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玉ねぎの皮をむきながら メモ [自己知]

「玉ねぎの皮をむきながら」ギュンター・

グラス著)は今朝、届いた。代表作「ブリキ

の太鼓(1959)」は未読だ。図書館にある。

早速、読んでみる。これは半ば恒例で

すぐ、しかし、ちょこっと読んでみるのだ。

小説なら数十ページになるが、他の分野の

本のほうが多いので、読んでも6頁から

10頁程度で、また先送りされる。それで

1年、5年と読む機会が回ってこない本が

多く、通例になっている。例外ではない。 


ギュンター・グラスはノーベル文学賞者で、

「ブリキの太鼓(1959)」は本人曰く、どれだけ

の国語で訳されたかわからないほどで、

世界を席巻した、という風に語られている

が、その通りで知る人ぞ知る、という処か、

名前だけでも聞いたことがある。僕もその口

だが、書評では映画化されても気味悪いから

観ない、というのがあって、面白いと思った。

ファンタスチックで、グロテスクさもあるらしい。

そういうのは怖いもの見たさで、僕が好きな

作品であることも多い。(映画化はされている)


読むと、グラスの気質の一部が僕と同じらしく、

すぐに内奥についての同じ心理経験が出て

きた。::

「想起というやつは子供のよくやるかくれんぼ

が大好きだ。それはすぐに姿をくらます。苦も

なくすぐお世辞を言い、飾り立てることを好む。

想起は記憶と矛盾する衒学者であり、強引に

その言い方を通す」            4.13

グラスは「想起」と呼んでいるが、これは僕の

中では、「自分」というシステムだ。今まで書いて

きたのは、自分(というシステム)は自分本人

のために、本人を自己防衛のためにうまく

ごまかす手法を心得ている、といったことだ。

死を極度に恐れるのは、その代表でもあるが、

すぐにその合理的に見える理由を自分に

納得させている。それが事実や現実を歪曲

させることも厭わないのだ。

続きがある。::

「執拗に質問していると、想起は玉ねぎに似て

くる。その皮をむいて一文字一文字、明らか

にすることを求める玉ねぎだ。だが、単純

明快であることは稀で、しばしば左右が逆に

なる鏡文字で書かれていたり、あるいは

どこか謎めいていたりもする。

 まだ乾いていて、パリパリと音のする皮

の下にはさらに別の皮があり、それもむか

れると、みずみずしい第三の皮が出てくる。

またその下には第四、第五の皮が待って

いて、何やらつぶやいている。そして、それ

ぞれがあまりにも長く避けられていた言葉

や、飾り文字を汗のように噴き出す。まるで

玉ねぎがまだ芽を出したばかりの若いとき

に、秘密好きの人がその皮に暗号で書こう

としたかのようだ。」 

グラスの比喩を借りて、こちらも比喩的に

合わせて書いてみると、自己防衛の強い

要請があるこのシステムでは、本人の

中心の気持ちがまず後ろ向きになる。

もう本人の問いには答えないので、背中

を見せているだけだ。自分本人に気づかれ

てはいけないので(これは知性自身の対応

でもある)、後ろ向きの答えは必ず、次に

後ろ向きの答えが用意されている。または、

本人のプライドを傷つけず、満足させる形 

での答えが用意される。これではいつまで

質問してもその真実の解には到達しない。

それがこの続きに語られている。::

「そこで野心が目覚める。殴り書きした

ものの意味を解読しよう、暗号を解いて

やろう、という野心だ。今世間で真実で

あるとされていることの誤りが見つかる。

というのも、ときに嘘、あるいはその妹分

であるごまかしが、想起のなかでもいち

ばん幅をきかせているからだ。書き出し

てみるともっともらしく響くし、写真で

撮ったような正確な細部をもった部分

のみを伝えるからだ。私たちのアパート

の中庭にある納屋の、七月の暑さのもと

できらきら(あとは文学表現になる)・・」

自分のなかにある、いくつもの自分、

それはそれを収める統括の本体も

自分と呼ばれている。数ページ後には

そのうちの一つの自分を書いたことが

書かれている。::

