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長すぎる 長くはない10年 [心の進化]

長すぎたのではない。

今は今。 が、それは瞬間に区切って

切り狭められたものでもない。


この10年。


長かった。言葉にならない。

意識の先端であるかのように

その緊張が生きる証であるかの

ように感じて、疑わなかった

半世紀がその10年でもあった。


無意識は世界を開いた。

かくなる確固たる見方でいられた。

しかし、半永久な精神運動は疲れ

もした。

戻そうとして3年。楽になって半年、

だろうか。



中学から大学入試まで、その頃の

千葉の海の思い出が三人にあって、

素晴らしい夏が何年も連呼した。

その夏の最も重要な人が過去になり、

そして、それから20年以上も経って

千葉にひとり出かけた。なぜかわから

なかったが、行ってみて、思い出の

磯で10分ほど坐っていたら、わかった。

海の思い出が終わるのだった。

思い出がただのセピア色の記憶に

変色していたのに気づくことだった。



「終わった」とはっきりして、立ち

上がった時、磯に波うつ光景がなんの

感激もなく、透明に寒々しくもあった。

その時にその二人の友達も失うとは

思わなかった。


それは根底から覆してしまう自己革変

だった。やがて舞台が夢から現実へと

その中心を移してしまう前触れだった。


それをはっきりと教えたこの10年は

長く、果てしないのものに感じさせた。

本棚で部屋に四角く囲った、さらに

狭い空間は机を前にして、一人用の

空間だった。そこに入るのは好きでは

なかったが、違った。そこに入ると、

今日は落ち着いた。そして、その感興

がどういうものだかがわかった。

高校の時代だった。高校生の自分がいた。

僕は高校の時の自分の感覚の中にいた。

あの頃の希望、生きにくさ、野心、なに

かわからぬうちに未来への情熱を感じ

てしまう青い匂いの汗の生命、その

生命感を感じている。


それはこう言えるのに、自分でも驚く::-

僕は過去にいる。タイムスリップして

高校生になった。しかし、これまでの

60年もの記憶がそれに屹立している

から現在を見誤ることはない。

が、タイムスリップした感覚は続く。

この世の時はそのままだ。僕が変わ

った。



夢の側が中心で生きた僕には、この

半世紀がこの10年に感じ、またその

中味は悠久の時を感じさせ、覚えて、

僕を雨の外へ連れ出そうとしていた。

玄関先でしばらく、雨を見ながら

立っていた。立ち尽くすような気持

ちで、その感興とともにあった。


因果は冷たく鉄のような立法で不変律

であるが、それを柔らかく感じる自由

さがあった。今、それは生まれたの

だろう。

五万もの変則・変化を時々刻々読み切る

のはできることではない、不可能だ。

それが自由の源なのだ。読み切れなけ

れば、僕らはわかりきった予想で確実

な道を進むという安全・安心な生を

過ごすことは適わない。だからそこに

確実に冒険・挑戦の要素が入る。

まさしく思ったようにはいかない。

そこに不安を抱かせ、いかに達成率

を高めるために努力するか、それこ

そが自由だと因果は教える。



それはまた、これまでの社会を築き

上げてきた歴史の上での男の世界だ

ろう。

僕にとっては遅きに位置するかも

しれないが、前準備を終えて、好き

な世界を構築するための後準備が

できたことだろう、とも思う。

それは私(わたくし)からではない、

私のものではない、無私からの世界

だろう。この意味はよくわかるが、

人が知るのは実行された後になる。


夢から覚めた詩人のランボーは

極端だった。彼の少ない詩がヨー

ロッパで有名になり、詩の依頼が

来る頃に彼はアフリカにいた。

商人として武器を売りに来て失敗

した。しかし、彼は詩をもう軽蔑

していて、依頼は断った。恐らく

商人としてする苦労よりも相当に

楽に稼げるのに。

商売は止めなかった。商売人として

死に、現実に生きるほうを選んで

いた。もちろん、彼の名は天才詩人

として残り、これからも朽ちること

はないだろう。アフリカの紛争地域

での商売は命がけの冒険だった。彼

も子供の頃の夢を手に入れたのかも

しれない。




::
ランボーの放蕩詩は「地獄の季節」

を読むとよい。
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精神の或る領域は進化の鍵? [心の進化]

::精神編::


