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瞬速で輝くもの [人生]

人生という言葉を使っても

おかしくはない年齢に達したが、

人生の厚みは感じるのみ、一向に

なにが人生なのか、ピンと来ない

生活の中にいる。

僕が属したり、その一部だと思う

もの、僕が人間なのだという、

そういう当然な見解さえ、遠い

ものに包まれている。

現実感のない雰囲気に惹かれる

ような、あいまいな自分の心質を

思う。


さらば  MY  LIFE  

(いい響きだと思う。

その響きをバックにして、僕の

生活は冴えようとしている。)


さらば  MY  LIFE  

それが 僕への  贈り物

この1秒を 捨てて

新しい 命を 育てたい

そうすると  僕らは 

翼を  見るのだろうか  

まぶしくて  輝きが

見えないように 


さらば という  闇に立てば 

光の世界が  よく 見える

祝福は  神でも  宗教でもない

僕らの  命だと  

輝きが  教える 


さらば  昨日の 自分  

さらば  昨日という  人生 

どう考えても

永遠が  あるのだとしたら  

昨日からも  

明日からも

今という 在り方から  

離れて 存在するのは  

できない  不可能だ 



嘘を言えば 

僕らは  生きるたびに  死ぬ

僕らは  死ぬことで  生き続ける 

それが  おかしく  聴こえるのは 

嘘だから 

それら  全体が  

生きることで  死ぬことだから 

区別しなくて  いいことまで  

区別して  考えなくて  いいのだ 



それは  原則というもの 

例えば、ルーシー・トーマス 

彼女の歌声も、歌も素晴らしい。

18歳というから、こういう人はよく

生まれる。これでシンガーソング

ライターだったら、天才級だろう。

しかし、顔は大人びていて、美人だが、

歌を聴いていて、歌は素晴らしいのに、

顔を見ていても、しあわせな気分に

なれない。そう感じる。不幸はまだ

来ていないようだが、となぜか影を

感じて。

18歳で人生を感じさせるというのは、

芸能人などでは特別ではない。そこに

きっちり運命が彩られるのは、劇的

だからだろう。そうでなければ、

永遠の居場所もない、となる。



僕らは信じるのも、信じないのも、なく、

すべて管理できるのだったら、選択は

見た目であり、もしそうだったら、そも

そも選択とかいう余裕など持たされて

いないだろう。初めからないからだ。

選択の自由というのは、僕らの知的な

架空世界の間での約束事と同じことだ。

それは現実を想像するのに役立つから

あるようなもので、僕らの基準を

変えてしまうと、動物のような

概念基準のない世界に生きることに

なる。でも、動物たちはそれで混乱

しているようには見えない。別な

基準があるからだ。

つまり、僕らの基準は人間としての

基準で、決してこの世で絶対のとか、

正しいとかのものではなく、多くの

あり得るものの、ほんの一部なのだ。

それでこそ、僕らは世界の永遠を

讃えることができる。それでこそ、

それは僕らを終わらせないだろう

からだ。



僕らは 終わらない

その中にいるから

存在という  命のなかに

永遠は  灯でも 

輝きでも  ないかもしれない 

想像を  超えて 

宇宙を  想定するような 

シーズンが あるだろう 

それだけで 

ああ

それだけで 

パラノイア・ガーデン でも 

銀河の花を  添えたくなる 

僕らの 精神は  

爆発して しまうだろう 

原子という  微小な粒子が 

原子爆弾の  威力に 

なり変わるようなもの 

それを  

僕らは  見ない  

そりゃ そうだ 

想像を超える という  

まさに “それ“ を

実体の自分の 体で 

味わってみないと  

何も  言えない  

それは  僕らが  楽に

昨日の自分を  超えてゆく 

ということだろう  

越えても  超えても

遅くて じれったいのが  わかる  

何百年走っても 線路の先が

続くのが 見えている 

そんな 列車に乗っていると 

したら?

そうなりたく はない  

そうかも  

そうだろうね  



だから  夜の星の 明かりで 

珈琲を 飲んだり 

パイプを  吹かすというのは

極上の 

しあわせ なんだ  

それを  演出し 最終結果だが 

いつでも  最終なのだ

そして  終わらない


僕は  つぶやいた  


さらば   僕 

人生は しあわせで 

できていた 

人生 なんて  

考えるだけ  無駄だ 

僕は 

動物に  なったのだろうか 

火星の 動物学者(女性)

のように








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夢を見ていた [気づき]

「夢を見ていた」この言葉が口から

出てきた。思わず言ってしまった。

ほんとうに気づいた時によくあることだ。

嗚咽した時も、誰が声をつまらせて

いるのか、自分とは知らなかった。



僕は夢の側に集中して居場所を確保

していた。そこから客観「的」立場で

現実を見て書いているつもりだった。

それは半分その通りだったが、半分で

自分が夢の側であるという実感が

なかった。そのことに真に気づいて

いたわけではなかった。

ブログの終りを少し向こうに感じ取って

から、しばらくしてから急にわかった。

僕が夢から降りてきたことで、そのこと

が決定的になった。

それは僕らは夢を見ている、ということ

が決定的だということだ。

自分がないとか、知が破壊されると

いうことは起こらないが、そういうこと

をリアルな想像上で体験するのは可能だ。

僕らはどう夢を見ても、いつかは現実に

戻される。

しかし、このことは言っても無駄だ。

僕らはそれを頭で考えるように受け取る

ことしかできない。現実に目覚めること

は到底できることではないからだ。

と言っても、何を言ってるのだ、これ

まで人間がして来た歴史を見れば、

現実に自然を改革して文化文明を築い

て来たし、これからもそれが続くに

違いない、と、反応・反論が返って

くるのは当然と思える。


だから、わかっていないのだ。

僕らは確かにそうして文化文明を構築

して、高度な社会を作り上げたと

教わっているが、それは一方的な見方

にしかならない。そして、偏った見方

であるばかりでなく、忘れて失った

ものを未だに見出すことはないし、

これからもするつもりがないと宣言

しているのも同じだと、まったく気づ

かず言っている。


これが頭の良し悪しの問題ではないと

はわかると思う。感受性の、また直観力

の問題でさえない。

僕らが非常に大事なことに気づくという

ことは、実はあまりない。それはあまり

に実生活に密着していて、子供の頃から

見慣れたり、概念化して気にしなくなっ

ていたり、ともかく頭で処理されていて、

言葉の裏に隠れてしまっている。時々

その一部が幻影のように顔を出すが、

すぐに打ち消されてしまう。気にしても、

とか、気のせいだ、で終わりだ。

気がつくというのは、そのままの言葉を

理解するのではなくて、それにまつわる

連鎖とその関係性がすべて理解され、

納得できるということだ。

通常の頭や情や感性の他に、それを

見ようという非常な勇気を必要とする。

お化けだと思ったら、怖くてまず

見ない。

その恐怖を打ち破るのは、言葉の

示すほうをそのまま見る、という

ことなのだが、ドラマでお芝居の

ようにベタな台詞で出てくるくらい

で、その現実を引き起こし、創るの

は並大抵ではないし、経験がない

から、これが何を指して言っている

ことか、経験しなかった人はわから

ないだろう。

それがそのまま、いまだに現実の中で

夢を見続けている状態だ、ということ

なのだ。  

僕の場合は位置が夢に居た。夢の場合

は現実が逆転するから、感覚では現実

でも、夢のその究極の夢がリアルな場、

というものになる。

そこに順応とか、同化とかは不可能な

ことだった。受け止めるだけで、侵入

させずに、その緊張状態に慣れるだけ

だった。それは唯一の生きる手段に

思えた。半世紀もそれをやって、この世

に足場を移し替えてから、実際にこれ

が限界だと悟ったのだろう。そうして

実装として夢から現実に(精神でだが)

