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新しい答えを創造することと、 と? [新しい]

ムンバイ、 

訪れたことは ない 

どこか 中東の都市だろう  

蠅 ではない  

ハエなら、 ムンバエだろう。 

なにか ひと言もらすと、 そのまま 

それが 伝えることを  いう、 

言葉が知識を 定着させるのは  偶然ではなく

また 言霊とか  意味深に呼ばれるのも 

たまたま、ではない  

言葉の形は 文字として 一定だが、 

そのものは  動態として  ある。  

当然ながら、  読まれる相手を  人間と  

初めから  決めている。  

静止した 言葉など  どこにもない、 

相手を呼びかけるのに  初めに発した 声も 

言葉だったのだ。  

オイッ、 が アゥーだったかもしれないが ・・ 

その発する者が いたことを  示すのに  

「自」と 思った。  

それは 誰かではなく、 ここからだ、と  

その方向が  「自ら」だった。 

それはまだ  文字がない頃、 

自分は まず最初は  ただ ここからだ、と 

私の体を 指し示しながら、  自らが発信するという

方向で  認められた。  「自らを」、 と「自ら」の

逆向きで 二方向である。

オレの獲物、とか、 オレが獲った、とか。 

もうすでに  所有の観念が  兆している。 

漢字が 始まってからの 自分は、 自らの力量を 

「自分」といったそうだ。  分は 本分の、分。

本分は 本来備わっている性質のことで、

「自」を指す方向の、その性質を いうのだろう。 

「鼻」にも 「自」がついている。顔の真ん中だから、

「自」は自然に 人の中心にあるものを 意味する、 

となっても 不思議ではない。 

それは中心の 象徴ともなる定めだったのだろう。 

心は そこへ動き、  そこに 坐った。  

そして、誰もが 見習った。 それが自然に 相応しく

思えたからだろう。  

そうなると、そこに 私の情報を詰め込む袋 みたいに 

なるのは  時間の問題で  それは高等な意識で

あるかのように  伝播したのだろう、  というのが  

「自」の成立の 流れに意識から 考えられる 

仮説である。  

ネアンデルタール人は  1万年も ホモ・サピエンスと

共存していたのに、  環境変化で  滅びてしまった。

サピエンスは 偶然、生き残ってしまったわけだが、 

どういう想いだったろう。  わずかにネアンの遺伝子を

受け継いでいるので  少ないが、 種の交配はあった。 

ネアンと 結婚していたサピエンスは 一緒に

亡くなったのだろう。  

生き別れていたら、探しただろうに、 ・・。 

ネアンとはかなり 顔の骨、体格など違っていたから、 

いきなりどこにも  隣人が いなくなったようなもの、 

そのうちに  ネアンに会えず、 俺たちしかいない、 

オレ達だけ、 ・・・。  

なにか 考えただろうか。 考え込んだとしたら、 

そいつの「自」 が 低かったレベルの 知を 

結合して  動物よりも 進化させた 「心」を 

発生させたのかもしれない。 

それは今の コロナと似たような状況で、 

穴倉で 自粛中だったろう、 まだ  環境が

遠くへの探検を  許さなかった。

それが 可能性に過ぎない 心の発見の

仮説だ。  



これをどう言って いいものか、 

言えば、 自らピエロを 自称するようなものかも、と

そういう 人の声を 気にしたりする。  

昨日から  思考のパターンが 新しく感じる。 

無から 有を生む、 くらいに 考えていないものを

考えている、その瞬間に  新たに見つける、  

そういうことが 起こっている という感じ。 

思考で  こういう自在感を  味わうのは 初めて。 

心と  体の  それぞれの気流に  沿って、 

または 乗って、  その"もの"と"こと" との あり方に

従えば、 ・・どんな答えも 出てくる、 といった雰囲気。 

それは その時に 直感が与えられたのでもなく、 

概念を 積み木細工にして、  組み立てた時に 

できたという、 形(答え)でもなく、  ただ  心のまま 

体の命ずるまま、のその感じに沿って  考えるだけでいい。 

もしも、  これが完成体で  それが僕のうちに  

完成されたのなら、 なお、いい。* 1. 

十全に 戻った知性に  磨きがかかっていた、 

ということなのだろうか?  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、   ま、 いいか。  

考える問題じゃ ない、まだ。  今は。 

ここで 復習に持って行ってもいいのだが、  まだ 

何かある気が する。 

仮説というのは、夢を語るのに似ている。特に、 

知性が優位な概念問題を話すとなると、 俄然、 

楽しくなる。  科学が文明の青写真を設計図として 

描くようになった今日、 その地位は全自動洗濯機の

ように堅固になった。 

構造主義が現代の花形らしいが、主義というより、

構造的な数的考え方と言ったほうが、当て嵌まりそうだ。 

現象学が捉えどころが難しかったので、一時流行したが、

今は下火だ。この流行がほんとうの処で、考え方の

応用をどうしたか、というのがそれぞれ話題になっている。 

構造主義のサングラスをかけたら、数学はどう見える?

