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苦のない生活は不自由の方向 [必要苦]

なぜか仕事が増えてしまって、・・

年末へということと、車検が重なって

ということもある。

なんのことはない、雑用が増えたので

ある。それで一日の内にいかに茫洋と

していたか、またその時間が必要不可欠

なものかというのを味わうように知った。


散歩に出て、あまり人が歩かない場所に

行くので、拾い物が多い。先日も、亀

公園の上にある、極狭の公園を歩いたら、

うんこの匂い、だが、違う匂い。

銀杏がいっぱい落ちていた。公孫樹

の葉っぱに隠れて、拾ってみると、

とても拾いきれない。それでも30個

ほど拾って来た。以前、横浜港公園の

公孫樹並木でもギンナンが落ちていて、

拾って来たことがある。銀杏は好物だ。

子供は7個から15個の間で食べると、

中毒症状を起こすそうだ。大人は40個

かららしいが、慎重に10個まででやめた

ほうがいいと、書いてあった。

60個食べて病院へ行った人もいるとか。

確かに、それくらいなら好きなら食べて

しまいそうだ。



本がある。部屋部屋に大量に。

それは最近まで威圧を放っていたが、

僕への圧力を弱めたらしい。なにも

変らないからだ。もう僕の余命を

僕の読書量から推測しても、もう

全体の半分を読むのも疑念だ。それ

なのに、本を処分しながら、別に本

を求め、結局、買い増ししている。

計画性がないというのは別なことを

言っている。僕に読書については

計画など役に立ったことがない

からだ。

本を処分するのは、寝床に布団を敷く

場所を確保するために、本棚の本を

処理して寝床の本を収納整理しなく

てはいけない。その時、その都度これ

は後回しにされる本だから、処分して

も影響はないだろう、と考える。

それくらいか。あとは読みたい本が

いくらでも出てくるのだから、なる

べく購入しないように、するべくして

ならない時には、購入することに

なる。

いつもと同じだ。

平均して、数ページから10頁以上

読むと、考え込んでしまう。その書か

れていない部分に思考の方向が定まっ

て進んでしまうからだ。本の意向に

沿って進まずに、いつも僕の意向が

優先して、疑念を潰しながら読んで

いるからなのだろうか、よくそれを

考えたことはないが、本は途中で

途切れ、それを広げた思考を押し

考えるようだ。

言葉の性質というよりも、人間の

性質上だろう、結論を早めに言う

傾向があって、論拠や必要経過が

飛ばされている。そこが気になる

のだ。

それに対してあらゆる視点が勝手に

浮かびあがって来て、ひどくなって

茫然としている。自意識はそれを

手放して、あとは無意識な脳の

どこかか、他の組織の脳(?)に

まかせるのだろう。

それを気にしなくても、ある程度

まとまると、後日、勝手に出てくる

のでそういう独特な精神衝動を感じ

たら、パソコンの前に坐ればいい。



これができるというのは、単純に

楽しい。実に単純で「人生は楽しい」、

それがやって来て、それだけになり、

それだけにすればいい。

楽しい音楽を聴いて、そういう気分

になれば、同じことだろう。

この楽しいというのは、日常がうまく

いっていて、不安がないから楽しい

というものではない。今はそれが

できる。それが今、というものだ。

体の悩み、経済の悩み、この先の

不安はいつもあるのではないか、と

いう気がする。

それはそれ、という範疇の空間が

あるように、それと切り離せる精神

空間もある。その心の使い方とでも

いうのだろうか。日曜日に休みなのに

仕事のことばかり考えているのはおか

しいだろう?という感覚だ。

苦は消えない、苦として存在している

から。同居人に出て行ってもらえない

のだから、カーテンでも引いて、区域

内で楽しむ。

問題はバランスだろう。楽しいばかり

では感覚がゆるくなり狂い始める。

健康でありたいなら、楽しんだら、

それなりに苦を楽しむほどに、やって

みることだろう。苦も巻き込んで、

それに負けないガッツで見つめる。

あるべくして在る相手には勝てない。

どこまで一緒にやれるか、受け入れ

る必要はない、監視しながら、やれる

ところまでやるだけだ。

なにがよかったか、ということを

考える必要はない、とわかればかなり

苦と遊べるはずだ。ただし、体力も

気力も精神力もいるから、その内の