乗り換えると、当然に心は現実になった。

心が夢にある時は、現実はそれほど

リアルではない。

「夢を見ていた」まるでお化け屋敷から

出てきて、外の空気はうまかった、という

具合にその違いが分かった。

僕が夢の側でよりリアルな夢を見ていた

ように、人間の僕らは現実で皆、リアル

な夢ではない、現実からの夢を見よう

としていて、そのつもりだという「皆、

夢を見ている」のが現実だった。


それが僕が「夢を見ていた」という言葉

の次に来る、確実な光景だった。

しかし、それを全面で決めつけるつもり

はない。現実はリアルな現実でしか動か

ない。僕らの営為や努力・情熱はそこに

活かされてはいる。それは限定された

部分のリアルな現実で、だ。

夢の世界からは、その全体が見えるから、

見通すのはまだ楽だ。そのゴタゴタの

中に入ってしまっては見えるものが見え

ない一面と見えないものが見えたりも

あるから。それくらいの優位だが、それ

で十分、自分が本当は何をしているの

かがわかる、時に手間取るが。

僕はまた死を肌身に理解したい。その

せつなさ・むなしさ・悲しさの苦しみが

恋しく、忘れられない。それは今、それ

が記憶になってしまいそうだということ。

せつなさは愛を生み、むなしさは恐怖に

打ち勝ち、悲しみは突き抜けると天国

で、まるで無敵だった。世界の隅々まで

俯瞰し、怖いものがない、というその

ものだった。

その代償は体力・気力・精神力・知力・

感性の“充実した集中“で生活に一瞬の

気も抜けないし、(理想として)抜か

なかったことだ。

それが無意識な夢と自意識の現実と

の往復のバランスという無意識の要求

なのだろう。

それがどうだったという感想が述べる

ことができない。あまりにめまぐる

しくて、ちゃんと把握できたものが

どれくらいあるのかも、見当がつか

ないからだ。

まさに夢の世界だ。

僕らは気づいていない、と言われて

素直にそう思う人もいないだろうし、

言われて気分がいいはずがない。

僕だってそう思うということだ。

僕は人に取り付いた鬼を見たという

女性を知っているが、彼女が見た

というのを未だに信じていない。

それが僕らの常識だ。

やたらと信じるよりも、それなりの

経験なりをした時には、それが真か

どうかわかるから、その時に判断す

ればいい。それまでは否定もせず、

信じる必要もない。

それが僕らの正しい常識の作法だが、

わかる人はそれを超えていることを

僕が言っていると、知っている。

それでいいのだ。すべからく、それ

ぞれの人に歴史があり、まず越え

なくてはならない問題が控えている。

前門の虎というのか、ご愁傷さまな

ことだ。



:::

この文は書かれてから、考えてみたが、

気まぐれな僕が、急にブログをなんの

前触れもなく止めてしまうこと、あるい

はどこかへでかけてしまうこと(海外

とか)もあるのを思うと、予備的に最期

の文章として、生前葬儀ではないが、

意識が明瞭な時の文として、残そうと

投稿することにした。余計な気もするが。

物事はなるようになる、それはなるよう

にしかならないと、同じことだから。


「夢を見ていた」=軽い、ショックだっ

た、自分の言葉が。

現実だった。


哀しい言葉を紡ぎ出そうとする自分

がいる。が、うまくいかない。まだ

攻撃的な自分の心が収まらない。

思い出や悲しみ。

それは目の前にある。あるのだが。

僕の強烈な自我は、底では負けない。

負けるくらいなら、自分を殺して、

微塵になるくらい抹殺したほうがよい、

と考えるのだ。これはどうしようも

ない変人だ。そういうふうに我を通さ

ないと、気分が悪くなるのだ。我慢も

覚えたが、最後の最後にはこの変人に

会わなければとなるなら、いささか

遠慮したくなる。

ならないだろうか、僕はなる。そう

いう自分とつきあって来た。彼もひとり

の人間であるなら、そういう人間が

ひとりいてもいいのではないか、と

思うのだ。


僕らはどうして生きるのか。それよりも、

どうしてこうまでして、そんなことで生か

されるのか、と考えてしまうのだ。

僕らは何に忠実に生きるのか。それが

美しいなにかであるなら、どうやって

生きるのかも美しいだろう。

街角で知っているポップでもかかると、

こんなたわ言はかき消されてしまう。

僕らはすぐにそうやって、人生という

列車を降りてしまう。

僕は別な列車を降りた。もう話した。

夢を見ていた、この声に僕の50年

があったと思うと、感慨では尽きない

ものをそこに見て、僕は、・・もう・・

語ることはない。

ここにいるのだが、 ・・・。

8.19


この記事から4か月近くが経った。

(つまり、投稿する機会を逃した)

新しく反省を書き加えることがある

のではないかと、思うのだが、

その時にそう感じた、という事実を

思い出すだけで、そういうことが

あったとしてもおかしくはないな、

と。それだけなのだ。

今日は満月だということだが、月の

大きな波を感じることもなく、ただ

背中をひねったのか、筋肉痛で痛い。

この先はやはり、別な記事になる。


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苦のない生活は不自由の方向 [必要苦]

