SSブログ

無い時間と有る意識 [時間]

時間は流れる運動に感じる経過感と

いう亡霊のようなもので、その意味

では錯覚なので、実際に実在して

いるものではないと、以前書いた。

そこらの事情をもう少し書いて

みたい。


午後、ものごとを漠然と考えていて、

休止すると、壁の時計が眼に入る

ことがある。何気なく見ているから

秒針も目に入る。1秒して、動かない

のがわかる。この時驚いて、見直す

ので2秒ほどして目に力が入る。

これは気を取り直しているので、実際

は意識が眼に働くことを意味する。

すると、突然であるかのように秒針が

動き始め、それからはちゃんと1秒

ごとに動いている。

まず秒針が動かないと驚いたのは、

二つ理由があるようだ。一つは外界

の時間が止まったのではないか、と

いう超自然な現象ではないかと思う

こと。次は、ふつうに時計が止まった、

故障したのではないかと思うことで

僕はこの二つが複合して驚いている。

安心したのは、どちらの生活上の

不具合も避けられたからだ。

時間が止まった世界には未経験上、

不確かなことが多くあり、不安は

大きい。例えば、ふつうに息が

できるのかどうか、とか。

時計が故障したのなら、一体いつ

から止まったのか、そこから今は

そのために不祥事が生じていない

のか、確かめる必要があるが、それ

をしなくて済んだので、安心した

のだ。

この最初の経験では、秒針が動か

なかったのは、単純に眼の錯覚だと

思っていたが、2回、3回とくり

返すと、考えてみるようになった。

秒針を見た時に秒針がふつうに動い

ていたら、1秒だから、僕もすぐに

それを認めて、驚くことはなかった。

だから、1秒以上動かなかったから、

僕は秒針が動いていないのに、急に

気づいたのだ。その瞬間、僕の意識

は実際に時間が止まった世界を想像

してか、息の詰まったような世界を、

くり返すが、一瞬だけ感じた。それ

から驚いたのだ。この順番は間違い

ない。

だから、短い瞬間というものは、僕ら

の意識では1秒くらいは長くもなる、

ということだ。僕はそれを疑えない。


このことは僕らの生活を僕らはどう

意識しているか、を考えると、小さな

問題では済まなくなる。

僕らの生活は行動で実践で活性化さ

れている。思考ばかりでもそれが

単一の分野で将棋とか、プログラ

ミングとか、一定の範疇で集中でき

るものは、将棋やプログラム言語の

狭い範囲で直観で飛躍できるので、

充実して緊張感があるので楽しい。

ダンスでもそうだ。考えながらダンス

はできない。次のステップはこうで

次は、と考えながら踊ることはでき

ない。リズムと体の覚えたステップ

があって、僕らは緊張した充実を

覚えることができる。体にまかせて

踊っている、とも言える。

意識はそれらの指揮者であって、

個々の楽器の演奏家ではない。意識

を感じようとすると現れるのが自意識

であって、本来は意識の中に埋没し

てしまっている。

意識を変えるというのは、ほぼ意識

を新しい考えに沿わせる、という

ことで、意識自体は変化しない。

新しい考えの方針に生活を組み換え、

建設して活性化していくのを意味して

いる。これが僕らが普通に意味して

いる、自分を変える、ということだ。

リアル現実はつらいものが多い。例え

ば公共の職業の警察や消防、病院

などは公共社会生活に欠かせない

ものだが、どれも安易な気持ちや決心

では自分の職業とはしないだろう。

そうすると、安易な生活を夢見る

ことにして、実際には気づかなくても

そうしている。初めはいいが、年を

重ねてもその状態が続くと、僕らは

それが当たり前だと思えてくる。

それが注意力が衰え始める因だとは

思わない。

:地質年代を求める19世紀の学者は、

それがどれくらい古く遡るのか、知ら

なかった。たかだか数百万年くらい

だろうと。20世紀初めに放射年代

測定法が確立され、地球の地質年代

は45億年(現在では46億年)まで

遡るのがわかった:(「サピエンス

異変」より)

