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本当の自分じゃなくて、今の自分 [自分]

お年寄りの転換・切り替えの断面は仕事に出ると 

今日も見ることになった。しかし、時代の断面は 

どうも見えない。もう目の前で展開しているはず 

なのだが、小器用な仕事への対応が目立つだけで、 

それが新機軸の事業というものには、お目にかから  

ない。 

少子高齢化のなるほど、という展開・影響がまだよく 

見えないのだ。 もう少し、経営の動きの中枢部 

という範囲に足を突っ込まなければ見えないの 

かもしれない。 体の回復が早まるのがわかった 

から、コロナ後の楽しみを考える気になっている。 

メモを残さないと、あまりにしたいことがあるので、 

一つしているうちに、他を忘れそうな具合だ。 

メモで大事なのは、することそのものではなくて、 

それをするのに、どうワクワクしているかを残して 

おけば、またその気になれる。ただの言葉のメモ 

だったら、時間とともに気分も消える。今、どんな 

具合にやりたいか、その高揚を思い出せる言葉が 

必要なのだ。 

思い出した。スェーデンボルグだった。彼の霊界に 

ついての著作は西洋でも一代の奇書として扱われ 

ている。これほどまでに天界?のことを詳しく、語った 

者は今まで一人もいなかったし、彼以降にも現れて 

いないからだ。なので、どうしても珍品扱いをされて 

しまうのだ。天才はそれを芸術として、社会に認め 

られた形で現すからいいが、霊界といういかがわしいと 

思われがちな世界を夢物語をつづるように、ここまで 

書いたのは、それが彼の経験という心理事実だった 

からだろう。 

カントは彼と同時代の人で、すぐに遠隔地のテレパシー 

現象を実際に現地に調査したか、させたかしたらしい。 

20世紀までいろいろな作家や芸術に影響を与えたが、 

それは至極当然、というやつだろう。 

カントは「形而上学の夢によって解明された視霊者の夢」 

というのを書いて、スェーデンボルグを精神病者の夢と 

したらしいが、その経緯はまだ読んでいない。この著書は 

重要で、ここから理性批判の3部作への幕開けになる 

からだ。だから、純粋理性批判は特に、「形而上学の夢に 

よって解明された視霊者の夢」に深く関連しているはず 

である。 

僕の立場ははっきりとは、まだ決まっているわけでは 

ないが、カントに近い。書き始めれば、しっかりしてくる 

だろう。それによって、前に書いた「あの世」についての 

意見をまた蒸し返すだろう。 改めて思えば、幽霊に 

ついても、あの世についてもその意見で矛盾を見出せ

ない。スェーデンボルグが見た事実を、カントは否定した。 

僕は、その事実を認めながらも、それが真実ではない 

という仮説を述べるつもりだ。カントと同じ方向だが、 

拠って立つところが、少し違うだけだ。  要は幻惑は 

夢だが、夢を見たのは事実だ、ということだ。その塩梅

がうまく説明できなければならない。どういう秘密や真実 

がそこに潜んでいたか、云々である。 

7月の中旬以降にならないと、余裕がないから、そこら 

辺りから始まるか? 



事実と向き合うのは難しい。夢を見ていれば、現実は 

考慮しないものだ。恋人に夢中なら、家族の冷静な 

意見はまったく耳に入らない。聞く耳持たない、という 

やつなのだが、恋に恋する時もあるし、そういう憧れに 

弱い時期もある。そこに理想を見出しているのだから、 

認めるべきも、そうは見えない。自分の意識に入って 

来ないからだ。どんな事実も、自分の憧れに都合がいい 

ように解釈する。抵抗が挟まれば、余計にそれを信じ 

ようとする気持ちが強まる。それも社会体験の一部なの 

だろうが、’夢’も正しい、’夢破れ’、も正しい。そして、 

夢破れ現実を知るは、正しくもあるが正しくもない。溺れる 

ほどでは何事も行きすぎだということだが、その程よい 

加減が決まっているのでもないから、気持ちは突っ走り 

たいし、理知は熟していれば止めようとする、その葛藤が 

そのまま、いかに事実に向き合うかの難しさを示している。 

僕らは気持ちに任してしまいたいし、理知の正しさを信じ 

ようとするが、本当の処は、そのどちらでもない。 

皆が同じ天秤秤を心に備えているのではないからだ。 

天秤秤は千差万別、好き嫌いの激しさから、正否の 

判断の多様さからそれらの絡み合いの仕様から

異なっているから、相性というなんだかわからない、 

気の合う、合わないという理解と誤解の隙間に嵌って 

しまうことにもなる。どちらかではない、理解の部分と 

誤解の部分がごちゃ混ぜになっているのが、ふつーの 

現象だ。僕らはそういう風にできているから、そういう風に 

生きている。理屈に合っている、好きも嫌いも多様に、 

万華鏡を覗くように、景色が無限に変化するわけだ。 

それが一面、自由さを楽しむことでもある。 

そうすると、わけがわからなくなってくる、それこそが 

もともとわかることができないものに近づいたこと。 

なぜなら、’自分’もその一つだから。その’自分’も 

昨日までの自分は死んだ、新しく復活する、とかの 

台詞を言うことがある。いつの自分が本当の自分だ、 

というのはない。小学生も、大学生の頃も、あれも 

これも自分だと考え始めたら、もう考える使い方を  

逸している。言葉の中で迷うだけだ。 



自分、 今、 そこにいるじゃん。 


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