何もしていないでひとりいる時、

やはり不安があり、孤独である。

これは自然状態なのだろうと

思う時、今、書き始めている時

にはこの行為上の僕はまったく

孤独を感じなくなる。不安もない。

むしろ、充実さえ感じる。

<この応用は昔からあり、身内の不幸

で悲しい時は仕事に打ち込んで、

時間を忘れる、などがそう。この

ことから、自分を想起して自意識が

立ち上がること、そしてその自分を

打ち消すためには時間(自意識下で

ないと思い出さない、時間の存在は

自意識が必要)を忘れるために没頭

する、というのがわかる。>


精神は自己である限り、その拠り

処を求める。拠り処がありさえす

れば、精神は安定感をもっている。

では、精神と呼ばれる体の神経など

様々な複合の関係を持ちながら、

在るものとしての“それ”は、依拠

し続けるものが必要であった筈で、

精神という自己が固まるまで、何を

材料・エサ・食料・構成物にして

自己を形成したのだろうか?

たぶん、僕らは答えを持っている。

しかし、それをはっきり意識でき

ない。

僕は見つめている。つもりだが、

できているかはわからない。

精神という概念ではなく、その

全体が意識の或る工夫でそれこそ

「或る・存在としてのもの」として

感覚できるだろうか。

その精神に依拠しない僕という僕は

存在するのだろうか。考えでは

矛盾するのはわかっている。話して

いるのはそういうことではなく、

人間に自己基準は確として存在して

いるように僕らには思えるが、動物

にはそういう概念基準はないだろう。

彼らは自己概念ではない生きる基準

がある。そうでなければ、生まれて

すぐに食料を得たり、捕食する方法

がわからずに滅びていただろう。

では人間は動物ではないのか?その

自己という一点で動物とは異なって

いる。だが、人間になる前は動物で

あるという進化があったのなら、

まだ動物に退化する可能性は捨て

られていないはずだ。

だから、自己の機能を残して、その

枠を残したまま動物の精神に還る

という変化は残っているだろう。

例えば、それが葉っぱであるなら、

自己は葉緑素のようなもので、

精神が葉っぱ全体であるなら、

自己を捨てた葉っぱは透明な葉っぱ

になるのだろう。葉の形はそのまま

残しながら。

形は自己の形を残しながら、全体では

精神のままである、という。

枠が残る限り、自己は常に生成される。

毎日その清掃・整理作業があるだろう。

まるで水槽を汚す緑苔を、目立ってきた

なら清掃するようなものだ。

透明の状態が、自分の主観を排し、

客観を呼び込むことになるから。

そういう動物の意識と人間の意識と

を分離ではなく、統一で感じる状態は、

日常でもよく起こっている瞬時である

とも考えられるのだが、これはもう

少し先に別な処で意見を述べよう。

そういう状態で動く感情や感覚・思考

というものを一種の精神(状態)と

言っていいのならば、彼は自己に

かかる抑圧はうすく最小限なので、

恐怖は抑えられるだろう。それは

不安にならないので、孤独感も感じ

ないようになるだろう。

自己を盾にして、防御一点張りに

ならないので、自然の秩序は彼に

馴染むだろう。そこから彼の地球

との一体感が生まれてもおかしい

とか、不可解なことではない。

彼はひとりだが、ひとりという孤独

を感じない。

それは人間関係との間での安定感

ではないが、同じ生命体としての

命の一体感を持つものだろう。

「一にして多」というような仏教的、

あるいは哲学的命題ではないにして

も、そういう感覚が支配する精神の

体感になるだろう。


どうして瞬間は永遠だという命題を


僕らは受け入れてきたのかが、不思議

だが、それは僕らの昨日から今日へ、

今日から明日へという継続概念で

ある“時間”の概念を捨てなければ、

受け入れてしまうのは矛盾して

しまうはず、だからだ。

ユークリッドの幾何の点の概念は、

