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豊かさの自然なものの批准 [豊かさ]

ものというのは、未だに深まる

謎であるのをやめない。一方で

ことは半分以上は数理や論理、

架空の現実や事実をつくろうと

試みて、精確な偶像をつくるのに

成功しているように見える。

それに比べてものの感覚を批准

することは容易ではないのだろう、

条約ではない自然の法則じみた

条約を僕らは自然の臣下として

その可否を批准して同意を与えら

れないのだ。

それがわかりつつあるのは、こと

の真理という枠がすっきりした

透明の枠のように見切れる可能性が

見えてきたことに拠るようだ。

ものに善悪や上下関係、利益相反を

範箇条のように理(ことわり)と

して求める者はいないだろう。

花が美しいのには、花の罪がある

とは思わないのと同じだ。

物はあるものとしてある。これは

当たり前すぎて、疑問に思えない

ほどだが、そこには「なぜ存在は

存在するものとしてあるのか」とは

僕らの知性の前提として問えない

からだ。問う前から存在している。

僕らが存在しなければ、問いは存在

しないのならば、問いの根源は僕ら

の知性がそもそも現れたからに他

ならないだろう。

ここで言うのは、そもそも名づけら

れた数字や言葉の関係性ではない。

それは知性が名付け親なので、問いの

根源を問うまでもない。言われている

のはそもそも在るものがあることの

意味を問おうとして、それが前もって

問えないと意識されていることだ。

例えば、痛みは僕らの問いでは神経

の感覚器官を以って感じることが

答えになっているが、その器官を

解剖でもって取り出すことはできる

だろう。

しかし、それは痛みだろうか。

どうして体を傷つけられると、痛みが

伝わるのかは分かった気でいるが、

それがどうして「痛み」なのか、

痛いのは嫌だから、軽く「くすぐっ

たい」でもよかったのではないか。

僕らはそれを問わない。問えないと

意識の前提で承知しているからだ、

たとえ無自覚だとしても。


だから、ものがあることの根源と

しての、その前提というのは謎の

一言なのだ。僕らはその現象に

名前や数値をつけて、そのレッテル

から他のレッテルを比較して、その

間の様々な関係についてのルール

や法則を見出したと思っている。

光そのものとは何か。電磁波は

なにか。電気はそもそも何なのか。

それを答える科学者はいないし、

神秘家でもいないだろう。

肯定も否定もない。それをまず

認めなければ、僕らの存在も危うく

なるのだから。僕らは電磁波の投影

体のようなもので、完全に実体は

ないとしたら、僕らの心身・社会の

道徳もルールもあってもなくても

いいものになってしまう。

僕らは生き始めてから、考えてい

る訳で、前もって生きる世界を

規定して、条件をつけて、記憶

だけなくして生まれてきたので

はないだろう。

もしかして、親も選んで生まれ

てきたのだろうか。もしくは、それ

さえも選ばされて誕生しなければ

ならない事情があったのだろうか。

そこまではもう考える範囲を超え

ている。空想や架空の語りと同じに

陥ってしまう。

ただ、物の根源を尋ねたら、の話だ。



どうも僕はものの謎という虚に嵌って

しまい、もがいて自由になろうとし

ているようなのだ。濱田庄司の器が

すぐにいいと思い、それは益子に

行っても間違えなかった。そして、

人間国宝だと知り、陶芸家に毛は

生えていたくらいに思ったが、著書

の「無儘蔵」を読んで、同じ食欲

にたどり着き、共有した、と思った。

今はこのことに言及する人を発見

するに至っていないが、どこかに

はいるのでは、と思っている。


僕は思う。ものに至るのに、他の

感覚の道があるはずなのだ、と。

それさえ見つければ、比較の材料

になるので、分析が可能になるはず

なのだ。

そうは思っていても、このものの謎

というテーマの塊に出会ってからは、

今までの思考のテーマや思考の壁に

なるものがはっきり見えるようで、

知性の分野がまた別な視野から眺め

られそうだとも思うのだ。

その一部はすでに書いたが、さらに

その延長と拡大はすでに視野に入っ

ている。

海で泳いでいた者が、蟻地獄に

はまり、砂地に吸い込まれ、泳ぐ

ことができない状態で、かえって

海で泳ぐ、川で泳ぐのはどういう

ことなのか、はっきりするような

ものだ。感覚にも知的に頼れない。

頼らずに、思い切って、地獄に

飲まれるつもりで、その状態から

逃れようとしないことだ。

それを思い出した。これまでいくら

でもそういう窮地から覚悟しても、

忘れてしまうものだ。習慣で身に

つくというものではないからだろう。

冥界でバランスを得た者は死を以っ

て生きんとしなければならない、の

だと。



社会の生でバランスを得た者には、

またそれなりの生活法がある。

その意味では僕らは公平なのだろう。

生活習慣は後天的に就くものもある

だろうが、大きくは生まれた時から

始まっている。生まれてから意識し

ない間に身に入った習慣・習俗がある。

現代の僕らには平安時代のしあわせ

は貴族や庶民などそれぞれ違うだろう

が、似たような身分でもそれを同じよ

うに感じるのは、たぶん、できない

ことなのだろうと思う。

意識の格差というのはそれほどの

ものと認識しなければ、僕らは僕ら

を知ることはできないだろう。

たどれば、僕らは人間で、たどれば

僕らは動物で、それは生物か植物か

微生物か昆虫か、わからない時代も

あったのだろうか。もう「もの」

としか言えない時代も。

そして、こう言ってしまったから

にはいつのことか知らないが、それを

探索する時代が来るのかもしれない。

飛行機に挑戦した時、人々は空を

人間が飛べるはずがない、常識で

考えればわかる、と言っていた。

僕らはそれをやってしまう種族なの

だろう。

ものの謎は?

昔の人のように、否定的にならざる

を得ない、― のが今の心情だろう。

考えても詮無い。



そういう時にむなしさを覚え、思い

出すが、それを思いやれるのは情で、

悲しみだろう。十分な時間が経てば、

儚さについての過去の悲しみはせつ

なさを裏にして甘さが沁みる。

人によっては逆で、むなしさを裏に

してせつなさが沁みるのだろう、と

想像される。

僕にもそういう二人の心情の交歓が

行き交いするようになったようだ。

ここで思い出されるのは小林(秀雄)

の「本居宣長」だ。宣長は源氏物語

の芯を「もののあはれ」と看破した。

それは僕が日本人として感じてしま

う儚さという哀れ、ものの悲しみ

だろう。

この稿を書いて、1時間経ち、結び

ついて思い出したらしい。底辺の心情

はそこから離れるようなものではない

ようだ。

人間は豊かなものなのだ。






::

BGMはショパンのトスカーナ4Kー

春のワルツ、 と並走して書いた。



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