「「クレッカーブルク」というのが、六〇年代

の半ば、つまり、三人の息子とひとりの娘

を持つ四十歳の父親であった私が、安定

した市民生活を送れるようになったかと

思えた時代に書いた長詩の題名である。

最初の小説の主人公同様、作者自身も

すでに自分のふたり目の自我を本のなか

に封じ込め、なんとか宥めて本の形にして

市場に送り出し、名声を得ていたのである。」


というように、自分の二番目の自我という

ことを意識していた。彼は作家である。心理

分析家ではないから、ここから先は自叙伝

になっていく。周囲の事情や世界の環境の

変移やまた、執筆時の様子などが書かれて

いるそうだ。次は読むのがいつになるのか

わからないので、これ以上の詮索はできない。

ここで終了。



>>>>>>>>>>>>>>>>>

3月1日の記事「恐怖の克服は知らぬ間に」に

後記を追加したので、参考にそれも加える。:::

                   

:::
これは先月、3月1日に書かれた。

今、4月13日。書かれた2週間前後の後

には、旧約の神が人間を痛めつけた動機に

ついては気がついていた。人間の考えが

わからないからかもしれないし、またわかって

いたとしても、同じように試練として人間を

痛めつけただろう。

それはたぶん、人間から愛を生むためだと

想像するが、その検証はまだできていない。

するまでにはまだ時間が必要なので、先走り

してその考えがあったことだけをメモして

置きたかったので、ここに書いた。

愛というのは西洋的なもので、その重要さが

わかりながら、使うとなにか違和感を感じて

いるものだった。僕が日本人で、仏教や儒教の

影響を受けているためだろう。仏教も儒教も

正しく受け継がれた事例は局部的で、むしろ

中国にも朝鮮半島にも肌合いが悪かったようだ。

景教として日本に入ってきたキリスト教は、

宣教師も日本人の奴隷を確保するのが目当て

だった節もある。

それでも神を日ノ本の太陽神になぞらえて

(謂わば聖書を脚色して)愛の布教には成功

し始めていたのだから、(あの秀吉に天下を

取らせた稀代の軍師黒田官兵衛もキリスト

教徒だった)それは僕らの心の中心を捉える

ものを備えていた。なんにせよ、多くの

歴史は紐解かれていない。     
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運命とか神へのいろいろとや(自己知) [自己知]

前回は神の存在証明をほぼ否定する形で書いたので、 

僕は神を信じていないと誤解した人も多いのでは 

ないか、と。それはちがう。そんなことは言っていない 

からだ。僕は神を証明しようとするのは無駄なことだと 

言っただけで、証明できないから、いるともいないとも、 

述べていない。 証明までして、神を信じたい人の心は 

拠り所を求めているだけで、本当に自分がなにがしたい 

のかを理解していないのではないか?と危惧しただけだ。 

少しは心配しているから。 

自己知というのは、平たく言って自分を知る、己を知る 

ということだが、僕の場合の自己知で一番の肝に銘じた 

ことは人間の小ささだ。自分が僕より小さな存在だ(主に 

概念)というのは知っていたが、人間存在として、そういう 

偉そうな言葉が使えないくらいに、プライドをマイナスに 

刺激するのを知って言えば、僕らはゴミより卑小で愚かで 

弱いものだ。知も、感情も、感覚もそれを保証したり、高尚

に見せたりできない。それはどうしてそれまで卑下するのか? 

