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失い得るもの、失い得ないもの 1 [必要苦]

いつもと違うのは、テーマがありそう

だが、それをどう書くのか、深い闇に

足を踏み入れる気分だということ。

気分もあるが、それは前途多難、

とか五里霧中、とか暗中模索といった

四字熟語が並ぶ光景でもある。


僕らは 気分を良くしてくれる

フレーズを 期待している 

笑わせてくれたり、ほろっと 

させてくれたり、時には

役に立つ 言葉を得たいと。

そこには公明正大な  皆が

望むもの という お墨付きが

1年保証ではないが それが

当然のことに なっている。


それが人間の本能とか 性質とか 

目的でさえあるだろうと 僕らは 

長い間  思って来た。 そして 

今も。

それはそれを失くして しまったら 

どうにも 困ってしまう、とか 

生きて行かれないほどの 重要な 

もの  なのだろうか。 

そうでは ないだろう

そうではないが 失くしてしまったら 

僕らの生活は  灯を失ったかのように

寂しいものに  なるのだろう 


そういうことではなく それが

あるかないか ではなく 

それを 求めることについて 

僕らは  どうして 与えられるのを

望むのだろう 

どうして 自分で  作り 

出しては いけないのだろう 

自分で 笑いだして 

自分で 泣き 沈みそうに 

自分で 伝説を  語って 

自分で  新発見を して 

それが  独り芝居だったら 

むなしい だろう 


自分だけでも というのも

他に頼って 期待ばかりで というのも 

それは 同じく  むなしい 

自分の 役割で  

うまく全体になる 

そういうことなら 僕らは

協力と 呼べるに違いない 

ひとりであるが ひとりではない 

他を必要とするが 頼るのではない

そういう 関係の中から 

生まれるのは  信頼というもの

だろうと 思うのだが。 


支えるにしても  支えられるにしても 

それぞれに 支え 支えられるなら

迷惑を かけることもあるだろうし  

迷惑を かけられることも  ある 

僕らは  どちらにも  なれる  

柔軟な 気持ちと  考えを

バランスよく  持っていれば

うまくいくのだろう    12.20



社会の 成り立ちには 

そういう 暗黙に 約束が 

理想として  あったのだろう 

前提として  

あったものが ただの 

常識に  堕落してしまって 

社会への 組織の責任への

期待として 

当然のようになって 

僕らは  弱くなった 


僕らは 犬に なっていないか 

ドッグフード という 粗悪な

食べ物で  生きる力を 

奪われてゆく 


なぜ ドッグフードは 安いのか 

どこまで 栄養と安全が 

管理されているのか 

国の 規制はない 

メーカーの 自主規制に 

任されているだけ 


アメリカでは 欧州でも

禁止された 化学肥料を 

使った 製品が 国内では 

さばけないので 

日本への 輸出用の

ジャガイモに  なっていると 


犬のドッグフードと 

似たような 具合になりそうな

噂が  立っている 

そういう仕組みが  今日で  

あるのなら 

僕らは  犬と さほど 

変わらない 

自己治癒力という  免疫をなくし 

ゆるやかに  絶滅の方向に

進むのだろう 


犬の 室内飼育が  増えて 

寿命は 延びるが 

免疫を 弱くして 

人と 同じ 成人病に 

罹るようになった  

本来 犬猫は  それほど 

病気にならない 

寿命延命と  免疫低下の

関係が  これまでしたことのない

羅患を  増やし続ける 


アメリカは  戦後も 

日本の子供たちの  ために 

脱脂粉乳という アメリカでは  

豚のエサを  くれたではないか 

落としたら どうなるか 

原子爆弾の  実験も 

したのだろう 


僕らは  近代から 

自分たちが 落ち着ける 

安全な 場所を 

探してきた 

産業革命の  爆発から 

生産は  分業するものになった 

ラーメン屋でも 

自分の 発案でも 材料は 

どこかで  加工されている 

肉を 買うために 

牛の屠殺の 啼き声を 

聞かないで すますことが できる

腸を 捌くこともない 

パッケージに 入っている 

肉塊 だから


僕らは  牛を見ないで 

牛を 食べていることを

もう  意識しては いない 

ウィルスや  細菌 

1万分の 1の  なんらかの 

データミスで  まるで 

計算結果が  狂ってしまう 

なにが 原因かも 

素人では  聴いても 見ても

わからない  だから  

無知で  許される 

そういう仕方ない 世界で

生きている  のではなく 

もう  生かされている  

僕らが  犬猫を 

飼うように 

見えない ウィルスのような 

後ろから  手を回している

国際資本の 脚本に 

寄り添いながら 

生かされ 続ける  



誰も 

生産の 初めから 

経済の 仕組みから 

所有の 歴史から 

お金の  あり方から

膨大な 全体を 変えるのは 

無理だと 

考える前に 

諦める だろう 


そういうのが 隷属状態だと 

認めることから  長い年月が  