関東東北大震災3.11でも津波の高さが

10m以上に想定されていたのに、東電

はそこまでしなかった。それは常識的

にそんな津波が来るとは想像できな

かったからだ。地質年代の学者たちも

数百万年という年代さえ想像できな

かったから、それ以上の年代は空想

だと片付けたのだ。

この想像力のなさは現実への想像が

できていないことによる。自分の

今までの社会経験・書物などの過去

の情報のインプットからくる、自分の

中にまとまった狭義の世界に対して、

これは違うかも。という疑問を持た

ない注意力の欠如からきている。

よく言われる「危機感の欠如」という

ものは、この常識に囚われた僕らの

小さな自分世界から年齢を重ねるたび

に平均でだが、75歳くらいまで年々

自己更新をしてこなかった報いとして

現れる。

無視すればそれで済んでしまうから、

それは晩年に押し寄せる。認知症に

なるのは、不健全な環境と体の怠惰

に対して、ある程度健康な精神の

自己防衛だと言える。あとは年取っ

たら、歳取ったなりに、平和に生きる

のがいい。

それまでは僕らは危機意識を持つこと

で精神を活性化して、その都度目的を

見出し、目的を変更しながら、活動

することで健全な精神を更新すること

ができる。

考えると面倒なのだが、僕らの大きな

意識は僕らが気にする必要はないこと

だ。僕らがそれを表面では感じないに

しても、無意識にでもわかっていれば、

それは人生の方向を作ってくれる。

それも自分が過去のいつかの日に考え

たことだろうが、今の自分に合わせて

いろいろ組み直されたにしても、基本

は自己だから変わらないだろう。

自己が自意識の自分をコントロール

するようなら、人生は time goes by

で進む。

リアル現実に気づくためには、時折、

消防士のように危機に身を置いて

想像したり、実際に飛び込んでみる

必要があるのだろう。それが注意力を

養い、危機感を育てる。考える時間は

本来、ない。準備された計画とその

行動が実行されることが望まれる。



僕は好奇心が深く強く、手を広すぎ

て、途方に暮れることばかり。(笑)


 秋深し なにもしないが好きなので

  することは何かと 夜々は暮れゆく


nice!(13)  コメント(0) 

時間がないから美しい [時間]

