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平和な時間・時代の夢を想う [不安]

平和な時間が流れる。

こうしていると、どこかでは

祈りの時間を迎えている人が

いるのではないか、と思う。

バッハのG線上の・・を聴くと

敬虔な気持ちが呼び覚まされ

るように、この頭の眠っている

ような脳内空間ではそういう

ものを聴いているのでは、と

妄想じみて来る。

証明されているものを信じる

のが常識なのだろうが、それが

群を抜いて想定外な想像だと、

証明されても信じがたくなる。


縄文時代が遺跡で発掘されて、

今は前期とか、中期とか、終期や

晩期と区分けされているらしいが、

この内容は不思議だ。国・村など

内戦の様子が見当たらないという。

殺された、傷ついた人骨が見つかっ

ていない。それだけではまだ未発見

なのかもしれない。それにしても

縄文は長い。

漆の木は接着などに使っていた

らしいが、その木を植えて手間の

かかる世話をしていたというから、

その他多くは椎の実や栗の木が

植樹されて食料になっていたので、

畑などもあり、半農くらいには生活

していたらしい。

それはわかるが、その期間である。

紀元前約1万4000年前からという

から、中国では旧石器時代から中石器

時代に変わる頃であり、山頂洞人とか

万年仙人洞・資陽人とかの発掘され

たらしい名前が新人化石人骨につけ

られた。ヨーロッパではネアンデル

タール人が絶滅する頃だ。

そして縄文の後の弥生時代から現代

までは3000年になる。文明が途中

から急激に進んで、現代は反省が必要

な時代だと想像がつきそうなものだが、

それは自然大災害のように想定外と

現代人の脳には認識されているらしい。 

では、縄文時代はどれくらい続いたの

かと言えば、1万2000年前後続いた。

つまり、縄文後の時代生きた日本人の

3000年よりもその4倍という長さの

時間を平和(予測だが)に過ごした、

そういう日本列島に生活した人たちの

長い長い歴史過程があったということ。


僕らはそれを数字で示されても、概念の

認識しかできないから、ちょっと驚くが

すぐに忘れてしまう。

こう考えたらどうだろう。縄文から現代

までの1万5000年間を自分の生活誌と

比べてみたら。

75歳から後期高齢者?だろうか、そうだ

としたら、縄文は全体の80%だから、

縄文が終わった時点で僕らは60歳の

還暦を迎えた時だ。1歳から約60年間

が縄文期でそれからが文明文化の発達・

発展した時期でまだ15年に過ぎない。

60年、平和だった、あり得ないと僕

は思ってしまう。そうだろう、僕らは

現代で10代から忙しく多様な世界を

見せられ、それに適応を迫られる生活

を要求される。

60歳までの平和はどこへ行ってしまっ

たのか。

縄文期が終わってから、またはその

前後から「心」が生まれたらしい。

紀元前500年ころからブッダや孔子が

生まれ活躍するが、その頃には漢字で

心に結びつく熟語が急に増えるという。

心を意識することが多くなり、自意識

が発達して、心の動きについて考え始め

たのだろう。

だから、僕らのルーツは古代宗教やギリ

シヤ文明の思想に求められることが多い

が、ではかくも長き縄文の1万年から

1万2000年は何だったのだろう。そこ

には動物のようになにもない空っぽな

気の遠くなる無為な自然に従うだけの

生活があったのだろうか。

僕は現代人には想像が及ばないのでは

なく、その知性は十分にあっても、それ

を想像するに見合った時代への想起力

とでも言ったらいいのだろうか。そう

いう認識や思考ではない思いを馳せる

という想像力には欠けているのでは

ないか、と自然災害が起こるたびに

後追いで対策する、それを資本の道具

にする政治や経済の事情の伝統・習慣

にしてしまう、今の指向性・思考性・

志向性を思ってしまう。 


思えば、発達障害という神経の病が

増え続けることは尋常なことではない。

いじめや虐待が毎年増え続けるのも

尋常なことではない。が、それを

ほんとうに異常だとは、実は感じよう

としなくなった僕らが自分が異常者と

同じ仲間だと気づかなくなったのが

最も社会の異常な状態なのだ。

そういう障害の原因不明は50年前、

100年前からわかっていながら、事実は

対症療法や新薬の開発による症状の緩和

に費やされている。

製薬会社が暗躍している。エイズは耳

新しくないが、そのエイズを確認した

論文にもその原因は何も書かれていない

そうだ。それを根拠にエイズはなかった

とまで言う、ジャーナリズムもある。

僕らの社会はその上層・権力層では

どうしてこうも陰謀が行われてきたのか。

それがどこから来たのか、現代ではそれ

が解明できるまで医療や科学の技術は

その水準にあるのではないか。

しかし、情報が多すぎることと、情報の

確信性を持つにはその出所の発信者が

どこまで正確なのか、調べたり判定でき

ない状況がAIとネットの事情にある。

いくら情報があっても、何を信じていい

のかわからなければ、それらの情報に

意味はなくなる。プロパガンダ(宣伝)