経ってしまった  

経ってしまった ことだった 

僕らの  大脳辺縁系は  

どうして  辺縁系なのか 

脳の中心は  もう他の 

味噌で 占領されていたから 

その 仕組みを 根本からは 

崩さずに 

遠慮して  外側の周囲を

取り巻くように 

範囲を  広げたのだ 

何十万年前 だったのだろう、

次々と 部屋数を 広げる

ための 計画性のない

建て増し住宅  だったのだ 

そのための  不便は  

出てきても  我慢するしかなかった 

そう考えたとおりに 

僕らは  まるで 社会を 

作ったかのようだ 

脳は いいかげんに できているから 

社会も  いいかげんに 

作られたのだろうか? 

そういう部分が  どの辺りなのかは

わからないが   大震災・大災害で

見直されるのが  都市計画・災害対策、

未来など ないかのように 

今の時点だけから 見直しが 続けられる、

そう ありそうな話に  聴こえるほど 

僕らは  未完成で 

いい加減に できているようだ 



車は 凶器だと言われた 時代 

年に 3万人が  死亡していた 

対策をして 

半減した と 誰も 褒めたり

喜んではいなかった 

対策しても  死亡事故が

なくなったのでは ないから  

中国の ゼロコロナ 対策を

見ているよう 

対策を 理想的に 頭で 

しても  人々の生活を 

圧迫しただけで いつも 

感染者は  出た 

いつも  だった 

完全な 対策や対応は 

できなかった


日本の厚生省は  

ワクチンを 2・3度打った人 

よりも 

一度も打たない人 のほうが 

陽性者は 65歳以下では 

少なかったとの  統計を 発表した 

どの新聞も  それを 全然  

報道しなかったのだろう

僕らは  公然たる  新聞や 

マスコミを  信じて 

それが 理由あることだとは 

思わない 


その隷属した 意識は 

まだ 公然たるものではないから 

それが  すべてで  つながっているのに 

なかなか  気づくことは できない 

地域社会や  その小さな福祉などの

グループで 

全体を  ひとつ残らず  

変えてゆく  

その 戦いは 革命ではない 

ただ いい方向に  変える 

これでは いけないという 

自覚を  途切れさせない 

そういう輪を  常に 

広げてゆく  意識を持つ 

その 協力は  できるはずだ 


僕らの 国際社会・世界は 

資本主義という  その中身ではない

隠れ蓑の 見せかけを 盾に

利益のために 働き 

それぞれの 利益を  求めた 

そこから出た  さまざまな 

矛盾や 障害 故障、 トラブルは

ドクトリン・ショックになり

経済だけではない 社会問題を ー



元になる歪んだ 体質・組織を 

ひとつひとつ  是正して 

見えない協力化 によって 

それが  広がる気運を 育てる 

突然、大きくなる 懸案は 

利益を求める 人たちの 

巧妙な 罠かもしれない  

立ち止まって  検討する

そういう機関も  必要だろう 

大きな 軍拡や金融の団体の

または 諜報機関の出先の 有力企業

からの脅し・圧力が  かぶさって

来て  何度も  その気運を 

潰しに来るだろう 

または 子供の発言を 装って 

まだ 決定的でもない影響を 

決定的にと  企むだろう



僕らは この200年で 築いた 

文明文化を 

やはり  200年かけて  

修正するための  時間は 

考えておくべき だろう 

皆で  考える 

情報は  いくらでも  

ネットで  伝えられるなら

手段は  いくらでも 

あるだろう 


僕らは  後戻りは できない 

昔の生活は  できない  

それよりも  多少 

縮小はしても  基本は

変わらない 生活が  必要だ 

やることは  いくらでもある 

その準備のために 

考えることは  絶え間ないほどに 

やって来るだろう 

その過程に  踏み出す前の 

その準備  だけにでも 


僕らは  どう生きたいか   その時、

どう生きるべきかは ないかもしれない 

それぞれが  それぞれの 歴史を

変えられるわけでは ない 

生活習慣を 変えるには  

どこかで  皆が そう気づく 

そういう瞬間 が  あるだろう 

それぞれの 国で 

それぞれの 気質で 

変わらないものが あるだろう 

そこに 統一や  総合を 

期待するのは 誤った方向に 

導かれること だろう 


荒れる や 

世界は  荒れるだろう  

ハレルヤ 


僕らの ために 


僕らの  世界が 


それぞれに 築けるように 


僕ら自身を  祝福しよう 


僕らは  ここにいて  


人間は  ここに いる、と 

言うために



もう そういう時代が 

来ても 

いい頃だ 



皆 うすうす  わかっているはず 

200年も  このままでは 

いけない、と 

思って来たのだから 

そう聞けば 

思い当たる はず 

僕らには 清濁併せ吞むにしても 

不道徳の 許容にしても 

それぞれに 健全な  やり方が  

あるはず と



工夫次第で いつか 

矛盾を  乗り越えられる 

時が くる、と


それが できない  僕らでは 

ない、と 




:::

