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不安を解消する体と心 [不安]

1階から2階へ、夕食後1時間か、暗い階段を上る。  

照明を点けないから暗いだけだが、経済効果を  

気にしてというのではない。そして、3階へ暗いまま  

辿り着いて、パソコンのある部屋に入る。この時まで  

自分が書くつもりなのはわかっている。が、なぜ  

また書くんだろう?とも感じている。毎回似たような  

もので、書けるとも、書けないとも、またなにか 

書こうとも考えていない。まったく。  それで  

わずかに不安じみた気持ちを感じているくらい。 

そして、99%は書くことになるのだが、一度も  

いつも書いているのだから、また書ける、と思った  

ことはない。  

それが当然だと思っている。この「当然だと  

思っている」のを考えてみれば統計的には不思議  

なのだが、確かに何を書くのかわからない、と  

いうのは一種の出たとこ勝負と同じで、自分では  

いつもどう生きたらいいかわからない、そういう風  

に前を向いているのだろう、向いているつもりなの  

かもしれない。そう考えると、この不安じみた気に  

しない気がかりは、健全な不安なのかも。  

もしかすると、これが「今」ってやつの正体なのかも。  

そして、こういう前書きを終えて、またどうしようもなく  

書けるの?という疑問になる。極力考えずに、ただ  

平常心を装う。平常心などというものはない、と僕  

は思っている。実際にそうなった時は、自分は 

どんな状態かなどと考えずに、なにか集中した  

ような、呆然としたような、になる。それを待って  

いるのではないか。 そう言えば、それで30分  

くらい坐ったままという時もあったのを思い出す。



食後にスイカを食べたので、腹がいっぱいでも、  

スイカで腹がいっぱいのような気になる。胃には  

スイカしか入っていないのを頭が勝手に想像する。  

そして、そう短絡に体の感覚を決める頭を、 

バカだなぁ、と思う自分は何なのだろう。もう一つ  

の頭ということはないだろうから、初めの感覚が、  

それをキャッチした頭のその感覚(満腹)の説明で、  

それをバカにしたほうが本来の頭の働きかもしれ  

ない。初めが感覚の判断で、次にその判断を頭が  

反省したのだろう。頭は体が考えたことを反省抜き  

で説明に翻訳する機能がある、ということ。これ  

なら矛盾なく、矛盾した考えを説明できる。  

この分別は役に立っている、と気がつく。なぜなら、 

脳をだますというのは、矛盾した事柄だが、実際に  

僕らは脳をだますからだ。子供が軽い打ち身を  

した時など、痛いの痛いの飛んでけぇ、と親は 

よく言うから。 

痛いのが現実に飛ぶ?が、飛ぶのだ。子供は  

親が自分の真実だと感じているから、疑いを  

知らない。それで痛いのはいなくなった、と真剣  

に思ってしまう。それで痛みは発生しても、意識  

に散らされてしまう。  

また、病院などで死にそうな家族が、もうだめだ、  

と言うと、そんなことないです、大丈夫、治りますよ。  

とか言って慰めるが、これは実際にわずかだが、  

病人の気を楽にさせる。それを感じて(当人は知ら  

ないかもしれないが)「やさしいね」とか「ありがとう」  

とかお礼を言う。これは僕らの意識を転換させること  

で、現実に蓋をする技術だろう。無駄な慰め、気休め 

といったものではないのだ。だから、体と脳の思考  

を分別して、それを応用、利用することで僕らは  

自分の暗い気分や暗い予想を転換させられると  

いうのは、かなり可能性があることで、僕の自由な  

雰囲気はそれを実践している処から来ているの 

だろう。  



ヨガの呼吸は大事なもので、本格的に勉強をしたことは  

ないのだが、鼻の呼吸*で右か左かだけでもすこぶる  

役に立つ。あがり症の人がいるが、なにが上がるかと  

