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何も信じないがなにかを奇妙に途轍もなく信じている [信じる・疑う]

空はいい。   十分に広い。  

でも、 星空は 違うように感じる。  空を超えて、 

その向こうに宇宙を 感じる。  それが 星々の 

効果、だろう。 

このこと、 僕ら人間が  星を見上げて  

遥かなるものに  想いを寄せる、 ということ  

そのことが  非常に 単純に思える。 

あまりに、 そのまんまなので  そのまま、・・・ 

なにも いらないのだ、  思うのは  

考えることじゃない。 

青い空を見ていて、  すがすがしい気持ちにはなるが、 

夜の空のように   そこに吸い込まれそうで 

向うから  見られているとさえ、  感じることが  

できる。 (文章では: できない)

見る、 というのは 不思議で  

見ることができなくなると、  向うに 行ってしまう。 

そして、 今度は 向うから  僕を 

見始める。  そんな気がするのは、  

いつも    どうしてだろう、と  思う。  

ひとつの  個という存在を  抱き込んでしまう。  

抱き込まれてしまうから、    そんな気に  

なるのだ。 

遥かに、  という言葉が もどかしい。 

遥かに、  といくら思っても  それでは  

足りない、   力不足だ、  と。  

この 宇宙を  抱こうとして  

遥かに  抱き込まれる。  

そして、  そうなのだ、と思う。 

これで、  いい、   そう思う。  

なぜか、  それでいい のが わかる。 

わかる、

わかる、  

わからないのに  わかるから  

不思議だ。  

わからないのに、  。  



君に わかるのか、  この気持ちが、  。  

泣きたいのに  泣けない。  

泣いても  叫んでも、  この気持ちは  

どうにも  ならない。  

この  遥かな、  広く  続きすぎる  

情感は、・・・。  

情感なのか?  これは。  

もう ちょっとで   僕は  

風船のように  割れてしまうそうだ。  

この気持ちを  保ち続けることなど、     できない!  

それでは  自滅して、しまう。  

それが  わかっているのに  わからない、 

それが  やめられない!  

僕は  僕であることが  

やめられない よ!  

これほどに  僕が  人間であると、 

感じたことがあるだろうか?

自分は  ’にんげん’ なんだよ、 と  

まるで  神みたいに  思ったことが、  ・・・・。  



幾千もの  夜 があって、   

幾万もの   星、 を 数えたろう。  

それは  僕の  シンフォニー   

夜の  大音楽!  

心、 引き裂かれ  

息、  荒れ、 乱れ  

体  震え、  痺れ  

その洪水に  抱(いだ)かれたか!  



まるで  歩くようだよ、 

すべてに 満たされた  道を。  

そうなのだ、  僕は  ここに いて  

僕を  抱くことが できる  

君を  抱擁する ことが できる  

一緒に  先も わからない 道で  

天気のように  雲行きが  変わりやすい  道で 

なにかを  知っているのではなく、  

目的が  あるのでもなく、  

そこにいるのが   嬉しい。 

一緒であるのが  温かく  感じる。  

お互いが  何であるか、 知らない。  

お互いに  どこへ行こうかと、  思っていない。  

ただ  一緒に  いられるだけ。  

それが  なにかであると、  知っている。  

それが  大切だと、  信頼している。  

それが  すべてではないと、  知っている。  

それで  問題は  解決しない、   そう、  

知っているよ、  でも、  そうじゃない。  

そういうことを  求めているんじゃないから、  ・・・   

そういう形を  残そうと言うん じゃないから、 ・・・  



気がついたんだ、などとは  言わない。  

それは また  そうではないと、 

気がつく  サイン。  

遥かに、  

遥かに、  

思い出したんだ。  

僕が  なんであるか、 を。 

生きてるじゃないか、  と。 

なんて ことを  してくれたという 

喜び ! 

なに やってんだか、  という  

祝福 !  

すべてなんて  求めるものじゃ ないんだよ  

ありのまま、とか  気にするなよ !  

そのままなんか、  誰も  知らないよ !  

僕らは  変わり 続ける、  

なにを  どう  がんばったって  

大人になり、  肉体は   死ぬ。  

それについて  アリバイを  求めすぎる。  

そんなに  安心して   どうするの?  

