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*外1.=時間の概念・アウグスティヌスの時間* [時間]

前回は、意味についての発見において、その  

見解だった。結果だけなので、その在り方に  

ついて書いて行かないと、その広がりの影響  

という意味合いが浮かんでこない。すぐそれに  

移ってもいいのだが、「時間」について、あまり 

に先延ばしになり、この秋に手を付けるつもり  

が秋も深まってしまった。それで、続きは一旦  

置いて、時間の概念の事項を始めようと思う。  

ようやっとの感があるが、しかし、それも番外  

編からである。  


今回は中心の題材があり、それは「告白」・  

アウグスティヌス著、である。  

アウグスティヌスは4世紀にアフリカの  

アルジェリアの辺りで生まれた。29歳の頃、  

ローマ帝国の首都であるローマに行く。弁論 

術の教師などをしたらしい。翌年には母の  

勧めでキリスト教徒となった。大著「神の国」  

を書いて、のちにカトリックから聖人となり、  

聖アウグスティヌスと呼ばれる。神学者・説教  

者であるが哲学的な見解も示した、個人主義  

的な古代思想もあり、宗教改革にも影響を  

与えるに及んだ、と。  

正教会では、そのためだろう、彼の見解を  

すべては認めていない。  


ここで取り上げるのは、「告白」から時間に  

関する一部であり、文庫本で36頁、全体の  

せいぜい14分の1である。  

何ら新しいことはないので、語られるのは、  

僕らが時間に対して抱いている一般的な  

概念である。なので、僕の見解がここには  

現れないかもしれない。  

それは第十一巻から始まるが、あるべくして、  

神から話は始まる。第一章の題はすべてを  

知られる神に向かって、なぜわれわれは告白  

するのか、ーである。::  (第1章)

「一、主よ、永遠はあなたのものであるから、  

あなたはわたしがあなたに語ることを知られ  

ないのであるか。それともあなたは時間の  

うちにおこることを時間的に見られるので  

あるか。・・・・」 :::

という具合で、神との対話を想定して、神に  

語る形式で書かれている。が、独り言である。  

神は対話にひと言も参加しない。どこかに  

いるの?  

アウグスティヌスははっきりと、初めに神ありき、  

の立場を信じて、そこから語る。:: (第9章)

「神よ、あなたはこのはじめにおいて天地を  

造られた。あなたの御言において、あなたの御子  

において、あなたの力において、あなたの知恵  

において、あなたの真理において、あなたの  

不思議な仕方ではたらいて造られた。だれが  

それを理解するであろうか。だれがそれを説明  

するであろうか。」 :::
 

1章から9章までほぼ神への賛美となる、天地  

創造などへの讃嘆であり、われらは与えられた  

者である、の連呼である。  

だが、アウグスティヌスは正しい見解を示す。  

<誰がそれを理解するであろうか>それは  

神の行いがその通りであったとしても、また  

正しくなく、デタラメな信仰からであったとしても、

無からの創造ではなかったとしても、そういう  

事柄が一度に起こったことであるなら、それが  

理解し得る事柄になることは想像できない、  

その意味で<誰がそれを理解するであろうか>  

という見解は間違いない評価だ。彼自身は  

そこに重きを置いていないだろうが。  

僕が最も気になったのは第10章で、それぞれ  

どの章も1頁で短いが、その最後で ::

「神の意志は神の本質そのものに属している。  

もしも神の本質のうちに以前存在しなかった  

あるものがおこったなら、その本質は真実に  

永遠であるということはできない。しかしもし  

被造物を存在させようとする神の意志が 

永遠であったなら、なぜ被造物も永遠で  

なかったのであろうか。」 ::: (第10章)  