という問いと切り離せない。自分の、僕という個の大小さえ 

わからずに無とか、無限とか、永遠とか理解できない。 

それは宇宙の量を比較して、人間の体長は短い、体積は 

小さいよね、という話ではない。 

僕らは飽くまでも精神の大小で、物事を推し測っている。 

体では間に合わないからだが、その精神存在でも小さすぎて 

話にならない、というのが僕の自己知だ。 

はるかに、ハルカに、遥かに、とかのそんな言葉では1mmも 

進まない宇宙でも間に合わないのではないか、という世界が 

ある。僕は近年、疲れ切ってそれ以上、それを推し測るのを 

やめてきたところだ。数年もかかって、愛のゾーンが死のゾーン

の中にあると突き止めたところで、それ以上の淵に行ってみると、 

そこからまた無限大の世界が想像できる、ある衝撃に突き

あたった。それでわかったのは、最後を突き止めるというのは 

無駄なあがきだ、ということ。無限にラッキョウの皮むきができる 

ようなものだ。愛と、死、それだけがこの世で言葉にできる成果 

だった。それでも気が遠くなる入口から一歩しかわからない。


ニュートンの、「我々は真理の大海を眼の前に、海辺で遊ぶ子供 

に他ならない」、というようなことを言ったが、その言葉にしばらく 

しんみり浸かっていたほどだった。僕らは人間だ、それはその 

あと、う~ん、・・・・・・・・ と黙り込んでしまう、どうにもならない 

事実なのだった。この感慨しかなかった。それしか僕には人間 

という事実を捉えることができない。それだけだ。 

だから、プライドは生きるのに必須のものではなく、また否定  

するべきものでもなく、心を鼓舞するときに役立てるものだと 

思った。子供にプライドがないが、元気に生きている。  

さて、わかりにくいことから始めたので、この世に引き戻そう。 

プライドが、と言ってもその内容は自己と知性という裏表の 

一体した自分だ。その自分が求めるから、求めたところに 

感じるから、現れたのが、または想像して創造したものが 

僕らの運命とか神とか、縄文とか、日本精神とか、真理とか、 

真実とかで、それらが実態のない精神である、拠り所のない 

我とか、私、自分であるから、そこに誤解が生じる。 

知とは所詮、僕らの投影である。僕らでないものはそこに 

映像物・観念を結びつけることはできない。例えば、透明は 

その近辺に背景や隣接物を置いて想像できるが、透明その 

ものだけを想像するのは困難を越えて、瞬間だけだ。それを 

想像したとは言えないくらい。 

精神は不安体だが、その拠り所のない正体は隠されている。 

自意識では確認できないから、またそれにもまして統一体を 

要求されるから、自分を一個として守る必要がある。 

それが自己防衛本能と名付けられて、自己を確立しようと 

する。その無意識な性向が僕らの自己主張や自己実現へと 

発展する。それには功所もあれば欠点もある。単に是非する 

性質のものではない。 それは僕らの生存に関わる進化の 

体の機能にも直接つながる重要な事項だからだ。 

その方面は当面の問題ではない。 

思索家パスカルの「パンセ」は有名だ。その中で彼は「人間は 

自然の中で最も弱い一茎の葦に過ぎない。だが、それは考える 

葦である」と言っている。この文章ではわからないが、彼は 

人間は弱いが、知性という尊厳があり、それが宇宙をもおおって 

支配している、といった風な知性賛美をしている。だから、僕とは 

知性に関しては真逆なことだ。 デカルトは同様なことを「我、 

思うゆえに我あり」と言って、私を思う私という存在があるのだから、 

私は存在する、という「考え」を「思う」と表現して、精神は私 