なぜか仕事が増えてしまって、・・

年末へということと、車検が重なって

ということもある。

なんのことはない、雑用が増えたので

ある。それで一日の内にいかに茫洋と

していたか、またその時間が必要不可欠

なものかというのを味わうように知った。


散歩に出て、あまり人が歩かない場所に

行くので、拾い物が多い。先日も、亀

公園の上にある、極狭の公園を歩いたら、

うんこの匂い、だが、違う匂い。

銀杏がいっぱい落ちていた。公孫樹

の葉っぱに隠れて、拾ってみると、

とても拾いきれない。それでも30個

ほど拾って来た。以前、横浜港公園の

公孫樹並木でもギンナンが落ちていて、

拾って来たことがある。銀杏は好物だ。

子供は7個から15個の間で食べると、

中毒症状を起こすそうだ。大人は40個

かららしいが、慎重に10個まででやめた

ほうがいいと、書いてあった。

60個食べて病院へ行った人もいるとか。

確かに、それくらいなら好きなら食べて

しまいそうだ。



本がある。部屋部屋に大量に。

それは最近まで威圧を放っていたが、

僕への圧力を弱めたらしい。なにも

変らないからだ。もう僕の余命を

僕の読書量から推測しても、もう

全体の半分を読むのも疑念だ。それ

なのに、本を処分しながら、別に本

を求め、結局、買い増ししている。

計画性がないというのは別なことを

言っている。僕に読書については

計画など役に立ったことがない

からだ。

本を処分するのは、寝床に布団を敷く

場所を確保するために、本棚の本を

処理して寝床の本を収納整理しなく

てはいけない。その時、その都度これ

は後回しにされる本だから、処分して

も影響はないだろう、と考える。

それくらいか。あとは読みたい本が

いくらでも出てくるのだから、なる

べく購入しないように、するべくして

ならない時には、購入することに

なる。

いつもと同じだ。

平均して、数ページから10頁以上

読むと、考え込んでしまう。その書か

れていない部分に思考の方向が定まっ

て進んでしまうからだ。本の意向に

沿って進まずに、いつも僕の意向が

優先して、疑念を潰しながら読んで

いるからなのだろうか、よくそれを

考えたことはないが、本は途中で

途切れ、それを広げた思考を押し

考えるようだ。

言葉の性質というよりも、人間の

性質上だろう、結論を早めに言う

傾向があって、論拠や必要経過が

飛ばされている。そこが気になる

のだ。

それに対してあらゆる視点が勝手に

浮かびあがって来て、ひどくなって

茫然としている。自意識はそれを

手放して、あとは無意識な脳の

どこかか、他の組織の脳(?)に

まかせるのだろう。

それを気にしなくても、ある程度

まとまると、後日、勝手に出てくる

のでそういう独特な精神衝動を感じ

たら、パソコンの前に坐ればいい。



これができるというのは、単純に

楽しい。実に単純で「人生は楽しい」、

それがやって来て、それだけになり、

それだけにすればいい。

楽しい音楽を聴いて、そういう気分

になれば、同じことだろう。

この楽しいというのは、日常がうまく

いっていて、不安がないから楽しい

というものではない。今はそれが

できる。それが今、というものだ。

体の悩み、経済の悩み、この先の

不安はいつもあるのではないか、と

いう気がする。

それはそれ、という範疇の空間が

あるように、それと切り離せる精神

空間もある。その心の使い方とでも

いうのだろうか。日曜日に休みなのに

仕事のことばかり考えているのはおか

しいだろう?という感覚だ。

苦は消えない、苦として存在している

から。同居人に出て行ってもらえない

のだから、カーテンでも引いて、区域

内で楽しむ。

問題はバランスだろう。楽しいばかり

では感覚がゆるくなり狂い始める。

健康でありたいなら、楽しんだら、

それなりに苦を楽しむほどに、やって

みることだろう。苦も巻き込んで、

それに負けないガッツで見つめる。

あるべくして在る相手には勝てない。

どこまで一緒にやれるか、受け入れ

る必要はない、監視しながら、やれる

ところまでやるだけだ。

なにがよかったか、ということを

考える必要はない、とわかればかなり

苦と遊べるはずだ。ただし、体力も

気力も精神力もいるから、その内の

二つで自信がない人には、勧められ

ない。過ぎ去るまでなんとか耐える

ことだろう。

最初に一度それを克服して勝つことが

必要で、これは歯を食いしばっても

やり遂げると、後は全然ちがってくる。



僕は苦のない人生は歓迎できない。

人生は闘いだからだ。どんな意味でも

誰かを必要とし、必要とされるのが

醍醐味でもある。

それがたとえ、たった一人でも、僕ら

は自分と対峙して、そういう困難への

工夫を果たすようにできている。

僕らが知性を働かせる限り、ひとりに

なることはあり得ない。それは誰かを

頼りにしていることではない。

僕の経験では誰にも依存しないで、

ひとりでいい、これで死んでしまっ

てもかまわない、と思い切った時は、

必ず手が差し伸べられた。それは見え

ない手である時もあった。運命は測り

がたい、望みが絶たれたと覚悟した

時が、脱出できる時の寸前、その

手前だった。

それを何度も経験すると、中途半端

でなければ、実にその状況にまったく

希望とは矛盾した正確な喜ぶべき現象

が付随して起こるという、不思議を

見せられた。

僕はたぶん、ギリギリで自分への

不適応な対応を避けることができて、

自然な僕への道を歩いた。道が

あらかじめあるわけではないが、

歩いてみてそれがわかった。

無理をしないというのは、無茶を

しないということではない、そこに

戻るための無茶なら、乱暴だが、

それも一手段だった、そう思える

のである。そうしてみて、数十年

に十回も経験すると、それさえ心得

ていれば、人生で躓くことは怖くない

し、いくらでも無茶をしても大丈夫

だ、ということもわかった。

ふつうに真面目にやっていれば、人生

は続く。自分を越えたり、卑下したり

で自分の域を知らなくてそういうこと

に陥るのであるのならば、僕らは盲目

にも等しく、転落するのだ。

僕らは転落するようにはできていない。

だから、その境界線を試すことも必要

かもしれない、若いうちに。

苦はそのためにあるようにも見える。

初めはなにをやってもそれが現れる。

うまくいかない自転車乗りも倒れる

たびに倒れなくなるようなもの、苦に

慣れるに従って、そこのコツが掴めて

くるのだろう。

僕の気持ちはいつも分裂していた。

もう死ぬだろう、と諦めたが、それは

気持ちの上であって、行動は出口を

求めて、へこたれずに続けていた。

それは矛盾していたが、いつの間に

か身に着けたのだろう、気持ちと

勢いが分離しても、戦っていた。

それは思えば、山岳で生き延びる

ために学んだことかもしれない。

食べたくなくても、生きたいのだっ

たら、今食べなきゃダメだ、と

知っていた。汗をかいて、体が湿っ

てしまうと知ったら、どんなに面倒

な冬のさ中でも、リュックから下着

を出して着替えた。

自然がそういう鉄則を教えた。

動物を殺傷して10分以内なら、肉も

血も新鮮で、飲食しても害はない。

血は特にビタミンAが豊富で、その

昔、北極を目指した探検隊でも、

エスキモーの生活を参考にして、

ホッキョクグマを殺して、血を飲ん

だ探検隊は生還したが、同じ時期に

近代設備でそれに頼った探検隊は

ビタミンA不足で、確か全滅して

しまった。そこの極寒の生活で

生き抜いているエスキモーは自然

の代弁者のようなものだ。


思えば、僕は極端な夢の中にいた。

それでか、極端な現実には尊敬の

念を覚える。それはどちらも荘厳で

完全に僕らの妄想や想像という、

中途な概念を越えている。そして、

それは見えるが、囚われた眼には

自己の中で見えない。

それは政治でも芸術でも、極度に

至ると、そこで見る人は見る。

それが不思議だ。それは変わらない

ことだからだ。精神の世界と物の

世界とを異にしない。どちらにも

たどり着けない奥行きがある。 


自分の軛(くびき)を破って、

すべての世界と同時にある僕らを

無限に感じるなら、それが事実で

あることを知るだろうし、この世

の本来の在り方も知る。

自由はそこにある。

それは僕らがもともと自由である

ことを示している。

それは第一原則のようなもので、

自由が自由であるには一定の不自由

が必要だという第二原則になると、

少々複雑になる。

この二重に意識の必要性については

書いてきたので、また機会があれば

くり返そう。




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教えないで教える方法 [伝達]

この間、英語だがカタカナ日本語にも

なっている単語の意味を調べたら、

これは自分がこれまで採って来た方法

だと思った。これが僕の方法だと

しても、方法でそれがよくわかると

いう訳ではないが、それなりに(ブログ

の)理解に役立つだろう、と考えた。

それはコーチングだ。コーチというと

野球のコーチを真っ先に思い起こすが、

コーチの仕事とは異なるようだ。

もの や こと を教えるには、職業とし

ては二つあるようだ。

ひとつは学校や大学の先生・教授その他

講師諸々で彼らは主にティーチングする。

これは既成の知識を受講者に与えると

いう、上から下への教育にあたる。その

質問も講義内容についてのもので、

あまり受講者が独自の見解を教授に

尋ねるということはない。

そのことでは一方通行的だろう。

もうひとつのティーチングはコンサル

ティングで、これは企業内部の問題を

聞いて、その対処法をアドバイスする。

対処・解決のための提案が主な仕事で

これも上から下への指示になる。

一般のコーチというのは、このコンサル

ティングに当て嵌まるのではないか。

では、コーチングは何かというと、

相手に考えさせて、相手自身が答えを

導き出すように指導することで、その

時のコーチは提案もアドバイスも知識も

通常は与えない。ヒントを出しながら、

相手が考えるのにまかせる。

この手法の一部はセラピーなどで使われ

るかもしれない。

しかし、これは日本の職人などの伝統的

な指導法ではないかと思う。親方は弟子

になにも教えない。ただ見ろ、と言うだけ

で弟子自身がそのコツのようなものを

掴むのに任せる。

昔の刀匠(刀鍛冶)になると、厳しい

もので焼けた刀身を水に入れて急冷

させるが、その温度を知りたくて、

弟子が親方の眼を盗んで水に手を入れ

たら、その手首をすかさず切られて

しまったという話もあるくらいだ。

たぶん、刀身を入れた時の蒸気の激しさ

で覚えねばならないのだろうか。

ひよこの話はよくしたが、くり返すと、

ひよこのオスメスは見た目ではわから

ない。オスメスをわける職人は日本

にもいて、信頼が高いらしい。

その親方も弟子にはなにも教えない。

弟子はわからないままオスメスの籠

にひよこを振り分けてゆくのだが、

親方がそれをまた正しく振り分ける。

それだけだ。それでわかるはずが

ないのだが、1年もするとそのコツを

つかめるらしい。オスメスのなにを

違いとして感覚するのか、親方も

知らないのだろう。しかし、なんと

なくわかるものがあって、その微妙さ

を捉えると、あとは楽だ。

そう言えば、少し昔の話だが、天体

望遠鏡の何枚ものレンズは真円でない

と、コンマ何ミリ(100分の1ミリ

くらいだろうか?)違うだけで、たぶん、

光年単位で距離の誤差が出てしまうの

だろう。当時では日本の職人がその

レンズ磨きができたらしい。機械では

レンズを真円に磨けないので、日本の

職人が手で触りながら、その感触で

真円に導いたらしい。

手の平でコンマ1ミリがわかるのか?

