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あなたの主人は自分ではない1と2 [主人]

1 ::

悲しい幕開けは 僕らが密かに

望んでいること。そうは思わずに

望んでいるから、気づいていないと

言っても伝わらない。それでは

僕が反感をもたれて、浮いてしまう

から、言葉にはしない習性がついて

しまった。僕らの人生はほぼ日常の

生活が支配している。

高い雲は「雲は天才である」と啄木

だったろうか?詩人にも歌われるが

低い雲は雨を降らせて、時に心を

和ませるが、長くは続いてくれるな、

とてるてる坊主に頼むのだ。

悲しい幕開けは必ず、愛の予兆だと

誰も言わなかった。今、僕が書いた

だけかもしれない。

そうしてみると、自信がなくなり、意味

もない言葉に思えてくる。

どうしてこんな言い方になるのか、因は

昨晩にあるだろう。布団に座っていて、

背を丸め、顔を両腕の中にうつ伏せる

ようにしていた。

そして、今日一日のことを考えずに、

ただ感覚しようとして、情を移していた。

そして、気がついた。そこに孤独が

あった。その瞬間、孤独に出会えた

嬉しさに、孤独はあっという間に消え

てしまった。孤独への情緒を楽しみ

たいという気持ちが取り残されて、

それが嬉しさとからんでいた。

ともかく、孤独だったのだ、今日は、

と祝福した。物事はわかってしまうと

解決してしまう。それは答えではない

からだ。

例えば寂しさは答えを必要とする

だろうか?~だから、寂しいんだよ、と

教えられて、寂しさは満足して、消えて

くれるだろうか?

寂しさはそれだけで、それだから答え

を必要としない。それが嫌なら、外へ

出かけるかもしれない、趣味のことを

始めるかもしれない。

寂しさや孤独が遠いことになると、

時にはそれを引き寄せたくなる。それは

しあわせと並べてバランスよく味わう

のが大抵のことで、条件くらいには

思っているのかもしれない。

好きな音楽を聴いたり、美しさを感じる

絵を眺めたりする。それはひとりを

大事にしたいからだろう。ひとりが

一番の条件かも。生活全体を掴むには

こちらも自分全体になって、気を散らさ

ないようにしているのだろう。

悲しみの悲劇を期待しているのではない。

高い雲も、低い雲も同じ雲だ。

悲しみを拒絶していれば、それは悲しみ

が拡大するのを許す。精神から心全体

へと広がってしまう。むしろ、自分の

考えから悲しみを解放してやって、ただ

感覚の海におぼれてみる。それは微妙な

出来事で情がからんでいるのに気づく

必要がある。情のさじ加減を少しにして?

感覚を開放する。それはあるがままを

見ること。悲しみがその中で、その方向を

つかまえるまで、いじってはいけない。

悲しみにまかせて、彼女が迷うだけ迷わせ

ておく。情に気を付けて。そこで救って

やろうなどと殊勝な考えを起こしてはいけ

ない。キリストも神もご先祖様も守護霊も

思い起こした瞬間に、忘れること。悲しみ

には自分(神も守護霊も自分のうち)から

離れれば、自然に行き着く場所がある。

それはほんとうにひとりの場所。僕らの生活

を支えながら、心の表にはめったに顔を

現さない、そういうものがある。が、それを

知る人は少ない。少ないはずだ、それが

はっきりするのは、多く、自殺しようとして

偶然、助かってしまった人たち。

西郷隆盛が月照(政治犯で死罪となった男)

と心中しようとして、ひとり息を吹き返し、

助かってしまった。空海にもなにやらそれ

らしい少年時代があったとか、ないとか。

上山春平(?)という学者になった修行者

は若い時、縄で首をくくったが、切れて

しまった。二度同じ場所で死のうとしたが、

また切れてしまった。その感動、何か

わからない力を感じてしまう、人間は

そういう時。

死を感覚で、体で、考えや情ではなく

理解する時、僕らの心は全体で直覚して、

内奥で直観している。自意識の自覚では

ないから、あいまいな自覚に思える、

自分では。

(不思議なのは、自分でこんな風に書くとは、

思ってもみないし、どうしてこれが書けたの

だろう?と感じていること。 ::点描 )