僕らの人生の瞬間というのは、言われ

なければ、また指摘されなければ、

そのまま過ぎてしまう。

帰って来ない。

それは知っているつもりだが、わかる頃

には、それは夢だったとして、同じように

過ぎてしまう風物詩だ。

夏の風物詩は花火だから、それで話すと、

花火は一瞬のあでやかさで消えてしまう

から、何度も繰り返すように何発も上げる。

これが僕らの時間に引かれたジレンマだ。

時間を有効に使おうというのは、僕らの

生活を秒で区切って、その1秒に価値を

高めようとする行為になる。

価値はそれが希少で特別だから生まれ

るもので、平板なものに価値はない、という

のが僕らの発想で、もう常識だ。

常識はほぼ僕らの錯覚を集中させたもの

で、それらが僕らの規範になって、それに

知らず縛られるという意味では先入観とも

言えるものだ。

となれば、それらが喧々諤々となれば、

誤解が生じやすいのも、頷けるし、気が

つきにくいのも、よくあることだ。


少し、体調を崩すと、その常識が新聞紙を

バタバタ広げて音を立てるように、襲って

来る。こうじゃないか、ああでもあるんだぞ、

ちゃんと見識を示さなきゃだめだ、という

具合に、耳元に押し寄せてくる。

大した不調でもないのに、普段からは慣れ

ていないので、弱気な言動が気になり、そこ

に気を寄せる。

ああ、もう死ぬんじゃないか。そう考え

ると、けだるいつらさが幾分か、和らぐ

のではないか、とでも思うのだろうか。

まだ死なないとわかっているから、

気が楽になるのじゃないか、と自分を

慰めるつもりなのだろうか。

世の中を受け止められなくなると、それ

らが複雑に感じられる。その複雑さ

から来る神経への攻撃を和らげたく

なる。昨日まで感じていた世の中の

単純さというのは、何だったのだろうか。

要は僕が多少、疲弊して、寝不足から

体力を消耗、世間でいう夏バテ状態

だからだろう。元気であれば、内面の

バランスも取れていれば、僕はなんでも

単純に感じて、なんでも簡単そうだと

考えてしまう。実際の手順を何千段階

でも現実に置いていけば済むこと

だからだ。

今はそれができない。自分に構うだけで

手一杯になる。複雑さも増えたように

見えるし、原点だった面倒さ・苦しさ、

それを楽しんでしまうということができ

ない。以前は、こういう時は書けない

のがわかっているとして、書かなかった。

書かない、というそれができた。

それは自分の鉄則を守ることだったから。

でも、今は状況はずいぶんと変わった

ようだ。

僕は頭の切り替えはできるが、心全体

で切り替えるのは得意ではない。だから、

頭だけ進みがちになるのだが、体に

覚え込ませる伝統工芸のようなもの

には漸進で進むしかない。早くこの

心と体の複合連合なアンバランス状態

に慣れたいと思うが、残念ながら、

寝不足がたたって、半徹夜状態が

1週間以上は続いて、調整に苦しん

でいる。夏休みのつもりで、16日まで

体調調整休暇にしようと思う。



ベートーヴェンの田園を聴く。

優しいピアノ曲では、弱くて心を掴んで

くれないが、こういう時にベートーヴェン

を聴くと、彼のしっかりした心根が伝わる。

弱った体を補完する作用があるのだろう。

そうすると、統合失調症の人たちにドラマ

の相棒が人気があるのは、彼らに不足

する知に関わるものを、ドラマの推理が

彼らをなにか補完するのだろうか、と

考える。そう言えば、相棒は3,4回しか

見たことがないが、きれいな論理では

なく、感情的な推測に少し、論理性が

加わったという推理の構成だったように

思う。確かなことはわからないが、糸口

としては面白いかもしれない。

僕が見たくなくなるのだから、謎の推理

が際立っているのではないことは、確か

だろう。

推理小説で古今東西、世界を見回しても

完全な小説はひとつもない、と言っていい。

論理的に完全になるように仕組まれて

いるので、本格ものでもそこはしみじみ

読み込むと、現実的ではない展開などの

場面を発見する。面白いというのは奇想

天外な展開で、それがきちんとした論理性

で読み解かれることを前提としている。

それが読者の期待だからだ。そして、

それこそ矛盾のかたまりを解くことに

他ならない。だから、工夫と手品の

演出が必要で、それが筆者・作家の

腕の見せ所となる。

現実の事件はベタでそれが偶然が

重なって、奇怪な事件に見える、不思議

に動機がかくされたり、例えば完全犯罪

に見える状況を作り出す。

ドストエフスキーの「罪と罰」も読んでいて

少しも推理小説には感じないが、よく

全体を思い出すと、推理仕立てにして

推理小説にも変化させて書くことができる、

とわかる。刑務所にいたことがあるので、

推理は子供だましくらいにしか思って

いなかったのかもしれない。犯罪を扱った

小説は多い。

坂口安吾(「堕落論」で戦後名を売った

作家)が夏目漱石の小説で、出だしが

まったく推理小説だが、すぐに文学に

変る。ドストエフスキーではそういうこと

がないから、ドストのほうが格が上だ、

みたいなことを言っていたが、一理

あるが、ドストエフスキーに推理小説

は書く気がないから、そこは比較して

も比較にならないだろう。



