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偏った先進世界としあわせを貪る日本という象徴をパロディに [観光]

憂鬱が恋しいという気分はふつうでは

ないだろう。それを解いてしまう前に

もう少し、この気分を詮索してみたい。

この気になる「気」の質を聴いたり、

触ったりして見ると、実際には見えない

ばかりか、聴くことも触ることもでき

ないが、その気になって手を貸してみる

と、それは憂鬱ほど強いものではなく、

物憂さだとわかる。

物憂いのだ。

老人病のようなもので、なにをしても

楽しく感じない。筋肉がだれて緊迫感

を自分では演出できなくなったのかも

しれない。

ただもの憂いのだ。以前には郷愁を

求めて、それは憧れに近い気持ちにも

なったものだが、なにかしたくても

なにをしても虚しい気持ちが先行して

しまって、それに負けてしまって、

憂い憂いとなり、ウィン(勝ち)には

ならないようだ。

理由は今日が自主休日だからだろう。

基本、気を遣うようなこと、重労働は

しないで静かに過ごすのがルールなの

だが、楽しませるべき自分がなにも

反応しないのでないかという、腑抜け

になっている。

こういう時にバロックの古典音楽が

一番聴けるというのは、不思議な気が

する。古典音楽が聴くのに神経を遣わ

せない理由はなんだろう、と思うが、

なんとなくわかっているような気が

して、強いて答えを求めるまでも

ないと内心で考えている。

こういう時に思うのは、自分はこれ

さえあればいつでも夢中になれると

いうものがないことだろう。

惰性がある。昔からの麻雀ゲームと

この古典音楽とそれからこうして

書いていることだ。今は頭と会話し

ているだけで、なにかが這入って

こない。這入ってくると、緊張して

集中して書くので夢中になるのだが、

それもない。ただ、惰性である。

休日は気分が盛り上がらない。

リアル現実でもなく、現実の夢気分

でもなく、リアル夢でもない。夢の

中で(仮想)現実にいるようなもの

で、現実はただの退屈な自分の置か

れた気分なのだ。

A.夢の中の現実とB.現実での夢気分

とはどう区別がつくのか、というと

B.の場合は現実の背景があるので、

ピリッとした現実をどこかで感じて

いる。その上で夢を見ているが、

むしろ見ようとしているだけで、現実

に迫られている気がして、小さな緊張

が抜けない。それでわかる。

惰性な気分になれない。

その気分はふつうは区別をつけてい

ないから、自意識に昇らず、感じてい

ないはずだ。夢も現実も意識から

すると、それぞれが二重構造になって

いるというのが、僕の環境なので、

それが自論になっている。

論としてあるだけで、それを自覚して

生活する必要はさらさらない。思考

生活という特別な沈黙の時間を過ごす

時に現れるものだ。


三日前に人の説明を1時間半くらい

聴くという事態があったので、相当に

疲れた。わかっていることなら、無視

して聞き流せばいいが、ポイントとか

金銭にかかわるので、相手がわかって

いることを、こちらは不十分な理解の

レベルで聴いているから、所々が記憶

から飛んでいる。

よくわかったのは今の教育環境や娯楽

の環境がデジタルに支配されていると

いうことだった。デジタル思考になって

いるのだが、本人は気づいていないの

だろう。だから、僕はまた聴きに来なけ

ればならないだろう、と途中から思い

ながら、しかたなく聴いているという

事態にもなっていた。

こういう事態になにかが欠けていると

いうのを僕は強く感じるのだが、それは

時代の感覚からは離されている、という

ことをも感じさせた。

アメリカのロサンジェルスだったか、

昼食を外食にすると、一人4600円で、

ペットボトル飲料が290円かかる。

日本の3倍の物価高だ。それだけ給与

の水準が日本は先進国と言っても、

世界では低開発国並みに低い。

これをどうとらえるかは、一見では

言えないだろう。アメリカの文化と

いう発展形の歴史という背景があり、

そこに黒人奴隷の時代とヒスパニック

の準難民の受け入れの経緯がある。

異民族とその人種差別など、その文化

的な軋轢からわかりやすい指標を人々