でも、続けよう。

生活から生だけを取り出して、死が残るのは

頭の概念だけで、生死は同時で同体の事象

だ。紙の裏表のように、それをうすく剥がして

2枚にして、こちらが表で、こちらが裏とは

できない。2枚になったのなら、どちらにも

裏と表がある。これは物象での話だが、

生死も事象ながら、これに似ている。

生と死を切り離して考えるのが、比較

しなければ、なにも「分かち得ない=

わからない」とするのが知の信条であり、

規約であり、性質だ。

僕らは生きる側にいるのではない、生き

て死につつある恒常な状態にある。それ

はお互いに支えつつ、お互いに離れよう

ともしている、さまざまな層や関係が

からみあった、僕らの生活の瞬間瞬間

の総括でもある。

今を生きる、という言葉はそこから生まれた

のだろう、と。

(思わぬことを書いているので、これが

どこまで行って、どうなるのか、気がつけば

なにも思えない、心もとない自分だ。

::点描2 ) 



自由の足元を見よう。これがなにかの

テーマだと思うから、そこに絡めとられる。

それが不自由の始まりだ。今書いたこと

をうまく忘れなければ、思い出すことなく

ただ感じるようにすること。

大丈夫、なにが大丈夫か、ではなく、

そこも、かしこも、全部大丈夫。

でないと、大丈夫じゃないよ。このすべて、

それは生活の、生きることも死につつ

あることも、ああ、・・それは大丈夫だよ。

それは確かななにかを言っていること

にはならないだろうけれど、何の保証

もないし、腑に落ちないだろうけれど、

でも、大丈夫。 ・・ 大丈夫。

その次の瞬間は、概念的な事柄で、

僕らの未知のみらいのこと。考えて

どうにかなる未来はない。

だから、根拠も、理屈も、理由もない

けれど、僕らは大丈夫。

わかる?それがすべてである、そう

いう心をつくること、それが大元、

そこから始まること。僕らが生活の

生きる流儀の第一条件は、未来では

なく、今の今が大丈夫だと思うこと。

それが心づもりや予定ではなくて、

花咲く庭の歩き方であったり、街の

流行を自分が選ばれるのではなくて、

どれが似合うのかよくわかって、選んで

いるのなら、仕事のどのポイントが世間

や世界のどこにつながって、どういう

トラブルにつながる可能性があるのを

知って、そうなったら倒産でもかまわない、

とその保険もしているような覚悟にあるの

なら、それらはもうすでに、大丈夫。

うまくいかないのは不適応な因子がある

からで、なにがどうなろうとも、僕らは

生活を健全に立て直す’瞬間と毎日’を

過ごさなくてはならない。

だから、大元に重要な手抜きがなければ、

ぬかるみにも、田んぼに入って田植えを

するつもりでいい、カエルに似た形の

雲が空から見ている。意味などなくていい。

すべての物象・事象に名前などなくていい。

それは考えの抵抗であればいい。気持ちは

ただただただ、そして、幾重にもあなたは

ダイジョウブ!



