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サーモスタットのさみしさ [気持ち]

この 静かな さみしさは なんだろう? 

ここにいるよ、 と  

言ってあげたい 人は  誰だろう? 

君を  待つのに  疲れてしまったの 

だろうか 

まだ  桟橋を 離れる客船の  音を  

海に  聞いている 気がする  

霞がかった 青い色が  流れてきて  

それに  包まれることも  なく  

宿の窓から  眺める  旅人のように  

今日の 別れを  越えようとする  

そうか  今夜は  

君のほうが  待っているんだ 

君を  遠ざけている  のではないのに

僕の  なにが  そう思わせるのだろう 

いつも  

わからないのは  この 僕の 気持ちだ 

捉えどころなく  休みなく  

考え続けている からだろう  

山を越え  谷を越える という 

君の想いが  あるのだろう 

サーモスタットで  温度調整するように  

君との 間隔が  測れればいいのに  

一方通行に  ならないように  

また  君との 朝を  歩きたい  

あるはずもない  雲海が  

ひたひたと  二人の足元を 

流れれば  まるで  

雲に乗ったように  ごきげんだろうね 

たまには  古いワルツでも  

聴いてみようかと  誘いたくなる  



君が来ることが ないと 

やはり  忘れる  

どれほどの 喜びが   あっただろう  

過去は 引き裂かれる ノートのように 

なにも  書きとどめは しない  

朝  眼を覚ますときに  さみしさは 

ないものだ

どうしてだろう、  君を想う 時があれば 

そのほうが  静かに  眼を つむる  

時には  自分を なにかに 捧げたいと

敬虔な気持ちが  湧き上がる 

それは じつに  ゆったりと

坐れる 空想の 椅子のようだ 

僕は  背を あずけて  

果てしなく  坐った気に  なっている 


熱情のある時は  それを手放せない

去るのは  いつも  自分から  

理由が  やがて  わかる  

わかっていたことは なくても  

わかる時は  来る  

それは  素晴らしい 瞬間であり  

自分を  知ることになる

なぜなら  その自分は  離れるから  

ああ  君よ  僕よ  

僕だった  君  

知るというのは  こういう悲しみだった 

それが  あまりに  明らかで 

僕の 魂を  持って行ってくれ 

ああ  愛の君よ  

僕は  何人の  魂から

生かされているのか  

ひとりには  もう 決して   なれない  

それが  知の 悲しみ 

情の  飽和感  

時間の矢 という列車を 目撃すること 

もう  

列車に 乗ることはない  

僕は  これからも  歩いて  

行くだろう 



この 静かな さみしさは なんだろう? 

ここにいるよ、 と  

言ってあげたい 人は  誰だろう? 

君を  迎えることが  できるように  

なったのだろうか? 





僕はたぶん、誰かの寂しさを感じることで

さみしさを感じる人間だ。それが自分の

さみしさであることは、まずない。そして、

そうであってもどのみち、自分の寂しさと

区別ができないだろう。それで僕は

寂しさに対して、他人でいられるのだろう。

感情は根源では万華鏡のようなものに

思える。寂しさも、苦しみさえも、過去で

あってみれば、それはなつかしさに癒され

喜びに感じられるようになる。

現実では自分が自身に囚われるから、

執着し、執着されるが、夢の心の世界

なら、それは十分に可能なのである。
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あの鐘が鳴る [気持ち]