安心して、  それで  終わりじゃ ないだろ。 

それで  すべてが  終わるわけじゃない。  



なにも  終わらない。 

どうして? と  尋ねてみたが、  

なにかを  期待したのでは なかった。  

答えは  聴く必要が  なかった。  

なかったのだ、  もう  わかっていた。  

そんな気が  もう、 していたから。  

答えは、  ない。  

それが答えだと、  わかる前から、  

それを 感じていた。  

すでに  出ていた答え だったからだろう。  

僕らは  何度も  その答えに  たどり着き、  

そして、  また始めから、  知らなかったように  

時代を  くり返すのだ。  

その  完全に  知ることが、最初から  

できないことの 範疇にある、  それを! 



すべては  変化する。  

すべては  無限大へ、 そして  

逆行して  初めという ”始” に もどる。 

すべてが  異なった始まりと   異なる、 終わり。  

僕らに  何が  介在できたのか?  

僕らは  ぼくらのことしか  できない。 

だから、  常に  それを 生み出してきた、  

新しく 創造するほかに  僕らは  

僕らで  あることが できない。  

ひとり ひとりが  それぞれの見方で  

それぞれの 言い方をする、  思想する、 

行動する、   守る。  

その 営みをさせるもの、  

その  努力をさせるもの、 

その  困難に 立ち向かわせるもの、  

その中に、  

僕らの  生きるという、  何か が ある。  

僕らの  営為、が ある。 

僕らの  プライドが ある。  

僕らの  理由が  ある。  

求めても  得られない、  それが答えである、という  

僕らの  永遠の  練習が   ある。  

自分が  一回の  くり返さないゲームが、  ある。  



遥かな、  

遥かな、  

この  遥かな、もの。  



朝、  起きて 顔を洗います、 

歯を  磨きます、 と作文に  書いた。  

それが  荘厳な 行為だったとは  言わない。  

でも、それは  難民キャンプの 

出来事だろうか?  

平和とは  そういうこと以外を  

指している のではない。  

それを  良いとも言わない。  

そういうことでは、   ないから。  

そういうことではない、と  言っても  

それは  大きな壁のように  感じられて、  

暗いシンフォニー の響きのように  

黒い雲が  恐怖を  満たすように  

大きく  目の前に  広がり続け、  

まるで  すべてを  覆ってしまうようだ。 



それらは  僕らの心を 介して  

世界に  届けられる。 

それらは  僕らの  知っているもので  

それらは  新しい恐怖であり、  

新しい  祝福である。  

いずれ  時代が 解釈する。  

僕らは  すべての現象を  心得ている。 

未知のことが 起こるとさえ 知っている。  

そして、 既知のこと、対策 しか  なす術がない。  

僕らは どうして、  なぜ   それらを  

持っていないのか?  

捨てたのか?  

まるで  海中の魚たちが  

陸上の  動物の話を  しているようだ、  

陸の上を  歩いたこともないのに。 

耳で  音を  聴いたこともないのに。  

魚は  陸に出て、  一度死ぬだろう。  

運よく  助かって、 海に戻った時、  

海中で 話していた話を  くり返すだろうか?  



僕に 向かってくる 動物や 魚の現象は  

続いている。  

彼らが  哀れだ。  

僕には  なにも  わからないからだ。 

それに どう対処していいのか?  



遥かに、  

遥かに、  

まさか、  彼らも  感じるのだろうか?  

彼らに  共通な なにかを  僕に  

感じることが  できるのだろうか?  

僕は  どうして  こんなに  死に損なったのだろう?  

心で  死んだのは  数知れず。  

からだが  事故にあったのも  20回以上。  

山では  もっと微妙な瞬間が、  幾度も。  

それでも  運は信じられなかった、 

運は  僕の 生きる態度にある、 と見えた。 

その方向でなら、 死にそうもないと  経験論が。 

ちょっと 邪悪な念で  すぐに 怪我を。 

隙など あったものではなかった。 

未だに  ただ謎だけの   ここまでの 道のり。 


ひとりで  歩きたい、 と思った。  

気楽に  気兼ねなく  やっつけたい と。  

それは現実で 叶えても、  夢では  

叶えることは できなかった。


ひとりに  なれなかった。 

どんなに真っ暗闇で、  山奥でも  

動物が  息づいていて、  

自然が  胎動するように  包んでいた。  

それを  呼吸するように なると、 

都会が  なつかしかった。 

風呂とか トイレが  文明であり、  

文化だと  如実に  わかった。  

教科書や  店員には  この「如実に」 という 

内容が  なかった。  

風呂に 浸かることで  雨の中の、 下山、  

あの びしょ濡れの 帰り道が  

思い出すことで、  嬉しかったこと!  