修善寺の大患で漱石は一度死んでいる。

医者もそう言う。ドストも処刑台にまで

引っ張り出されて、死刑執行の直前で

中止を告げられて、一度は死を覚悟して

いる。

ふたりに共有したものは、はっきりしない

だろうが、彼らがはっきり意識したものは

はっきりしている。

生きてしまったことだ。ほぼ死から復活

したことだ。そこからは、自分はこれから

どう生きるかが、命題のように提示される。

漱石には正岡子規との青春のつながりが

あって、その子規の死の事情があるの

だが、横道なので、入らない。

死を目の前にすると、自然なことが起こる。

それは時間が死ぬことだ。そして、その

概念は死ぬだろうが、代わりに本物の死が

離れられなくなる。だから、頭は冷静でも、

必至な生存本能が働く。時間はそれまで

の高級な浮世離れの余暇だったと気づか

される。読書の時間も、恋人との時間も、

立身出世の時間も、それは実際は

その人の人生には直接には結びついて

いないと、無意識でもわかる。

なにかを決定的に一度選んでみると、

選ばなかったものがどういうものか、

また時には、選んだものに違和感を

覚えて、間違いな選択だったと気づく。

僕らは、しかし、人生という大局でそう

いう選択を迫られることが少ない。

だから、普通に考えて行動を起こせば

済むと思う。そのままで進めることが

いつまでもできるなら、それはそれで

構わなく、思うが、そう人生が一直線に

進んだ人いうのは、まだ人類史上いない

だろう。僕らは大なり小なり、すべての

悲惨さと苦しみにどこかで触れ合う。

そこから人生は始まるのだろうが、そこ

で諦めてしまう人も多いのだろう。

それらはいつもくり返されていることだ。

時間を失くすことには、知られない価値

がある。僕らは楽しい時だけそれを実行

しているので、そうでない時にもその価値

があるのに気づくことはない。

それは我に帰るからだ。それは人間全体

な心身ではなくて、自分という枠に嵌めて

きた今の世間に合わせようとして、固めて

きたいずれ常識から外れ、古びてしまう

もの。自分に帰る。

脳にはこの潜望鏡からしか、外の世界が

見えない気がしているから、どの計器にも

しっかり時間という記録が管理されている。



もういいのかもしれない。見えない世界と

言っても、存在とかの絵空観念ではなく、

それと今どうつきあっているのかが、生活

であって、それを構築するにはデカルトの

ように、大いなる父の遺産を受け継いだり、

キャベンディッシュのように、やはり、遺産

を受け継いだり、生活費の基盤が必要なの

かもしれない。



疲れて、締められない。風邪薬でここまで

来たのだろうが、ともかく、発熱しないうちに

夏休みにしよう。

あと1篇、書きかけがある。では、台風を

出迎えようか。

(<美しい>までは、書けなかった。それは

薬や妄想じみた想像の所為ではない)
nice!(11)  コメント(0) 

*外1.=時間の概念・アウグスティヌスの時間* [時間]

前回は、意味についての発見において、その  

見解だった。結果だけなので、その在り方に  

ついて書いて行かないと、その広がりの影響  

という意味合いが浮かんでこない。すぐそれに  

移ってもいいのだが、「時間」について、あまり 

に先延ばしになり、この秋に手を付けるつもり  

が秋も深まってしまった。それで、続きは一旦  

置いて、時間の概念の事項を始めようと思う。  

ようやっとの感があるが、しかし、それも番外  

編からである。  


今回は中心の題材があり、それは「告白」・  

アウグスティヌス著、である。  

アウグスティヌスは4世紀にアフリカの  

アルジェリアの辺りで生まれた。29歳の頃、  

ローマ帝国の首都であるローマに行く。弁論 

術の教師などをしたらしい。翌年には母の  

勧めでキリスト教徒となった。大著「神の国」  

を書いて、のちにカトリックから聖人となり、  

聖アウグスティヌスと呼ばれる。神学者・説教  

者であるが哲学的な見解も示した、個人主義  

的な古代思想もあり、宗教改革にも影響を  

与えるに及んだ、と。  

正教会では、そのためだろう、彼の見解を  

すべては認めていない。  


ここで取り上げるのは、「告白」から時間に  

関する一部であり、文庫本で36頁、全体の  

せいぜい14分の1である。  

何ら新しいことはないので、語られるのは、  

僕らが時間に対して抱いている一般的な  

概念である。なので、僕の見解がここには  

現れないかもしれない。  

それは第十一巻から始まるが、あるべくして、  

神から話は始まる。第一章の題はすべてを  

知られる神に向かって、なぜわれわれは告白  

するのか、ーである。::  (第1章)

「一、主よ、永遠はあなたのものであるから、  

あなたはわたしがあなたに語ることを知られ  

ないのであるか。それともあなたは時間の  

うちにおこることを時間的に見られるので  

あるか。・・・・」 :::

という具合で、神との対話を想定して、神に  

語る形式で書かれている。が、独り言である。  

神は対話にひと言も参加しない。どこかに  

いるの?  