(あまりに説明不足・不用意で)

まったく不本意ではあったけれども

僕の残り時間で、今書いたものとして

時限的に、一時的であっても小局的に

意味があるだろう、

と幾十時間くらいは迷ったけれどもブログ

に載せることに。


 ● 少しだけ、  つづく
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苦のない生活は不自由の方向 [必要苦]

なぜか仕事が増えてしまって、・・

年末へということと、車検が重なって

ということもある。

なんのことはない、雑用が増えたので

ある。それで一日の内にいかに茫洋と

していたか、またその時間が必要不可欠

なものかというのを味わうように知った。


散歩に出て、あまり人が歩かない場所に

行くので、拾い物が多い。先日も、亀

公園の上にある、極狭の公園を歩いたら、

うんこの匂い、だが、違う匂い。

銀杏がいっぱい落ちていた。公孫樹

の葉っぱに隠れて、拾ってみると、

とても拾いきれない。それでも30個

ほど拾って来た。以前、横浜港公園の

公孫樹並木でもギンナンが落ちていて、

拾って来たことがある。銀杏は好物だ。

子供は7個から15個の間で食べると、

中毒症状を起こすそうだ。大人は40個

かららしいが、慎重に10個まででやめた

ほうがいいと、書いてあった。

60個食べて病院へ行った人もいるとか。

確かに、それくらいなら好きなら食べて

しまいそうだ。



本がある。部屋部屋に大量に。

それは最近まで威圧を放っていたが、

僕への圧力を弱めたらしい。なにも

変らないからだ。もう僕の余命を

僕の読書量から推測しても、もう

全体の半分を読むのも疑念だ。それ

なのに、本を処分しながら、別に本

を求め、結局、買い増ししている。

計画性がないというのは別なことを

言っている。僕に読書については

計画など役に立ったことがない

からだ。

本を処分するのは、寝床に布団を敷く

場所を確保するために、本棚の本を

処理して寝床の本を収納整理しなく

てはいけない。その時、その都度これ

は後回しにされる本だから、処分して

も影響はないだろう、と考える。

それくらいか。あとは読みたい本が

いくらでも出てくるのだから、なる

べく購入しないように、するべくして

ならない時には、購入することに

なる。

いつもと同じだ。

平均して、数ページから10頁以上

読むと、考え込んでしまう。その書か

れていない部分に思考の方向が定まっ

て進んでしまうからだ。本の意向に

沿って進まずに、いつも僕の意向が

優先して、疑念を潰しながら読んで

いるからなのだろうか、よくそれを

考えたことはないが、本は途中で

途切れ、それを広げた思考を押し

考えるようだ。

言葉の性質というよりも、人間の

性質上だろう、結論を早めに言う

傾向があって、論拠や必要経過が

飛ばされている。そこが気になる

のだ。

それに対してあらゆる視点が勝手に

浮かびあがって来て、ひどくなって

茫然としている。自意識はそれを

手放して、あとは無意識な脳の

どこかか、他の組織の脳(?)に

まかせるのだろう。

それを気にしなくても、ある程度

まとまると、後日、勝手に出てくる

のでそういう独特な精神衝動を感じ

たら、パソコンの前に坐ればいい。



これができるというのは、単純に

楽しい。実に単純で「人生は楽しい」、

それがやって来て、それだけになり、

それだけにすればいい。

楽しい音楽を聴いて、そういう気分

になれば、同じことだろう。

この楽しいというのは、日常がうまく

いっていて、不安がないから楽しい

というものではない。今はそれが

できる。それが今、というものだ。

体の悩み、経済の悩み、この先の

不安はいつもあるのではないか、と

いう気がする。

それはそれ、という範疇の空間が

あるように、それと切り離せる精神

空間もある。その心の使い方とでも

いうのだろうか。日曜日に休みなのに

仕事のことばかり考えているのはおか

しいだろう?という感覚だ。

苦は消えない、苦として存在している

から。同居人に出て行ってもらえない

のだから、カーテンでも引いて、区域

内で楽しむ。

問題はバランスだろう。楽しいばかり

では感覚がゆるくなり狂い始める。

健康でありたいなら、楽しんだら、

それなりに苦を楽しむほどに、やって

みることだろう。苦も巻き込んで、

それに負けないガッツで見つめる。

あるべくして在る相手には勝てない。

どこまで一緒にやれるか、受け入れ

る必要はない、監視しながら、やれる

ところまでやるだけだ。