あれや  これや  

街の 風景が  とおり過ぎて ゆく  

そうだったな  

そうだったんだ、と  

もう  忘れかけていた  あの 鐘が  

鳴っている  

あの 鐘が  

・・・・・・・・・・

僕を  縛る紐が  あればいい、と

思う 時も ある  

それが あるつもりで  

僕を  ぐるぐる 縛ってみるが  

見ているうちに  半透明になって  

やがて  消えてしまう  

幻のように 


僕が  辿る 旋律は  

僕を  どこへ  連れてゆくんだろう 

自由になった  僕は  

同じくらい  孤独も  手に入れた  

美人を  化け物に  見える

そういう 動物的な 視点も 

手に入れると  

男と  女との  違いは  

なくなってしまった  

どんな 画期的な視点も 

宝の 持ち腐れのように  

冷たい風に  ころがる 

冬の 新聞紙の  ようだった  


自由になるとは  

こんなに 空のように  

取りつく島  がない ものなのだろうか 

人に 指摘した  特徴は  

それを 初めて  人に言われた、と  

それを  他人にそう 自分に批判めいたことは

言わせない、と圧をかけていた、  

と そんな 自分で  自分に気づけない  特徴

強い エゴに  気づけないほど

親に  守られ過ぎた  人生

だからこそ、  それは  

跳ね返って来て

僕の前で  宙に  浮いている  

誰のものでもない  ただの言葉で  

死語のように  消えてゆくもの  

空から 発せられた  言語は  

そうやって  空気になる  だけ  

なのだろうか


悲しさの  調理の仕方とか

愛に 呼ばれる  生き方とか  

まるで  流行らない  工夫 なの

だろうか  

まるで  荒野を 眺めるように

人のいない  木が一本の 

草が点々とした  不毛の地が  

僕の  到着した  上陸地なの

だろうか  

それは 絵葉書ではないように 

深閑 とした感動を  呼び覚ます  

不思議な  出会い  

何もない  というのは  

寂しいことではなく  切り詰めた  

ただ 「ある」 ことの 

そのものが  ある  

それが 突出して  僕は  凍りつく  

そして  一種の やさしさに  

包まれる  


そうだ 

そうなのだ 

遠くからでも  船の上からでも  

その地の 厳しさの  荘厳さが 

わかる  

なぜか  敬虔な気持ちに  

打たれる  

それが あるのは  僕に  

わかり過ぎている  

感じているが  言葉に するのは 

わからない、 と 

空の 言語に   なってしまうよ 


そうして 

僕は  

統一する  

他に  うまく 

言えないみたいだ  

あの 鐘が 鳴る  

それと 同じなのに  

僕が  世界に  入れ替わるのと  

僕が  世界に 溶け込んで  

世界も 僕も  同じ空気に  

なって しまう  

それは  意味のない  言葉  

だろう  

あの鐘の  遠い記憶から  

なにを  期待するの   だろう 

僕は  その広大 無辺な  

一部 なのだろう  

馬の 牧場が  あるような丘  

なにもいない  荒れた  丘  

それらが  僕を  迎えて いる  

どうして  歓迎されるのを 

僕は  知っているのだろう 

それは 大事なことだと  思うと

それを  放っておくように  

また 僕に  言われる  

この 主体のない状態に  

なんの  困惑も  感じない  のは 

あの 鐘が  鳴っているから  

あの鐘が  僕を  迎えるから  


僕は  それ   だ 

たとえ  それが  通路のような  

ものでも  

それは  伝えている  

それは  通じている  

だから  今、  

それが  

僕は  ここに いる、   と  

言わせている  



見知らぬ  僕よ  

見知らぬ  あなたよ



僕は  

  ここだ  

僕は  

 ここに  

  いる


こうして  坐って  

いる 

押し寄せる  愛も なく  

押しつぶす  虚しさも  

ないが  

その 記憶の 欠片(かけら)が 

まだ  

生きている  

ここに  

こうして  あるのが  

わかるよ

僕は  それ   だ 

たとえ  それが  通路のような  

ものでも  

それは  伝えている  

それは  通じている  

だから  今、  

それが  

僕は  ここに いる、   と  

言わせている  



見知らぬ  僕よ  


見知らぬ  あなたよ


僕は  

  ・・・  

僕は  

 ・・・  

  いる 







**
11月23日は勤労感謝の日。第2次大戦の戦後、国家神道の色が

濃いので、新嘗祭の日だったが勤労感謝の日に変更された。

国家神道関係の本は6000冊とか、焚書・発禁にされたが、最近

復刻され始めている。GHQは日本人のマインドコントロールを

狙い、成功した。新嘗祭の日など、知る人はおらん。探ると、

いくらでも日本人が知らないことが出てくる。
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ものすごくものすごく [気持ち]

ものすごく  くやしい

ものすごく  ものすごく 

だよね

こんなに  言ってあげて

こんなに  ヒントを  あげて

こんなに  心配して

君は  知らない  

僕が 思った通りの  感情一杯で

皮肉に  反論する 

反論に なっていなくても  

そうは 思っていない  

ものすごく  ものすごく  

そうじゃない  

そして  

ものすごく  ものすごく 

わかってない  

それが  でも  わかっていた  

君が  それが  わからないだろう、と  

わかるだろうか?  

それも 

ものすごく  ものすごく 

くやしい  

急ぐな  焦るな  

まだ まだ  なんだ  

ものすごく  ものっすごく 

時間が いる   大事だ

大切だ  

それが  くやしい  

それを知っている  のも  

くやしい  

そうしたいことと  

そうなることが  わかってるって  

一致しない  

そうなることって  

希望したことじゃ ない

悲しくもなりたい くらいに  

ものすごく  ものすごく  

く・ や・ し・ い



君が 悪いんじゃないし

僕が  悪いんでもないし  

誰が  悪いんでもなく 

季節が  悪いのでもない

そこに  悪は  ない  


わかってる  

身長が ちがう  

背の高さが  違うだけで

眺める  世界が違う 

親が 違う  

それだけで  愛や  虐待に

見舞われる  

その経験が  無理解を生む? なんて

ことも  あるくらい  

君は  感情と  考えを

切り離せない

ものすごく  ものすごく  

ああ  こんな世界は

(切り替えるよ!)  