二つで自信がない人には、勧められ

ない。過ぎ去るまでなんとか耐える

ことだろう。

最初に一度それを克服して勝つことが

必要で、これは歯を食いしばっても

やり遂げると、後は全然ちがってくる。



僕は苦のない人生は歓迎できない。

人生は闘いだからだ。どんな意味でも

誰かを必要とし、必要とされるのが

醍醐味でもある。

それがたとえ、たった一人でも、僕ら

は自分と対峙して、そういう困難への

工夫を果たすようにできている。

僕らが知性を働かせる限り、ひとりに

なることはあり得ない。それは誰かを

頼りにしていることではない。

僕の経験では誰にも依存しないで、

ひとりでいい、これで死んでしまっ

てもかまわない、と思い切った時は、

必ず手が差し伸べられた。それは見え

ない手である時もあった。運命は測り

がたい、望みが絶たれたと覚悟した

時が、脱出できる時の寸前、その

手前だった。

それを何度も経験すると、中途半端

でなければ、実にその状況にまったく

希望とは矛盾した正確な喜ぶべき現象

が付随して起こるという、不思議を

見せられた。

僕はたぶん、ギリギリで自分への

不適応な対応を避けることができて、

自然な僕への道を歩いた。道が

あらかじめあるわけではないが、

歩いてみてそれがわかった。

無理をしないというのは、無茶を

しないということではない、そこに

戻るための無茶なら、乱暴だが、

それも一手段だった、そう思える

のである。そうしてみて、数十年

に十回も経験すると、それさえ心得

ていれば、人生で躓くことは怖くない

し、いくらでも無茶をしても大丈夫

だ、ということもわかった。

ふつうに真面目にやっていれば、人生

は続く。自分を越えたり、卑下したり

で自分の域を知らなくてそういうこと

に陥るのであるのならば、僕らは盲目

にも等しく、転落するのだ。

僕らは転落するようにはできていない。

だから、その境界線を試すことも必要

かもしれない、若いうちに。

苦はそのためにあるようにも見える。

初めはなにをやってもそれが現れる。

うまくいかない自転車乗りも倒れる

たびに倒れなくなるようなもの、苦に

慣れるに従って、そこのコツが掴めて

くるのだろう。

僕の気持ちはいつも分裂していた。

もう死ぬだろう、と諦めたが、それは

気持ちの上であって、行動は出口を

求めて、へこたれずに続けていた。

それは矛盾していたが、いつの間に

か身に着けたのだろう、気持ちと

勢いが分離しても、戦っていた。

それは思えば、山岳で生き延びる

ために学んだことかもしれない。

食べたくなくても、生きたいのだっ

たら、今食べなきゃダメだ、と

知っていた。汗をかいて、体が湿っ

てしまうと知ったら、どんなに面倒

な冬のさ中でも、リュックから下着

を出して着替えた。

自然がそういう鉄則を教えた。

動物を殺傷して10分以内なら、肉も

血も新鮮で、飲食しても害はない。

血は特にビタミンAが豊富で、その

昔、北極を目指した探検隊でも、

エスキモーの生活を参考にして、

ホッキョクグマを殺して、血を飲ん

だ探検隊は生還したが、同じ時期に

近代設備でそれに頼った探検隊は

ビタミンA不足で、確か全滅して

しまった。そこの極寒の生活で

生き抜いているエスキモーは自然

の代弁者のようなものだ。


思えば、僕は極端な夢の中にいた。

それでか、極端な現実には尊敬の

念を覚える。それはどちらも荘厳で

完全に僕らの妄想や想像という、

中途な概念を越えている。そして、

それは見えるが、囚われた眼には

自己の中で見えない。

それは政治でも芸術でも、極度に

至ると、そこで見る人は見る。

それが不思議だ。それは変わらない

ことだからだ。精神の世界と物の

世界とを異にしない。どちらにも

たどり着けない奥行きがある。 


自分の軛(くびき)を破って、

すべての世界と同時にある僕らを

無限に感じるなら、それが事実で

あることを知るだろうし、この世

の本来の在り方も知る。

自由はそこにある。

それは僕らがもともと自由である

ことを示している。

それは第一原則のようなもので、

自由が自由であるには一定の不自由

が必要だという第二原則になると、

少々複雑になる。

この二重に意識の必要性については

書いてきたので、また機会があれば

くり返そう。




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