なにがよかったか、ということを

考える必要はない、とわかればかなり

苦と遊べるはずだ。ただし、体力も

気力も精神力もいるから、その内の

二つで自信がない人には、勧められ

ない。過ぎ去るまでなんとか耐える

ことだろう。

最初に一度それを克服して勝つことが

必要で、これは歯を食いしばっても

やり遂げると、後は全然ちがってくる。



僕は苦のない人生は歓迎できない。

人生は闘いだからだ。どんな意味でも

誰かを必要とし、必要とされるのが

醍醐味でもある。

それがたとえ、たった一人でも、僕ら

は自分と対峙して、そういう困難への

工夫を果たすようにできている。

僕らが知性を働かせる限り、ひとりに

なることはあり得ない。それは誰かを

頼りにしていることではない。

僕の経験では誰にも依存しないで、

ひとりでいい、これで死んでしまっ

てもかまわない、と思い切った時は、

必ず手が差し伸べられた。それは見え

ない手である時もあった。運命は測り

がたい、望みが絶たれたと覚悟した

時が、脱出できる時の寸前、その

手前だった。

それを何度も経験すると、中途半端

でなければ、実にその状況にまったく

希望とは矛盾した正確な喜ぶべき現象

が付随して起こるという、不思議を

見せられた。

僕はたぶん、ギリギリで自分への

不適応な対応を避けることができて、

自然な僕への道を歩いた。道が

あらかじめあるわけではないが、

歩いてみてそれがわかった。

無理をしないというのは、無茶を

しないということではない、そこに

戻るための無茶なら、乱暴だが、

それも一手段だった、そう思える

のである。そうしてみて、数十年

に十回も経験すると、それさえ心得

ていれば、人生で躓くことは怖くない

し、いくらでも無茶をしても大丈夫

だ、ということもわかった。

ふつうに真面目にやっていれば、人生

は続く。自分を越えたり、卑下したり

で自分の域を知らなくてそういうこと

に陥るのであるのならば、僕らは盲目

にも等しく、転落するのだ。

僕らは転落するようにはできていない。

だから、その境界線を試すことも必要

かもしれない、若いうちに。

苦はそのためにあるようにも見える。

初めはなにをやってもそれが現れる。

うまくいかない自転車乗りも倒れる

たびに倒れなくなるようなもの、苦に

慣れるに従って、そこのコツが掴めて

くるのだろう。

僕の気持ちはいつも分裂していた。

もう死ぬだろう、と諦めたが、それは

気持ちの上であって、行動は出口を

求めて、へこたれずに続けていた。

それは矛盾していたが、いつの間に

か身に着けたのだろう、気持ちと

勢いが分離しても、戦っていた。

それは思えば、山岳で生き延びる

ために学んだことかもしれない。

食べたくなくても、生きたいのだっ

たら、今食べなきゃダメだ、と

知っていた。汗をかいて、体が湿っ

てしまうと知ったら、どんなに面倒

な冬のさ中でも、リュックから下着

を出して着替えた。

自然がそういう鉄則を教えた。

動物を殺傷して10分以内なら、肉も

血も新鮮で、飲食しても害はない。

血は特にビタミンAが豊富で、その

昔、北極を目指した探検隊でも、

エスキモーの生活を参考にして、

ホッキョクグマを殺して、血を飲ん

だ探検隊は生還したが、同じ時期に

近代設備でそれに頼った探検隊は

ビタミンA不足で、確か全滅して

しまった。そこの極寒の生活で

生き抜いているエスキモーは自然

の代弁者のようなものだ。


思えば、僕は極端な夢の中にいた。

それでか、極端な現実には尊敬の

念を覚える。それはどちらも荘厳で

完全に僕らの妄想や想像という、

中途な概念を越えている。そして、

それは見えるが、囚われた眼には

自己の中で見えない。

それは政治でも芸術でも、極度に

至ると、そこで見る人は見る。

それが不思議だ。それは変わらない

ことだからだ。精神の世界と物の

世界とを異にしない。どちらにも

たどり着けない奥行きがある。 


自分の軛(くびき)を破って、

すべての世界と同時にある僕らを

無限に感じるなら、それが事実で

あることを知るだろうし、この世

の本来の在り方も知る。

自由はそこにある。

それは僕らがもともと自由である

ことを示している。

それは第一原則のようなもので、

自由が自由であるには一定の不自由

が必要だという第二原則になると、

少々複雑になる。

この二重に意識の必要性については

書いてきたので、また機会があれば

くり返そう。




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