あの  みじめな寒い、 自分が  

どれほど  嬉しかったことか !  

そうやって  雨の 降りしきる 中を  

歩いた!  あるいた、 

歩いた ことだった。  

何も  考えて いなかった。  

なにも  思わず、   ただ、  

風呂に  入りたかった!  

ああ、  入りたかった。  

もう それだけで  文明も、文化も  

十分じゃん。  生き返るよ!  

それだけだ、   生意気に、  

生きるって、  それだけでいいじゃん。  

そう 思えた。  鼻の先まで、  雨の滴が  

滴り落ちる  その 無言の歩行で。  

山が  けぶっていた、  

紅葉が  ポツンポツンと、 

セーターの 柄のように  

山が  けぶっていた。 

ああ、 けぶっていたよ。  

僕の  青春だった。  

なんでも しておくべきだった。  

そうしてきた、 つもりだったのに、  

やはり、  隙は  あった。  

ついに  エベレストは  逃してしまった。  

地球の 箱庭を 登るつもりでいた。 

8000m を知らなかった。

誰か日本人が  登った。  悔しくもなかった。  

ただ  自分が  悔やまれた、  

悔やまれて、会見のテレビ、の前で  

泣いた。  

自分が 泣いているとは 知らなかった。  

ウッ ウッ、 という 嗚咽が  

自分からだとは  思わなかった。  

それから  声を上げて  泣いた。  

子供の時以来に  声を 上げて。  

こんなにも  登りたかったのだ、  と  

自分を  気の毒に  思いながら、  

泣いた。

子供のように  泣いた、  

恥ずかしくなるまで、  

泣いた。  



地球は  箱庭だと、  

自分の家の 庭だと、  ・・・  

そう思っていた のに、  ・・・  

僕らは  自分を  知らない。  

僕は  君を  信じない。  

世界を  信じない。

僕は  自分を  信じない、  ・・・ 

そんなこと、  

必要では  なかった、  ・・・

そういう 生き方が  必要だった、  そこに  

僕の  チョイスは  いらなかった。  

自分の方向に  向いているなら、  

もう 前もって  選択されているから  

改めて  迷うことも  ない。

泣きたいときに  また なったら、  

泣けば  いい。  



どうして  

こんなに  

気持ち  いいんだろう?  

世界は  そこに  ある。  

それ以上に  なにを  望む? と

僕が  自分に  言っている。  

僕は  僕だ、  

これ以上に  僕について、成功は  ないだろう。  

そして、  

僕は  変わる。  

また  僕になる、  

また  僕は 言える。



僕は  ボク だ。   



また、 ・・・・・・ 

棕櫚の木の 下で   会おうよ、  

地球の  箱庭で、  ・・・
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信じると疑う、イカとスルメ [信じる・疑う]