と思うが、事実はできている。

これが不思議な人間の職人の能力で

その感覚を研ぎ澄ますことができる

らしい。

それは見えず、聴こえず、測ることが

できないものだろう。そういう感覚で

そういうものに接触するのだろう。

もう漫画やSFの世界だが、宇宙だって

いまだにダークマターとか惑星なんとか

という意味不明の物質の存在を天文の

世界では探し求め、解明しようとして

これまでの天文物理学が否定されて

しまったので、まだ混乱に陥っている。


ソクラテスは一晩中、神の声を聴いて

徹夜したというから、電波星である木星

から発する電波を聞いていた可能性が

ある。それにしても現在、木星の電波を

生身で受信する人などいないだろう。

あまりに5Gや4Gなどの周囲を飛び交う

何百何千種類の電波で聞き分けられない

に違いない。

僕らはそうやって失ったものがあるのは

確かなことだろう。例え、エベレストに

登ったにしても、ギリシヤ時代の静けさ

は取り戻せないのだ。



もうコーチングでなければ、僕らが今、

失いつつあるものを取り戻す方向に導く

のは無理だろう。僕がブログに書く、

特別なことはそういうことであるという

気がする。読んで意味不明でも、事実に

拠っているから、あるきっかけをヒント

にして歩き出してみるのがいいだろう。

人それぞれの歩みがあるので、それが

僕という実際例と重なることは、あまり

ないかもしれない。     12.3 

例えば、科学者だったら、科学の全般を

理解して、その本質がわかっているのなら、

1万冊の科学書は必要ないだろう。その

9550冊を除いた、50冊、あるいは100冊

に近いくらいでその全体は理解できる。

ところが、資本主義の世の中は金の流れ

はどこが金になるか、何が金になるかに

資本家が集中してその方面の人に、また

学問も研究成果に集中してその新発見に

流れ、新しい学問分野を増やしている。

これは全体を、という方向ではなく、

内部に向いていて、専門分野を増やし、

そのための専門職業を生んでいる。

大腸の専門医は泌尿器のことがわから

ない。多くの似たような症状から、

病名がいくらでも考えられるのと共通

している。

本来なら、科学者が科学のわかった

ことは、ここまででこれからは全く

わからない領域で、それはわかった

領域の何兆倍もある、いやそれ以上

かもしれないと言わねばならないが、

学界からはつまはじきされるだろうし、

それは個人的にも負けたことになる

ので、誰も言えない。成果ばかりを

強調する危うくなった政権の政治家が

言うようなことばかりだ。

これが僕らが示すプライドで、それ

を支える「負けた実績の報告」が

ほぼない状態だ。プライドはけっこう

だが、それで世間も自分をも錯覚に

陥らせるのは、碌なことではない。

なぜなら、全体が掴めているから、

鳥瞰することが新しいヴィジョンに

繋げることができている。

一方通行の先走りがどこかで破綻する

のはまだ常識の範疇だと思うのだが。



例えば社会学者が社会の全体を理解

し得たら、わかっていることから、今

わからないことの断面が見えてきて、

根本的な解決のためにまず何が必要か、

ということにたどり着き、その順序を

想像して、新しい社会改革の提案が

次々に出てきて、頭がアイディアで

いっぱいになるはずなのだ。

しかし、どの社会学者もひとつや二つの

小さな発見から、自分の理論を組み立てて

それを総合分野にまとめようとするのに

邁進してしまう。それはそれでまとまりと

してできてほしいが、そればかりが流行

してそれが王道だみたいな習慣になって

しまうと、それはどんどん過去になって

いくわけだから、本になる頃はもう遅れて

しまっている。

同じ知的思考でも、知だけに拠らない

他の質世界からを見据えながら、まず

事実からそれが知的思考に向かなくても、

別な区別をする方向で、全体の方向へ

進む途があるはずなのだ。それは当然

のように、一面的ではない矛盾を孕む

だろう。

論理矛盾だけではない、そういう色合い

を物と事とに持ち込むべきだと、僕は

考えるがそれを意味する事実には、

出会ってはいても確定や同定はできて

いない。まだできないのか、もともと

できないものなのかも、わかってはい

ない。

科学というその中味が知識だけがわかっ

ても、その科学がそもそもどういうもの

かがわからなければ、真夏のビーチに

突然現れた氷のかけらをダイヤモンドと

間違えるだろう。

そういうように科学という学問を理解

すれば、水は氷になるし、水蒸気にも

なり、雲にもなり、霜にもなるとわかる

ようなもので、それが変化しても驚か

ない。

そして、水以外のものはた易く見つけ

られる。そしてまた、わかっていない

ものの膨大さにも想像がつく。科学

という学問社会の内部の細々とした

分類・新発見・整理だけに追われる

こともないはずだ。

さて、僕はなにをコーチングしている

のだろう?


今夕は寝室でいつもの反対側に座椅子

を持ってきたが、レースのカーテン越し

窓に空と雲が映っていた。なにか惹か

れて、カーテンを開けて、ガラス越し

に雲を眺めた。ああ、これが事実じゃ

どうしようもない!と独り言ちた。

見た目には静止画像だったが、ゆっくり

と動いているのが感じられた。

どれくらい?

測ってみると、3分から5分以内には元の

雲の形は崩れ、変わってゆくのだった。

少しずつだが、全体のそれぞれの各部分

が変化している。それが見えないほどに

見れば見えるのだ。

雲だというのはわかっても、今の姿を

残すのはシャッターを切ることだろう。

そして、その3分前は、3分後にはそれ

は明らかに変化してしまった後の姿なの

だ。あの詩人が言ったのは、雲は生きて

いる、という意味のことだろう。

子供時代の僕が今になってしまったのと、

何も変わりがないではないか、と。僕ら

は過去の写真を映像を持ち出して来て、

変わったねとか、幼かったとか言うが、

今、それが終わったのではない、ただ

続いているのを確かめないだけだ。

見ればいいだけだが、 ・・


どうやって? (え?)


なにを?   (ええ?)


< さあ?




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君は友人とも友達ともいう [友人]

こうして 坐ったままで 

僕は  誰と 別れようと

している のだろう 

この 孤独の 土偶のように 

ユーモアのある  感慨が 

その ため息だと 

いうのだろうか 

なぜ 同じ 以前の彼では  

いけないのだろうか  

なぜ 予想した 彼の姿に

落胆しなければ 

いけないのだろうか 

過去を  温めようとは しない 

僕が  変人 だからだろうか 

彼が  老人 だからだろうか 

すべては 留まろうと 

しているからだろうか 


彼の生活を  そのままに 

なぜ かき回す必要が あるのだろう 

物語が  始まるとしたら 

こういう風に 

別れから 始まるのだろうと 

夜の 帳に  問いかける 

彼の 文章が 読みたいのは 

もうひとつの  感傷なのだろうか 

夕食に  誘われて そこで 

新しい世界を  食卓に

並べて 見せたら 

彼は  驚くだろうか 

新しい 一歩を  踏み出したいと

思うだろうかと 

勝手な 望みを  思ってみる 

そのまま  彼が 尻込みする

姿が  見える 



君は 人に 不安を抱かせない

天才だ 

君の 運転で  隣に座っても

一度も 運転が 気になったことがない

うまさも見せないが  間違いもしない

安心していると  気づきもしない

君は 不安を 抱かない人 

なのだろう

それは 君の人気でもあるが 

君は  人の不安が わからない 

ただ 君のために 泣いてくれる 

それが ただ 泣きたい人だとしても

君は  感謝するのだろう 

泣きたい人が  君のためでなく

ただ 自分が泣きたいという 

そういうことを  君は 知らない

気持ちだけに  溺れたいというのは  

強い誘惑を テリトリーにする 

それが  そのまま 昇華されるなら

歓迎したいが 

それは 泣きたい自分が やはり 

泣いてくれる 誰かを  求めている

のだったら

彼は  他の処で  人を傷つけて 

しまうだろう 

面倒だが、彼は 同情し 

同情されたいのだ 

君は  彼に 騙されているとは

言い過ぎになるが  

そういう涙の 親切が  

わからないくらい いい人だ 

だから 

余計に 

僕のことは  知らない

僕は 君のことを  振り回すし

君は  古い 友情という

神話しか 見ていない 

君は  引き潮に 乗って

海原へ  帰ってゆき 

僕は  砂浜で  砂の城に 

夢中だ  

手を 振るとしたら  

この時だろう 

腰を 上げると  

君の乗った 船が見える 

君も  手を 振っているのだろう 

あの時の  思い出という  

財産を  捨ててしまった 僕を

まだ 見つめて いるのだろう 


暴かなくてもいい  真実が 

あるのなら 

君に  まとわりついた  闇が 

照らされるのを  望むだろうか

今から そんなものに 

この先 十年も 悩まされるのなら 

知らないほうが いいと  

そうであっても  なくても 

放っておくほうが ・・

そう思いながら  

連絡を 取ってしまったのは 

どうしてだろう 



僕は ちょうど  我が道の 

進むべき  順序 

進むべき  市場

進むべき  場所の 

整理ができた  ところ 

それは 喜び  それを 

君に 報せ  

君と  分かち合いたい 

そうだから  

それが  君だったのだろう 

迷惑な 話だったのかもしれない 

どこまでが  許されるのか 

お人よしの 君と 

人のいい 僕と 

迷惑は まだ  生きることで  

そう思って  いいのだろうか 

新しくなくても

後戻りでも 

なにも 進むのではなくても 

会わなくても いい  

伝えられれば  

君という人を 

君に 

伝えられれば 

その意味が  まだ  よく 

わからないが 

生きるのに  

迷惑では  いけない  

というのは  おかしいだろう

そうではないか 

僕が  これを  そのまま  

文法通りの 言葉にしたら  

わかりやすいだろうが  

その時  

その  ほんとう は 失われる

どうして?という 理由もない 


僕らは 

生きるのに  

迷惑では  いけない  

というのは  おかしいだろう

そういう困難さや 苦労があるから

それが 生きがいになることが 

ある 


だからといって 

それが すべてだと 信条のように 

するのも  どうだろう?