さて、僕らはそれでも、現実は大丈夫じゃない、

と考える。実際そうなのだから、と感じてもいる。

その考えが脳で支配となれば、感覚も情も

それに合わせる。そういう話をしている。

僕らが自由であるためには、初めから

自由でなくてはならない。自由になりたいと

いうのは、ただ自分は自由ではないと

考え、表明している。そのことを説明して、

心をそこに固めようとしていることに

他ならない。

固める?止めようよ。

脳の言うことを聞いていると、僕らは

愚かになる。世界のニュースもそれに

感情移入ばかりしていると、自分が

見境のない人になっているのに気づけ

ない。  

その話やその不適切の由来はいくらでも

書けるけれど、それはほんとうに重要では

ない。

自分がここにある、それは日本でも韓国

でもヨーロッパの諸国でもいい。それだけ

で僕らは一つのおおまかな生活を強いら

れている。物心ついた頃には、もうその中

にいる。生活とはそうした一面をもつ。

伝統や習慣やインフラによる生活状況、

長い歴史の考え方や為政者が変えた

紀記や記録・教科書は、また敵国だった

事情が歴史を変えてしまい、以前の

洗脳から、不利で、一部有利だとしても、

僕らは精神の不全に陥る。先進国ほど

教育事情が進んで、かえってそういう

状況に陥ることになる。 

村の共同体に住む時、村の掟は厳と

してあるだろう。村八分や冷や飯を

食わされるのは、眼の前で見てきた

ことだろう。そういうことが村の一部の

住民が隠れて行うのは、住みやすい

村ではないだろう。

僕らがそういう時、村に不安を抱え、

家族に不安を抱え、将来に不安を

抱えるのは、楽しい状態ではない。

僕らの不安の因は、外にある。

そして、それをそのままにしている

僕ら自身にある。僕らはその不安を

全体で受け止めることが必要だ。

そして、安易に受け入れないことが

重要だ。

短絡で考えなければ、すべての問題

には答えはすぐに見つかり、その答え

を解決に導く半無限な方法を模索する

ことが予想される。重要性と緊急性と

いう僕らの問題処理法で、それは多岐に

わたる解決への問題提起が行われる

はずだ。 

それはまた新たな歴史を作るということ

なのだが、その出発のその前にしておく

のは、目的を定めることでも、そのアプローチ

を決めておくことでもない。それはそれで、

その範囲でするにして、まずなにがあっても

理解を深め、広め、その事業のコンセンサス

(合意、ここでは情意の一致)をとっておくこと

だろう。

大丈夫、はその位置で、ここにある。資金は

どうのこうの、保証はどうのこうの、人脈は

どうのこうの、の二の次のことではない。

まず、自由であること。自由には、正確な

言い方をすれば、なれない。まず、そう

あること。自由な人からでないと、自由な

発想は生まれない。まず、そう「ある」こと。

すでに「大丈夫」はここにある。

どうしたいというのは、こうなればいいから、

そうならなければいけない、と決めつける

ことではない。結果、どうあることになるの

かは、皆で決めた次第・ことになる。現実は

瞬間に過ぎ去る未来の嵐だ。だから、

多くの決定に、すぐに改革・修正が必要

になる。

すぐ結果が出ないことは、多く、はるかに

多くある。焦ることはない。いつでもそれ

なりに進むしかない。だから、今は

大丈夫なのだ。まだまだ、結果を求める

のは早いだけかもしれない。

まだ、大丈夫(笑)だよ。

不適切な村というのは、今の日本であり、

戦時下の国であり、支援という名の基に

利益を企む世界であり、そしてなによりも

自分たちの不透明な心というものだ。 

それでも、大丈夫。そこまで心を開いて

みるには、さまざまな知識や心構えが

必要だと思うに違いない。それは一部で

そうだろうが、それを前提としなくていい

のだ。

すべてのことにおいて、前提は要らない。

そういう意味でまったく、この世でなにも

かも、すべてにおいて、あなたは大丈夫、

から始まっている。あなたがそう思う

以前から、これは始まっている。

心の外に出て、涯の、そのまた涯へと

その内奥に僕ら人間の根拠がある。

そこで、僕はこう言われた、「大丈夫」と。

僕らはそれを信じようとする。それは

計算で保身で、保険の考え方なのに。

それを言葉だと思うから。

僕は聞いてもいないし、見てもいない。

そう感じる何かが、としか伝えられない。

信じる以前に在るものを、想像したこと

があるだろうか。そういうものとして在る

ものを。 これは言葉だろうか?

僕は伝えるために使っているだけだ。

言葉ではない。

あなたは大丈夫なのだ。

大丈夫。

・・・・・・・

・・・・・・・



2  ::