アウグスティヌスははっきりと、初めに神ありき、  

の立場を信じて、そこから語る。:: (第9章)

「神よ、あなたはこのはじめにおいて天地を  

造られた。あなたの御言において、あなたの御子  

において、あなたの力において、あなたの知恵  

において、あなたの真理において、あなたの  

不思議な仕方ではたらいて造られた。だれが  

それを理解するであろうか。だれがそれを説明  

するであろうか。」 :::
 

1章から9章までほぼ神への賛美となる、天地  

創造などへの讃嘆であり、われらは与えられた  

者である、の連呼である。  

だが、アウグスティヌスは正しい見解を示す。  

<誰がそれを理解するであろうか>それは  

神の行いがその通りであったとしても、また  

正しくなく、デタラメな信仰からであったとしても、

無からの創造ではなかったとしても、そういう  

事柄が一度に起こったことであるなら、それが  

理解し得る事柄になることは想像できない、  

その意味で<誰がそれを理解するであろうか>  

という見解は間違いない評価だ。彼自身は  

そこに重きを置いていないだろうが。  

僕が最も気になったのは第10章で、それぞれ  

どの章も1頁で短いが、その最後で ::

「神の意志は神の本質そのものに属している。  

もしも神の本質のうちに以前存在しなかった  

あるものがおこったなら、その本質は真実に  

永遠であるということはできない。しかしもし  

被造物を存在させようとする神の意志が 

永遠であったなら、なぜ被造物も永遠で  

なかったのであろうか。」 ::: (第10章)  

<あるものがおこったなら>という例えは  

想定することができない。それでは彼の言う  

神か、それに近いような存在・それが無機質  

な偶然であっても、他に神に替わるものが  

存在していたことになる。アウグスティヌスは  

神を少なくとも、一人称として考えていること

になる。旧約聖書に現れた姿をそのまま  

信じたのだろう。彼はそこについてはすでに  

疑っていないから、神は初めから、彼の中の  

一等席に置かれたのだろう。  

<神の意志が永遠であったなら、なぜ被造物 

も永遠でなかったのであろうか>というのは、  

われわれも永遠の存在であるという、反語の  

言葉だったのか。それが気になる。  

なぜなら、このテーマはその答えが得られず、 

先に進むと、時間の前に時間はあったのか、  

という神の時間の創造の問題にすり替えられ  

てしまって、答えは返ってこないからである。  

永遠の存在なら、なぜわれわれは時間に  

囚われるのか、そこがわかれば、永遠を回復  

できるのかという問題が解決に向かって明確  

になるからである。  

これだから、読書は嫌なのだ。疑問が出ても  

その著者は過去の人だから、メールとか、訪ね  

て行って聴くわけにいかない。ストレス・不満が  

少しずつ溜まってゆく。そういうものを無視して、  

先に進む。(彼がわざとそうした可能性もある。  

そうした可能性は1分以上考えるべきでは  

ない。直感に従って、問題に応じてその範囲を  

枠取ってしまい、縮める。それでないと、なん  

でも世間の概念を認めることになってしまい、  

収支がつかないとノイローゼになるか、収支  

がついたらついたで何でも知っている気に  

なる無知になってしまうか、碌なことはない。

そういう人は増えるか、増えていくだろう。  

何が基本か、基礎かということを外して、 

小さなバラけた要素を中心にして、その 

ためにとか、その人たちのためにとかで、  

考えるのが’自由で、新しさだ’と思うのが  

流行るからだ。(もう流行ってる?) 

考える自由は、考える問題に適応して、  

考える制限をどう適応して自分に与える  

かがポイントにあるだろう。)  

:: (第14章)  

「わたしたちが日常の談話において、時間 

ほどわたしたちの身に近い熟知されたもの  

として、語るものがあるであろうか。そして  

わたしたちは時間について語るとき、それ  

を理解しているのであり、また、他人が時間  

について語るのを聞くときにもそれを理解  

している。それでは、時間とはなんであるか。  

だれもわたしに問わなければ、わたしは  

知っている。しかし、だれか問うものに説明  

しようとすると、わたしは知らないのである。」 :::

アウグスティヌスも持って回った言い方をする。  

ソクラテスをひっくり返したように、あなたは  

知らないという指摘を、わたしは知らない、  

(あなたも知らないでしょ?)という言い方で  

する。  ― 続きがある。  

「・・・次のことを知っているということができる。  

(略)過去はもはや存在せず、未来はまだ  

存在しないのであるから、どのようにして  

存在するのであろうか。また、現在もつねに  

現在であって、過去に移りゆかないなら、  

もはや時間ではなくして永遠であるだろう。  

それゆえ、現在はただ過去に移りゆくこと  

によってのみ時間であるなら、わたしたち  

はどうしてそれの存在する原因がそれの  

存在しないことにあるものを存在すると  

いうことができるであろうか。すなわち時間  

はただそれが存在しなくなるというゆえに  

のみ存在するといって間違いないのでは  

ないだろうか。」 :::

問題ないと思うが、論理に慣れないと、訳  

がわからないこともある。別約すると、  

過去は存在しないから時間のものである。  

現在は存在しているが過去になることに  

よって、存在しなくなる。なので、時間は  

現在が存在しなくなることで、過去や未来  

になるのであるから、それら存在しない  

ものと一緒であるということで、存在しなく  

なることで存在している。で、時間は存在  

しないことで存在する。(どこに?)