部分を持たないもので、長さも幅

もないとするが、そんなものは

空想の概念以外では存在しえない、

と考えられる。すでに大昔にその

矛盾を定義して、受け入れざるを

得ないようにしている。

そういう点の中にこそ、瞬間も永遠

も存在すると誰かが言いそうだ。

間違いとは決まらないが、実質的

に捉えれば、それらは異なるもので

ある可能性がある。


ひらがな・漢字を僕らが日常で触れ

る生活を指すのなら、精神はカタ

カナの世界だろう。僕らの心にある

精神という抽象は幾何的な形で、

直観的でないので見てもすぐに

わからず、ひらがな・漢字に変換

しないとピンと来ない。

世の中がカタカナ(精神構造を基本

にして)ばかりになっても、変化は

少しずつなのでその体勢、やがて体制

が進んでも気づきにくい。

その増えた体制の中で情報やシス

テムの統合や簡略化を進めている

わけだが、それはいつまで尻ぬぐい

が続くだろう、とも見えてしまう。

世界を変える、と言った意味は

これまでもこれからもそこら辺り

でうろついているのだと見える。


僕らが世界を変えたと呼ぶものは、

実はほぼ人間社会に影響を及ぼした

ものを指していて自然や気象・海流

といった生活の根源を変えることは

ない。改良して便利にしたことを言う

だけだ。スマホもそう。

僕らは相変わらず、四角い家に住ん

でいるし、車の中も四角、あるい

は台形のままで、外側のボディが

少しチェンジされたのを格好いい

と見ている。ただ四角を組み合わ

せただけなのだが。(ただし、ここ

まで体感が慣らされると、曲線の家

ではめまいに襲われそうだ)



不完全な人間が考える生活が不完全

の中で、いつまでも修理ばかりを

続ける宿命に悩まされているだけ

なのだろうか、と僕が思うくらい

だから、脱出口もその方法も豊富に

“見えていない”日常にあふれている

に違いないのだが、・・。

この方面に目を向ける必要があるの

だが、社会資本が提供する流行が期待

される商品ばかりに目が行って、ます

ます購買意欲ばかりが刺激される方向

なので、ちっとも外に目が向かない。

それは僕らがお金ばかりに気を遣う、

そういう生活をプロパガンダで刷り

込まれているからだが、そういう環境

を提供され続けてきたので、その理由

を考える余裕もなくしている。見つけ

ても時遅くと感じるのだろう、内部

批判だからよほど緊急に改善が必要

だとわかる案件や事件以外は、批判が

続けられない。そして、根本の因まで

たどり着かずに、また置いてかれ、

忘れられてしまうのだ。こういう

習慣で今までやってきたので、僕らは

実生活の不安・不便さには立ち上がるが、

世界全体の偏った方向や歪んだ体制には

眼が向かないように親から祖先からの

遺伝子を受け継いでいる。



::体験編::


それが確実にわかったのは、僕は還暦

から無意識生活に入り、10年もして

からだ。それは顕著な変化があった

からわかった。

戦後GHQは共産思想を日本人の精神

構造に叩き込むために、7000冊もの

日本の歴史の神道や忠義の人物などを

教科書から消してしまった。

僕らは例えば、和気清麻呂や楠木正成

のことを知ることがなくなった。古事記

も日本書記もその成立期が記される

だけで、その精神はまったく教えら

れることはない。当時の共産党員が

教育組織の中心に入れられて、反日の

教育が始まったからだ。

これは日教組のいじめに対しての無関心

から対策がほぼされてこなかったため、

いじめの件数が上がり放しなのを見ても

確認できる。交通事故でも10年前、もっと?

から対策して死者数が半減したのだから、

頭打ちならともかく、右肩上がりは異常

である。


ここで端折るが、僕は天皇は友達の

ようなものだと、10代か20代の頃、

その位置をどこに置くのか迷って、

(天皇は象徴であるという中途な

位置、今の上皇も象徴の立場に迷っ

ておられたという発言をしている)