嬉しい  
      こんなに 

僕に  難儀を与える  世界は

抵抗に  満ちて  

まだ まだ  と 解決を 

長引かせる  

生命(いのち)の  消長が  

ブツブツ  切れ切れに  

輝いて  ロウソクの 灯を  

絶やすな、 と  教えてくれる  

困難は  僕を  力づける 

まだ まだ  やれることが ある、と 


僕を わかってほしいのは  

僕じゃない  僕の言ってることだ  

言ってることが  何かだ 

同時に  どうして  そう言ったかの

理由だ

これに 反論したら  お互いに

不利益だよね  と言って 

ひとつ例を  出すと  

それに  ベタな 反発の言葉  

なんて  子供!とは  言っては

いけないのだろう 

それさえ  反発の  タネにしかならない

君の中では  



「トラウマとアディクションからの 回復」 という

書籍も  買ってしまった 

知りたいがために  

ものすごく  ものすごく  

理解は  遠いのだろうか  

障害の  君よ

最も  自分を 知りたがらない

ものすごく  くやしい  君よ

最も  自分の弱みを  見たがらない

ものすごく  やさしさが 

生かされない  君よ 

自分を  隠して  相手への

反発で  防ごうとするのは

発散に 見えて  ストレスの 

ため込みなのだが  


いくら  言っても  

ものすごく  悲しい 

君は いつ  

前を向いて  自分の 責任を

取ろうと  するのだろう

君の  気持ちが  

干からびる 前に  



僕は  幽霊が  見えない タチだ  

でも  それが  後ろにいると

直感すると  非常に  怖い  

後ろを向いて  幽霊に向かう、なんて  

できない 

が、僕は  見えない タチだ  

それを信じて  思い切り

振り向いた ことが  3度ある  

なにもいない(見えない?) ことを 

たしかめると  

また 歩き始めた ・・・



君の  幽霊は  

君自身の  自分という奴  

なんだが、  一度会ってやった ほうがいい

なぜって  

自分を 見失っているのは 

幽霊も 同じだから  

自分が  親に  見捨てられたからって

君も  自分を  見捨てるのか

自分も  それなりに  幽霊にされて

可哀そう  ではないか 


それが

ものすごく  ものすごく  

ものすごく  ものすごっく 

くやしいよ

わかってくれ、 と僕は 言わない

はじめから  言わない  

君に  僕に対して

そう 言わせない ためだろうか? 

僕は  君に  ヒントという  

助けを  出す 

誰が  君を  救うのか  

誰も  君を 救えない

(誰でもいい) 救われたい

そう思っている 間も 

見守られているだけで 

誰も  救える者は いない

君を  除いて ・・・


自らを 救うものは

自らしか いない 

他人は  言葉で  自分を  

しっかり 見つめろ、 とは言う

それで すんだ時代では ない  

全体が  病んでいれば  

僕らは  それを  人の所為にする 

それは社会的 責任のこと  ではない 



自分の  

自分による

自分のための 

自分しかできない 

自分を守る 世界から  決別して

自分の あり方を  問う 

感覚と 気持ちを  かけて

君が どう生きるか 

人から  離れようとする

自分を どうするか  

生命に 背いたままの 自分を

どうするか 

すべては  求められない


君が どう生きるか 

それだけで  十分 だ




**
「相手の立場になって考えるのが大事」と言われるが、

それには書かれた言葉、言われた会話から相手への

気持ちに飛び移る飛躍が必要だ。言葉は気持ちで

いくらでも、良くも悪くも解釈してしまうから。

虐待にあった子は心を閉じて、生き延びる選択をする。

愛着に対して閉ざしたので、自分の気持ちがわかるよう

には相手の気持ちにまで言葉を飛躍させられない。

そして、自身も自分を隠す。隠して、それを知らんぷり

をする、それを意識しないように子供だった虐待時代

から自分を訓練してきている。

目の前に困難はある。答えはわかっている。

でも、簡単には解決しない。これを人類史の上で

飛躍して比較すると、僕らが人類の質を曲げる角に

(かなりギリだと思うのだが)来ている、これは曲がった

ほうがいいのか、それとも方向を修正した方がいい

のか。その答えさえ僕には、まだ近くて遠い。気づいた

段階を越えたのはわかる。

「急ぐな  焦るな」 


ともかく、それはわからなくても、僕らの視点での

人生に眼を移すと、それはうまくいってるよ。


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どうもなんね 猫さ [気持ち]

まだ 体調が完全ではない。それで まだ 遊んでいたい気がする。 

声がしわがれて、おかしいと心配を寄せるのは、猫のことだ。  

元気な野良猫は頼もしく、見ていてうれしいが、声がまともでない。  

エサをもらいに来る回数が増えている。このまま増えれば、記録を  

更新する。そうなると、もう具合がわるいのではないか、と。  

人は自分の体調に合わせて、とか、自分の考えに合わせて物事を 

決めるから、そう考えてしまう。 困った。 なにもしてあげられない。 

虐待などで逃げ出して、野良になった猫はわかるつもりだ。警戒心が

並外れて強いから。  

猫に人相があるのではないが、彼女には貧相がある。そう見えて

しまう。空き地などの見えない隠れた場所を死に場所にするのだろう。  

見つけたくても、簡単ではない。一度住処を見つけようとそこら辺りを  

探したことがあるが、人の家の庭までは入れない。ちょっとしたところが 

探せない。不法侵入とか、法律がうるさい。猫探しの時の特例がある  

はずもないし。  

猫缶を買い増ししたが、あとのことはわからん。なるようになるんだろう。  



楽になれない  

気楽に  何でも書いていた  

書くことで  なにかが 償われた  

それは  次への  階梯だった  

でも  今の君(自分) は どうだ  

自分の意向と  体の意向とに 挟まれて  

身動きが できないと   

おお  そうなのかい   気の毒に(笑)  

