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困った [気持ち]

書くことに興味がなくなった。

困った。

困った。困った。困った。

困った。困った。困った。

終わった。

心の何たるかを追い求めるのは、なにか役に立つような気がしていた。 

だが、そうだろうか。

今は、一人の楽しみとして、始まったこの知的な旅を続けてみたいと思う。 

ブログを気にする生活も厭わしく思われるようになった。 

これではこちらからいい影響とかは期待できないだろう。

それとは別に、心の問題は非常に幅広くなり、また今までわかっていたことにも

再読が必要な「方法序説」なども新たに認められるし、今までのように気まぐれ

で書けるようなテーマではなくなってきた。  


実は、僕は僕の直感3分の1、世間の噂・諺・風聞・常識と言われるもの3分の1、

残りは他人の意見・本・論文などを最後に比較していた。そこでそれぞれが

納得のいく誤解や正解やズレや見方の違いによる、とかでスッキリとする

そういう答えをまず感じることを求めた。その何とも言えないものを、 

それぞれの見解で見ると、なるほど自分の直感はここを見ていた、世間の

常識はこういう誤解だった、彼の本の見解は彼の個性が示されていた、と

いう具合に答えからそれぞれに明快な、それぞれの見取り図ができた時に、

答えが正しいことを確認できた。そうすると複雑にからまっている物事を

整わせ、見るだけでなにがどうなっているのかわかった。

だが、こうした確信に自信を持っていたが、ここへきて半世紀も費やして

来たこの方法に疑問を感じた。わかることは間違いがないが、それが

なんだって言うんだろう、と。  

個性の披露であるなら、そこらの二流哲学と何ら変わりはないではないか。

どうして僕らは3000年前という時代を理解できないか。つまり、自分に

理解できるとは、到底思えない、ということなのだが、それに絶望な

気持ちを抱いたわけではない。そんな絶望なら、腐るほど克服してきた。

たぶん、こういう道を究めるがごとく、書き残していくことが社会に

認められるということだろうし、そう希望しなくても、そういう仕事の

量が必要なのだろう。僕(ら)が何事かであると、人に思われるには。  

僕に嘘がないことに、少なくともそのつもりがないことに、それなりに

意味があるのだろうか。どう書いても、それは表のこととして、演技や

表現に似て、僕がそれをするのを迫られる。そうして、まるで建前と

本音のように二重になった言葉を生産し続け、僕の確信も次第に溶かされ

始めている。

わかることには条件が外と自分のうちに、二重に求められる。それが整って

もその応用である行動のバランスは、ますます複雑さを増して、その調整に

時間を費やす。これでよかったのだろうか、これでは知性と同じ物事の

複雑化へ進む方向では一緒ではないか。専門や権威や、つまり医者や議員や

法律家、薬剤師、警察に頼らなければ、何も決められない僕らは病気になると、

不安ですぐに医者や病院へ行く。これが当たり前だと思えるほどに、僕らは

弱体化してしまったのだが、あまりに当たり前で医者に行くのがなにが

いけないのか、気がつかないし、わからない。

精神や神経では医者にかかるのは危険な分野であるのだが、そういう知識が

ないのだろう。こちらがそれを伝えても、まったく聞く耳をもたない。

向精神薬を処方されて、いずれ生活はもやもやした頭のはっきりしない霧の

中に埋もれてしまったらしい。なにが医学や治療で一般的に確立されたもの

なのか、その知識があればこの病気ならどこの医院、またはどの名医に

かかれば大丈夫とわかるが、その前提なしに、地域の看板だけで医者に行く、

大病院に行く。そういうようにすべてがわかりにくくなってしまった。


心理劇というのは社会的なことではないのだ。ドラマで楽しんでも、信じて

しまう、ああいうことはあり得るのだ、と思いこむのは危険なことなのだ。

同じ製品でも、並んでいれば僕らはCMで名前の知っているほうを選びやすい。

同じような心理劇を見ているうちに、しっかりとそれについて自分の意見が