そうしたが、すでに天皇の権威を

軽く扱うように洗脳されていたが、

それが洗脳ではなく、自分が考え

自分が決めたことだと思っていた。

アメリカなどの欧米文化にアメリカ

ナイズされた影響だとは知らず。

或る日、そうではないことがわか

った。しみじみと天皇への畏敬の

念が湧いてきた。驚いたのは僕で、

僕は自由を謳歌して、そのように

歩いてきたと思っていたし、そうし

て来たので、疑いはなかった。

が、この畏敬の念は厳密には僕の

ものではなくて、僕の祖先のもの

だった。これまでに天皇に関心を

持ってその歴史を調べたり、その

関係神社などを参拝に訪れたこと

も、実に一度もない。

だから、突然湧いたこの念は不可

思議なものだった。

僕の中からのものだから僕のものの

はずだったが、僕にはその痕跡の

記憶もなかった、にもかかわらず

実感だった。だからといって僕が

いきなり天皇崇拝者になったわけでは

ない。今も検討中だ、日本精神と併せ

て。

僕は恐る恐る、この畏敬の念をすぐ

には受け入れず、どうしてそれが起こ

ったのか探ろうとした。

それは2,3日して不思議な感覚に慣れ

始めてからのことである。

呼応したのは、やはり戦後のこと、

大東亜戦争=太平洋戦争=第2次世界

大戦のことを最初はわずかにから調べ

始めて、畏敬の念は2年前?で、なお

しばらくしてからの時期だった。

それは僕の中で今まで接点がなかった

ことで、戦争のことを、つまり自分が

“嫌なことを調べる気持ちになれるまで

になって”、つまり自分に向き合える

ようになってからのことだった。

アメリカ文化という、音楽や映画が

自由主義を文化として日本に半ば意図

的に輸入された。それが幻の民主主義

も定着させたのだが、選挙に行くも

行かないも自由だと考える、そこには

民主主義はない。すくなくとも民主主義

という歴史を知らない。

僕が民主主義を知ったのはインドで、

避暑地であり、またヒンズー教徒と

イスラム教徒とが折半に近く、それで

対立が鮮明になったカシュミールの地

でのことだった。紛争が起きやすかっ

たので、軍隊が駐留していた。そこで

ぶらぶら観光気分で街中を歩いて

いた僕はある住宅地の路地で、二人

の兵士に呼び止められた。二人は

ライフルか機銃を肩に下げていた。

それで一気に緊張が走った。どこか

へ連れて行かれて尋問を受けるの

だろうか、と不安になった瞬間に

その機銃の鉄の匂いがした。

これも面白い現象で、僕らは緊張す

ると、特に死を前にするような時の

緊張には、五感が全開放されて周囲

の環境を5mだか10mで嗅ぎ分ける

能力を持っているらしい。死を脳が

感じることが必要である。強烈な、

あの血の、鉄の味がした。

それは簡単に、これ以上入るな、と

いう警告だけで済んだが、帰国して

しばらくしてどこかの国で軍隊が

邪魔をして、投票所に行けないと

いうニュースを観てわかった。民主

主義は安心して投票所に行けること

なのだと。

それはインドのカシュミールでの

鉄の味の体験があるから、そう感じ

ることができた。TVを観ながら、

すぐに思い出したのが鉄の匂いだっ

たから。


僕らの民主主義は単なる教科書の

政治体制のひとつに過ぎない。古い

ものが好きな人は、封建主義に戻って

もいいじゃないと言っているのを

聞いた。それは自由に関わる。西欧

ではその自由を勝ち取るために戦い

が必要で、戦争というその残忍な

革命の歴史があった。

僕ら日本人に『自由を守るために

民主主義のために戦う』という議論

は無縁だ。なんのことかと思われ

てしまう。それは一部の知識人が

暇な議論で言質で戦っているだけ

のことだ。


これまでの意識の無知の現状を説明

するためにブログとしては長く書き

過ぎたかもしれない。短絡してしま

えば、僕らの精神はそれから発生した

僕らの文明文化であり、そこまでに

変遷した彩である僕らの歴史である、

そこから敢えて批判的な側面を挙げた

ということ。人類の文明文化の賛美・

優秀さは改めて言うまでもないだろう。


ヒントは言葉では民主主義でも歴史

ではそれは重い感情だ、ということ

である。

::

僕は投票所の前で自衛隊がバリケード

を張って、投票させないように銃を

構えている日本のニュースは見たくない。


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僕らが旧人類でなければ新人類もいない [心の進化]

