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分別の見分けをどうするか? [分別]

目の前に起きていることを未来的に捉える。

少し崩して、ズラしながら捉えると、それを

未知のこととして捉える・見る・聞く・感じる

ということらしい。 

言葉では、それを先入観なくして、白紙の

状態(心)で捉える、と言うんだろうけれど、

言葉は知っていても、その状態をどうも

想像できないし、定義さえできそうもない。

初心を忘れず、という新鮮な気持ちを

示すのも同じことだろうが、まっさらな

心が赤ちゃんのような心だったら、僕らは

そこに戻れないし、戻ったら痛い、腹減った、

うんこ、眠い、という4つの行為しかない

無知な動物・赤ん坊に戻ることになる。 

そこは意を察して、大人のまま赤ん坊の

ような無垢な初心を再現しよう、という

ことなのだろう。 

それにしても、改めてそれを考えてしまうと

とても難しい、としか思えない。だが、考え

なければ、なんだかわからない。だから、

考えない方がいいのだ。 

実に単とした答えが出てきたのだが、その

通りだと思う。

人は考えて認識する人生を過ごしてきた

から、考えないと言っても、あまりピンと来ない。

けれども、実は大事な場面では往々にして

人は考えない。訳も分からずかもしれないが、

無私になって問題に集中している。

「無私」という言葉も誰が言ったか知らないが、

よくできた言葉で、私(わたくし)を失くして、

無にしたことを言うのだから、私がなくなれば、

それはふつう、自分を失くすことをいう。

わたくしが無くなれば考えることもできない

から。

しかし、その集中状態も自分という思考が

まったく無くなるわけではない。無意識状態

で脳の裏側のようなところで蠢(うごめ)いて

いるのだ。 

その説明をしたいと思う。 



物事に対して、僕らは前向きになれ、と言う。

正面からぶつかれ、とも言う。これはなにも、

体をただ前に向けることでもないし、なんでも

正面から体当たりしろ、という実際の行動を

指示したものではない。心の態度を比喩で

言ったものだ。ところが、言う側も考えて、

聴く側も考えて、それを言うし、それを受け 

止めるので、それが「無私」とどういう関係 

なのかが、今いちわからないのだ。 

考えを止める習慣を一般に、僕らは持た

ない。学校の授業で、そんなこと言っても

わからないし、それでは馬鹿になれ、と言う

のか、と誤解される。

無理もない。僕がそういう状態を手探りで

実行している時にも、それがどういうこと

なのかは、この数十年もよく知らなかった。

ここまで自分を遠ざける状態を実体験して、

気がつくことができたという、ふつうの自意識

下では鏡や他人の目を反射・反省せずに

自分の眼を自分で見ろ(確かめろ)、という

ようなものだ。さんざん考えてわからず、ふと

眼を閉じると視界がなくなる。あ、見えるため 

の機能・器が顔にあるんだ、と。

やっと見るを知るには見てはだめなんだ、

と悟るようなものだ。

物事に相対するには、先に自分をぶつけて 

はいけない、ということ。それは自分の考え・

信念・信条や羨望・気持ち、嗜好という感覚も

自分だということ。 

自分が寒いからといって、相手は高血圧の人

かもしれない。ストーブをつけると、その人は

暑いと言って、ストーブを消したがるだろう。

感覚の違いは体感だけでなく、デザインなど

センスの違いにも現れる。野暮ったいと思って

いた服装が今年になったら、急に流行りだした、

ということもある。

これらの「自分」というものを物事に対面する

時に参加させないことだ。そこでは必ず、

自分と物事の対決という化学変化が起こって、

自分を中心とした偏向した判断、すなわち

先入観が生まれる。 しかも、初っ端なので

自分本人がそれに気づけない。 

あとは相手との関係次第で、自分から妥協

するか、悔しければ衝突するかという方向性

しか残されない。これは僕らが結果を求める 

にあたって、選択肢を二つに分けてしまう

大きな要因になっていると思われる。キルケ

ゴール(19世紀デンマークの思想家)のいう

「あれか、これか」というのはこのことを指し

ているのではないか。

考えなしで物事を見つめるのだから、僕らは 

それを全くわからないものとして眺める。

わからないから、これは何だ?という態度だ。

そうすると気づいたが、これは子供がものを

まだ知識としていない状態で見る態度だ。

子供は興味を持ってしまう。何だこれ?と。

知識は好奇心を殺すものだ。知ってしまえば

終わり、みたいなところがある。

この無私の態度で物事に真っ先に臨むという

ことが、まずものを考える前提の正しい態度

ということになろうか。

実はこの態度は、瞑想で自然に養われる。 