― ということだが、かえってわかんない  

か。(?)  

:: (第15章) 

「人間の魂よ、わたしたちは現在の時間が

長くありうるかどうかを考察してみよう。(略)」 

10.19-20

「わたしたちはこの一日というものを検査して  

みよう。一日も全体として現在ではないから  

である。」 :::

これを24時間で区切って、さらに「もっとも  

微小な瞬間の部分にさえ分たれることの  

できないような時間が考えられるなら、その  

ような時間こそ現在とよばれることができる  

のであろうが、しかし、それは大急ぎで未来  

から過去に飛び移るのであるから、束の間  

も伸びていることができない。もし少しでも  

伸びているなら、それは過去と未来に分た  

れるであろう。しかし、現在はどんな広がりも  

どんな長さももってはいない。(略)

しかし、またそれがまだ存在しない未来から、  

すでに存在しはじめて現在となる ― 長くある  

ところのものが存在するようになる ― ときで  

あるとするなら、現在はすでに上に述べた  

ように、長くあることはできないと叫ぶので  

ある。」 :::

何が言えたかというと、過去、現在、未来を  

物質的な存在のことからではなく、観念的な  

存在として、その長さに言及したことである。  

アウグスティヌスは存在にこだわる。次の  

第十六章では、::

「だれがすでに存在しない過去や、まだ存在  

しない未来を測ることができるであろうか。  

もしもそれらを測ることができるというひとが  

あるなら、そのひとは存在しないものを測る 

と主張しなければならぬであろう。それゆえ、  

時間は過ぎ去っているとき知覚され測られる  

ことができるが、しかし、過ぎ去ってしまった  

ときにはもはや存在しないのであるから、  

知覚されることも測られることもできないの  

である。」 :::  

過去も未来も実在のものとして、存在論から  

語られる。存在しなければ知覚されないと  

論は進むが、当たり前に過去は記憶として  

知覚されるので、次にその修正に入る。  

第十七章 ::  

「(略)もしも未来のものがまだ存在しないなら、  

それらを予言したひとたちは、それらをどこで  

見たであろうか。(略)もしも心のうちでそれを  

認めるのでないなら、けっして真実を語ること  

がないであろう。もしも過去のものが存在しない  

なら、それはけっして認められることがないで

あろう。それゆえ、未来も過去もやはり存在  

するのである。」 :::  

なんて論旨だろう。結局、心(概念・記憶)に  

その存在を認めるのであるが、それは彼の  

厳然たる存在論を離れることを意味する。  

僕らの通常の感覚を持ってきているだけ。  

すり替えはこの先もまだ行われる。

第二十八章 ::

「(略)しかしまだ存在しない未来のものが 

減じたり、なくなったりするのであるか。(略) 

それはこのようなことをなす魂のうち三つの

ものが存在するからではなかろうか。 

すなわち、魂は期待し、知覚し、記憶する。 

(略)それゆえ、存在しない未来の時間が  

長いのではなく、長い未来とは未来の長い  

期待であり、また存在しない過去が長いの

ではなく、長い過去とは、過去の長い記憶 

なのである。」 :::

つまり、それは現代の、また当時も僕らの  

通常の感覚であったろう、過去と未来への  

言及に終わる。ところが、それを魂の問題  

にして、その時間の「分散」を解くことはない。  

分散から統一へを神に帰して願うという形で  

終わってしまう。言い方悪いが、これ、’逃げ’  

だろう。  

第二十九章 ::  

「(略)主よ、あなたこそわたしの慰めであり、  

わたしの永遠の父である。しかるにわたしは、

その秩序を知らない時間のうちに飛散し、

わたしの思惟はわたしの魂の最後まで喧騒

をきわめる雑多によって切り裂かれている。

そしてついにわたしがあなたの愛の火に

よって浄化され、融解されてあなたのうちに

流れ込むまでそのような状態にあるので

ある。」 :::