の応酬で僕らはただ眺めているだけだ。


すべてを破壊することを考えるより、

すべてを破壊しなくても、どのように

調べや実験をして変えるべき根本の

要因を洗い出すこと、その方法を今、

吟味するにはどうすればいいかを考え

ることだ。それには多くの手法を試す

ことが必要で、気がついたら、もう

猶予はない。その時に始めるべきだ。

すべての分野に応用すべき方法がある

はずだ。それはいくつかに分かれて

いるかもしれないが、それは自分の

資産や名誉の保身のためにするので

はないことが最も自分でわかって

いなくてはいけない。それが皆が

納得できる条件でもある。

感情をコントロールできる者がそれ

を担うのはもちろんであるが、それ

を悪用するのも多いので、それを

見抜くことも条件になるだろう。



人間の強さは「強さ」というものが

あるのではなく、それに対して心の

準備や外の体制を必要に応じて整えて

おくことで、それに対応して、適応

できることを意味する。弱いから弱い

のではなく、その自然に備わった弱さ

を克服して、どう現実に対応してゆく

ように鍛えるかが、その人の強さに

なる。

吉川英治の宮本武蔵だろうか、「強い

から勝つのじゃない、勝つから強い

のだ」と言わせているが、武蔵は剣

に強いだけではなく、兵法は必須、

時に学問も必要になる、と考えてい

たのは「五輪書」からも、養子に迎え

た伊織には剣を教えなかったことから

でもわかる。人を見る観の眼ということ

も言ったらしいが、これは禅問答とは

違って人物が観照できることを言った。


僕らは平和があると考えるが、今は

縄文時代のような平和はない。訪れる

こともない。僕らは知性を活かし、

また殺すうえで地球という今、過去も

未来もある今、そういう全体世界を

目の前に置いて、平和を自意識と交互

に味わうような、工夫した生活法が

必要になっている。

1万年の日本の遺跡に見られる平和は

夢なのだ。事実であっただろうが、今、

縄文とは違う生き方が求められるのは、

自然なことだ。


平和な時間が流れる。

こうしていると、それは私個人では

失われていないことと知れる。

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不安を解消する体と心 [不安]