瞑想は、つまり、無念無想のことだ。まるで

剣や武術の奥義みたいだが、その通りで、

物事を知る奥義の、第一は無念無想なの

だ、と考える。 

そこに、ともかくもわけのわからないものが 

あるから、言ってみれば不思議のかたまりだ。

その水の流れのように形定まらず、グラデー

ションのように色は変化(へんげ)し、なにが

なんだか、という風に見えなければ話は

始まらない。

その物事(問題やトラブルの場合が多い

だろう)に応じて、僕らはすぐ気持ちを対応

させ、二者択一の考えを反映させて、常に

判断を迷わせ、決めかね、悩むのだ。それ

は堂々巡りをする方法なのだが、知る由も 

ない。

わからないモヤモヤを見ているのは、慣れ 

ないとすぐにこんなことをしていてもしようが 

ない、という短気な反応に押されて、すぐに

前を向かなくなってしまう。

目の前の事態は常に新しい事柄なのだから、

ある程度の必要な忍耐があるはずだ。僕も

ビートルズ世代だったので、新しいアルバム

を買うと、聴いていたのだが、彼らは当時

から革新派だったので、出すアルバムの

たびにレベルも違えば、音楽性も変化させた。

なので、1回聴いても、何だこりゃ、が多い。

2,3回聴いて、やっと好きな曲が1,2曲

わかったりする。

これと同じことで、新しい物事だから判断に

苦しむのだから、まずその内容を受けいれ 

られなくても、どういうものなのかを心に

留め置く必要がある。それは最小限度でも

それなりの小さな忍耐は要るだろう。 

そんなことをするより、思ったまま行動した 

方がいい、という短気な人には向かない 

だろうから、困難を増やす覚悟で歩んで

行ってほしい。直感的な人は、部分的に

解決する能力に恵まれているだろう。

ただ、誤差がどれだけあるかに拠る。

経験値が大きければ、経験に頼りがち

になるだろう。気持ちに揺さぶられ 

やすい人は、近所でも評判の人になる

だろう。それはそれで面白い人を演出

するが、困った人を演出することも多い

だろう。それはそれだ。いいじゃん。ネジ

が一本外れていると思って、そのつもりで、

できる範囲で支えていけば、いいじゃん。 


さて、考えることを選択した人は、物事を 

ありのまま眺めることが終わり、それなりの

その物事の雰囲気・感じが全体で掴めたら、

(なにが掴めた感じかは、慣れる)次の段階 

は考えずに考える段階だ。 

全体の感じは目の前にある。ならば、それを

そのままに置いて、その感じから離れずに、

イメージするに任せる。それはただぼんやりと

何も無理せずにそれを脳から漏れ出てくる

イメージになんとなく、照らし合わせる。これだ

と初めから決めつけず、流れるイメージに

重ねて、次々に流してゆくだけ。 

もう、これで潜在意識で同時に考えている。 

この時の注意も、自分の意向で考えを

物事に押し付けないことだ。いろいろな

考えがイメージとして流れるのに、逆らわない。

そのうちにまとまる時にまとまる。なので、

自分から考えて解決に向かわない。 

たぶん、(個人差があるが)数か月~3年

もすれば最終段階がわかるようになる。

そうすると、心を白紙にして向き合う、という

意味合いがそのまま納得する。

いつから無意識が働くのか、それは意識下

の思考とどう違うのか、ということはわから 

ない。僕はいつも結果に驚いているだけ

なのだから。

例えば、美は生まれるものだ。初めはなにも

ない。何でもない日常の見慣れたものを、見て、

見て、見続けることで、ある時急にその美を

発見する。一度発見するから、美は広がる。 

この最初に一度発見するのが、やろうとすると、

手間なのだ。それでも人生から比べれば、

数時間や数日の忍耐のことに過ぎないのだが。

しない人はしない。最初から時間の無駄だと

感じるからだ。

紋黄蝶がひらひら飛んでも、法隆寺の鐘が

鳴って柿が落ちても、季節が変わったわけ 

ではない。ああ、季節だなぁと考える僕らが

その、そういう風に考えている時間だけ、

季節があり、時間が存在する。

お年寄りはもう考えることにはうんざりして

いる。だから、もう考えないことに幸せを

見出しているし、見出せる時代になった、

自分が失われるように。

元気な僕らはそれでは物足りない。まだ

冒険や挑戦をしたいだろう。それは苦しみ

や悲しみを求めることに等しいが、それに

自然に誘(いざな)われ、愛や楽しみが

生まれだす。社会の秩序や調和を考え

出そうとする。

そのために君らは生きるのだ。

ロシアとウクライナとの間、いや、世界中 

での無理解が日本のインフレに影響を

及ぼすように、テレビもネットもまず、自分 

の情緒・思想・志向をぶつけてくる。

アーメン、いや、あにはからんや。

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