6月が始まったら、どうなるのか、このブログが続け 

られるのかを危ぶんでいたが、いつしか下旬になろう 

としている。こうして時は無関心に過ぎてゆくのか、

冗談なのか、過ぎたことを消してしまう、と見える。 

が、事実は何も消していない。僕らは自分の活動と 

ともに刻々と時を追うことは出来ない。同時には 

できない。意識のスィッチはそうなっていて、体の右左

二つは同時に動かせる人はいるが、二つの意識を 

同時に持つことは出来ない。僕もできるのは、フラッシュ 

バックの時に感じる瞬間の感覚で、半自意識と半無意識 

とが交互に入れ替わっているだろう、という想像だ。 

厳密に半自意識もなければ、半無意識もない。それは 

どちらも同じになる、そういう意識構造になるだろうが、

それは自然でない。「半」というのは、そのくらいの意味、 

ということで、僕らは実際には瞬間を感じるには、1秒の 

5万分の1という生物の限界がある。だから、瞬間も 

実際の瞬間よりもほんのわずか長く感じてしまう。自意識 

としてはぶれて、半自意識に感じても不思議ではない。

それを確認はできない。確認するのも意識だからだ。 

片方で確認して、もう片方で意識を交互に切り替えて 

確かめる芸当は不可能だ。それは鏡で自分の顔を見て 

いて、素早く横を向いて、元に戻せば、自分の横顔が  

鏡に残っているその残像が見えるだろう、と考える 

ようなことだ。光より速く、振り向けるはずがない。 

だから、僕の二重の意識というのは、同時に成したもの 

ではなく、瞬間の意識の交換がそうだろう、という多くの 

事例からの想像の産物だ。しかし、他に考えようがない、 

今のところ。 

僕は底の浅い、今流行の人格入れ替わり恋愛ドラマを観て 

いて、ふつうに思い出して感動していた。その切なさは

底の浅さを問題にしないで、変わらないものだった。 

何も変わっていないはずはないが、逢いたいという気持ちと 

ともに愛に理想を見出そうという、気持ちも何も変わらない 

ようだった。 

ドラマの最後もその矛盾を知っていて、それを曝け出して 

いた。「彼は私のいない世界で生きることを学ばなければ 

ならない」、と言いながら、あの世から抽選に当たって、また

彼の処へ一時、蘇るというもの。そして、二人はお互いを 

感じ取って、「おかえり」と言うが、それは一時の気休めに 

過ぎない。また、帰ってくるというが、それは視聴者への 

サービスで実際にそうなってくり返すようだったら、もう 

漫画の世界で、バカバカしいだけだ。

しかし、どんなに、なにが、どうなってその悲恋や失恋を 

カバーする出来事が起こっても、その想いは変わらない。 

そして、相手が死なずに生きていて、ふつうに結婚して 

いたら、あまりにふつーに、つまらない物語だったろうし、 

物語にもならず、いろいろあったというそれなりの生活に 

落ち着いているはずだ。 

そのことの全体を考えると、一つの仮説が浮かぶ。 

そういう仮説は一つではないからだが、その反対方向の 

仮説も成り立つということを認めたうえで、敢えてその仮説 

を展開すると、僕らはそのことについて変わらない、という 

ことだ。この想いはどの時代でも、いつでも初めから矛盾を 

孕んでいて、この僕らの動かない想いを中心に展開され 

ている。そして、それを歴史的に見ても、人類史でそれが 

変わらずに綿々と続いているのは、すぐにわかる。これは 

一千年前の源氏物語が世界最古の長編小説である事実 

を見てもわかる。

これは感情の創生とその時期とともに、古くて新しい問題 

だろう。それは自分の拠り所を’多数’や、’自分自身という 

自己撞着’に求めざるを得ないもので、我らはどこから来て、 

どこへ行くかという知の性向である洒落ではない。それ 

はデカルトのコギトの別な例であって、自分を安定させ 

ようとする高級な洒落以外の何物でもない。 

真実はどうあれ、どうして愛は永遠をほうふつとさせる 

のか? 誰もがその創生の権利も心も体も持ちながら、 

それを自由にコントロールして、創造できないのか?

それらのことは、実は本当には何を意味するのか? 

信じることができる、というのはそれは実は、信じると 

いうことではない。それは承知だろうか? 