それが 正しいという 答えだというのも 

もっと  おかしなことだろう 


この靄(もや)の 中に 

出口はあるのだろうか 

答えは 待ち人のように 

立って 迎えてくれるのだろうか 

それなのに 

僕らは  会ってみると 

別な世界の 会話を  している 

どうでも いいことを  

探して  面白くしようと している 

いざ 会ってみると  

せっかく  会えたというのに 

友達オーラに  包まれるのを

よし、 としている  

いいかげんな 世間という 

安心できる 社会民族の 

一員に  なろうとする



そこに 生きる という関係性は 

ない のだが 

僕らは  習慣に  従う 

長い 長い 

歴史という  祖先からの 

感情オーロラ生活に 

埋没するのだ 



生活は  チラチラと 

靄の間から  毎日

隙間を  空けて 

光を  見せる  

気がつけない ほどに 

気がついても 見ないように  

僕らは 自分を守る 

オーロラの膜を  操作する

人は だから  強く見える 

自分は  ダメだが  

人はどうして  立派で

寛容で  頼れるように 

見えるのだろう と 

お互いに 強弱は あれど 

似た者同士 なのに 

それを  隠したがる 


自分を さらけ出すほど 強くは

ない 

ー とは 皆が そうではないのか  

だから  強さ 弱さではない



こうして 坐ったままで 

僕は  誰と 別れようと

している のだろう 

この 孤独の 土偶のように 

ユーモアのある  感慨が 

その ため息だと 

いうのだろうか

どうして 僕は 以前のような 

僕では  いけないのだろうか 

自然は  僕を 待たないだろう 

世界は  僕に  解釈を

要求し 続けるだろう 

宇宙は  僕には 

わからない まま だろう 



こうして 坐りながら 

僕は  いったい  

誰と  

別れようと いうのだろう 

一番親しい  君は  

誰 だろう

最も 身近な 君は 

今も  いるのだろうか 

僕を 見捨てるな、 と 

言わせたい のだろうか 

僕を 助けてくれ、 と 

懇願させ たいのだろうか 

それが  勇気なのだろうか 



僕は 

決して 僕が  捉まろうとはしない 

この手を  差し出す 

そうはしないのに

そうしたい からだ 


さて 

君は  なにを 

考えたのか 

その手を  取るか 取らないか

よりも先に 

君が  必ず 

自分のプライドと 相談するために

考える  

その衣装が  世間 というものだ 

晒している 裸が

自分 そのままというもの

だから 僕らは 気づきたくない 

嫌な 感じだから 






:::

手のひらを見ていると、その上に

生命が燃えている気がする。

その炎を掴もうと手を握れば、

炎は消えたように見えなくなるが、

消えたのではない。また手を広げると

そこに生命が現れる。

自分の視線からは見えないだろう。

そんな気がするということを、信じ

ないからだ。

僕らの美しいものは概念化されるので、

それを具象のもののように扱う。

わからないから、そこに名前を充てて

言葉にその姿を刻もうとする。

そうして美しいものは姿を変えてしまう。


水道水は透明で、真水のように見える。

ストーブにかけた鍋の水は最初は

よく熱せられて、蒸発する。しかし、

鍋に半分になる頃から、蒸発する

のが遅くなる。煮詰まってきたからだ。

煮詰まっている物質はカルキという

化学物質だ。そのままにすると、

やがて表面に、白っぽいうすい膜が

でき始め、最後は白く焦げ付いてしまう。

真水はH₂Oではない。自然にH₂Oは存在

しない。それでも雑物の混ざったおいしい

真水はある。

自我は知とともにある。水道水が殺菌を

目的にあるように、自分の視点という、

一種の欲は必ずカルキのように存在する。

それは自分を守るが、一種の毒でもある。

真水は毒(化学)を含まない。

この真水が僕が美しいと呼ぶものだ。

自然に毒がないとも言わない。

カルキのような自分は必要だが、

信じるようなものではない。それが

批判的な言い方になっている。単純

に否定するなら、簡単なことだ。





こうして 坐ったままで


僕は 何を  思うのだろう


ラベンダーの 地平に


背中が 抜けて 


透明な向こう側を  


見つめた まま  

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過去+未来は現在ではない・・・ [心理]