1階から2階へ、夕食後1時間か、暗い階段を上る。  

照明を点けないから暗いだけだが、経済効果を  

気にしてというのではない。そして、3階へ暗いまま  

辿り着いて、パソコンのある部屋に入る。この時まで  

自分が書くつもりなのはわかっている。が、なぜ  

また書くんだろう?とも感じている。毎回似たような  

もので、書けるとも、書けないとも、またなにか 

書こうとも考えていない。まったく。  それで  

わずかに不安じみた気持ちを感じているくらい。 

そして、99%は書くことになるのだが、一度も  

いつも書いているのだから、また書ける、と思った  

ことはない。  

それが当然だと思っている。この「当然だと  

思っている」のを考えてみれば統計的には不思議  

なのだが、確かに何を書くのかわからない、と  

いうのは一種の出たとこ勝負と同じで、自分では  

いつもどう生きたらいいかわからない、そういう風  

に前を向いているのだろう、向いているつもりなの  

かもしれない。そう考えると、この不安じみた気に  

しない気がかりは、健全な不安なのかも。  

もしかすると、これが「今」ってやつの正体なのかも。  

そして、こういう前書きを終えて、またどうしようもなく  

書けるの?という疑問になる。極力考えずに、ただ  

平常心を装う。平常心などというものはない、と僕  

は思っている。実際にそうなった時は、自分は 

どんな状態かなどと考えずに、なにか集中した  

ような、呆然としたような、になる。それを待って  

いるのではないか。 そう言えば、それで30分  

くらい坐ったままという時もあったのを思い出す。



食後にスイカを食べたので、腹がいっぱいでも、  

スイカで腹がいっぱいのような気になる。胃には  

スイカしか入っていないのを頭が勝手に想像する。  

そして、そう短絡に体の感覚を決める頭を、 

バカだなぁ、と思う自分は何なのだろう。もう一つ  

の頭ということはないだろうから、初めの感覚が、  

それをキャッチした頭のその感覚(満腹)の説明で、  

それをバカにしたほうが本来の頭の働きかもしれ  

ない。初めが感覚の判断で、次にその判断を頭が  

反省したのだろう。頭は体が考えたことを反省抜き  

で説明に翻訳する機能がある、ということ。これ  

なら矛盾なく、矛盾した考えを説明できる。  

この分別は役に立っている、と気がつく。なぜなら、 

脳をだますというのは、矛盾した事柄だが、実際に  

僕らは脳をだますからだ。子供が軽い打ち身を  

した時など、痛いの痛いの飛んでけぇ、と親は 

よく言うから。 

痛いのが現実に飛ぶ?が、飛ぶのだ。子供は  

親が自分の真実だと感じているから、疑いを  

知らない。それで痛いのはいなくなった、と真剣  

に思ってしまう。それで痛みは発生しても、意識  

に散らされてしまう。  

また、病院などで死にそうな家族が、もうだめだ、  

と言うと、そんなことないです、大丈夫、治りますよ。  

とか言って慰めるが、これは実際にわずかだが、  

病人の気を楽にさせる。それを感じて(当人は知ら  

ないかもしれないが)「やさしいね」とか「ありがとう」  

とかお礼を言う。これは僕らの意識を転換させること  

で、現実に蓋をする技術だろう。無駄な慰め、気休め 

といったものではないのだ。だから、体と脳の思考  

を分別して、それを応用、利用することで僕らは  

自分の暗い気分や暗い予想を転換させられると  

いうのは、かなり可能性があることで、僕の自由な  

雰囲気はそれを実践している処から来ているの 

だろう。  



ヨガの呼吸は大事なもので、本格的に勉強をしたことは  

ないのだが、鼻の呼吸*で右か左かだけでもすこぶる  

役に立つ。あがり症の人がいるが、なにが上がるかと  

言えば、「気」があがるのだ。だから、あがったら、気を  

降ろしてやればいい。  

まず呼吸だが、右の穴だけで呼吸して、左の穴が  

つまっているようだったら、ひどい時は眠くなってしまう。 

活動停止を促す呼吸状態だからだ。起きて活発に  

活動したいなら、左の穴を空気を通過させなくては。 

あがり症の場合は逆に右の穴が詰まっている場合が  

多い。この状態だと、頭が活発だから、まず眠れない。  

右の穴を通過させて、気を落ち着かせることだ。  

穴を通過させるのに、無理をすることはないのだが、 

初めての時はガンコな場合がある。その時は 

綿棒を先を緩くカーブさせて、鼻の奥に入れてやる。  

鼻腔を刺激させればいいので、そっと少しだけ  

さするだけでいい。強くやると、粘膜なので傷つい  

てしまう。後で多少ヒリヒリするとしても、治りは  

早い。 

一度トライしたら、時間を置く。体が判断して、 

自然に通じる。10分しても通じなかったら、  

左の鼻を抑えて、右だけで吸い込むトライ。 

また時間を置く。その時に、必ず気をその  

鼻の穴に向けること。考えると言っても、 

近いからいいかも。鼻の穴の中に気を  

向けて、綿棒なり、抑えて呼吸なりをする。  

職場で昼間眠くなった時も応用できる。  

左の穴が詰まり気味のはずである。  



そして、次は肩から上に上がった気を降ろす  

ことだが、これは腹の下におろす感じで、  

肩を揺らして、少し降りたら腹筋を揺らせる。 

気は見えないし、感じもない。あるものと 

見なして、それを降ろしていると思い込む 

しかない。やっているうちには、1週間から 

3か月で慣れる。  

気は降りればそれまでの、やたら不安だった  

のが、軽くなるからわかる。あとは、自分が  

それと向かう気持ちができているかで、

それがあれば不安はほぼ解消する。  



なにか問題が持ち上がったら、まず体調を  

整える必要があるか、体に聞く、尋ねる。 

心に尋ねるのはその次。  

まず、体。双方は影響を及ぼしあっているから  

体から、そして心へと気を回す。そのやり方が  

すべて”の問題への第1前提であり、前準備と  

いうもの。 

お忘れなきよう。この世に対する、自分に対する  

すべての前提は、体にある。考えるのは、その後。  

僕らはどんぶりに乗った一寸法師のように、川に  

流されたまま、うまく考えることができると、思って  

しまっている。船酔いするだけ。それは十分な  

考えじゃない。まず、陸(おか)に上がって。  

体が体幹を十分に保てる環境にして、始めることが  

肝心。下痢でも、便秘でも、よい考えは生まれない。  

不思議だが、体がそういうようにできている。これ、  

真理の基本かもしれないなぁ。

(としか思えない。) ― と、一人うなづく。 ウン。 




* 鼻の右左だが、自分の後頭部から鼻を見る位置 

でふつうに右と左。静と動。静が詰まれば、動が活発に。  

動が詰まれば、沈滞に。日常では双方必要なので、  

鼻呼吸は双方、楽なのがいい。  


追加:: 

何度も書いたので、止めたが、この鼻呼吸で僕が一命を  

取りとめた事実だけは報告しておきたい。ヨガの呼吸には  

細く長く呼吸を行う方法もあって、僕はそれができたので  

喘息の初めての大発作で、気道が炎症でほぼ塞がった時 

にこの細い呼吸をして、50分後に気道が回復して、  

助かった。助けは呼べなかった。動くと、呼吸ができなくなり、  

窒息してしまう状態だった。冷静だった。人には乗り越えられ  

ない試練は与えられない、という言葉を思い出した、一瞬。 

後はどうするかで精一杯だった。わずかに、しているかして  

いないかの呼吸をするのは、50分、苦行だった。それで  

よかったのだろう。どんな時も運は開けた。向かい合いさえ  

すれば。
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