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明るい記憶の自分と檻に入った隷属類の自分 [自分]

人生、という言葉  

そこに横たわる 困難というのは  

それだけで  詩的だ  

それに 立ち向かう、という シチュエイション 

思うだけで   意気が 上がる  

よくぞ  答えてくれた、 と  

僕の  ストーリーに  必要だったもの  

体が  ボロボロに なる、  という  想定は  

実際に  来てみると  

どうしようもなく  感じる  

大したことで  なくても  

重たいのは   体だ  



ちょっと 立ち止まって  

僕は なんだったのか、と  

過去という  慰労碑を  前にしてみる  

思えば、  戦うことではなく  

闘える 自分であること、  それが 

よかったのだ 

自分は ここで 終わりじゃない  

まだ 進むべき  景色がある  

その 原色のような 光景、  それが 

見えるのだ  

その時、  肩が 外れてしまうように  

なにかが  爆発している  

それが  無駄とか、  バカげたとか、  

たぶん  そういうものでも  かまわないのだ  

食いちぎれそうもない  縄を  

食いちぎるのでも  いいのだ  

なにかすれば  それは  

Nothing  ではない  

僕らが  方向に  勘違いしなければ  

それを  いつでも  完遂させることは   できる  

それが  十年前は 簡単なことだった  

そういうことでも いい  

今 なにができるかが   大事だ  

人それぞれで  23歳で 平均 筋肉は  

衰えを 開始する  というが、 

僕は 27歳まで  自分が死ぬとは  

考えられなかった  

だから  インドへ行ってみた  

インドという  大陸の一部を  

ひっくり返せると  思っていた  

避暑地は  雨で   ホテルは ひどかった 

カーテンは風に  あおられ  

破れた窓から  雨が 入ってきていた  

ひどい 下痢に  憔悴しきった体で  

ベッドに 横たえながら  

初めて、  死を思った  

自分が  死ぬかもしれないという  

翌朝を  迎えられない  気持ちに  

沈んだ  

誰一人  知る者のいない  異国の地で  

僕の 骨は  どこへ行くのだろう  

ガンジスは 遠い  

誰が  焼いてくれるのだろう?  

不安は  小さいものだったが  

それより  寒く  冷たい  部屋だった  

いつ 寝つかれたのか、  朝に  

眼を  覚ますと  日の光が窓から  差し込んでいた  

両親と  すき焼きを食べている 夢を見ていた  

こんな 状況でも  

親は  親なんだ、 と  そう思った  

不可能なんて  なにもなかった  

だから、  負けるとは  思っていなかった  

インドを 理解するために  多くのことが  

不勉強なままだ、  そのまま 来てしまった  

その想いが  強かった  

それは やがて  日本へと開かれる 呼吸だと  

その時は   知らなかった  

半世紀も  経ってみなければ  わからないことだった  

することが  あり、  

それに  掴まらない  

生活は  目的に変えられる ものではない  

ライフワークが  なんだと  言うんだろう?  

そのために  必死で頑張るというのが  

僕には  わからない  

今、 生活は  ここにあるじゃ ないか  

生きることは  目的を 果たすためじゃない  

読書も  ブログも   仕事も  

二義的、という 衣装をかぶっている  

本質は  あまりに 単純で  

僕らの 知性は  その単純さに  耐えられない  

退屈してしまう  

必要なことだけを しなさいと 言われても  

それだけでは  足りなくなってしまう  

どうして  必要以上に  僕らは 食べるんだろう  

どうして  余分に  夢を拡大させようと  するんだろう  

自分の夢を  叶えるのに  

イルカの ノイローゼを  必要と するんだろう

チンパンジーの  ヒステリーを  引き起こすのだろう  

飼育員は  動物の  高度のストレスに  

気づいていない  人間とのやりとりに  長けた  

高度の 感受性に  養われて 

自分たちの飼育に  安心してしまっている

僕は  最近、  動物園へ行って  

彼らの ストレスに  懲りてしまった  

もう  行かないだろう  子供と一緒でなければ  

彼らは  僕だから  訴えたかったのか?  

わからない  あの厩舎に 戻ってからの  

(なぜ 観客から 隠れて  厩舎に行ったのか)

異常な 叫び声、  連れの子も  

キーッ キーッ、  鳴いていた

見つめなければ よかった、  

行かなければ よかった  

同情など  していなかった  

君たちは  どうして ここに いるんだ?  

どこから  連れてこられたんだ?

伝わったとしたら、  そういうメッセージ、だったろう  

彼らは  観客に  演じて表情を  見せることを  

飼育員とともに  学ぶのだ  

そういうことは  すぐに学んでしまう  

牛や 馬は いい  

人間との長い 共同作業が あったから  

その収穫の喜びを  共にすることができたから  

動物園の  見世物は  どんな喜びがあるだろう?  

犬のように  人間に合わせること自体を  

喜べる種が  いたのだろうか?  

統合失調症の人は  おそらく、  

動物園には  行かないのだろう  

行かないのだろう、  その 檻が 怖くて  

動物に  感情論を  持ってくるのは  

やめようよ  

そんなのは  問題を  表面で  

扱って 終わってしまう  

可哀そうだ、じゃなくて  

彼らと  共に生きる道は  ないのかと

考えるのは  不可能なのだろうか?  

なぜ  僕らは  生き物を  心底、 

必要とする のだろう?  



真摯な問題 などない、 と思ってみる 

軽薄な 問題など  存在しない、と言ってみる  

さまざまな  レベルで  

さまざまな  問題が  浮かぶ  

泡に過ぎないものは  やがて  破れ、消える  

気を 塞ぐものは  やがて  症状を 発する 



コロナは 真摯な問題か? 

軽薄な問題とか、  陰謀論か? 