ちょうど 揺れて 揺れて

ティーカップの 紅茶が

揺れるように 

見えているのではない

この 1日の 全体というもの 

見えてはいないが 

すべてが  静かに 大きく

揺れているから 

それが 

見えているのではない 

僕らの  世界という もの  

永遠の  一部  という ・・



君が 僕を 切り捨てた 時のように

その時だけ 

瞬間 見えてしまう  

その不安定な ソーサ―と  

ティーカップが  揺れて



静かな  今宵が  ある  

もう  夜に叫んだ  過去はない 

さまざまな 奇妙な 経験が  

幻燈に 照らされて  

見えるくらいか 

誤解は  あった 

それでも それを  裏切りとは

責められない  

僕の  思い込みは  

理想に 憧れ  それを  

常識や  習慣の考えに 

無防備に  委ねていたから  

自分が  それを  恥ずかしいからと 

君と  離れたのだろう 



山の 夜明けは  美しい 

それは それを心に 刻んだ 

信仰のようだ

今は  海の浅瀬は  

ヒタヒタした  干潟のようだが 

心にも 夜明けが  来て 

歩けるように  道を  

乾かすだろうと  信じている 

あの頃は  正しいと思い 

過ちとは 気づきもしなかった

けれど  

やがて  そうではなかったと 

思う日が  来る  

その時に  それ以上のことが 

できなかったとしても 

それが 精一杯だと  わかるほど 

思い出すなら  

僕らは  誰を  許せば 

いいのだろうか 

自分や  人を  どうやって  

納得できるほど

見つめたの だろうか  



気難しさと  気恥ずかしさは

似たような  誤解を生むのだろう

お天気やと  予想できない気まぐれも 

似たように  からかわれるの 

かもしれない  

生きている限り  僕らは

変り行く  心と体を  止めるのは

できない  

それは その時の 正解も 

その先の 答えだとは 言えなくなる

過去を  変えたいのも  

今を 今のまま  とどめたいのも

僕らが  正解があると

間違えて 思ってしまって 

いるから だろう 



たぶん  君が  僕を必要とした 

それが  僕の 知らない処で 

一致していた  

それで  十分だった 

その時は  

だが  それを  誰が

知るのだろう 

僕らの  誰も  君の墓地を

想像して  君に 声を

かけないだろう

生きるものは  生き物に  惹かれる

土の 一粒にも  

それが  あるかもしれない  



あの頃の  君との間には

見えない 二人の 共通の

島が あった 

そこで 同じものを 呼吸して

同じものに 触れあっていると  

信じる  僕らが  あった 

その島が  空想の世界のように  

やがて  かすんで  消えてゆくのにも

気づかず  

まだ  あったと 

思っていた




過去が  二人を 結びつけたのだろうが 

僕は  遠慮なく 

過去も  食べ尽くそうと  したので 

僕らの 関係は  裸になった 

誤解だらけの  ボロ傘のように  

骨が  透け透け だった 

それが  君には  見えない理由も  

わかる  

それは  君の非では ないけれど 

それを知った  僕は  

過去に すがるようなことは  

できなかった  

だから  

新しく  君に会う 方法を 

探しているけれど  

まだ

そして  まだ  

見つからない

お互いの  人の好さが 

遠慮して  そこを  言わないらしい 

ある時だった 

そうして 周囲を  見渡してみると 

歪んだ  いびつな因果を 持たない

人は  ひとりも いなかった 

僕だけが  自分を そう思っていたのでは

なかった 

類は  たしかに 友を  呼んだのだ 

誰の  せいでもない  

僕らは  自分たちを  

呼び寄せて  共通の傷を 

舐め合おうと  している  



そういう人間ではないと 思った

自分が  すこし悲しい 

世界が  まったく  見えていない 

社会が  まったく  見えていない

世間が  まったく  見えていない 

つまるところ、 

人間を  知らない  

また  そこから  始めようと 

気を  取り直した ところだ 

君から  離れたところで 

僕の 自分を 置いてきたところから 

これまでのように  

歩いて  いこうと  思うのだ 

なにかを  失ったのではなく  

なにかを  取りに 行くのではなく  

まず 

君を  見たいと  思う

彼を 見たいと  思う  

君は  なにを  必要と 

しているだろう 

彼が 頼るものは どんな理由からか

僕は  そこで 必要なのか 

そこら あたりから 

始めて みたい 



窓を  開けると  

すぐ近くまで  海が  

拡がっていた  

浅瀬の さざ波が  続いて 

僕は  いつの間に  

こんな 素敵な場所に 

引っ越してきたのだろう、 と 

夢の 中で  思った

遠くに  岬の 半島があって  

現実に  こんなことが 起きるんだと 

夢の 中で  思った  



夢が  始まりなのだろう 

それを どうするか 

それは 問いなのだろうか  



夢は  始まりなのだろう 

それを どうするか

そして  

夢が  その答え でもあると 

今  わかった 



自分には 秘密である 


僕の 隠した  



僕の  秘密が ・・



僕の  望みが ・・

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屈人織辺の日記 9.益子・笠間陶芸旅行 (1) [旅]

横浜を出発して、益子に着いたのは

10時でした。約3時間、アイマスク

で寝ていたので、寝ているうちに

着きました。ちょうど5分前くらいに

起きて、それらしい風景を眺めました。

コロナのお陰で、窓際2人席に一人なの

でゆったり快適でした。

益子駐車場1.JPG

駐車場:

駐車場から益子陶芸センターの裏へと

通じていて、そこで紙袋をもらいました

が、お土産袋で、茶碗が二つと、生姜

の漬物、あとパンフか何か入っていま

した。割引運賃でお土産までもらうと

なにか特別得をしたような気になります。

陶芸センターの前では陶器屋の屋台が

並んで、その向こうに通りがあるよう

です。

一部壁がありましたが、そこに廃棄処分

とそうではない皿などがびっしり貼りつ

けられていて、こんなにクズがあるの

か、と。

益子1-1.JPG

下は小さな池で水が張られて:

店並び:
益子陶器市1-1.JPG


益子陶器市3-1.JPG

ともかく目的のひとつを訪れたかった

ので、このテント群れを突っ切ると、

通りに出ました。すると、予想よりも

多くの人出。日曜なのでおかしくはない

けれど、お祭り並みに人が出ていて、

混雑していました。

益子陶器市4-1.JPG

このタヌキは有名らしい:

益子陶器市503.jpg


陶芸メッセという名称が陶芸美術館

でした。やや広い公園のような感じで、

濱田庄司の自宅がある処へ、の高架橋?

を渡ります。

益子陶芸美術館1-1.JPG

益子陶芸市5-1.JPG

上から陽の差す紅葉は赤茶色に:

濱田庄司邸1-1.JPG

濱田庄司邸:

大きい、というのがまずの印象。また、民芸

運動をする人が住むのは、こういう処だろうな、

という範囲にはすっぽり当て嵌まりました。

この向かって右側に窯がふたつありました。

-1.jpg

穴窯:

濱田庄司邸5-1.JPG

登り窯:

濱田庄司邸6-1.JPG

濱田庄司邸 近影:

庄屋か地主の古民家を改造して住んだ、

という感じだった。

濱田庄司邸9-1.JPG

濱田庄司邸8-1.JPG

観光客だが、マスクが黒なので、

泥棒にも見えた。笑

濱田庄司邸7-1.JPG

陶作の作業台に使ったのではないか。

益子陶芸美術館というのは旧称なのでは

ないかと思います。益子メッセが今の

名称で、それは濱田さんの作品が置かれ

ていないことです。それともどこかで

見失った?とも思えません。それは翌日

わかりました。

               つづく




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散歩の手がかり 2022 [散歩]

散歩は観察にとってもっとも適した

条件を与えてくれる。散歩を日課と

する人なら、眼を止めるだけでいい

ので、あとはその人の好奇心と記憶力

次第だ。



20数年前、近隣の散歩に出ると、初め

は手当たり次第で歩くばかりだが、

五回目くらいだろうか、歩きながら

いつも通る道が決まって来る。

好きな道というのは自分が何に惹か

れるかによって異なるから、僕は

自然に惹かれて、その道も早くに

決まった。川に降りてゆく道で、

そこから〇部公園へ、その広場の隣に

テニスコートがあり、横に体育館が

ある。中に温水プールがあるので、今

でも営業しているのではないか。

その先の隣に小学校のグランドがあり、

校舎がある。それがすべて川沿いに

ある。小学校の先まで川を挟んで反対

側沿いの小道を歩いたりするのが、いつ

もの散歩道だった。


僕らの想像は大抵、現状から飛躍しない。

現状をそのまま認めて、年月が重なれば、

ほぼそのまま固まってしまう。それで

そのままの現状が固定化したことに気づ

かないのが、またよく見られる現象で、

不思議なことだ。

それでいつも僕は自然に驚かされてし

まうことになる。それは今回の散歩でも

同じことだった。


この数年は、4,5年だろうか、コロナ

も含めてあまり散歩に出ることはなく

なってしまった。それくらいだと思うが、

1,2回の2,3年前にしたとしたら、その

時の散歩は忘れられているのかもしれ

ない。それで今回は散歩の総括であり、

その広がりでもあった。

この川には大きな鯉と鮒がいて、赤や

金色も一時いたのだが、見なくなった。

鯉の飼育業者か売るのを目的にした暇人

が、その色のいい鯉をさらっていったの

だろう。

しかし、黒いのはたくさんいる。公園

のわきの深い場所がある処では40匹は

いるだろう。橋から下を覗くと、鯉が

何匹も口を開けて集まってくる。

いつもと同じ光景だ。

アユが誰かに放流され、小さな群れで

行動しているのは書いたが、まだ現役

で泳いでいるようだ。

排水路がある。

川のわきにやや並行して走った用水路

のようなもので、ここでの観察をもう

一度書くと、ある時この幅1mくらい

の水深も5cmていどの浅い水路に、

ハヤだろう、その群れが大発生してい

て驚いたことがある。ざっと数えて

みた。ほぼ400匹もいた。

が、1週間か10日かして、来てみると

それが1匹もいなかった。その代わり

に赤いアメリカザリガニが20ほど

いた。あれだけの魚は、5,6㎝とは

いえ、どこに消えたのか。

少しして、やっと気づいたのは、

浅い水路では夜行性のザリガニに

簡単に捕食されてしまうことだった。

隠れ場所がない。全部捕食されてし

まったのだ。気の毒に、とか思う

必要はない。自然の摂理はそうい

うように働き、もともと水量が制限

された排水路なので、川から水の

供給が絶えることがあり、そういう

時に捕食されなくても、水路の水生

生物は絶滅してしまうのだ。

ザリガニも例外ではなかった。数週も

待たずに、ザリガニの姿もバラな死骸

が見られて、生きているのはいなか

った。何が起こったか?

恐らく魚も食い尽くし、お互いの食い

合い=共食いが始まったのだ。その

残骸だろう、残っていたのは。


その排水路を見て歩くと、初めのほう

では泥がたまっていた。ここらあたり

は水が溜まらないやや高台になるので

通常の状態だった。生物もいつもほぼ

いない。しかし、白い芋虫が死んでい

た。なに?という感じ。なんでこんな

処に落ちたのか。

それは3,4個の死骸が見られた。

しかも食べられた後もなかった。何?