だってそうだよね  

それを跳ね返せないのなら  

そう 跳ね返せないのなら  

もう  人間 やめるぐらいの 処にいると  

そうかな?  

落ち着いて  物事は ひとつ ひとつだ  

やるのも  ひとつ ひとつ だ  

なにを  中心に置くのか  思い出せばいい  

それが わかるまでは  展開を求めても  

おお  何の意味もないよ   わかってるだろうに  

それは 焦っている と  それだけだ  

焦るつもりはない  そう  考えているよね  

でも  思うように ならない  

だから  それでいいんだ  

思うようにならないのだから  無駄な手押しは  

要らない、 ということ   

多少は 外出して  気晴らしして  

空気を  吸おうよ  

呼吸から  始めようよ  

すべては  僕のもの   君のもの  

そうさ  焦ることなんか  ない   

何もない時は  実は   ほんとは  

すべてが  引き寄せられ  最も  君に近い  

それに 気がつかなくてもいい  

そういうように  されているから  

それが  そういうルールだから  

さあ 風船を  ひと突きすれば  割れる  

どうする?  

まだ  まだ  続ける 意欲がない  

では  もう少し   待とう   

僕らは  そういう時は  非常に  揺れているから  

簡単な タイミングさえ  捕まえられないかも  

しれない、  そうだよね?  

じゃあ  少し  ふらふらしながら  街を  

歩いてみようか?   

おお  それは  酔っ払いに  そっくりだよ  

回って  回って  電柱に  

抱きついて  ハハ  いいね  

読めなかった 哲学の本なんか  取り出して  

指先に  水浸けて  ページに  

丸を 描く  何回も  何回も  

おお  そのページに  丸く穴が  あくよ  

その丸紙を  つまんで   捨てるよ  

ハハ  いいね   

どうも なんね  

どうも なんね  


僕は 君に   今  

なにも してやれない  

君は  今  野良猫なんだよ  

警戒心ばかりで  見えていない  

体調を 警戒  

今後を  警戒  

しがらみを  警戒  

否定したい   わかるが   それは  

無理  

僕らは  常に  その中にいる  

避けようとして  拒否しようとして  

君は  今  

自身が  壁になろうとしている  

自分という 壁 を増やそうとしている  

ね  

君なら  もう  わかるだろ?  

もう一度  そう   

心を  開こう  

オープンに!  

今まで  やって来たんだから  

(できる)

今までの  君として  

そう 把握したから  君は  君だった  

そこまで  

行こう  

体調に 気を使いなよ   

警戒なんて しなくていいんだ  

今後を  受け止めなよ  

開かれていれば  なんて  素晴らしいと  

思えるだろ?  

しがらみを 嫌うから  その人たちから  嫌われる  

そうじゃない   

気持ちが  流れれば  その気持ちが  すべてになる  

それは  対人だから  調整するに決まった もの

警戒されれば  誰だって  嫌さ   

心を 閉じる圧力は  見えないが  

いつでもある  

今は  どう?  

そう  まだ  どうも なんね?  

どうもなんね  

腐りたく なるよね  

重くなるよね  

低気圧だから  それを  

どうやって  納得しようか?  

低気圧なら  必ず  高気圧を  

回るように  進む  

目の前に あるんだよね、 高気圧って  

低気圧の中で  グチグチ言ってるだけなんだけど  

そう  まだ  

なら 

低気圧の真上に  坐っちまえば?  

そんなもの どうでもいい、と  

そういう気に  なる  

そう  



まだ  

そう  

君は  僕だ  

ここで 終わるはずがない  

君は  僕だ  

終わるはずがない  



まだ   少し  

どうも なんね   ノラ猫 でいいよ  



ああ  

晴れてるから   街を   

歩いたよ    



” 空が  広い  

 こんなに  広かったなんて ”  
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はるかに砂漠の底を流れて [気持ち]