あなたの主人は自分ではない。では自分

を超える何者か、と問うかもしれない。

この意味は自分を超えるというものでは

ない、そこにあるもの、と。

それはあなたにとっての、あなたという

ものだが、我を自分としてしか自覚して

いないのならば、それを何かとは考えら

れない。想像もできないだろうから、自分

ではないもの、それは何かと自分の外

に問うことになる。答えは感じるものだ。

知は現実の代替品を仮想や抽象的に

青写真で科学などによって指示する

まではできるが、そのリアルなそのもの

を造ることはできない。

冷蔵庫は初めは、その箱に入れて

おけば永久に腐らないというものだった

ろうし、掃除機は吸い取った埃・塵を

無害な空気に変えてしまう魔法の象の

鼻だったろう。そこに電気を利用したら、

どうできるかという現実化が始められ、

技術者が考え始め、さまざまな現場の

工夫で困難を乗り越えて、その完成

したものが、夢の代替品(家電製品)

だったろう。初めは皆、夢だったのだ。


それでは最後に、ソクラテスの話を

しよう。ギリシヤの哲学者と言われた

ソクラテスはなにか書いたものを

残したり、なにか特別にまとまった

ものを論じたのでもない。ここからは

推測になる。:::

ソクラテスはよく夜に戸外で、広場だろう、

そこで一晩中、空を見上げていた。

夜明けまで立っていたとか、らしいが、

彼は神の声を聴いていた、という話が

残っている。そんなに長い話ってある?

と茶化すこともできるが、ギリシヤの

都市と言っても、当時では人口10万人

がせいぜいだ。空気もきれい、音もよく

響く。僕らの感性ももっときれいに磨かれ

たように、斬新だったはずだ。

例えばアフリカの蛮民は大陸だったので、

家もビルもなく、2㎞先の動物がよく見えた。

僕らはそこでどう眼をこらしても、2㎞先に

なにがあるかのさえ見えない。環境が眼を

鍛えた。その証拠にそのアフリカのマサイ

族の青年がアメリカに渡って暮らして、

1年か2年?でその脅威の視力は失われて

しまったそうだ。順応の高い人間という動物

は、たったそれだけで自分の感覚を変えて

しまう。だから、遠い昔のギリシヤなどの

環境がソクラテスたちにどういう影響を与え

ていたのかは、測り知れない。ただ、神へ

の信仰はもっと直截な感覚で自分のもの

であっただろう、と想像される。


神の声を聴き続けたソクラテスはどうした

だろうか?その声についての内容は

ソクラテスは残さなかった。プラトンも

聞いていなかったようだ。

だが、そうだろうか?それは残さなかった

のではなくて、残せなかったから。そう

ではないか。一晩中の声で、理解できた

のなら、それを人々に知らしめるだろう。

それが彼の神への信頼になるから。

が、彼は理解できなかったのだろう。

そこでどう考えたかが、問題だ。ことは

深刻な問題だ。せっかく神様が大事な

言葉を伝えてくださっているのに、なんと

自分は愚かなのか、一言も理解できない。

彼はそれは自分だけの問題ではないと

思った。この謎をギリシヤ市民に聞いて

回っても無駄なのは考えるまでもない

ことだ。恐らく、誰も聞いた経験がない。

そうすると、人の心理では代替案はほぼ、

決まってくる、自分の誠意を尽くすことだ。

自分でできることをできる限りして、神に

尽くそう、と。

それは何か。知恵者のソクラテスのことだ。

真理の探究はすぐに思いつくだろう。

彼は神の声を理解できないほど人間が

愚かであることを共有しようとした。

我々は何か知っているようで、実はなにも

知らない、ということを共有しようと。私は

真理を知らないことを知っている=無知の

知、有名な言葉。

そして、ソクラテスの広場での公開問答

が始まった(のではないか)。

彼のそういう覚悟に注目したい。神への

絶対の服従とも言える信仰である。

言い負かされた人やその知人に、ソクラ

テスを心よく思わない者がいて、元老院?