である。

やがて白い細いものが、やはり死んで

いるようだ。まず、ミミズだろう。

これは多い。20くらいか、もっとか。

気にならなかったが、そこで水面

すぐ下の泥がひび割れているその理由

を考えてわかった。

ここには底に土がたまっていた。適当

な湿り気で、そこにミミズとセミの

幼虫が潜ったのだ。そのうちに雨も

降らず、川の供給もなく、土は干上

がった。一昨日だろう、熱くてミミズ

もセミの幼虫も土から出てきて死んで

しまった。そして、昨日に雨が降った。

鳥にも見つからずに、きれいな死骸

のまま浅い雨水の中に残った、という

ことだろう。

ひび割れた泥、きれいな死骸から

察するのは、そんな処。



水路は続く。その先に行った処に

地主の広い家があり、その前から

先の水路が低い場所でいつも水が

たまっている。行ってみると、なに

もいない。落ち葉がたんまりとあっ

て黒い小さな貝がちらほら見える

だけ。この川の流域で蛍が飛ぶので

昔に放流した餌になる貝のようだ。

カワニナ?

もう何もいないつもりで、水路を

辿ると、水面にビチビチッと小さな

輪ができる。いっぱいなので一斉に

空気の泡が枯れ葉の下から出たのか

と思った。そうして、眼をこらして

歩いたら、見つけた。稚魚が一匹。

また見つけた、2匹目。

なるほど、さすが自然の生産量、

魚は全滅していない。稚魚が残って

生息し始めているのだ。あの泡の

数から50はいるだろう。稚魚

だったら、ザリガニが発生しない

限り、ある程度までは育つだろう。

この排水の栄枯盛衰は20年経った

今日でも、まだ延々と続けられて

いたのだ、めでたい?笑。


そこから川にまた出て、もう少し

足を延ばし100mほどまで下流に

行くと、相鉄線の架橋の下に鯉や

鮒がまた多く集まる場所がある。

ここには以前まで正方形の深い

穴があって、そこが安全地帯なのか、

生息しているようだった。

ともかく、今でも体が大きい。公園

のも大きいがそこよりも一回り大きい

のが多くいる。ここも相変わらずだった。

しかし、最も驚いて、想像力の飛躍の

なさを気づかされたのは、この地点に

来るまでの間で、だった。

所々に大きい鯉はいたが、川幅4m

だろうか、それほど大きくはないが、

その中流を見て中型の15から20cm

だろうか、魚の群れがいた。上流に

向かって塊になって泳ぐ。見ていると、

それは帯状になっていて、網で掬えば、

5,6匹は入りそうなほどの太さで

一列になっている。それだけではなく、

その一列が続く。いつまでも続くのだ。

やっと、その数の多さに、え?となる。

30秒か、1分か、それくらい眺めていて、

やっと列の最後が縮まり、すぼんで

いった。アユではないか?

こんなに大量にアユが群れの行動を

起こしているなんて!群れと大量とで

二重の驚きだった。なんにしても、

この20年の散歩は何だったのか、と

思ったくらいの、斬新な衝撃だった。

田舎じゃないのに、こんな河川で

大量のアユが拝めるなんて!



いつの間にか、僕は近所の川を軽蔑

していたのに気づいた。それはその

まま自然の豊かさを馬鹿にしていた

ことだ。自然が好きだとか言ってお

いて、なんとその根本の脅威を忘れ

ていたことだろう!

その生産量と生死を断行する脅威が

なければ、僕ら人間の生活はなかった。

そもそも進化すらなかっただろう。

益子市や笠間市で、田舎だ、トノサマ

バッタやマダラ蝶がいる、なつかしい、

とか書いていた自分が恥ずかしい。


帰り道は同じ、亀島公園を通った。

ほんとに狭い、小さな公園だが、真ん

中を湧き水の小さな流れが通っている。

その始めが池になっていて、ほんの

3,4メートル幅の楕円形だが、行き

では珍しく、多くの魚が出てきていて、

まるで歓迎されているようだった。

僕の影を認識しても、逃げずに泳い

でいた。そこを通りかかって、歩みを

止めた。池の前で立っている。数匹の

魚が泳いでいた。たぶん、ハヤ。

しかし、数が少ない。・・待ったが、

出てこなかった。そして、また自分の

間違いに気づいた。

期待したのだ。また魚に歓迎される

ことを。人間に狩られた経験のある

動物はほぼ人間を警戒する。魚は

その影を感知し、足音を察して、見つ

かる前に隠れる。

それは彼らの感知機能に人間の気を

感じるシステムがあるらしい。人間

の気は自分という自意識からできて

いる、魚にとっては殺気だ。警戒す

べき気だから。

僕は気づかず、魚に期待した時に

それは強い自意識だったのだが、

社会生活に慣れると、その気を注意

するようなことに出会わないから、

自然とのつきあい方を忘れてしまう。

僕も山の生活からずいぶん離れて、

忘れてしまっていたようだ。

自然には僕らのエゴからなにものも

1mmの期待できるものはないのだ。

それが農家などで、その年に豊作に

なると喜びが大きく感じられることだ。

自然は大きなパターンも小さなパターン

もあるが、同じようにはくり返さない。

そして、時折、そのパターンから大きく

はみ出して、人間を驚かせる。

僕らは小刻みなパターンに慣れてしまう

習性があって、いつも自然の脅威の大き

さを疎かにしてしまう。それを突然の

ことに思い違える。

自然に近い人ほど、気を緩めることが

できないからだろう。大星空は、また

オーロラは地球を切り裂くほどに感動的

で、僕らを本来の人間に戻してくれる。

それが一瞬の反省であるにしても。



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何もない戦争と明るい煉獄の夢 [夢]

目覚めていたが、意識を保たないと

また眠りに落ちそうな、寝床の中

だった。雨の音も、車の水を切る

音も聞こえていた。

が、ひとつ現実とは思えない音色

も聞こえていた。豆腐屋のラッパ

である。「トーフィー」と鳴る

昔の独特な音色だった。なつかしい

よりも、この近辺でまず聞いたこと

がない。幻聴かと疑いたくなったが、

意識ははっきりしている。ただ夢を

思い出せるくらいには、あいまいな

睡眠へ移行できる状態ではあった。

3回聴いて、幻聴ではないと思ったが、

遠ざかったらしく、ラッパが遠く、

小さくなった時に、幻聴と区別でき

ない朦朧な音に聞こえた。

またよく聞こえた。それから、2回

くらいで聞こえなくなった。が、

この雨の中、豆腐を出張で売りに

来るだろうか。あまり考えられない。

いつも回ってきているなら、有り

かもしれないが、聞いたとしても

忘れているのだろうが、そんな前だ

ったら、1度か2度の記憶だろう。


そのラッパを聞く前から、起きる前

に見ていた夢を思い出していた。


::煉獄編

始めの記憶はあいまいで、日本に

いた。親戚の叔父さんと誰かと逃げ

て、避難しようとしていた。それく

らいしかわからない。駅も避難する

人でごったがえしていた。この場面

ではその理由がわからなかった。

駅の切符はもう売れていて、駅に

入れない人が遠巻きにしていた。

駅の入り口には警察官の帽子の

ようなものを被った駅長がいた。

僕が群衆のより前に出ようとして

いると、僕を見つけた。

駅長の顔が大写しになった。TV

や映画の映像の影響だろう、現実

にそんな大きい顔を見ることは

ない。何が特別なのか、切符を

売ってくれるのかも話さず、ただ

乗る駅とその終着の駅だろう、

その駅名を告げた。それが漢字で

見えた。二つとも覚えていないが、

終着の駅名は見たことも聴いた

こともない。

そこから乗り換えて、知っている

駅まで行かなくてはならない、と

「そこからどう行くのか」と息せきっ

て尋ねた。

次はもうまた避難の場面で、はっきり

戦争の状況があった。

誰か若いのが、(製材された平らな)