言えば、「気」があがるのだ。だから、あがったら、気を  

降ろしてやればいい。  

まず呼吸だが、右の穴だけで呼吸して、左の穴が  

つまっているようだったら、ひどい時は眠くなってしまう。 

活動停止を促す呼吸状態だからだ。起きて活発に  

活動したいなら、左の穴を空気を通過させなくては。 

あがり症の場合は逆に右の穴が詰まっている場合が  

多い。この状態だと、頭が活発だから、まず眠れない。  

右の穴を通過させて、気を落ち着かせることだ。  

穴を通過させるのに、無理をすることはないのだが、 

初めての時はガンコな場合がある。その時は 

綿棒を先を緩くカーブさせて、鼻の奥に入れてやる。  

鼻腔を刺激させればいいので、そっと少しだけ  

さするだけでいい。強くやると、粘膜なので傷つい  

てしまう。後で多少ヒリヒリするとしても、治りは  

早い。 

一度トライしたら、時間を置く。体が判断して、 

自然に通じる。10分しても通じなかったら、  

左の鼻を抑えて、右だけで吸い込むトライ。 

また時間を置く。その時に、必ず気をその  

鼻の穴に向けること。考えると言っても、 

近いからいいかも。鼻の穴の中に気を  

向けて、綿棒なり、抑えて呼吸なりをする。  

職場で昼間眠くなった時も応用できる。  

左の穴が詰まり気味のはずである。  



そして、次は肩から上に上がった気を降ろす  

ことだが、これは腹の下におろす感じで、  

肩を揺らして、少し降りたら腹筋を揺らせる。 

気は見えないし、感じもない。あるものと 

見なして、それを降ろしていると思い込む 

しかない。やっているうちには、1週間から 

3か月で慣れる。  

気は降りればそれまでの、やたら不安だった  

のが、軽くなるからわかる。あとは、自分が  

それと向かう気持ちができているかで、

それがあれば不安はほぼ解消する。  



なにか問題が持ち上がったら、まず体調を  

整える必要があるか、体に聞く、尋ねる。 

心に尋ねるのはその次。  

まず、体。双方は影響を及ぼしあっているから  

体から、そして心へと気を回す。そのやり方が  

すべて”の問題への第1前提であり、前準備と  

いうもの。 

お忘れなきよう。この世に対する、自分に対する  

すべての前提は、体にある。考えるのは、その後。  

僕らはどんぶりに乗った一寸法師のように、川に  

流されたまま、うまく考えることができると、思って  

しまっている。船酔いするだけ。それは十分な  

考えじゃない。まず、陸(おか)に上がって。  

体が体幹を十分に保てる環境にして、始めることが  

肝心。下痢でも、便秘でも、よい考えは生まれない。  

不思議だが、体がそういうようにできている。これ、  

真理の基本かもしれないなぁ。

(としか思えない。) ― と、一人うなづく。 ウン。 




* 鼻の右左だが、自分の後頭部から鼻を見る位置 

でふつうに右と左。静と動。静が詰まれば、動が活発に。  

動が詰まれば、沈滞に。日常では双方必要なので、  

鼻呼吸は双方、楽なのがいい。  


追加:: 

何度も書いたので、止めたが、この鼻呼吸で僕が一命を  

取りとめた事実だけは報告しておきたい。ヨガの呼吸には  

細く長く呼吸を行う方法もあって、僕はそれができたので  

喘息の初めての大発作で、気道が炎症でほぼ塞がった時 

にこの細い呼吸をして、50分後に気道が回復して、  

助かった。助けは呼べなかった。動くと、呼吸ができなくなり、  

窒息してしまう状態だった。冷静だった。人には乗り越えられ  

ない試練は与えられない、という言葉を思い出した、一瞬。 

後はどうするかで精一杯だった。わずかに、しているかして  

いないかの呼吸をするのは、50分、苦行だった。それで  

よかったのだろう。どんな時も運は開けた。向かい合いさえ  

すれば。
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