だから、僕たちは信じるということと、疑うということ 

とを混同してしまう。それは二つを取り違えることを 

いうのではない。信じるということから、疑うことは 

できない、これが一つの意味合い。疑うという処から 

信じることはできない、というもう一つの意味合い。 

僕らが取り違えるのはこの二つの意味合いを取り 

違えてしまう、ということ。 同列に並べられない 

ものを並べて、イカとスルメを扱ってしまっている、 

ということ。 


この混同が続く限り、僕らの悩みはこの迷いにある 

気がする。これらの混同から解放されると、僕らは 

信じて、そのうえで疑うということをする。イカの刺身 

も、スルメもその食材に応じて楽しむ。こだわりなく、 

それをなんとなくするようになる。それが自然の営み 

に溶け込んで、信じるに踏み越えることなく、疑うに 

不必要にならない、という行動をするようになる。 

僕が個人的に思うに、ここからでないと、愛について 

どうこう言っても、すべて小さな誤解がからんで、 

ついには極端な考えに走る、ということが起こるようだ。 

愛は恐怖であるという言葉のいわくは知らないが、 

愛はそういう意味では非情を指すのだと思う。 

相手を許すにしても、相手の罪に罰を与えずに 

許すのは、相手は贖罪の機会を失う。まじめな人は 

それを心か、体で償おうという自己虐待の誘惑に誘わ 

れる。 甘えの人はそれで許された気になって、甘え 

切るのもいいのだ、といずれ道を誤ることになる。 

責任は社会の規則や約束に思われるが、自らが 

不用意に信じてしまった結果によって起きる場合もあり、 

それは一人にではなく、二人、あるいは多数に多少複雑 

な責任の配分が生じる。この責任を排除するのは至難だ。 

生まれてから刷り込まれた強制観念だから。  

僕らは水を飲まなければ、また呼吸しなければ、また 

太陽から体や食べ物にエネルギーを吸収しなければ、 

生き続けられないように、愛も夢も貨幣も現実に必要に 

なる。だが、それぞれの役割分担があり、それぞれの 

効果や慰撫も方向、手助けがある。それについての 

信じるも、疑うも同じ部品のような行為である。だから、 

部品の正否を言ってもしかたのないことだ。信頼や 

裏切り行為にしても、自分のことにしても相手側の 

ことにしても簡単に決めないで、それぞれを役立てる 

手だてがあるはずだ。 

つまり、愛はすべてではない、夢はすべてではない、 

貨幣はもっとちいさな自由を交換できる部品だ、僕ら 

は自分よりも大きい、広い、果てないものに接すると、 

それがすべてだと思う。その考えは正しいが、それだけ 

ではすべてを網羅していない、少しも。自分が外れて、 

価値が外れて、その元の知が外れると、すべて、と 

いうのはまあ、想像もつけられない化け物・真実だと 

思う。

僕らはいろいろなものを必要としている。悪だから 

排除する、という一遍通りのようなことでは通じない 

現実がある。 その悪だって、人により異なると 

なれば、悪ってなによ? となってしまう。そうなると、

つまらない議論の開始だ。(これは裁判や法律の話 

ではない、僕らが心の中で決めた話だ) 



横浜駅の東口から面接に向かったが、万里橋から 

下の川を覗いて、驚いた。大きな魚が向かってきた。 

40cm級で川なら鯉がよくいるが、そうではなかった。 

見ていると、大きいのが7,8匹と集まってきた。なぜ 

集まって来たかと言うと、僕の前まで来ると、方向を 

翻して、散開してしまうからだ。これが近所の川なら、 

エサをもらうのを習慣にして、そういうエサやり人の気 

を読み取るのをおぼえてしまったのだろう、で終わるが、 

そうではないようだった。どうもチヌとかクロダイの大きい 

やつだったからだ。見ていると、向うの川岸には 

若い鯛が20匹も群れで泳いでいる。すぐに海に 

繋がっているからそれはわかるが、なにせ相手は 

鯛だ。彼らは回遊しないで、そのあたりに住み着く。 

それでこの数だから、驚くわ。 

西口からもよく川を眺めて職場に通った2,3年前 

だったが、鯛は一度もお目にかからなかった。 

東口のほうが、海に断然、近いからだった。

釣りたいと、下心が見え見えだ。 

会社訪問をしていると、今回はたまたま本社に来て 

くれと言われたので、本社だったのだが、社史が 

パネル化されていて、見るとずいぶん、いろいろ 

紆余曲折している。介護事業に乗り出したのは 

2008年というから、13年前。その頃から、また 

その前からも情報産業や障害児福祉事業に着手 

しているが、既成の事業にからんで、新しい事業に 

拡大させようという試みをしているらしい。カンボジア

にもなにか事業を始めたが、撤退したとか。 

僕にも、最近は事業の方式が外注中心になり、その 

外注を取っ掛かりにして新事業に化けようとする 

進化系の試みが多くなっているのではないか、と 

感じる。 その会社を訪問すると、その従業員の態度 

や応対で大体のことはわかってしまう。はじめは今更 

バイトは嫌だったのだが、今の時代の空気がちゃんと 

あって、考えていた昔のようではないことに、興味が 

わくようになった。 

実際に動いて接することで、時代が確実に動いて 

変化しているのがわかるのは面白い。 

今は面接の合否は気にしない。それよりも話して 

暇つぶしができるのが楽しい。長崎の佐世保市で 

3,4年前にも就活して、狭い地域社会やくだらない 

天下りも見て来たので、そういう発見をするのが癖に 

なったのかもしれない。



午前は引継ぎのちょい仕事があったが、非常に 

スムーズで実際の代行仕事でも、楽になりそう 

だった。鯛を発見してからは、運を引き寄せている 

感じ(心地よい錯覚)があった。それは自分の空気 

を感じることでもある。どうもライフワーク、もう少し 

行けそうだ、と。 

鯛の他にも、60cm級の茶色の魚を2匹見た。 

なにしろ、こういうのはその時がすべてで、もう一度 

と思って、わざわざ行っても影も形もない、ということ

が往々にあるものなのだ。 受け流して進む。 

もしかすると、事業で新しい方向性が見つかるの 

かもしれない。と言っても、そこまでやる余裕はない 

だろうな。

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