死にゆくものに ついてゆくのは  どうかと思う  

それでも  見渡しても   それが最後のもので  

最後の 友 でもあるとすれば   

もう  ためらわなくてすむ  のでは  

僕は  死なないのだから  それについてゆくのは  

それなりに 興味が ある  

心が 壊れないのは  強いことだと  

そう  思っていた    そして  

たとえそれが 強さだとしても  

壊れないことが  不自然だからだろうか  

心は  満たされない  

むなしさも  つまりは  壊せなかった  

それには  なんの 栄光もない  

なんの 喜びも  ない   

鉄の 塊(かたまり)でも  

それだけなら  鉄くず と変わりないように  

悲しい   

悲しいと 言いながら   その 悲しさは  

どこにあるのだろうか  

むしろ 悲しさが  寄り添ってきて ほしいと  

そう 想う   

せめて  素直に  悲しみたい  

そこまで 心から  言ってみる  

すると  気がつく   

必要でないことは  自分の生活には  

起こらないことを   



もう 感傷することは  できない  

答えは  やってきてしまったから   

僕らは  そこに到達すると  あいまいな  

感傷は  もうできない   

なにをすべきかを   検討する必要に  

迫られるから   


不思議に  思うよ   感傷なら  

感傷させてくれれば いいのに と  

思うのだが ・・・  

生活は  ”スっと” 待ってはくれない  



冷たい 雨が  足元を  吹く  

まだ  季節は  楽ではないが   

その季節感が  もどりさえ すれば  

やがては  その日が来る、 と 知れる  

そうだよ  その日は来る  

それが わかれば   待っても  

待たなくても  心は  満たされる  

その予感に  街は  通りは   小さく  

輝き はじめる  

はじまるのだ  

生命(いのち) が  ・・・

そんな  小さな しあわせでも  

僕らは  生きてゆくことが  できる  



そして   また  

くり返される、  

それだけでは  生きるに 足りない と  

僕らは  常に  

生きる上に おいて  結果に  

たどり着くことは ない  

そういう 消長を  くり返す   

その 消長に  同じものがないだけ  

同じ くり返しは  できない   



感傷の雨は  気持ちいい  

いつまでも  打たれて いたいと 想う  

君は やさしく  

僕は  ポツリ ポツリ  話す   

その 二人の テンポが   なんだろう?  

なんだろう?   

なんでだろう   いつもいつも  

なつかしいのは   

今 思いつくのは   「 嬉しさは  

気持ちを  表現する   と 。 

喜びが 違うのは  

生の  表現だからだろう  

喜びは  光り 輝き  

嬉しさは  より やさしい  

その間には  あいまいなゾーンがあって  

どちらにも  また  混ぜ併せて  

使われる 」  という  

あまり 時代にも  変わらないもの  

だった    



ここにいるよ と  

子供たちを  案内したい  

僕の 批判を  恐れずに   

僕と  喧嘩しよう  

うまく ・・ね   

いつも  誤解は  避けられない  

秋の 進行のように   深まることで  

色合いを  増して ゆく  

でも  

それを 強要したくはない  

僕らの 勝手な 思い込みに  ( または 状況に )

君を  巻き込みたくは ない   

ギャップのない  関係は ないように  

僕らは  それぞれの季節に  とどまる  

そうしなければならない  時というのも  

あずきのように  ある   



フフ、と  笑いが  もれる   

水のしずくが  頬を 流れて  

冷たく  気持ちがいい   

たとえ  

僕が  砂漠に  埋もれていようとも  

砂で  なにも 見えなくとも  

さあ  はじめよう  

今から  


君が 君である  生活(いのち) を  


僕が  僕である  生活(いのち) を  


僕らが  僕らである という  




それが  ”ある” というものである のを 

それが  私の生活だ  というのを  


ああ   


いつも  

感じたまえ 

・・・・・・・・・・・    


それだけを  

感じてほしい  





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困った [気持ち]