<あるものがおこったなら>という例えは  

想定することができない。それでは彼の言う  

神か、それに近いような存在・それが無機質  

な偶然であっても、他に神に替わるものが  

存在していたことになる。アウグスティヌスは  

神を少なくとも、一人称として考えていること

になる。旧約聖書に現れた姿をそのまま  

信じたのだろう。彼はそこについてはすでに  

疑っていないから、神は初めから、彼の中の  

一等席に置かれたのだろう。  

<神の意志が永遠であったなら、なぜ被造物 

も永遠でなかったのであろうか>というのは、  

われわれも永遠の存在であるという、反語の  

言葉だったのか。それが気になる。  

なぜなら、このテーマはその答えが得られず、 

先に進むと、時間の前に時間はあったのか、  

という神の時間の創造の問題にすり替えられ  

てしまって、答えは返ってこないからである。  

永遠の存在なら、なぜわれわれは時間に  

囚われるのか、そこがわかれば、永遠を回復  

できるのかという問題が解決に向かって明確  

になるからである。  

これだから、読書は嫌なのだ。疑問が出ても  

その著者は過去の人だから、メールとか、訪ね  

て行って聴くわけにいかない。ストレス・不満が  

少しずつ溜まってゆく。そういうものを無視して、  

先に進む。(彼がわざとそうした可能性もある。  

そうした可能性は1分以上考えるべきでは  

ない。直感に従って、問題に応じてその範囲を  

枠取ってしまい、縮める。それでないと、なん  

でも世間の概念を認めることになってしまい、  

収支がつかないとノイローゼになるか、収支  

がついたらついたで何でも知っている気に  

なる無知になってしまうか、碌なことはない。

そういう人は増えるか、増えていくだろう。  

何が基本か、基礎かということを外して、 

小さなバラけた要素を中心にして、その 

ためにとか、その人たちのためにとかで、  

考えるのが’自由で、新しさだ’と思うのが  

流行るからだ。(もう流行ってる?) 

考える自由は、考える問題に適応して、  

考える制限をどう適応して自分に与える  

かがポイントにあるだろう。)  

:: (第14章)  

「わたしたちが日常の談話において、時間 

ほどわたしたちの身に近い熟知されたもの  

として、語るものがあるであろうか。そして  

わたしたちは時間について語るとき、それ  

を理解しているのであり、また、他人が時間  

について語るのを聞くときにもそれを理解  

している。それでは、時間とはなんであるか。  

だれもわたしに問わなければ、わたしは  

知っている。しかし、だれか問うものに説明  

しようとすると、わたしは知らないのである。」 :::

アウグスティヌスも持って回った言い方をする。  

ソクラテスをひっくり返したように、あなたは  

知らないという指摘を、わたしは知らない、  

(あなたも知らないでしょ?)という言い方で  

する。  ― 続きがある。  

「・・・次のことを知っているということができる。  

(略)過去はもはや存在せず、未来はまだ  

存在しないのであるから、どのようにして  

存在するのであろうか。また、現在もつねに  

現在であって、過去に移りゆかないなら、  

もはや時間ではなくして永遠であるだろう。  

それゆえ、現在はただ過去に移りゆくこと  

によってのみ時間であるなら、わたしたち  

はどうしてそれの存在する原因がそれの  

存在しないことにあるものを存在すると  

いうことができるであろうか。すなわち時間  

はただそれが存在しなくなるというゆえに  

のみ存在するといって間違いないのでは  

ないだろうか。」 :::

問題ないと思うが、論理に慣れないと、訳  

がわからないこともある。別約すると、  

過去は存在しないから時間のものである。  

現在は存在しているが過去になることに  

よって、存在しなくなる。なので、時間は  

現在が存在しなくなることで、過去や未来  

になるのであるから、それら存在しない  

ものと一緒であるということで、存在しなく  

なることで存在している。で、時間は存在  

しないことで存在する。(どこに?)

― ということだが、かえってわかんない  

か。(?)  