「秩序を知らない時間」?、そんなものはない  

だろう。時間は立派な秩序だ。数字と共に、  

一日を、百年を測り、歴史をまとめている。  

アウグスティヌスはまず、神ありきの立場から  

論を始めている。最後に神に逃げ込むのは  

勝手だが、正しい論者の立場ではない。 

時間を論じたのは失敗だったのだろう。彼の  

持論は「告白」ならその他での、また「神の国」  

での神学論で発揮されているのではないか、 

と思う。アウグスティヌスを評価するのならば、  

そちらに譲ったほうがいいだろう。  

ともかく、時間について、以上で僕らが思う  

基本的なことは大部、紹介されていると思う。  

次はほんとうに「時間論」に人の本を紹介し  

ながら、時間のなにが問題なのか、疑問点  

なのか、そこを期待せずに明らかにできたら、  

いいと思う。 




nice!(17)  コメント(0) 

時間の分析 [時間]

今まで時間はない、存在しない、と言ってきたが、本気で 

論じて来なかった。新機軸が見えたことで、時間について 

きちんと話したほうがいい、と考えた。 その分析は心理 

分析も含めて総合的に話したいと思う。 


時間は僕らが昨日から今日へ、そして今日から明日へと 

流れるような方向性を持ったものと捉えている。または、 

そう感じている。まずはこの錯覚から説明する。 

例えば、インドだが、インドではカル、という単語があるが 

これは昨日を示す。また、明日という意味もある。ヒンディ 

語など語尾変化して時制を示すので、会話でもカルが 

昨日か明日かで使われても、混乱することはない。 

しかし、僕らには奇妙だ。過去と未来は断じて性質の 

異なるものと思っているから。 

カルは今日から1日離れた、という意味で使われるらしい。 

過去に1日離れると、昨日で、未来に1日離れると、明日、 

という具合だ。これはインド人は文化的に、哲学的に 

今日だけが存在していることを知っているからだろう。 

これはヨガなどの古来からの修行で体験的に得られる実感  

で時間が今日に集約されると、体感されるのだろう。 

だから、それを確信するにはブッダのように修行しなければ 

ならないのは、ちときつい。 

それを論で説明すると、まず数字から始めよう。数字は

もちろん、この世に実在しない。表象の記号や文字がある 

だけで、これが「1」だという物質はない。数字はその種類を 

1という目安でくくるもので、1にもう1を加えると、2とした。 

これは数字として決めたものだが、もともと、2は1と1のことで 

あって、3は1と1と1の集まりのことだ。ここで数字だけを見ると、 

1,2,3,4,5,6、・・・・・と連続する。すると、僕らはその連続を

運動のように感じる。永遠に連続する、という運動を感じるのだ。 

これがどんどん先に延びるという錯覚を生む。なぜ錯覚か? 