言語学はどう見える?生物学はどう見える?精神分析学

はどう見える?文化人類学はどう見える?社会学は

どう見える?ということのオン・パレードだ。 

仮説の夢を語るのと、さして変わりがあるのではない。 

それらに必要なのは、考え方を披露することではなくて、

社会的に実証できるかにある。それがある事実を説明

して解き明かすか、にある。それがなければ、ひも理論

と同じで、事実はどうあれ、ともかく合理的に説明納得が

いく、仮説という辻褄合わせの考えに過ぎないだろう。 

そういうことで、僕は僕の仮説を擁護するなら、心の

成立を、または自己の成立を、またまた知の成立を

実証できるとは思わない。それは夢の話であって、

できるだけ現実的な想像での抽象思考の中に登場

する概念で説明するだけだろう。実証という観点からは

実に危ない地盤である。原人のどの個体が初めて、

言語を意識して声を発したかというのは、わからないし、

わかると仮定としても実証の仕様がない。傍証で固めて、

それを例題の事実で比較で仮立証するしかない。 

だから、それにこだわらずに、気楽にやればいい。

どこまで迫るかが大事で、どこまで明らかにできたか、

という結果云々の問題ではない。それはあなたの

祖父が2歳の時のことでこんなことがあったのですが、

なにか親からそんなことを聞いたのを覚えていますか?

と問われたのに似ている。

僕なら、質問者に疑いの目を向けて言うだろう、自分の

2歳の頃でさえ覚えていないのに、父のそのまた父の

幼少など覚えてもいないだろうし、そういう話って、親が

します?(おかしいでしょ)

と、なる。 

だから積極的に、またはポジティブに仮説の夢はそれで

いいのだ。ちょうど、これは知ではわからないとわかった

時に、それを「わからないもの」として心に収めた、という

ように仮説の夢とは、例えば小説を書くように結果に

こだわる必要はない、というものだ。 小説は読んで

面白ければいい、仮説は実証的に信ぴょう性があれば

いい。この場合での信ぴょう性が、つまり夢だ、という

ことだ。 しかし、楽しさの快楽を求めてではない。

体裁は過去の(太古も含め)事実を求めて、になる。

だが、結果は似たようなものになる、または見えて

しまうものだということ。

構造主義が台頭したのは、レヴィ・ストロースが文化

人類学でムルンギン族の婚姻体系を数学の群論から

導き出してからのことで、数学の群論を応用すれば

他の社会現象や精神現象などを説明できるのでは、

と広まったものだ。

前にも指摘したが、事実から論にたどり着けるが、論

から事実にたどり着いたのなら、それは偶然の一致の

例だ、と。ムルンギン族がそこにたどり着いたのは、

長い婚姻の歴史の上で、それぞれのグループがそれ

ぞれ、どことこと婚姻が可能なグループ、またどこと

どことはできないグループにそれぞれ分けられたのは、

自然な交配のくり返しの結果であって、彼らが数の理論

通りに分けられているからと言って、他の物事が群論的に

同じように区別できるとは想像しがたい。

ただ考え方をその方向に合わせるために、いくらでも

考え方を応用はできるので、言い方で事実を曲げる

ことになってしまうこともある。そこまで検証されて

いるのか? 

そこまで僕も構造主義の実証という事実を求めて

進むべき?それこそ無駄だし、難問も予想されるなぁ。

それよりもこれまでの基礎的な考え方の基本になった

もの・歴史を検証したい。

でも、遠回りでもあるが、いずれ検討だけは一度して

みよう。




* 1.
「ただ  心のまま 

体の命ずるまま、のその感じに沿って  考えるだけでいい。 

もしも、  これが完成体で  それが僕のうちに  

完成されたのなら、 なお、いい。」」

ここが読み直した後に、気になった。「完成体」とかエヴァン 

ゲリオンでもあるまいに、書いた時にもかすかに意識があって、

「完成?」と感じた。完成とは完全を意識した言葉で、なにか

を理想化しようとしたときに使いたくなる言葉だ。この場合も

その危惧が若干ある。若干は、それを希望出来たら、という

使い方なので、断言したわけでなく、使用の許容範囲に

あるだろう。 

(以下は、その部分の反省・追加思考)

が、内容を辿れたので、それを話すと、どうも無意識から

の答えが出る、ポンッは弱い。もうないのかもしれない。

でも、こちらから準備をして潜ると、それらを取り出せる

状態ではある。今までの双方向から、一方方向になり

つつあるのかも、という感じも見受けられる。過渡期も

コロナの緊急事態宣言の解除も、見極めるのは

なかなか、ということらしい。 

無意識とか、潜在意識とか言葉はあっても、それとの

交流は僕らの大多数が未経験のことなので、どこまでが

新しいとか、以前からあったとか、自意識との境界は

どうなのか、不明なことが多過ぎる。それでも、理屈

を書いていても、それが全開なら、指の押し間違いや

送り仮名が飛んだりとか、明確にイージーミスがある

だけで、他の重要な文章に関して、訂正はする必要が

なかった。見直すことさえしなかった。そして、数日後

に見直しても、それでよかったのを確認した。


それに恐れ入るのだ、僕は。尋常ではない、そういう

ことなのだと認めざるを得ない。だから、天才の仕事

の90%以上は、そういうものだと評価されてきたの

だろう。

これはまだ秘密のままだ。その真似事ができたのに、

秘密のままだ。僕にも、わからない。

                           2.3




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