の誰かに注進して、彼は裁判にかけられる。

青年たちがソクラテスの真似をして、大人

をやりこめるゲーム(問答)が流行って

しまったので、青年への悪い教化をもたら

したという理由だが、理由はどうでも

よかったのだろう。政治的な嫌がらせだ。

下されたのは、毒杯を仰いで死ぬという

刑だった。友人は多くいたし、政治に

有力なものもいたので、ここはひとつ

牢から脱走して、ほとぼりが冷めるか、

政治力のある協力者が刑を軽くしたり

するまで、待ってはどうかと持ち掛けた

が、ソクラテスは断った。自分は市民

のルールを守って市民として刑を受ける、

と牢内で答えた。

融通の利かない頑固さだが、ソクラテス

は自分は:神に従って、自分なりに

精一杯使命を行った:と思っていたの

だろう。

だから、これで正しいのならば、祝福

されるだろうし、誤っていればそれなりの

罰が下される。それも:すべて私の全なる

神の思し召し:なのだ。どうして嘆くことが

あろうか。彼は死を恐れていなかった。

むしろ、神に逆らうことを非としていた。

それは最後の毒杯を仰ぐ姿に現れる。

ソクラテスはなんと、毒が体に回る

実況中継を始めたのである。「今は

胸のあたりまでが、冷たくなってきた。

おお、それが首にまで、・・・・・」と。

彼の時代では、神に拠らなければ

ならなかったが、それが当時の世界の

空気だった、伝統だったから。

しかし、僕には彼が一晩中、飽きも

せず集中できたのは、絶え間ない喜び

があったからだという気がする。

彼は感じていたのかもしれない、まず、

彼の人生の大前提にして、私は大丈夫、

だと。死も何も恐れることはなかった

のだ。死後の世界も、地獄も天国も

あるだろう、だが、すべては思し召し

なのだ。その前に恐れるものは

なかった。キリスト教徒の死には

そういう覚悟の死者が多かったようだ。

自分という仮のものに拠るうちは、神を

自分の代替者に仕立て上げるしか

手段がないのが、僕らの弱点なの

だろう。神の存在・不在は副次のことで

大丈夫は同じことではない気がする、

死んでしまうと、僕らの衣服に過ぎない

自己はその中身も肉体も無になる。

そこにコンタクトを一度でも取っていれば、

・・・・・・・・ という気がする、僕としては。

それはしっかりと感じるが、だからと言って

何が言えるのだろう。死後の世界とか、

物象に比較してわかるものにしか、僕ら

は依存できない。この世しか知らないから。

またはスェデンボルグも遠足した亜空間の

ちっぽけなあの世しか。

現代までの進化に空想や知に頼るばかり

になってしまったのは偶然ではない。

プラトンとソクラテスにも幾分か

(0,000001%)の責任はある。

もうとっくに時効だが、・・

(笑えることか、笑うべきか、文在寅=

ムンジェイン!)(笑?)

それにしても僕らは知(その半身は自分)

で迷ってしまうという罠から3000年?

も逃れられないでいる。その意味では、

無知の知は正解なのだろう。なら、

ソクラテスを問題的に発展させて哲学

するのではなくて、ギリシヤを憧憬する

ようにパルテノン神殿で日向ぼっこを

したり、遺跡から見える一晩の星を、

神の声(たぶん、木星)は聴こえない

だろうが、ソクラテスを縁(よすが)に

して、数えたほうがいい。あれこれの

意味を考えるのは帰国してからだ。

Have a nice inner trip !

余白 ::

しっかり目を開けば、あなたの混乱は

自身で見える筈だ。と励ましで言ってる

つもりが余計なことだ、と思われている

ことってありありですよね。結果としては

言い方なのだろうけれど、(例えば)

あなたが神に拠る・頼るという姿勢を

批判するつもりは、ないですね。同情も

しないが、あなたがそうであるさまざまな

事情があるはず。

だから、いつものようにそれを何かの

物差しという正しさで判定はしたくない。

弱さはそれでそれなりに、社会生活での

強さの鍵になる。自我の強さは程度問題

で、強すぎれば、人の弱さもわからず、

社会では不利に働くことになる。なので、

人生では一般論ですが、強さとは単に

良いことではなく、弱さとは単に不利な

ことではなく、人との作業では有利に働く。

それで人はそれなりに自分のゆく道を

歩いていることが多いので、それなりに

前を向こうとか、努力もやむなしで、

40年も生きてきた人には、それなりの

正しさで間違いのない道ができている。

基本的に無理をしなければ、その無理

しないことがしっかりわかっていれば、

そうそう人生は狂わない。

それもこれも、すべて大丈夫だから。

あなた、この世はそうできている。そう

思いません?(笑)(笑)
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