木材の上にいれば安全だ、と皆を

リードしていた。そこにうすい皮

のような木材で、半端なのが重なっ

ている処に、これも木材でできた

通路が開いていて、地下へ通じて

いた。(そこは製材所の地下木材

倉庫のような処)僕らはそこへ逃げ

込み、薪が重なったような、半端な

板の重なった上にそれぞれ坐った。

木材の香りの成分を避けるような

化学兵器の爆弾なのだろうか、と

考えた。

そこは地下であるにも関わらず、

すぐ近くに大きな出口があり、それ

は外のように見えた。やがて、避難

していた人々がそこからぞろぞろ

出て行くようだった。どうやら

爆撃音のひとつもなく、空襲は過ぎ

たらしい。

そこはたぶん、韓国だった。僕は

たったひとりになり、どこに行けば

いいのか、どこで過ごせばいいのか、

孤独からひどい寂しさを感じた。

出口の向かいの建物の階下駐車場

のような空間に寝ている人がいて、

僕を見るのに上半身起き上がった。

白い顔の顎髭のある中年男性で、

声をかけてくれて、なにかつぶや

いていた。その男の周りにも人が

数人いて、避難していたのだろう。

僕はその男の近くまで歩いて、その

言葉を聞くと、独逸語だった。それ

で聞き取れないのがわかった。

僕はカタコトの英語で独逸語はでき

ないと伝えた。それからまた男は

英語のカタコトも交えて、独逸語で

何か話したが、意味は分からなかっ

たが、愛情にあふれる感じが伝わって、

僕は彼を抱きしめ、彼も僕を抱き、

抱き合った。

すると、耳元で「ウチニ来ルトイイ」

と日本語が聴こえて、僕は涙ぐんだ。

しかし、近くの人がその様子を見てか、

話しかけてきた。中年の夫婦だろう、

その奥さんのほうだった。そして、

彼らもヨーロッパ系だった。ここに

は欧州人が集まっていた。

僕は彼から体を離そうとすると、彼の

頭はサトイモの煮っころがしのような

ぬめりのある、ぼんやりした顔に

なっていた。僕との間に透明な粘液の

糸が一本引いていた。その瞬間に、彼

の愛情がホモセクシャルであるのを

感じ取って、彼の家で少し生活でき

ればよかったのに、それはできない

と思った。僕はそれが軽めに言って

も好きではなかった。

おばさんの説明では山形の飛行場

にここの近くから出る便がまだある

ということだった。(山形のような

地方の飛行場の他は全滅したの

だろう、爆撃で)

日本はひどいことになっている、

帰らなければ、と思った。

おばさんはこれでと言って、お盆

くらいの四角いブリキ板を2枚見せ

て、私(たち)は予約してきた、と

告げた。その個所には「平江」と

いう苗字ともうひとつ、隣に僕の

苗字が書かれていた。僕は僕も

予約したと言ったが、すぐに言い

直して、僕と同じ名前の人が予約

しているという意味ですがね、と。

― これで 終わり。



あいまいな目覚めの中で、なにか

覚えのある雰囲気の夢だという

ことを思った。それは暗いもので

はない、明るい地獄の貧民洞窟の

夢と共通していた。が、地獄ほど

はっきりしたものではないので、

煉獄としたほうがいいだろうと

思った。

男と抱き合うとか、戦争のイメージ

だけとはいえ、直接な戦禍の場所に

いる夢はみたことがなかった。ので、

強く印象に残り、書き残すことは

決定していた。起きてすぐ書くのは

夢のことだけで、これは2回目だ

ろうか、まだ1時間半くらいだが、

体のモヤッとした感じが残っている。


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悲観のチェックメイトから死を抱きしめたい [愛と死]

それを 指してはいけない 

それは  王手 だから

自分で  自分を  詰んでしまう 

そう

もう 死んでしまう気が しているだろう 

これを  隠してきたが 

いつかは 自分に  バレる 

終わらない ということと

肉体の 死滅は  別だと

言っても

心が 自由なのは 

体に 拠っている

この先の  展開は 見えている

体の 死は  どうでもいい 

気にしても しかたない、 と

言うのだろう 

それは 健全な 躱(かわ)しかた

確かに  気にしても 意味がない

ただ 

決定的に  事実を予定している

決定項なのだ

なんといっても  生まれた時から


気にするのは 体が  弱って

平均寿命という 数字が

襲って来るから  

なぜか 一度も 死んだ記憶がないのに

周りを見て  受け入れてしまっている

どんな ホームランも 

地上に 落ちてくるように 

そう 認めてしまっている 

僕ら人間は  死ぬのが 

自然に沿って という意味で  

正しいのだ と 


それは 少し 僕とは 

ズレているけれど 

行き着く先が 死 なのは

同じだ  

怖いか  怖くないかだけだ 

いやいや  僕も 人の死は 

怖い 

死ぬ人に 語る言葉を

持てないことが  異様に

恐怖だ 

僕の目を見て  相手は 

悟ってしまうだろう  

僕は 息を飲んで  

言葉もなく 飲み込んでしまう

なにを 語ればいいのか 

そういう場面に 立ち会って

初めて  死の恐怖を 知った

自分の死など  なんでもなかったのに 

死ぬ人の前に  その執行人のように

立ちたくはない と

人の死は  耐え難い



どうして  人は死を 恐れるのか

実は  僕には  わからない 

むしろ  楽になれて いい と

どうして  思わないのか

因果は  世界の非情を  教える

無常は  未来のむなしさを 与える

どちらも 同じ因子を  抱え

見分けが つかないくらい 



僕らから  死滅を 隠している

死のテリトリーには  守られている

憧れが  ある 

皆は それを 切に求めているが 

僕は  もう 

近づきたくない と さえ 

思っているのが  愛 だ 

僕らの ロマンの 墓場のような処 

時間を 止めてくれという

切実な 愛した人への

そのための 激しい 要求

それが  七つの大洋の ほどの

水を  引きづり  

洪水を  引き起こして いる

何度も  何度も

潮の 引き間もなく

太陽も 隠す 高い壁になって

津波が  畳みかけてくる 

いくつも  いくつも  

君は  それでも

満足しない のだろう 

彼が  許しを  乞うまで  

何度も  何度も

許しを 乞うのだが 

君は  

満足しないのだ

誰にも  止められない

君は  愛の 理想に 

飢えているから 



そこまで 求めてしまって 

誰にも  できないかもしれないが

それは 常軌を  超えてしまって

愛も  暴発を 止められない

デモが 堰を切った時に 

もう 止めるものはない 

何千年の  恨みが  

押し寄せるの だろうか 

人間の 体では  

受け止め きれない 



空白だけが  あったように 

空白に なにも起こるはずもないのに

穴が  開いてしまった 



なつかしいね その メロディ

君でも  そんな古い クリスマスを

歌うんだね 

甘い 追憶が  キャンドルに

流れる

君が  いた頃に  

君がいた  あの頃に 



だいたい  愛を知る 必要が 

あったのだろうか 

皆と 同じ感覚を  

大事にしていただけで  

よかったのでは ないだろうか 

飢えは  ただ  

比較もできない デカい デカすぎる

凶暴性を  呼び寄せた だけ

ではないのか 



海岸を  歩くと 

足跡が  砂浜に  沈むよ

さあ、  なんと言って  

声を  かける? 

洪水は  君の理想を  超えて 

さらに  追い打ちを かけて 

叩きのめし たのだろうか 

いや  そんなことはない 

満足を 超えたことが 今まで

なかったから

どう 戸惑っていいのかも  

わからなかった の  だろう 

僕らは  満足を 超えることは

拒否してしまうから 

それでも  満足させられる ことに 

慣れていない 

それが  なんだかも  わからない 

君を  優に  それは  

大きな 余裕をも  超えて

君の  人間という 

すべてを  超えて  行った



だから  だよ

自分の 体面を保てない 

そういうことは  避けたかったが

そんな 1ミクロンの 余裕も 

なかった

凄まじさを  超える言葉は

ない  その凄まじさを

僕らは  経験に できないのだろう

山は  文字通り

海は  文字通り  

動いた 

想像を越えるものが 実に

想像を 超えたのだから 

まだ 名前のつけられて いないものが

やって来た 

そして 

僕は  押し流されたのだ 

愛の水が  口から あふれ 

こぼれていたのも

知らずに 

溺れていたのも

知らずに

死の テリトリーの 一部 

そのまた一部 だったかもしれない

だったにも  かかわらず  

僕は  負けたのだ 





それは  その力とは別に  

愛の なんたるかは  教えたのだ

その香しい やさしさに 

僕は  教えてくれたと  

思い違いを したのだろう  



因果だ 

なにもかも  流す

僕を  流すなど

気にも しなかっただろう 

おー 

おー  おー

おおっ おー 

おおっ おーおー  おー

体が  燃えるよ 

これが  

これが ・・



うう 


これが ・・

これ  を  

どうすれば  ・・


うう  

おー  おー

おおっ おー 

おおっ おーおー  おー



くりかえしても ・・ ああ 

くりかえしても  いいだろうか 

君を  ・・

言っても ・・

言っても   いいだろうか 



君を 

抱きしめたい



この  クリスマス に 

君を  

ああ  ・・



僕らは  負けるしか

ないのだろうか 

この  長い  長い

こんなに  長かった

戦いの   果てに  



僕らは ・・

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