心が収まらない。

思い出や悲しみ。

それは目の前にある。あるのだが。

僕の強烈な自我は、底では負けない。

負けるくらいなら、自分を殺して、

微塵になるくらい抹殺したほうがよい、

と考えるのだ。これはどうしようも

ない変人だ。そういうふうに我を通さ

ないと、気分が悪くなるのだ。我慢も

覚えたが、最後の最後にはこの変人に

会わなければとなるなら、いささか

遠慮したくなる。

ならないだろうか、僕はなる。そう

いう自分とつきあって来た。彼もひとり

の人間であるなら、そういう人間が

ひとりいてもいいのではないか、と

思うのだ。


僕らはどうして生きるのか。それよりも、

どうしてこうまでして、そんなことで生か

されるのか、と考えてしまうのだ。

僕らは何に忠実に生きるのか。それが

美しいなにかであるなら、どうやって

生きるのかも美しいだろう。

街角で知っているポップでもかかると、

こんなたわ言はかき消されてしまう。

僕らはすぐにそうやって、人生という

列車を降りてしまう。

僕は別な列車を降りた。もう話した。

夢を見ていた、この声に僕の50年

があったと思うと、感慨では尽きない

ものをそこに見て、僕は、・・もう・・

語ることはない。

ここにいるのだが、 ・・・。

8.19


この記事から4か月近くが経った。

(つまり、投稿する機会を逃した)

新しく反省を書き加えることがある

のではないかと、思うのだが、

その時にそう感じた、という事実を

思い出すだけで、そういうことが

あったとしてもおかしくはないな、

と。それだけなのだ。

今日は満月だということだが、月の

大きな波を感じることもなく、ただ

背中をひねったのか、筋肉痛で痛い。

この先はやはり、別な記事になる。


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イスラム教徒

こんにちは

私はイスラム教徒です。 イスラム教について学ぶよう人々を招待します。

私のブログを見てくださいイスラム教についての写真やビデオで説明しています

https://jpis1.blogspot.com/2017/03/httpsislamhouse.html

幸せな人生をお祈りします……ありがとう


ムスリムは創造主である唯一の真の神へ従う者だ

我々は唯一の御方、創造主、真実の神(アッラー)のみを崇拝しなければならない。

者を援助、食物を与え、支えるように勧めている。

イスラームは、人種や肌の色や国籍に関わらず全ての人間は平等であると教えている。

イスラームとは唯一の真の神であり創造主へと従うという意味だ。

ムハンマドは40歳になった時に、天使ガブリエルを通じて啓示を受けた。

預言者ムハンマドは述べた。「もし、ある男がイエスを信じ、私(ムハンマド)を信じるなら、彼は二倍の報酬を得るだろう。」

イスラームは私達の両親と高齢者を敬い、気に掛けるように命じている。

彼は人種、肌の色または国籍に関わらず全ての人間は平等であると言う。

し主の許しを乞うこと。己を愛するように人を愛すこと。

全体を異教と偶像崇拝から、唯一の神(アッラー)へのタウヒードと従順へと変えた

イスラームは弱者、貧者、困窮者や障がい者を援助、食物を与え、支えるように訴えている。

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「45秒で説明される無神論」

https://youtu.be/6bmey_iCKvc

無神論の定義:

無神論とは: 創造主の存在を否定するという考えに基づく哲学的教義。

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【 人生の意味 】

https://youtu.be/bBCC1qaOkWw

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ある宗教の真偽を見極めたいと思う者は、その感情や感覚、習慣に照らし合わせて判断するのではなく、むしろ理性と知性に依拠して判断すべきである。

諸預言者を遣わした時、神は彼らが神から遣わされた真の預言者であり、 彼らに託された教えが真の宗教であることを証明するために奇跡や証拠を示し、彼らを支えたのである。


このウェブサイトは、いくつかの人々が尋ねるいくつかの重要な質問に答える:

1- クルアーンは本当に神によって啓示された言葉なのか。

2- ムハンマドは本当に神によって遣わされた預言者なのか。

3- イスラームは本当に神からの教えなのか。

((( イスラームの真実性の証しでは )))

https://www.islam-guide.com/jp/

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イスラームでは

説明

これらは包括的な言葉であり、イスラム教の原理、柱、長所、目的を示しています。
これは、イスラムを理解するための鍵です。

http://bit.ly/2rqslnj
by イスラム教徒 (2023-04-26 18:31) 

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