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例えば、一般に4つの見方という設定もできる [見方]

言葉の平面ではユークリッド幾何学で

面積が計算されるように、地上を歩いて

いる人間にはわかりやすく見える、一見。

学校で習うのは平行に引かれたに直線は

交わることがないという定理だが、非ユークリッド

ではその平行線は交わるという定理がある。

子供の常識ではおかしく思えるが、僕らの

地球上で書かれた平行線は必ず、北極や

南極で一点に集まると後に教わる。それは

欺瞞的でつまり、地球の一点を接点と考えて

空中になるがそこに引かれた想像の直線は

地球という楕円だが、接線となってやはり

永劫に交わることはない。地球という球を

回るからそれは一点で交わるのであって、

扱っているのは曲線だ。非ユークリッドは

曲線・曲面を扱う数学なのだろう。まるで

地球を考えたら、ユークリッドは間違いだ

みたいな説明は先生の固定した頭か、

勉強不足の産物だろう。 

しかし、僕らの頭脳は一面でこの誤りに

陥っている。ユークリッドが現実ではなく、

空想で直線を描かなくてはいけないように、

言葉を概念で扱うことに慣れてしまったので

平面だけで物事を扱ってしまっていることに

気づけない。それが不明な内容のすべて

ではないから、ことは微妙に複雑に見える。

が、それほどでもない。主に抽象的なものが

具体的なものとの直接の比較ができない

ので、そう見えるが、それ以外で具体的な

物質などで比較できるものは現実に即して

考えている。

概念は実体・実態がないのであいまいである

が、言葉の意味が指示方向を意味している 

だけなので、魔法のようにその言葉を唱えれば

それが現実に現れるわけではない。なので、

逆に言葉にいろいろな意味があるように、

人や民族によってその重要性も内容も異なる

ために汎用されている言葉ほど自在に使えて、

意味も範囲が広がる。そういう便利さのために

言葉が一面の平らな世界を獲得したのは、

まるで僕らの暗黙の申し合わせになって

しまったのかもしれない。

具体的にその一部の言葉を挙げれば、この

抽象論議も理解しやすいに違いない、それは

僕らが二者択一の論議では物事の精確な姿

に達しにくいと否定的であるにも関わらず、

僕らは黒と白とを平面に並べて、比較する。

善と悪を、神と悪魔とを、右派と左派とを、

民主主義と独裁主義を、と二者を並べる 

ことでそれは選択肢が二つしかないことを

前提にしてしまう。その影響は僕らの意識

にそういう具合に考える志向・方式を印象

づけてしまう。そして、僕らは物事が深まら

ないと、それが非ユークリッドの曲線の 

ように直線だと思っていた線が、上から 

見ると極点へ向かって行き、交わってしまい、

(すべての例で、ではないが)結果が矛盾

してしまう。

地球に存在しない直線を使って、曲線や

曲面の計算結果は導けないように、僕ら

の議論は初めから現実から乖離している。

それが僕らの抽象の言葉の理解への困難

である。

二層になったものをそれぞれの面で二者

択一で考えるのも、同じ一面で考えること

になってしまうのだが、今は混乱を避ける

ために、その一面の思考法でその抽象な

システムを素描してみようと思う。 

たぶん、三通りくらいで説明するのが適当

なのだと思うが、僕の気まぐれな、興味が

持続しない性質から、一つを説明したら、

あとは捨てるだろう。



ここまで書いて、図書館へ出かけた。近くの

県立谷戸山公園に入る。30ヘクタールで

森林や林のあいだを全部歩いて回ると

小1時間かかるだろう。

公園事務所近くの小さな池には、先日まで

見られなかったヒキガエルの大きいのが

何匹も泳いでいて、突然の変化に驚いた。

そうして帰ってきたら、書いている途中の

構想をすっかり失っていた。僕はそれを 

取り戻すべく、思い出すことはまずしない 

ので、新しく続けるということになる。



二層といっても、様々なものがあり、二つ

に分けられるからといって、すべてを同じ 

二つに区別できるのではないので、個別な

話になってしまう。例えば、夢と現実を取っても、

’リアルな生活の現実と寝て見る夢’との

二層もあれば、現実は同じでも’将来に叶え

たい願望としての夢と現実’いう二層もある。

(2時間半後、やっとそれらしい説明ができる

例を見つけた、夕食の時間プラス)