として存在する、と示そうとしたが、それは自己撞着している。 

1+1=2は真だから、数学は真であるというようなものだ。 

1+1は3でも数学は築ける。ユークリッド幾何学は2次元の 

数学で、非ユークリッドは3次元(曲面)の数学なので、その 

定理はお互いに矛盾しているが、実際にはどちらも学校の 

平面図で、地球の曲線計算など実社会で役に立っている。 

相手次第、使い方次第である。 

愛とプライドは見かけ、ガチンコ勝負するがそれは理論上の 

話で、実際はどちらも必要、どう使うかにかかっている。 

ただ愛は生に直接なものなので、どんな時もまるで抜きに、と 

いう訳にはいかない。 プライドは(くり返すが)、なくても生きて 

いける。動物にプライドはない、ただ僕らは動物であるばかり 

ではなく、人間だ。 

パスカルもデカルトも、まだ科学の未文明の時代で、それは 

哲学という名で真理追及の混沌として含まれていた。デカルト 

はフェルマと別々に今日の代数の基本を創出したが、パスカル 

も確率という重要な考え方を提供した。これは未来に起こる 

ことを数学で割り出そうという大変野心的なもので、パスカル 

もそれを意識したのだろう。神への存在よりも神への賭け 

を推奨している。それは神を信じたほうが、信じないよりも 

人生において一層お得で、賭けない手はありません、という 

書き方でそれなりに面白い。確率の考え方を信仰にも応用

したかったのだろう。それを人生の賭けに例えたのだから、 

相当な自信だ。 

こういう具合に神への信仰はプライドが守るべきものとして 

西洋では精神進化した。それが旧約聖書からの西洋世界で 

ある。中世、教会の政治的都合でキリストの生誕の翌年に 

紀元が改められたので、キリスト生誕は紀元元年の前年で 

ある。初めは紀元元年だったのが、変えられたので、紀元前 

1年が誕生の年、ま、いろいろ。 

いろいろあって、日本の応仁の乱くらいの事件になったのが、 

1095年で、その時聖地エルサレムはイスラム教国の支配下 

だった。東ローマ帝国がローマ法王に聖地奪還の許可を求め 

たのが十字軍のきっかけになった。これは突き詰めれば、 

プライドの問題で、原因は旧約聖書の神様の利己的な教えの 

影響だった。  

キリスト教以外は異端である、ということで動物以下になった。 

何をしてもかまわない。これはアメリカの黒人奴隷から、黒人 

差別にまで濃い影を落としている。 

エルサレムに侵攻した十字軍は子供も女の区別なく、刺し殺し、 

犯し、家を焼いた。ローマ教皇の大義があるから、平気だったの 

だろう。ただの大虐殺だった。 

そして、現在のパレスチナ問題に一直線でつながるのは、もう 

言わずとも予想がついただろう、と。 キリスト教の歴史は戦争の 

歴史だと小林(秀雄)も言っていたが、同時に他で、キリストの 

神の国(天国?)というのはわからない、とも洩らしていた。 

旧約の神についてはここで書かない。ただ、最高善の神について

は書いておかなくては。 

そういう神の存在については、僕等ではあり得そうもない、という

のみで、どうということは言えない。それだけの判断の手段にしろ、 

感覚にしろ、人間はわずかしかもっていない。それでは役に立た 

ない。むしろ、動物の種のどれかがそれを備えているほうが、 

あり得る気がする。彼らには、猫にしろ、犬にしろ、鳥にしろ、 

身近なので彼らの日頃の観察・情報から鑑みるに、大いに 

可能性がある。 

それにしても、神は僕らに関心はないだろう。それは僕らの

感情を基にしてではないから、僕らが関心がないという 

意味での無関心ではないはずだ。では、どういうものか? 