書くことに興味がなくなった。

困った。

困った。困った。困った。

困った。困った。困った。

終わった。

心の何たるかを追い求めるのは、なにか役に立つような気がしていた。 

だが、そうだろうか。

今は、一人の楽しみとして、始まったこの知的な旅を続けてみたいと思う。 

ブログを気にする生活も厭わしく思われるようになった。 

これではこちらからいい影響とかは期待できないだろう。

それとは別に、心の問題は非常に幅広くなり、また今までわかっていたことにも

再読が必要な「方法序説」なども新たに認められるし、今までのように気まぐれ

で書けるようなテーマではなくなってきた。  


実は、僕は僕の直感3分の1、世間の噂・諺・風聞・常識と言われるもの3分の1、

残りは他人の意見・本・論文などを最後に比較していた。そこでそれぞれが

納得のいく誤解や正解やズレや見方の違いによる、とかでスッキリとする

そういう答えをまず感じることを求めた。その何とも言えないものを、 

それぞれの見解で見ると、なるほど自分の直感はここを見ていた、世間の

常識はこういう誤解だった、彼の本の見解は彼の個性が示されていた、と

いう具合に答えからそれぞれに明快な、それぞれの見取り図ができた時に、

答えが正しいことを確認できた。そうすると複雑にからまっている物事を

整わせ、見るだけでなにがどうなっているのかわかった。

だが、こうした確信に自信を持っていたが、ここへきて半世紀も費やして

来たこの方法に疑問を感じた。わかることは間違いがないが、それが

なんだって言うんだろう、と。  

個性の披露であるなら、そこらの二流哲学と何ら変わりはないではないか。

どうして僕らは3000年前という時代を理解できないか。つまり、自分に

理解できるとは、到底思えない、ということなのだが、それに絶望な

気持ちを抱いたわけではない。そんな絶望なら、腐るほど克服してきた。

たぶん、こういう道を究めるがごとく、書き残していくことが社会に

認められるということだろうし、そう希望しなくても、そういう仕事の

量が必要なのだろう。僕(ら)が何事かであると、人に思われるには。  

僕に嘘がないことに、少なくともそのつもりがないことに、それなりに

意味があるのだろうか。どう書いても、それは表のこととして、演技や

表現に似て、僕がそれをするのを迫られる。そうして、まるで建前と

本音のように二重になった言葉を生産し続け、僕の確信も次第に溶かされ

始めている。

わかることには条件が外と自分のうちに、二重に求められる。それが整って

もその応用である行動のバランスは、ますます複雑さを増して、その調整に

時間を費やす。これでよかったのだろうか、これでは知性と同じ物事の

複雑化へ進む方向では一緒ではないか。専門や権威や、つまり医者や議員や

法律家、薬剤師、警察に頼らなければ、何も決められない僕らは病気になると、

不安ですぐに医者や病院へ行く。これが当たり前だと思えるほどに、僕らは

弱体化してしまったのだが、あまりに当たり前で医者に行くのがなにが

いけないのか、気がつかないし、わからない。

精神や神経では医者にかかるのは危険な分野であるのだが、そういう知識が

ないのだろう。こちらがそれを伝えても、まったく聞く耳をもたない。

向精神薬を処方されて、いずれ生活はもやもやした頭のはっきりしない霧の

中に埋もれてしまったらしい。なにが医学や治療で一般的に確立されたもの

なのか、その知識があればこの病気ならどこの医院、またはどの名医に

かかれば大丈夫とわかるが、その前提なしに、地域の看板だけで医者に行く、

大病院に行く。そういうようにすべてがわかりにくくなってしまった。


心理劇というのは社会的なことではないのだ。ドラマで楽しんでも、信じて

しまう、ああいうことはあり得るのだ、と思いこむのは危険なことなのだ。

同じ製品でも、並んでいれば僕らはCMで名前の知っているほうを選びやすい。

同じような心理劇を見ているうちに、しっかりとそれについて自分の意見が

明確に言えるぐらいでなければ、知らずに僕らは誰でも人を殺す要素をもって

いるとか、を信じるようになる。それと同じくらいにそれを消してしまう

要素があるのに、目を塞いでしまうことになる、と気づかずに。

僕らは信じることさえ、もう万葉集の頃とかとは全く違うことになってしまった。

人を憎んだり、殺意を抱くにはその人が自分に許してしまう、幾段階があり、

そこに気づいていれば簡単に防げるものだが、信じるということの芯がうすれて

しまっている現代では、驚くほどの地域性の意識がよくも悪くも守られている。

それでもそれは自然な防御として当たり前な信頼になっている。

少なくともペンギンのように生存し続けるだろう。ペンギンのユーモラスな

歩き方が多くの動物を絶滅までに追いやった密猟者から守ったのだ。可愛らしい

というだけで、捕獲して食料にするものがほぼいなかったからだろう。  

心理劇は僕らがトイレに入る姿なのだ。きれいなだけではない、確かに。だから

と言って、誰でもトイレに入るから僕らは汚い奴だという、そういう言い方・考え

方は意味があるのだろうか。トイレに入るのは事実だ。だから、それを真実だと

すりかえて、僕らの尊厳を傷つけるのは、なにかおかしな勘違いをしていない

だろうか。社会的な絆や、尊敬を、感謝をそんなはき違えた(真実じみた)事実で

踏みにじってはいけない。こういう風潮は避けられないほど、TVに日常にネットに

あふれかえっている。

なにかするにはあれもこれも、技術的なこと専門的な知識が必要(と煙らされて)

で、する前にあきらめてしまう。逃げるつもりはなくても、犬猫を可愛がることで

自らを慰めたり(そうでない友情もあるが、少ないし、程度が過ぎる)、ゲーム、

趣味、神社めぐり、となにかに頼み込もうとする。ふつうに興味があって、健全に

楽しんでいるという場合の話ではないが、一人になってそれを見つめて、健全だと

思える人は稀有だろう。 それはそれで素晴らしい、うらやめる人だ。


だが、認知症にかかる%、統合失調症にかかる%は癌への羅患率とあまり変わりない

のだ。学校のサラリーマン化した教師が50%が精神科・神経科へ通ったことがある

という現在、僕らの健全とか、健康はどこにあるのだろうか?この単純な問いは、

もう十分に複雑な現実の中に埋もれてしまっている。

どうやって今まではあったように見えたその宝を掘り起こせばいいのか?