夢には夢的な夢と、現実的な夢とがある。

それは幻想や神秘といったものとリアルな

想像をして現実に転換もできる夢という

二択である。また現実にもリアルな現実と、

夢的な現実とがある。

それは便宜で分けたもので、同じ量・質で

その4つの区分ができるということではない。

境界にしてもあいまいだが、越えられない

壁は歴然としてあり、そこにあいまいな部分 

があってもそれは壁として吸収される。

夢的夢が現実に、またはリアル現実が夢に

入り込むことはない。一部で交換するもの

が、現実的夢がリアルな現実において、

動機から実行までのすべてではなくても

その目的の重要部分でなにかを解決

したり、完成したりすることであり、夢的な

現実が日常の生活をコントロールする

ことで、これはよく起こっている。

いつもの例を使うが、鳥のように空を飛び

たい夢は、鳥のようにはいかないが、空

を飛ぶことは完成している。模擬的な翼を

飛行機の翼に変えた時に、その着想が

夢から現実的な夢へと転換したのだろう。

現実的な夢が、リアルになった例だ。

僕の経験で内面が圧迫されて緊迫した時

に線路の踏切を渡ると、そこから夢の世界 

が展開された。眼に直接見ている映像で 

ないのはわかったが、金網は光り輝き、

それはあたたかさで満たされ、極上の

幸福な気分に満たされた。内面が現実を

圧倒して、その日の同じ時間を毎日、その

間だけ支配した。それが神秘だとわかっても

それがどこまでか、どこから現実なのか、

見分けもつかないのは、あまりにはっきり

していた。だから、それは僕の見る事実という、

現実であり、幻想だった。それは僕の事実 

として自分に大きな影響を与えた。これが

リアルな夢が現実をコントロールする例だ。 

そして、厄介なことにこの四方面から物事

を見ることができることだ。それはいつも

正しいわけではないのはもちろんで、その

時の問題によって環境や条件・場合によって

適応した方面を選択しなければならないが、

言葉では本人が錯覚や誤解を起こせば、

いつでもその誤った方面からの見方・考え

を採用することになる。本人が気づか

なければ、二つの方向から説明すべきを

一つにしてしまうとか、方向を見誤って、

誤った方向からの見解を採ってしまうかも

しれない。

このことはその人の人生経験や特異体験

などの深い理解や整理の仕方で、自然に

身につくもので、多くは直感として、途中の

論理的経緯はすっぽかされて、結論に結び

つけられる。体験だけの対応の優れた点も

欠点も、その経過のない処に集約される。

だが、人生には即応しなければならない 

場面は多く、役に立つ。役に立ちすぎて、

本質が見逃されている点を除けば・・・。

この4つの場面だけでも複雑に感じる 

だろうが、実際には3つくらいに翻訳できる

と見抜けるのも、この直感が働いている。

これは歴史的な傾向が続いている時は

役に立つが時代が変わるようになにかが

変革されて、世の中が変わる時に当たって

は古びて、ボロを出し始める。

将棋の話だが、藤井四冠?だったか、彼は

コンピュータ将棋との対戦の棋譜から新しさ

を読み取って、いわゆる悪手とか、定石という

ものに疑問を抱いたのだろう。それを役に

立てることができたのは、彼の読みの深さに 

よるものだろう。この話も長いので、今はよす。 

物事を4つの面に分けることにしても、それは

その本質を見ることができていれば、その 

どの方向からが有効な結果をだすだろうか、

ということは物事に対して十分に眺め得た

時にはわかる。法則としての4つの見方に

こだわらずに、その方向の考えや見方を

選ぶことができる。

魚の鮮度を見分けるのが、魚の眼をみれば 

わかることだったら、目利きはそこだけを見て

決めるだろう。それと同じで方法の方式だけを

暗記しているのでは、自分が混乱する。

孔子の論語が有名だが、言葉が短いので

いろいろと解釈できる。われ、十有五にして

学を志すから、七十にして心の欲するところ 

に従って、・・云々とあるが、順番がおかしい 

という面白い意見もあるが、僕は「六十にして

耳従う」にここでは注目する。意味は60歳

にもなると、人の意見が素直に耳に入る、とか

他人の意見に反発を感じないで聴くことができる、

とかでいいと思う。そして、深読みできるので

そうすると、それは「他人の意見というものが

その人が言いたいと思っている内容で聴くことが

できて、その人が意味していると思うその意味

を正確に捉えて理解し、聴くことができるよう

になった」と言っているように思える。

それには上掲の4つの見方のような考えを

当然に理解しているから、そうできるのだと

読めるのだが、どうだろうか。

それは論理的な理解の仕方ではないだろうが、

中身を理解するのは、心ばかりか、体の

知識も手伝うからその人の本当の理解の

仕方というものは、厳密にはわからない

だろうが、話し合ってみれば、自分がこう

しているところは、別な仕方でしている、と

納得するだろう。体全体で話さなければ、

言葉という文章だけでは、人は自分の

弱さ・格好悪さ・欠点というものは話さない

ものだ。人はなにかを書く時にはすでに

自分のうちに出来上がった、善いことや

役に立つこと、気分を良くすること、正しい 

こと、などプラスを意識する。人とのつき合い

にはそれが影響するのは常識だから。

娯楽小説や大衆文学ならいざ知らず、

まともな意見を言う場所でも、また自分を

さらけ出す文学・私小説でも、やはりきれい

に書かれる。それが作家の力量を示しても

いるから。 

人間は文章ではわからない、というのが僕

の所見だ。外と内との顔を、人は持つと 

言われる。それは人の裏表ではなく、内面

と外交の違いで、性格(外)と気質(内)の 

ようなもので、家族の前で気質はまず隠せ

ないが、外交的ではない気質や反社会的癖

などはまず社会や会社で開けっぴろげに

振舞えるはずがなく、社会に出る前に親や

親戚、友達の反応から矯正されている。



自分の人生を自分で考えて歩く、という言い

方は的確にはどういうことか。それには

自分で自分を知っていなくては、比較する

主体になる自分という思考が何を意味するか、

それが心の中心なのか、否か、その趣向や

性癖、感覚はどういう特徴があるのか、といった

整理がなければ、或る正当に見える意見や

論述に対して、好き嫌いでしか対応しない

ことになる。それでは人生では人間の多様性

という楽しみしか享受しないし、人生はコントロール

できないと言っているようなものだと僕は

思えるのだが、 ・・・・。



目の前になにがあるのか、考えずにそのもの

が心に向かって来るまで、見つめることだ。

ヒントも答えも出ているのだが、一度掴まえて

みないと、こう言っていることの納得はいかない

だろう。と言っても、行動するのは少数だ、

人の「耳は従わない」ものだから。
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