と聞かれても、わからない。わかっていたら、できる限りで 

も説明する。またはここまでしか言えない、と言って。 

が、それはない。愛の洪水にのたうち回って喜んでいる 

だけの僕のように小さな人間にその全体の、その一端でも 

感じたり、わかったりすることはないと思う。 

だから、簡単。神について言うことは何もない。否定も 

肯定もできない。それを信じるとか言う人は、その人の 

自由勝手だと思う。それで相手に悪い感情はもたない、 

と思うがキリスト教信者へは気味悪さの感はある。 

これは個人的体験で、地域のことであるが、杉並のキリスト 

教会に行ってみたことがある。どんな礼拝をしているのか、 

興味があったからだ。すると、7,8名か、教会内でアーメン 

という声が響いた。その声があまりに恨みにも似た情念が 

こもった切な祈りであったので、これはかなわない、と早々 

にそこを立ち去った。切実すぎる。 

小林さんはキリスト教徒の同輩と議論をしていて、とうとう 

相手を殴ってしまった話がある。彼はとことんまで議論して、 

相手が泣くまで追求するという癖のある人間だ、誰でも 

許しますという愛のオーラの態度で来られて、一向議論に 

ならない相手に業を煮やしたのではないか、と想像する。 

ま、当時のバンカラでもあったのだろう。バンカラは明治期 

のハイカラに逆らった粗野を表に出した硬派のことだ。 


神への僕の考えは、ふつうに僕の世界体験を広げて、 

敷いたものだ。だから、参考にはならないが、一応の 

ことは書いておこう。 

この世はどうひっくり返して見ても美しい。どうひっくり 

返しても、僕らがほんとうに懸命であるなら、どうにかなる。 

それが僕の体験だった。 他にない。それが僕の場合、だ。 

何度死んでも、死にそうになっても、死ななかったし、それで 

精神も病むことはなかった。精神を病んだ人たちの近くで 

働いて、やや交流もして、そこから無意識への突入の決意を 

固めたことは、偶然には思えない。 

この世の自然にすべてがあり、それは人間への贈り物でもあり、 

また人の営みにはしあわせのすべてがある。完全に幸福な者 

もまた完全に不幸な者もいない。それは逃げ口上でもあり、 

また真実でもあるからだ。言葉で語る以上、すべての真理は 

現わすことが不可避であっても不可能だ。 

それは一つに、言葉の性質による。日本語でワンワン、英語で 

バウワウ、と犬の擬声語が違うが、どちらも一部で正解だが、 

実際には聞いてみて、自分でそれを言葉に直してみると 

わかる。僕には半音も含め、3種類の音声が一緒くたに 

なって聞こえる。同時に聞こえるそれを、正確に音にする 

のは無理だと、すぐにわかる。 

だから言葉はいい加減・おおよそを伝えるに便利だが、 

計数機の数値や機械用語、専門用語で語るようには 

いかない。それを使うにしても、それを理解するための 

資格や訓練が必要になる、という言葉の逆効果・逆症状。 


何もしなくても、日々の必要な労働で僕らは生きていくことが 

できるように生まれている。人間として教育を受けて、15歳を 

越えるくらいで後は一人でも、人間として生きられる。それまで

に例えば、動物に育てられたりすると、悲劇でその動物になる。 

なろうという、精神進化や体の進化に取って代わられる。 

それが自然の法なのだろう、オオカミに育てられた子は、 

野生のオオカミが10年の寿命、人に飼われて20年、という 

その20年しか生きられない。思春期には女の子に抱きついて 

ただ泣くだけだったという。どうして女の子に惹かれるか、自分 

がわからなかったのだろう。魚に育てられることはないだろう 

から、魚になることはないだろう(笑)。熊に育てられれば、 

木登りはうまくなり、力も強くなる?(笑) 

それで神がいてもいなくても、僕らには縁のないことだと。 

僕らの憧れから生まれるような人間の投影の神は、やはり 

世間の古代からの誤解にとどまるだろう。それよりもこの世 

を理解すれば、そのまま僕らは支えられ、安心だけでは 

不用心だが、健全な方向さえ見誤まらなければ、なんの 

心配もなく暮らしていける世界だということだ。最後の 

農作業をしながら、農場で倒れ、ふっと亡くなってしまう。 

そういう世界なのだ、本来この世は。 まるで神という良き 

隣人がこの世を用意したかのように、僕らはそれに気づけば 

いい、が、この世はプライドの使い方を間違えて、不適応に 

不幸になる人が多いから、それに対してこちらもプライドに 

不用意に同調したり、支配されたりしないで、プライド(自分 

と知性の合体品から出る香水?)を嗅ぎ分けうまく調整・調教 

することだ。

何度も言うが、知性・自己はそれを支える自立する本体を 

持たない。だから、なにかに依存して、それを確立すること

を目指す。自分で自分を保証しようとするから(実際にそれ 

はできない)、潜在的に不安になる。それから逃げると、

プライドを満たす要件で求めるから、運命・占い・神・宗教・ 

趣味・園芸・映画・小説・贅沢・見た目良さ・という憧れに 

依存しようとする。それが罠の入り口で足を突っ込んでいる 

うちに無気力・無感情・無関心が忍び寄り、病的になると 

うつ症状が来る。鬱は健康でも、状況が悪くなれば、症状 

として心に危険を知らせる。鬱の薬はないから、医者で 

もらった薬を使用すると、かなりの確率で、60%以上?、 

悪化してしまう。医者に行ってほんとうのうつ病になって 

しまう。医者は米国のマニュアルしか知らない。 

そうして、知は考えるから、どんどん否定面に入って 

しまう。暗く考えやすいのは僕の知の特徴のようなもの、 

本人はすぐに方向を調整してしまう。 

窓から本日の、曇り空を見ればいい。遠くの光り輝く白い 

雲も、近くの暗い雨雲も同じ雲なのだ。僕らはどちらか 

しか見ない。そして、見ていれば、どちらも美しい。 

雲は天才である、と著名な誰かが言ってたな。 

表現はともかく、僕はああいう天空の島が欲しいな。

無人島で。 

スクリーンショット11 (2).png

天馬は自分で飛んでいるつもりなのだ。夢の蝶と 

一緒だから飛べるのだろう。



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