ニュースでは貿易の輸出制限で話し合いに来た韓国側が、帰りの空港でこの措置に

抗議して撤回を申し入れた、と。慌てて経産省側がそんな事実はない、と反論した

が面白かった。韓国らしい、というか感情国民らしいというか。彼らは言ってない

だろう、明確には。しかし、会議の雰囲気でこちら側の意見はわかっていたはずだ、

と言いたいのだろう。理詰めの話では反論もできず、引き下がったが、マイクを

向けられれば、僕らからすれば嘘になるのだが、彼らにすればこれは撤回しろ、

というわれらの意向はわかったはずだ。だから、気持ちは撤回を求めていたの

だから、われらにも面子がある、言いたいことを言ったのだ。何しに来たか、

話し合いの前にわかっていたではないか、というのが韓国側の「意見」ではなく、

「気持ち」なのだ。子供と同じ。子供は嘘をついたつもりはないのだ、さっき言え

なかったから、今、(すでに)お互いにお互いが了解しているはずのことを

言ったのだ。日本の、(ま、ふつうに)常識ではめちゃめちゃだが、気持ちは

可愛い。わかってくれという甘えの大前提があって、それがわかってくれれば

いいだろ、そしてわからないのはおかしいだろ!と開き直って恫喝になる。

そういう心情のシステムになっているらしい。そこから彼らの政府のふらふら

した不分明な外交、国民への対応などの部分をみると、僕なんかは納得して

しまう。

だから韓国問題は面子を気にする(中国も)大人の子供をどう扱うか、という

のが根底に来なければならない。と言っても、後ろにはアメリカがいるし・・。

いずれにしろ、内外で、困ったことだ。
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出雲のきっかけ [気持ち]

2013年、上野に行った。う~ん。

この話か、まだその気分じゃない。書きながらどうにかその気になる

だろうか、と書いてみるが・・。

今ここにいるのに、頭に残したものについて書くのは、今がもったいない。

そういう気がいつもしているのだろう。一度書くチャンスを逃すと、そこに

戻ってくるのがむずかしい。今、生きている素材があるのに、どうして過去の

素材を気にしなくてはいけないのだろう、と思ってしまう。

ちょうど即興で曲を弾きたいのに、もう自分ではすでに知っている曲を弾こうと

するように、興味が殺(そ)がれる。

間違いなく、今生きている躍動をこの体に感じる。そうすると、伝えるのは

これでしょ?!となってしまう。で、それを伝えられない。そんなことを

くり返している。それでもそれは気にならない。間違いなく、これが最高だ

とわかるから。どうにかしろよ、と自分で自分に言うのだが、詩が生まれる時も

あれば、エッセイになったりもするが、こうしてだらだらと書いているだけに

なってしまうこともある。まったく、「どうにかしろよ!」である。


もういっそのこと

なにも言うのを やめよう

君が 僕が あなたが 彼が  彼女が  オットセイ?が

おっと そのせいじゃないんだっけ

もう なにも言わないで というのは

別れのシーンで よくあるセリフだろう

気まずい雰囲気に  どう対応しようかと

傍目にも 緊迫感が  漂う

ここにある  それに まつわる想いが・・

からんでいるようで  単純な想い・・

別れる必要はないのに

それが必要だと それは

どこからくるんだろうか?


うす暗さが 青紫に影を  落とす

ロンドンの 濃い霧のように

牧場では  土地が冷え切っていて

森から 温かい空気が 出てくると

朝日に 当たりながら  白い霧が

草原一面に 低くたれこめ  広がり 流れる

ラ ラ ラ ・ラ

鉄仮面の 鈍い 銀色の感情が  噛みつぶされて

なにかに  耐えようと・・

ル ルル ・ル


たぶん 僕らが生きているのは  こういうことを

共有すること

同じ虹を 見て  同じ流れ星を 見て

同じものに 出会って  同じ冠婚葬祭に 立ち会って

同じ 感慨、感動を  共有すること

それに 尽きる  それだけだ

僕は そんな気がしている

生きることが 次の命に つながってゆく

そういう生き方を  したいと


それはなにか  壮大な物語を  生むのではないかと

どうして そういう考え方が  できにくいのだろう

できにくくなって  しまったのだろう

僕ら人間の

もともとの 人間性という  偉大さが

いつから  失われつつあるのか


やはり そこへ行ってしまうのだろうか

気楽に やりたいが 今の世にあるのは

言葉ばかりの ゆとりとか  余裕とか ばかり

チンケだなぁ とどうしても 思ってしまうのだが・・



出雲大社へ行ったのは、偶然の仕業(しわざ)。

6年前、それまで縄文ということに何気に惹かれていて、その土器や教科書で見た

埴輪を見たい、と思っていた。う~ん。書くのが止まるなぁ。

(もう少しがんばって)それとは毛色が違ったが、上野で神社の大展覧とか

やっていて、ぶらりと他が気に入ればそれを観てもいい、と流し気分で上野公園

まで出かけた。大神社展はつまらなく、そこそこに出て来てしまった。

ところが1Fで常設展で縄文から江戸時代までの陶器や瓦が展示されていて、

教科書に載っていた国宝の埴輪もレプリカだろうか、あった。小喜びして撮影

禁止の撮影をしたのを記憶している。よい子の皆さんは真似をしないように。(笑)


それで満足したが、それで終わらなかった。売店に行って、記念品を買うつもり

が、ポスターに出会ってしまった。それが60年に一度という本殿遷座祭で、

平成の大遷宮という大改修工事のポスターだった。それも明日から!