明確に言えるぐらいでなければ、知らずに僕らは誰でも人を殺す要素をもって

いるとか、を信じるようになる。それと同じくらいにそれを消してしまう

要素があるのに、目を塞いでしまうことになる、と気づかずに。

僕らは信じることさえ、もう万葉集の頃とかとは全く違うことになってしまった。

人を憎んだり、殺意を抱くにはその人が自分に許してしまう、幾段階があり、

そこに気づいていれば簡単に防げるものだが、信じるということの芯がうすれて

しまっている現代では、驚くほどの地域性の意識がよくも悪くも守られている。

それでもそれは自然な防御として当たり前な信頼になっている。

少なくともペンギンのように生存し続けるだろう。ペンギンのユーモラスな

歩き方が多くの動物を絶滅までに追いやった密猟者から守ったのだ。可愛らしい

というだけで、捕獲して食料にするものがほぼいなかったからだろう。  

心理劇は僕らがトイレに入る姿なのだ。きれいなだけではない、確かに。だから

と言って、誰でもトイレに入るから僕らは汚い奴だという、そういう言い方・考え

方は意味があるのだろうか。トイレに入るのは事実だ。だから、それを真実だと

すりかえて、僕らの尊厳を傷つけるのは、なにかおかしな勘違いをしていない

だろうか。社会的な絆や、尊敬を、感謝をそんなはき違えた(真実じみた)事実で

踏みにじってはいけない。こういう風潮は避けられないほど、TVに日常にネットに

あふれかえっている。

なにかするにはあれもこれも、技術的なこと専門的な知識が必要(と煙らされて)

で、する前にあきらめてしまう。逃げるつもりはなくても、犬猫を可愛がることで

自らを慰めたり(そうでない友情もあるが、少ないし、程度が過ぎる)、ゲーム、

趣味、神社めぐり、となにかに頼み込もうとする。ふつうに興味があって、健全に

楽しんでいるという場合の話ではないが、一人になってそれを見つめて、健全だと

思える人は稀有だろう。 それはそれで素晴らしい、うらやめる人だ。


だが、認知症にかかる%、統合失調症にかかる%は癌への羅患率とあまり変わりない

のだ。学校のサラリーマン化した教師が50%が精神科・神経科へ通ったことがある

という現在、僕らの健全とか、健康はどこにあるのだろうか?この単純な問いは、

もう十分に複雑な現実の中に埋もれてしまっている。

どうやって今まではあったように見えたその宝を掘り起こせばいいのか?


ニュースでは貿易の輸出制限で話し合いに来た韓国側が、帰りの空港でこの措置に

抗議して撤回を申し入れた、と。慌てて経産省側がそんな事実はない、と反論した

が面白かった。韓国らしい、というか感情国民らしいというか。彼らは言ってない

だろう、明確には。しかし、会議の雰囲気でこちら側の意見はわかっていたはずだ、

と言いたいのだろう。理詰めの話では反論もできず、引き下がったが、マイクを

向けられれば、僕らからすれば嘘になるのだが、彼らにすればこれは撤回しろ、

というわれらの意向はわかったはずだ。だから、気持ちは撤回を求めていたの

だから、われらにも面子がある、言いたいことを言ったのだ。何しに来たか、

話し合いの前にわかっていたではないか、というのが韓国側の「意見」ではなく、

「気持ち」なのだ。子供と同じ。子供は嘘をついたつもりはないのだ、さっき言え

なかったから、今、(すでに)お互いにお互いが了解しているはずのことを

言ったのだ。日本の、(ま、ふつうに)常識ではめちゃめちゃだが、気持ちは

可愛い。わかってくれという甘えの大前提があって、それがわかってくれれば

いいだろ、そしてわからないのはおかしいだろ!と開き直って恫喝になる。

そういう心情のシステムになっているらしい。そこから彼らの政府のふらふら

した不分明な外交、国民への対応などの部分をみると、僕なんかは納得して

しまう。

だから韓国問題は面子を気にする(中国も)大人の子供をどう扱うか、という

のが根底に来なければならない。と言っても、後ろにはアメリカがいるし・・。

いずれにしろ、内外で、困ったことだ。
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