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エポックの空気 [謎]

ここで書くものについてため息を

つくようであれば、テーマ別に考え

ているものが7,8ある。そして、

資料読みの段階から進まずにスルー

して、結果だが、しているようにも

思えるのがその数あるのだから、

ため息などついていられない。

ブログを開くたびに、ああ、あれ

まだ書いてない、となってしまう

から、極力、忘れる。

どうせ覚えていて、一時的に、で

だけで忘れはしないのだ。


ものの答えのエポックは間接なので、

直接の答えではなかったが、迷い

の状況は説明がついて、見とおせた。

切り抜けてみると、なんてことは

ないと思えるのも、今までと変わり

なく、迷いが嘘のようだという

過去になっている。

過去は便利なものだ、始末がついて

いれば、僕を悩ますことはない。

そして、楽しませることもなくなる。

今は、謎をひとつ解決すれば、謎の

数が減るとはならないのを知って

いるので、街を歩くように急がず、

怠惰にならず、そこそこしっかり

元気に歩きたい。


こう一段落ち着いた時は、気分も

中くらいでなにか心に書くことが

隠されているとは思えない。表現

である=expression は =press 

圧縮されたものが心から押し出され

てくる。その感じがないのである。

迷い多き時のほうが収穫は格段に

多い。こうしてスッとしてしまうと、

少し腑抜けになったようだ。

しかし、すべてはこれからである。

自由も平和も民主も、どの時代で

も完成したり、成就したりする

ことは集約的にテーマを決めた場合

に限られていたし、これからも形も

意義も変形し、変遷して、もみくちゃ

にされるはずだ。

僕らはラッシュアワーの電車で

もみくちゃにされていながら、外

の余裕ある景色を見ているのだが、

このどうしようもないのが現実だ

と知っている、またそのつもりだ。

本当に知っていたら、その電車内

にはいないだろう。


僕はこうして過去から出てくると、

また見晴らしのいい道を歩くこと

を知っている。

そうすると、今まで車内から眺め

ていた車窓の景色をその中を歩い

て行くことをしている。そうすると、

僕が考える自由が自由の形になり、

平和も理想もその元の姿に加えて、

誰かが手を加え、デザインが変っ

てゆく、そういう未来を想像する。

写真家・森山大道はその対談集を

『過去はいつも新しく、未来はつね

に懐かしい』とそう表現したが、

それは僕の実感でもあったので、

どういうことかいつか確かめた

い。  

無意識と自意識とを瞬時往復する

のはそういうことなのか、その

辺りの事情を確認したいのだ。

彼のモノクロ写真で「遠野物語」

を見てみたが、暗くてよく見えず、

それもまた闇の表現なのではないか、

となにか惹かれるものを、後で

感じた。


ものをつくる道は、僕の経験では、

何でも自分のつくるものは形に

なっていると思う。

そこにはそれなりの見分け難く

ても、美が内臓されているのだ

と信じる。

そして、アートという技術や芸術

の申し子のような思想の中で、

いつのまにかそれが固まるのだが、

それは未熟な一時期の形の形成期

に過ぎない。その自惚れが必要なの

だが、それがないとそれが壊れた時

の空虚の感じがわからないからだと

思う。

ものの美はすべからく、闇に突入する。

ものがわからなくなるまでがその

道程で、その間は自問自答を繰り返す。

そこにぶち当たったのは他ならない

自分であって、それを誰かに解決でき

るとは到底思えないからだ。

闇に突入するまでは、自分の評価と

世間の評価が釣り合っているような、

または世間が自分に追いついていな

いという、どちらにしても優越な

幸福感に浸れる。その時期も重要

な過程なのだろう。

景色が開け、道がいくつも見えて、

好きに歩くようになると、自分は

どこへ行ってもいいのだ、新しい道を

恐れまい、と積極的な姿勢になる。

次は枝葉では迷うかもしれないが、

進む方向ではまず迷わないだろう。


エポックという言葉がそこで具体

的にわかる。言葉ではなく、自身

の体験になる。人生という言葉が

概念ではなく、ちゃんとした内容

があり、その中味を生きているのが

自身であることを知る。

僕らは現実からの逃避として夢を

見ようとするのではなく、そういう

概念のバランスではなくして、現実

への支えとして、また現実を変える

指針として、夢を見ることもできる、

と思う。


漢字の「思う」に初めは考えるという

意味はなかったそうだ。僕らは相手

に自分を評価させようと(還元)思う。

もっと私を見て、と。いや、相手が

あなたを見ているのだ。

それはひとつの方向として、必ず

ひとつの(限定されてはいるが)、

正しさを示している。だから、その

正しさを正しい方向から見て、

確認する必要がある。

それが相手の立場に立って、とか

よく言われるアドバイスだが、

僕らは相手が歪んだ視線で見ている

からわからないのだ、と決めつける。

社交上、言わないだけだ。それが

自分をも歪めている。私が正しい、

と。

北海道の空気のきれいな土地で暮らす

と、東京など都会へ出てくると臭い

そうだ。

インドのカルカッタに初めて来て、その

喧騒と貧しさ、不潔さを見て、僕は即

日本をこうしてはいけない、と思った。

僕は自分が日本人だとその時までよく

知らなかった。海外へ出てきたのは

僕のルーツが欧州にあるからではないか

と思っていたからだが、インドでない

ことはすぐにわかった。

しかし、、である。

僕は日本人である自分を守ろうとした

のであって、インドから貧困とは何か、

反面教師で日本とは何か、を学ぼうと

していた。途中で会う日本人観光客の

インドへの貧しさへの軽蔑(40年以上

前の)に何を見ているんだ、と思い、

そういう気持ちにはなれなかった。

僕が自分の歪んだ視線・恣意に気が

ついてゆくにはまだまだ、インドで

鍛えられることが必要だった。

なにしろ、その頃の僕は日本人をやめ

る方法、とか海外移住の本を読んで

いたのだから。

日本を知り始めるのはそれから30年

の日々を数えなければならなかった。

教えられたことがことごとく覆される

のはさらにそこから10年が、・・・。



僕らは宇宙の中にいるのがよくわかる。

そして、この言葉が伝わっていないの

もまた、よくわかるのだ。それは僕らの

頭の中にしかない、現実じゃない。

あるはずだ、と思っているのが正確な

言い方だろう。

宇宙へ出ると自分と否応なく出会う。

それは文化であり、自分証明だ。それ

が揺さぶられるから、一種の文化ショ

ックを起こし、自己確認を迫られる。

月の石を持ってきた隊員はそこにあっ

た石をまるでこれを持って行くように

言われた気がした、神がそこに置いた

のだ、と。

この隊員だったか、他の隊員だったか、

地球に生還してから、聖書のノアの

箱舟を探しに行ったそうだ。行かざる

を得ない、それほどの月面体験・宇宙

体験だった。僕らにはまだ手が届かない。

月面という銀河系からしたら、すぐそこ

の衛星でそういう体験をする。

宇宙を知っている、とは言えないし、

もっと地球を知りたいと僕は思う。






:::

下弦の月が昇り始めた。

それはもう窓から消えるほど時間が

経った。

月はまだ夜空のどこかを経過している。

月は落ちてこない。遠心力と引力が

釣り合っていると教えているが、重力も

引力もないという考え方をYouTubeで
観たが、面白いのはそういう考え方が

できることで、真理かも知れない仮説

だということだ。

そうするとニュートンもアインシュタ

インも否定される。この先は別の稿で

書くとしよう。

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