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日記メモ V? 半仮説 [仮説]

ブログに載せながら、ブログ記事とは

自身思っていないのは、自身の最先端

の発見や発想、精神的進度のことである。

言ってみれば、興奮して自分では面白い

が、読者からは他人事で何が面白いか

わからない。

自分が忘れてしまわないように書くもので、

メモを残すのが目的なので、殊更面白く

ない。ので、次の機会の記事から読んだ

ほうがいいかも。

::

<第二の自己についての勘違いに

ついての、自己防御の内奥のシステム

についての半仮説(仮説であるが、経験

を含むもの)>

自己喪失の状態の時には、なにもかもが

宙に浮いた状態に感じたのだが、それが

規制の概念が崩壊し去ったことだとは、

まだショックで認識できなかった。

その内容は以前に書いた。

この数日後から固まってくる第二の自己

はそれとして疑問はないが、それが第一

の自己が消えたがためにやがて現れた

ものだったのか。第一の自己が消えたの

ではなく、知性の収納庫のような部位が

あって、そこに収納された可能性はない

のか?

それは初めの無の体験の時に空いた

穴のようなものではなかったのか?

その第一の自己がまだ生息している

のなら、第二の自己はそれなりに自然

の理で現れたものだろうけれど、仮の

自己という位置ではなかったか?

第一の自己は隠された無意識側から

これをコントロールして、結びつけたと

すれば、僕の瞑想に拠る自己の丸投げ

で無意識に従うという、その従属を受け

入れたことが、納得しやすい。

真正の自己という概念は受け入れられ

ないが、僕が第一から第二の現実を

コントロールしようという意図は、自身で

合点がいく。

ただ自意識では捉えられないからと

いって、また自己喪失の経験をふまえた

からといって、この自意識にはそれを

感じるなにものもない。無空な状況ならば、

意識の半面ですべてが夢の出来事に

感じられることが、その証左と言えなく

もない。飽くまでも状況のことだ。

このことは僕がどうして無の体験の時

に精神が崩壊という事態を招かなかった

かの説明を一つ加えることになる。

無意識下の事件だったので、虚しさの

嵐に恐怖を感じる意識の受け皿が

無かったことにつけ加わることになる

が、その二つが同時に起こったとしても、

それはイメージでその関係をあいまいに

捉えることができるだけで、第一の自己

の存在証明がない。僕自身が内奥に、

または内奥のためか、感じることができ

ないのだから、これはまたこの先の

課題ということになる。
::

読んだ方は、お退屈さま。


ホーマー1-1.jpg

ホーマー : 19世紀のアメリカの画家

 北東の風
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