それは前記したように、3も4も、1の集まりであって、その数字を

並べたからといって、それは連続を示すものではない。 

1があって、次に1と1の集合があって、その次に1と1と1の集合

がある、それだけだ。それを数字に簡略化して1,2,3,4・・・と 

並べるから、運動が見えるだけで、それは連続したものではない。 

連続していないのが本質だと納得してもらえれば、話は速い。 

ものごとには動きがある。リンゴが引力で落ちるのも運動だし、 

太陽が空を渡るように見えるのも運動だ。

僕らはこの運動を見ることでそこでその運動の流れに時を感じる。 

すべての運動は位置を変えることで、ここからあそこへとその間に 

「時」を想定する。これが時の感覚で、時の存在を感じることで、 

それが一定の間隔で区切れないか、と考える。そして、なるべく 

振動数に不安定さがなく、正確さがある振動を数えることで 

秒、分、時、日を特定しようとした。

昔の人は太陽が地球の周りを回っている、と錯覚した。これは 

長い間のマインドコントロールで、毎日見ていたので初めは 

誰も疑わなかった。そして、星の観測データや地球の大きさが 

測れるようになってから、太陽が地球の周りを回っているのでは

星の運行が計測に合わないことがわかった。そこで地動説が

登場してくるのだが、僕らは毎日自分の眼で見たものだから

それを信じている。

そして、それを変えることには非常にかたくなだ。 

フランスでは17世紀にリシュリューが宰相になってから弾圧が 

始まり、魔女狩りが始まった。それとともに神や聖書を否定する 

者や書物は断罪された。ガリレオは75歳になっていたが、その 

時になっていきなり地動説を糾弾され、裁判にかけられた。 

裁判といっても地動説が正しいとかの判定はなく、ただそれが 

聖書に則っているかだけが、判定され、ガリレオはしぶしぶ

天動説を認めたらしい。75歳で牢獄生活には耐えられなかった

だろう。 

さて、振動によっていつも正しい間隔を保つように基準時計が 

発明されると、世界がそれに合わせて時計の針や数字の 

電光表示を合わせた。僕らは毎日、時刻を見る。朝起きてから 

夜寝るまで何回時刻を見たか、多すぎて数えることもしない  

だろう。そこでマインドコントロールに落ちて、時間は存在する 

という錯覚を起こして、そう思い込むのだ。そう、昔の人たちが 

太陽を毎朝見て、天動説を信じていたようなものだ。 

僕らが見るのは運動という動きが与える感覚であって、時間 

ではない。時間を見たものなど今まで誰もいない。僕らは 

時計の針が動くのを見ている。デジタル数字が切り替わるのを 

見ているだけだ。時間はいまだに僕らの大いなる錯覚だ。 


もしも、時の間というように、区切りのある時間が存在するなら、 

有名な「放たれた矢は届かない」という問題は解決しない。 

それは矢を放つと、その的までの距離の半分というのは、絶えず 

あるのだから、まず半分飛んで、次にそこから的までの半分の 

距離がある。そこまで飛ぶ。という具合に半分に区切りながら 

矢が飛ぶのなら、永遠に半分は存在するのだから、矢は的の 

前で止まったように見えて、永遠に的に届かないだろう、という 

もの。時間が実在したら、これは最もな理屈で、半分まで飛ぶ

時間が常に存在して、次から次へと半分が押し寄せて、矢は 

止まったように見える、処までいく、となるだろう。 

しかし、数字と同じように、時間は決めや約束事であるなら、

あるのは運動だけだから。現実と同じく、放たれた矢は的に 

当たる(届く)のである。この他にこの問題の解決策はある 

らしいが、気になる方は調べてみるといい。 

この時間ではなく、時という感覚は大事なものである。夜空に

月を眺めて、風情を味わう時には、この時という感覚が 

ふんだんに盛り込まれている。月を見ながら、その距離感を 

無意識に時でなぞっているからだ。それは特定できない 

神秘な時というもの、情緒と感覚がコラボしたものだろう。 


また逆に時間は運動を説明するのに役に立つ。大阪まで 

新幹線で1時間だとか、距離感を消費する感覚で捉える。 

相対性理論でも光速で進むと、時間が遅れる、と。それ 

は分子運動が遅くなるというのと、一緒で変わらない。 

時間ではなく、分裂のスピードやエントロピーの増大の 

問題だ。人間なら、成長速度が遅くなるという問題だ。

つまり、時間というものはないから、機械でこさえた間隔の

均一な時計で存在しないものをそれで測ったように見せ 

かけているのが時間の実態なのだ。 


だから、宇宙の空間の質が違えば、時間の解釈が変わって

くる。それは10億分の1mmという量子の世界でも同じで、 

宇宙とミクロの世界では同じ時間が流れることはなく、別々な

運動形態があるので、別々な時間が流れるだろう。

この論は完成ではない。僕らが望むと、将来、時間の質 

というものが発生する可能性があるからだ。そうすると、 

世界はまったく様相を変えてしまう。科学は新しい時間に 

迫られて、この世の解釈を全面で変えなくてはならなく 

なる。それは政治や経済、産業から僕らの生活を一変 

させてしまうものになる。

それは夢があることでもある。僕らの錯覚ではない

時間質が僕らのタイムマシンを完成させるからだ。 

まだ無理だが、僕はその夢で気分をよくしている。

もう空想とか、妄想と言ってもよい(笑)。



*また、ここに僕がアリのコロニ―に興味を持つ理由 

がある。それは人類のコロニーを変えてしまう問題だ 

からだ。
nice!(11)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。