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生きているオリジナルティがある? [オリジナル]

オリジナルというのは、ほんとの

処は何をいうのだろう? 

オリジナルという特別なオンリー

という感じはすぐに掴んでいる

つもりであるが、それはほんとうに

何に対して、どう特別だというのか。

個性という言葉が低俗化して、ただ

の人と人の性格の違いをいうように

なってからは、個性のどうしようも

ない社会への、組織への、お仕着せ

への反発心は薄められてしまったが、

天才を見続けると、個性的な人ばか

りで、個性が強過ぎた場合は、容易に

集まりから孤立し、受け入れられなく

なるそういう性質を感じることが

できる。

そう思うのも、人間を考えると、そう

いう境界線がどんどんなくなって

くるからだ。境界線と言ったが、この

境界線が引ける理由というのも、怪し

いし、詳しく説明しようとすると、

こちらも訳がわからなくなってくる。

言葉は飽くまでも、例えのために使っ

た抽象を指さして、その方向にあるの

を見せようとした「例え」以上のもの

ではないからだ。

適当な言葉でもそのまま腑に落ちる、

となんでも即に理解・納得できる

ものではない。

それをそのまま「わかった」となると、

とんでもないことになる。それでは

言葉で何を言っても、理解・納得には

遠い処にしか着地できないのだ、と

言っているようなことだからだ。

文章を50年も書いてきて、それなりに

表現や文意に苦労してくると、言葉の

使い方でどんな考え方をしているから、

こういう言葉の使い方が出て来る、と

いうことまでわかる。まで、という

より、それが普通のことで、特別だ

とは感じない。むしろ、書いている

本人がそうとは気づいていない場合

のほうが多い。それはしかし、やはり、

立場の異なる土台があるから、自分の

立場から見た部分はいつも正しくなる。

それは絶対正義とか、絶対真理とか

では、もちろん、ない。時にはそれが

誰も知らないことなら、誰もそれを

信じないということがいつも起きる。

では、自分の立場を離れて、より距離

を置いた客観性からの立場が加わって

いたら、その意見なり、言いたいこと

の正当性はどうなのだろう。

残念だが、それを判定する基準が、

個人的であり、実験で証明できない限り、

想像上の正しさという、曖昧な領域に

はいる問題になってしまう。

僕らは決めた地点から別の地点までを

目標に歩いたり、交通機関を使ったり、

自ら運転して行ったりするが、まず

間違いなく着くことが多い。と同時に

ニュースで毎日誰かが、そうは行か

なかったのを知る。事件や事故が起きて、

誰もが普通のことが普通に行えなかった

のを知る。こうした大きな事件・事故は

数少ないが、やはり、自分の周囲を

見回すと、体のどこか故障したり、

神経科に通っていたりする人が必ずいる。

交通事故を目の前で見た時には、なにか

茫然としてしまう。高速を走っていて、

反対の車線で車がこちらに向かって突進

してくる。高速だからではない、車は

クルクル回転しながら、だ。

サイドミラーで分離帯に追突したのが

見えた。ある時はバイクに乗った男が

分離帯に衝突した。その時、体が放り

出され、壁に首が当たり、ヘルメット

ごとぐにゃりと曲がった。「あ、死ん

だな」と思う。

瞬間に映像は流れて行った。2秒も

経つと、今の出来事が現実だったの

かと信じられない気持ちになる。

あり得たことなのか。


そして、死を恐れない自分を不思議

に思う。多くの者が生きて、生き残り、

生き続ける。それが普通なら、それ

でいいではないか、と考えるが、僕は

明らかに納得していない。

死ななかったから?それもあるだろう。

しかし、少し違うと思うのは、死なな

い回数が多すぎることだ。

冒険好きな性格もあり、どうしても

知りたい、とかどうしてもそれを突き

止めたい時には死を賭してしまう、

やけにあっさり死の淵に飛び込んで

しまう危険な性格だ。もちろん、危険

を察知する感性も人並み以上だと思っ

ている。

それでも還暦の60歳までは生きてい

ないだろう、というのが客観的に見て

も常識な判断だった。生命保険など

長い間入らなかった。

矛盾しているが、健康オタクで自分の

体の傾向と対策はいつもしていた。

(たぶん、明晰な意識で経験するのが

正しい経験で、そのためには健康が

必要だと知っていた)