が求めたのは自然なことだ。

それで数理・論理の考えでの区別・

差別が広まったのは自然な推移だと

僕には思える。できるだけ表に出し

て議論で民主的に問題にあたるという

風潮も出てきただろう。

その弊害はその数理論理思考からはみ

出した心情や感覚について心理学に

頼り過ぎていることだ。小学校にも

警察にもどこにもセラピストがいて、

なにかあるとその診断を受けるのが

義務化されている。

反動としてだけではないが、反動と

しても親が子への性犯罪や変質者の

猟奇犯罪も多い。

特に50州の連合国であるので、各州

で法律も異なり、プロテスタントと

カトリックの確執も続いているし、

プロパガンダの応酬はマスコミ・司法

などどこの分野でも盛んである。嘘も

不正も勝つための正当な手段として

暗黙裡に認められているのが現状で

ある。

心が一方に偏れば、その欠けたものを

求めるようになる。さて、ここで飛躍

してしまうが、コンピュータやAIの

普及・進化で数理的な考え方の侵蝕も

深まった。これは世界的な傾向だ。

そこで、コロナが起きて、自粛生活に

なったので、さらに欠けているものを

求めるようになった、とは言えないか。

世界の南アジアでも、欧米でも行きたい

観光地の一位は日本である。

なぜ日本か。それがわかれば、すべて

わかるだろう。

半分はゲームやアニメなどの娯楽の

楽しさにあふれていて、コスチューム

なども自由に楽しめるからだろう。

もう半分は日本古来のものを求めて

いる。まだ平和でいつの時代も日本

は文化でも世界をリードしてきた。

それは縄文まで話は広がるが、そこ

まで行くと話はまとまらなくなるので、

一言で日本が培った文化の裾野も底の

地平も広いということだ。

そこには思考で語れない大事な事項が

ある。世阿弥の花は語れないものの

イメージだ。それが無意識な事項で

あるのは間違いないだろう。



テーマが大きくなりすぎて分散して

しまった。大事なのは、丁寧に調べ

てそれを整理して硬軟に結論する

ことだ。答えはひとつではないだ

ろう。



もの憂さは体からきている。この

三日間は昼まで寝ていた。早朝に

起きてお茶を飲む。また寝て起きる

のだが、そこで起きてしまわないで、

しあわせを貪ろうとして、昼まで

寝てしまうのである。さすがに、

休日とはいえ、三日も続けると、

だるく、それが心を物憂くする。

そんな話である。

世界の偏向1.png

                                             陽秋:画                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   
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遊ぶ その3. 幻想観光 [観光]

観光は ほぼしない。 けれども、調査や視察目的の現地が、観光地である

ことは、よくあることだ。そこでわざわざ、観光客ではない、とアピール 

するのもおかしなことだ。カンボジアのアンコールワットは発見されてから  

ずいぶん経つが、相変わらず柵はない。 どこからでも自由に入れる。監視員も  

1人か、2人だろう。外国人の旅行客しかチェックしない。顔を見て、判断して、  

正規の入行証を買って、入ったか、確かめるだけだ。 中へ入ると、タイから  

稼ぎに来た学生、または学生志望の青年が、監視員の目を気にしながら、ベスト  

(撮影)スポットを案内するから、といくらか払わされた。 どういう商売なのか  

というか、どのくらい違法で、詐欺なのか見たかったからだ。可愛い小遣い稼ぎ  

だった。彼らは観光客目当てに、学費を稼ぎだしたいらしかった。 多くは英語

を習って、通訳がしたいらしい。観光がタイ国やその近隣では、稼ぎ頭なのかも

しれない。遺跡は 夢では王朝の歴史であるが、 現実には 観光事業という 

金のなる木だ。

建物とアンコール_LI (2).jpg  

人は出かけて、またアパートに 戻ってくる  画・構成  (陽秋)
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