:: (第15章) 

「人間の魂よ、わたしたちは現在の時間が

長くありうるかどうかを考察してみよう。(略)」 

10.19-20

「わたしたちはこの一日というものを検査して  

みよう。一日も全体として現在ではないから  

である。」 :::

これを24時間で区切って、さらに「もっとも  

微小な瞬間の部分にさえ分たれることの  

できないような時間が考えられるなら、その  

ような時間こそ現在とよばれることができる  

のであろうが、しかし、それは大急ぎで未来  

から過去に飛び移るのであるから、束の間  

も伸びていることができない。もし少しでも  

伸びているなら、それは過去と未来に分た  

れるであろう。しかし、現在はどんな広がりも  

どんな長さももってはいない。(略)

しかし、またそれがまだ存在しない未来から、  

すでに存在しはじめて現在となる ― 長くある  

ところのものが存在するようになる ― ときで  

あるとするなら、現在はすでに上に述べた  

ように、長くあることはできないと叫ぶので  

ある。」 :::

何が言えたかというと、過去、現在、未来を  

物質的な存在のことからではなく、観念的な  

存在として、その長さに言及したことである。  

アウグスティヌスは存在にこだわる。次の  

第十六章では、::

「だれがすでに存在しない過去や、まだ存在  

しない未来を測ることができるであろうか。  

もしもそれらを測ることができるというひとが  

あるなら、そのひとは存在しないものを測る 

と主張しなければならぬであろう。それゆえ、  

時間は過ぎ去っているとき知覚され測られる  

ことができるが、しかし、過ぎ去ってしまった  

ときにはもはや存在しないのであるから、  

知覚されることも測られることもできないの  

である。」 :::  

過去も未来も実在のものとして、存在論から  

語られる。存在しなければ知覚されないと  

論は進むが、当たり前に過去は記憶として  

知覚されるので、次にその修正に入る。  

第十七章 ::  

「(略)もしも未来のものがまだ存在しないなら、  

それらを予言したひとたちは、それらをどこで  

見たであろうか。(略)もしも心のうちでそれを  

認めるのでないなら、けっして真実を語ること  

がないであろう。もしも過去のものが存在しない  

なら、それはけっして認められることがないで

あろう。それゆえ、未来も過去もやはり存在  

するのである。」 :::  

なんて論旨だろう。結局、心(概念・記憶)に  

その存在を認めるのであるが、それは彼の  

厳然たる存在論を離れることを意味する。  

僕らの通常の感覚を持ってきているだけ。  

すり替えはこの先もまだ行われる。

第二十八章 ::

「(略)しかしまだ存在しない未来のものが 

減じたり、なくなったりするのであるか。(略) 

それはこのようなことをなす魂のうち三つの

ものが存在するからではなかろうか。 

すなわち、魂は期待し、知覚し、記憶する。 

(略)それゆえ、存在しない未来の時間が  

長いのではなく、長い未来とは未来の長い  

期待であり、また存在しない過去が長いの

ではなく、長い過去とは、過去の長い記憶 

なのである。」 :::

つまり、それは現代の、また当時も僕らの  

通常の感覚であったろう、過去と未来への  

言及に終わる。ところが、それを魂の問題  

にして、その時間の「分散」を解くことはない。  

分散から統一へを神に帰して願うという形で  

終わってしまう。言い方悪いが、これ、’逃げ’  

だろう。  

第二十九章 ::  

「(略)主よ、あなたこそわたしの慰めであり、  

わたしの永遠の父である。しかるにわたしは、

その秩序を知らない時間のうちに飛散し、

わたしの思惟はわたしの魂の最後まで喧騒

をきわめる雑多によって切り裂かれている。

そしてついにわたしがあなたの愛の火に

よって浄化され、融解されてあなたのうちに

流れ込むまでそのような状態にあるので

ある。」 :::

「秩序を知らない時間」?、そんなものはない  

だろう。時間は立派な秩序だ。数字と共に、  

一日を、百年を測り、歴史をまとめている。  

アウグスティヌスはまず、神ありきの立場から  

論を始めている。最後に神に逃げ込むのは  

勝手だが、正しい論者の立場ではない。 

時間を論じたのは失敗だったのだろう。彼の  

持論は「告白」ならその他での、また「神の国」  

での神学論で発揮されているのではないか、 

と思う。アウグスティヌスを評価するのならば、  

そちらに譲ったほうがいいだろう。  

ともかく、時間について、以上で僕らが思う  

基本的なことは大部、紹介されていると思う。  

次はほんとうに「時間論」に人の本を紹介し  

ながら、時間のなにが問題なのか、疑問点  

なのか、そこを期待せずに明らかにできたら、  

いいと思う。 




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