それで集中しすぎて、気づいたら限界

でバッタリ倒れるといったことは何回

かあったが、5年くらい前からは回避

できるようになった。

これまでの50年は自分の死の自覚か

ら始まってその死のゾーンを超えて、

宇宙の話題のダークマター(暗黒物質

=宇宙を満たしているとされる謎の

物質、未解明)ではないけれど、闇の

世界に渡りをつけようとしている、

していた、あまりに情報量が少なく、

海岸で目当ての砂粒ひとつを拾う

のに、1, 2年とか、亀の遅い足取り

どころではないので、飽きてしまっ

たし、体に無理が効かなくなってきた。

それで陶器などをつくっているのだろう。


それでも開いた世界とは、その通路を

狭めはしたが、閉じたのではなく、まだ

わずかに交流はある。こうして書くこと

ができるのがその証明にもなっている。

僕が獲得した感覚で言うなら、僕らが

いかに想像力を働かしても、そこに届く

ことはない、ということ。前にも書い

たが、僕らの想像・空想・幻想の概念

で永遠を形作ろうとしても、それは

永遠の入り口に過ぎないことだ。それ

も概念的に理解することはできるが、

その世界への実感にはなり得ない。

気をつけたほうがいい。ほんとうに

その入り口から覗いただけで、呼吸

困難を覚えるから。

僕は長い年月を通して、慣らして行っ

たから(それも後から気づいたのだが)

日常的に対応・適応できるからいいが、

ちょうど3000mの高山へ急に連れて

行かれるようなもので、空気が薄くて

体は適応できなくて、高山病になって

しまうようなものだ。

思えば、僕はそういうことをしてきた

のだな、と回想するわけなのだ。それ

が不思議なのだ。

あそこでも、あの時でもよく死なな

かった。・・と、ただの愚痴になって

しまった。



どこかで家庭・組織・社会・世間に

沿わないと僕らは生活できない。

そして、それは固定された状況では

ないのだが、そういう状況へ意識的

に追い込まれるのが、僕らの大切な

常識というものなのだ。どこで常識

が大切なのか、どこで常識に外れ

ないと、方向を、自分の道を失うのか、

それを見ることはできる。要はこの

国内も国際もその人間の本質の事情と

絡めてみれば、概念でもわかる。ただ、

概念だけだと、やはり自分の立場の

世界に落ちてしまうことになる。それ

だけの全世界の俯瞰を得るにはどう

すればいいか。

それが課題だろう。いつも変わらない。


森林の公園で丸太のテーブルで書道

の本を開いていたら、蟻が上って来た。

頁を閉じて、押しつぶす危険があると、

教える。潰さないうちにすぐに開いて、

蟻が慌てるのを見る。もう一度。

まだアタフタやっている。結局、4,5

回そんなんことをくり返して、蟻が

開いた時に吹き飛んだ。とても納得

して本から去ったようには見えない。

彼らには俯瞰という機能は備わって

いないようだ。

だから、知能遅れだ?そうだろうが、

ミミズが迷っていた時に、根気よく

気配だけを送って、土のある方向を

示したら、ミミズがジグザグだったが、

結局はこちらの示す方向に正確に辿り

着いたのだから、どんな未知な機能が

あったのか、彼らの世界には知能遅れ

では片付かない、謎の選択感覚が

あるのは確かなことに思える。

なぜ、謎に興味があるのか。それが

目の前にゾロゾロ行列をなして来る

からだ。否定もしようもない事実と

して、僕らの感知しにくい世界が

あるのを知らせて来るからだ。


僕から日本社会に挨拶をしておこう。

それなりに参加させてもらってますが、

うまい位置に、うまい気候、うまい

国土と、なぜ日本を選んだのかわかり

ます。

オリジナルは英断に必要でしょ、それ

が金字塔でもあるのだから。そこら

あたりを付き合わせてもらって、

歩いて行きますか、ー 日本の道を。



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