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すべてのブログを書く人へ [書くという]

ブログを書く意味がわかってきた。 

ブログを書いてきた 

ブログを書いてきたことだよ 

ブログを書くのだ 

・・・・・  という処、だろうか。 

ふざけてはいない。意味などないのだから。 

書くという行為、そこになにかがある。 

なにがしか、作るということ。  

意味はやはり、ない。書く行為だけが 

続く。素晴らしくもないかもしれないが、 

それはそれでなにがしか、である。 

あなたが幸福なら、それが伝わる。 

書きたくないなら、書かない。それが 

空白で伝わる。 

書けば、その時の考える空気が、 

その時の些細な、あるいは激情が 

言葉になる。なにかを隠して、それを 

自分でも探しているのかもしれない。 

あまり、こう書いたら、こう思われるという 

ほんとうに無駄にしかならない想像は 

捨てたほうがいい。感情的なストレートな 

反応しか書けないと、恥じているなら、 

しばらく日記に内緒で、思い切り 

書きなぐるといい。それは自分の中の 

自分というもの、それが満足するまで。 

3か月以上なら、だれかに相談するくらい、 

病気になる手前。たいてい、その前に 

落ち着いてしまう。それから、どういう 

反応が落ち着いた言葉になるか、

書けるようになる。1年?それはあなた 

次第だ。 

考えや気持ちを制限してはだめだ。 

それは公表できないだろうけれど、 

自分には眼にもの見せるべきだ。 

格好つけてばかりでは、いつまでも 

自分に騙され続ける。 あなたのことを 

知という自分、自我という自分は 

よく知っていて、意識の裏に隠れ、 

あなたをコントロールしている。 

だから、内緒であなたの悪事を書き連ねる 

ことだ。三島も言うように、創作では 

なにをしてもいい。殴りたいやつを  

死ぬまで殴るがいい。ちゃんと書いて、 

それをあとから読んでみること。 

満足するまで書きなぐること。 

これはあなたに推奨することである 

だろうか、気の弱い人はしないだろう、 

と知っている。昔、僕のした方法だ。 

何人殺したかわからない。そして、 

悲しみが残った。3人目くらいで 

先に後悔するようになる。 

しかし、やってみないと、後悔は 

先に立たない。 

仏教ではそれを禁じることを言っている。 

僕はその戒律を破ったわけだ。少しも 

後悔はない。そういう自分を自分に 

納得させたからだ。その手前でうろうろ 

していたほうが、将来犯罪をおこして 

しまうかもしれない、とそう思うように 

なった。なにが正解か、この世では 

わからない。現実的な想像で、血を 

見て、あえぐ息を感じて、人が死ぬのを 

見る。だんだん嫌になる。自己嫌悪、

それでいい。では、そうならないためには 

どうしたらいいのか。 

昔、そうやって考えていた。もう数十年が 

経って、僕は大昔、人を殺したことがある 

のじゃないか、と変な確信を抱いている。 

普通人は、そうじゃない人が多いのだ。 

だから、思い切った想像も、思い切った 

自分からの飛躍もしたことがないのだ。 

そのために随分、悩んだのだろうな。 

それは罪を犯しても同じだったろう。 

そういうことは意外に経験すると、 

納得するものだ。

どちらにしても感情の制御が必要になる。 

考えたって、自分の衝動は止められない。 

少しずつ、刺激を強くして、激情の結果が 

どうなるか、想像する。泣いたり、怒ったり  

し始めたら、少し慣れてきている、もう 

ちょっとだ。 

けだるい時も来る。そういう中間点では、 

好きなものに遊ぶ。けだるい音楽とか、 

あるでしょ、そんなものが。 

どうにかしたいと、気づいて、その意識を 

手離さなければ、ひとつは脱出口が開く。 

継続していれば、2つ3つと数が増えて、 

そのうち世界が晴れる時が来る。 

そういうモチベイションを持つのに、 

どうしたら?ない人はそもそもそんな 

ことに悩んでいないだろう。何度も 

ころんでうまくなるスケートのようなもの。 

失敗を恐れて、臆病になり、さらに 

自己卑下になって失敗の悪循環を 

くり返す。失敗をすることが成功の  

条件のようなもの。それでも給料に 

しがみついて不幸な徘徊をする人は 

多いだろう。 

遊ぶものって、多いね。多くの方法は 

ストレスと闘う口実で、あふれた慰労 

の灯りに誘われて徘徊するんだろうね。 

そういうのは心の中間地帯になるん 

だろうけれど、いつまでもぬるま湯に 

浸かっていて、タブから出たら、冷えが 

速く来る。年齢だね。温まっているうちに、 

出たほうがいいよ。 

復讐も遊びだよって、誰が言ったのかね。 

なにもかも、自分から逃げてするものは 

それが勉強だろうが、福祉活動だろうが、 

それは自分の想いから逃げるための 

代償行為という遊びになりそうだよ。 

愛に生きるのだってそうだ、でも、真似 

しているうちに本物に変わるということ 

もあるだろう。まれに、運がいい、と言うか。 

エモい、か。 

そんなこと言ったら、この生活は 

やり方次第で何もなくてもエモい 

のだけれど、つい、この話になって 

しまう。  話のタネがない。 



すべてが ほどけてゆく 

こう言いたいと 思っても 

これは言いたくない という 

思いがないと 

すべて 古い風が  吹いて  

通り過ぎた  あと  

残るものは  ない  

そのうちに  人は  

ロボットや  アンドロイドに なりたいと  

もうすでに  思っているだろう  

1・ 2・ 3・ ・・と続いてゆく  思考が 

その要因を コントロールしているとは  

夢にも  思わないだろう  

つながっているとは  

やがて  

あたらしい風が  吹いて  

残されたものに  皆  がっかり 

するだろう  

僕は  ここにいて  

L  ん  さ  Mu ・  ・ 、

ナントイウ 

なんという、  

何を 

書いているのだろう  

なんという   しあわせと  

なんという  

拒絶したくない  気持ち 

こんなに  しあわせで 

いいのだろうか、  と  

こんなに  透明で  

いいのだろうか、   と  

ああ  

死ぬことさえ  できないのに  

こんなに  

あふれている   

すべてが   

祝福 されているのに  

それが  

僕という  エポック、  

時代 なのだろう 



さらば  



あなたも  

僕も  



なにも かも 





さらば  




僕ら 













::

ドラマを観ていたら、セリフが坊さんの 

説教のように辛気臭かった。でも、 

仏壇に今までの感謝に花を捧げましたか、 

というようなセリフはよかった。 

この10年で無関心だった仏壇、数える 

ほどしか線香をあげていなかったが、 

その煙をくゆらせた。この人たちから 

生まれたのだ、と改めて感謝した。

ただ、仏壇には来なくていいよ、と 

言ってやりたい。死んだ人と喧嘩する 

のは一度だけでいい(亡くなって早い 

時期だった)。死んだらもう喧嘩もできない、 

と言われるが、それをしたのは僕ぐらい 

なのだろう。

もう十分時間は経ったから、成仏した 

だろうが、・・。



さらば   両親  


あなたたち 




すべてが  溶けてゆく なぁ 


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