それを示すように  それに対応した  

年齢層や 職業意識が  自己保身を して  

それぞれに  分かれる  

それぞれが  恐れるものが  

それではないと したら?  

ということも  考えはしないだろう  

ほんとうの 問題は  どこに あるのか? 

個別に そのことに 当たっていては  

埒が 明かない  

本質に  僕らは  一つのことを  

ほんとうに  知らない  

死を  知らない  

わからないものを  真摯に 恐れる  

軽薄に  恐れ、 恐れないフリを する  

死を 恐れなかったら、  きっと  

スーパーマン だらけの  国が 出来上がる  

それは  きっと  困ることだろう 

社会は  無意識に  必然に  支配と隷属を  

必要とする  それは内部に  協調と和合を 

強制的に  含むのが 自然だ  

そういう結論は  危険だろうか?  

でも、 そういう面を  見つめ直す ことでしか  

この 閉鎖状態は  いずれ  

乗り切れないの ではないか?

そういう考えは  夢、 だろうか?  

あまりに 広げ過ぎた  見果てぬ 夢 だろうか? 

ハワイの 火山だったろうか  発見された 

微生物は  2000℃の中で  生きている  

数億年前に  5000℃の世界だった  

地球で  生きていた微生物が  生きていなくても  

合理的だろう、  なにしろ  

もうそんな環境は  残されていないから  

わずかにも  生き残っていない  

大きな 進化は 彼らが光合成で  

エネルギーを  作り出すことを  見つけたこと 

ここから  植物は  固まった陸へと 進出 

植物に  慈悲はない  

彼らには  毒も 薬もない  

生きるのに必要な  対応があった  

花はなぜ、 これほどに 美しいのか? 

色盲のように 暗い色で  統一されなかった  

この美しさだけで  人に  感動を  

与え続けることが できる  

この  累々とした 生物たちは  

何をして、 そのしたことで  どれだけのものを  

地球で  支えているのか?  

僕らは  都合よく  まだ知らない、それらに  

名前づけしただけで  

一体、 何を知っているのか?  

僕らは  捕食と 棲み分けしか  していないのか 

棲み分け という共存に  捕食が加わっているのか  

弱肉強食に  棲み分けの ゾーンがあるだけ 

なのか  

17年ゼミ という  素数に当たる年に生まれる  

セミたちは  その他の偶数年に 生まれるセミよりも  

捕食される 可能性が低いと、  知っている  

捕食者が生まれる年を、  素数のために  

避けているからだ  

素数とか、 セミが 知っているはずがない 

しかし、17年は  数える方法を  

体が  知っている   僕らは  

感心だけ  している  

1週間とか、  2週間くらいを 生きるために  

彼らは  17年を  土の中で  

だから  彼らに  生きる長さの  損得は  

ないだろうし、  生きる意味も 生きがいも  

ないだろう  

理由のために生きるのは  僕ら  だけなのだろうか?  

理由は  それほど  大事なものだろうか? 

そう考えて  うまくいく、だろうか?  

僕らは、  ああ、  なぜ 考える  



朝と  夜は  あるのだろうか?  

それは  太陽と 地球のそれぞれの  

回転運動から  起きる  光の祭典と 影  

朝があったら  それは 朝にはならない  

いつまでも 明るい昼間だろう  

夜がなければ、  夜が明けるのでなければ  

朝は  来ない  朝に ならない  

それは  光の加減の ことで  

いつまでも  マスコットのように  

形を 変えずに  ある朝は  ない  

僕らは  言葉の内容を  知っているからこそ  

その内容に  感動したりするが、 

化学記号に 感動する  化学者のように  

記号に  特別な感情は  持たない  


言葉は  呼び覚ます キーかもしれないが 

そこに あるものでは ない  

生き物では  ない、  鉱物では ない

だから  残るものではない  

人類の後に  誰が  それに興味を  

示すだろう?  

生き残った人間だけが  それを  認める  

それは  暗い  沈滞した記憶ではないだろう  

明るい記憶にするには  僕らが  

そこに  経験の標識を  立てなくては  

体と  心の  汗が 必要だ  

考えただけでは  記憶にならない、  

子孫へと  伝わる 明るい記憶に 

ならない  

迷う必要が ある 

いろいろ 思いめぐらす 必要がある  

考えるのは  最後だ  

相手の 気持ちになって  立場になって  

どういう行動が  必要か、 現実的な想像が  

必要になる  

あの時、  どうして  そうなったのか  

細かく  しっかり  思い出す必要が  ある  

自分の  見たこと  聴いたことを  

キャッチする  

そうしないと、  その場で  立ち止まってしまうことに  

なる、  そうなって しまう  



僕らは  困難を 発見しない  

困難の可能を  発見し、  または  作り出しさえ する  

困難には  突き当らない  

困難という 窒息空間の 中で  

そこで  どこから 崩すのか  見渡している  

もう  困難が  分解されるのを  予期している  

側には  窒息の鬼が いるのを 感じながら  

すでに  勝つことを  予期している  

そこに  困難の 喜びがある 

それが  金字塔に 見える  



こういう  なにもかもが  

これからの  物語に  感じられる  

微生物の 記憶までは  たどり着けないだろう  

けれど、 

知の 発端の機会までは  ・・・  

ゴリラの 気持ちにまでは  ・・・  

オランウータン(森の人)の  気持ちに までは  ・・・  

夜空の 小さな光が  星だったと  

知った 最初の 驚きまでは  ・・・  



行ってみたい  

君を  活かして みたい  

遠い  僕だった、  遥かな 僕と     

話してみたい   ・・・



君よ、   

僕は  君に   

あこがれる  

僕は  なんだったのか

君は  僕を  知ってる?  ・・・  




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yokohama の 野毛山動物公園で、 檻にいれられた

自分。
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