大国主命(おおくにぬしのみこと)に招かれたなどと、固く考える必要はない。

この出会いに素直に従えばいい、という気持ちになる。こういうのには昔から

逆らってはいけないことになっている。

と、これがきっかけで小学生の時に学校の裏手にあった熊野神社の由来や

そもそもの出雲の民と大和民族の襲来との歴史をひも解くことになるので、

なにがきっかけになるかわからない。

そうして、2013年。島根県まで車で一人旅が始まった。 遠~い~よぉ。

つかみは、こんなところでよかろうかい。

いつかなるべく、近日中に、続きをと思います。
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もう寝るけれど、書き切れるか? [気持ち]

物理学で面白い話とか、出雲大社への旅とか、過去ものもあるけれど、書いておく話が

あっても、なかなかその気にならないのが悪い癖で、その場の自分にまかせる。明日の

自分はどういう気分なのかわからないので、書くのもその場で決まるというか、書いてみる

までは自分でも何を書くのかわからない、ということがほとんどだ。

そういう生活を5,6年していたので、月に10日の仕事をはじめても、それは習慣じみ

てしまっているようだ。

そんな生活になった理由を書いておくのは親切なのだが、とても長いストーリーになるので

腰が引けてしまう。


窓からは東の空が見えているが、うす曇り。それが西日の反射だろう、うすく赤色に

染まっている。次第に下が青くなり、赤い色はせり上がるのは、反対の空で西日が沈ん

でゆくからだろう。どうもジェット戦闘機らしいのがそこを通過しているらしく、

キラッと光るストロボライトが見える。ラヂオなんかあると雰囲気が出るんだが、今は

パソコンでネットを立ち上げればなんでも通信してしまうので、アナログは好きだが、

趣味のように買いに行くことはない。あるようでないようで、自分の欲しいものを意外

に買わないほうだ。

この世も、自然も、地球も、国家の集まりも、あまり知られない宇宙も、それぞれが

世界を形成しているのだけれども、それらを心の投影と見ることも世界とみなすのなら、

それらをまとめて僕はただ「世界」と言っている、言うことが多い。だから世界観も

そのなかに入ってしまう。

どうしてそう感じるかは、僕の経験次第だから。と言って、申し訳ないが、その経験を

くり返し語って来たので、芸能人や容疑者ではあるまいし、何度もそれを語るのは飽き

ている。

前々のブログから3年もやってきたので、ここではそこでは落としてきた話をある程度

きちんとまとめようとして話そうとして、立ち上げたソネットブログなので、そちらに

重点を置きたい。ただやはり、簡単な導入の説明は入るだろうけれど、不十分なものに

なるだろう。

なにか、たどたどしてしまっているなぁ。

でも、なにか言いたいことがあるわけではないので、表現しようという「気」がせり

上がって来ないし、珈琲を飲むには、もう寝る前だし、と。

なにか、ブログや本を読むときには面白かったり、特別な雰囲気を言葉にして味わい

たい、というのはわかるけれども どうも、そんな感じじゃない、今夜だ。

変れば変るもので、昨年の頃は毎日でも書いていたし、書くのに困るより先に発想が

やってきたので、一日に2,3の記事を書いて、全部を一度に発表は無理なので、

溜まってしかたがなかった。が、今はブログを二つ立ち上げたので、楽になった。

そして、今急に閃いたけれども、僕の想像で、仮説のようなものだけれど、愛を創造

する僕らというのは実在している、と。

でも、その他の愛も存在していてかまわないし、それはフィールドが広がって楽しい

ことだ。今までは僕の受けた(この発想について、今メールを友人に送るのに、1時間

は中断):-

何を書こうとしたか、忘れた。

でも、皆さん、僕の伝えたい気持ちはわかりますか?

言葉では伝わりにくい、その代わり、嘘でも書き方次第ではその人が勘ちがいして

くれる。気持ちと言うより、しあわせの波動のようなもの。ほんとうでも嘘でも、

信じたものの勝ちっていうところ、ありますよね。ほんとうに感じているなら書き方は

どうでもいいし、なるべく思ったように書こうとすれば、と思いますけど。

ここにある空気とか、波とか、振動とか、温度、そんなもの・・・。

今夜はここらへんで。

では、おやすみなさい。
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