水色の小さな粒のガラス玉。それと、

青白い、ちょっとだけ濁った透明な

ガラス玉が混ざり合いながら、中空を

ゆく。片方は愛で、もう片方は悲しみで、

混ざり行くさまにそれが見える。

どちらも同じで、混ざっても同じに見えて、

それを当たり前のことと見ている。

我に気がついてみると、自分が考えて

いることを夢に見るのと、これは同じ

なんだろうな、と思う。それらが反発し

あわないのが、もうどれが愛だか、悲しみ

だか、わからないのが、そのシンメトリー

というものなのだろう。

これが何を意味するかは、尋ねる人の

興味に拠る。答えはそれぞれだろうが、

そこから反発を見出すことは、かなり

曲解しなければ出てこない答えだろう、

とは思う。

音楽を聴くと、人はメロディに気を取られ

るのだろうけれど、僕もそれを中心と

するが、やはり、全体というバランスを

聴く。音楽というものが、すべて和を警告・

啓発・啓蒙するものに聴こえるの

だが、 ・・・。

昔は、音楽はずいぶん、慰めだったが、

今はそれは伴奏に替わっている。伴奏

は必要な時にあればいいもので、いつも

要るわけではない。

人の愛は本来はコントロールできないが、

愛に飢える人は多く、その人たちは外に

それを求めるために、敵に相談を持ち

掛けていることを知らない。あなたの中に

愛がなければ、外を探してもその代わり

しか見つからない。それが代わりだと、

どうやって知るのだろうか。溺れると

知っても藁を掴むのは、このまま苦しみ

が続くより、まだ溺れたほうがまし、と

思うからだろうか。

愛を求めるのは、誰かにコントロール

されるのを求めるのと一緒だ。

僕はそういう愛を知らない。愛を求め

ないこともあるのだろうけれど、異様に

強い自身の愛情には手をこまねいた

からだ。

例えば、1億円くらいのくじが当たって、

それを少しでも人に話すと、あっという

間に知れ渡る、その早さには驚く。

お金と愛情は違うというが、強い共通点

を持っている。ともかく、お金を集める

には愛を利用するのが、一番手っ取り早い。

新興宗教は、いつでも今でも相変わらず、

その同じ手口を使う。

愛を求めるというのは、生活自体が

異常に激烈な不安に置かされていると

いうことだ。そうなると、いても立っても

いられない。安心を得るためなら、お金

には、1億だろうと、2億だろうと、構わ

なくなる。お金で愛を買おうとしているの

だが、その意味を理解しないし、そのこと

さえ気づかないのかもしれない。

ただ、なにかに依存して、安心を得たい

一心なのだ。

そういう忠告を得られても、一時しのぎで

自分が本当は何に不足していると感じて

いるのかを自覚するまでは、仮初めの

安心しか手に入らない。

その仮初めでも、また偽りでもあるの

だが、ささいな幸運なことが一時期続く

から、自分の入信は正しいと思い込み、

教団から抜けるのは難しくなる。

一文無しでもいいという気にさせられる

から、もうどこへも行く当てがなくなって

しまう。自分で選んだ罠の中で生活を

せざるを得ない。 

親も配偶者も、家族も兄弟も犠牲にする

ほど、行方不明者や自殺者を出すほど

の荒れた生活になれば、社会の中にも

留まれないだろう。

どこまでこの不幸を書いて行くのだろう?

と思っている、僕が。

そして、これは何だろう、と俯瞰しようと

する。悲しみと愛が交じり合っている。

そういうことだったはず。

これはやりきれなさだろうか。

愛を求めるのは、やりきれないことだ。

求められないのが愛であるのなら、それ

なら僕らはどうやって救いを求めたら

いいのか。ここに戻ってくる。

自分を救うのは、最後は自分しかいない。

それがわかるまで、不安は去らない。

まず、そういうものであるなら、そこから

始めるしかない。

自我を強くする方法があればいいのだが、

強くなる状況はあるが、それは望むべくも

ないことだ。ブッダは危険を顧みず、伝統

に従ったが、悟ってからは自らを導いた

方法を禁止した。

孔子は晩年には最高の弟子を早逝で

失ってしまい、生涯はほぼ弟子を連れて

の流浪の生活だった。

ソクラテスは神に召されると信じ、一市民

として政治の罠で毒杯を仰ぎ、牢中で

いさぎよく自死した。

伝記は美しく物語を語るが、それは尊敬と

崇拝の念からだろうが、精神的に解脱した

ような人は現実では夢を裏切られる目に

会っている。僕らだけではなく、彼らも避け

られないのが、この世の悲哀だ。

悟りたい人は悟ればいいだろうが、それは

その人がその選択をしなければならない

事情があった、というのがほとんどだ。

ブッダのように禁欲的で、我慢強く、修行

で考えも飛躍的に進んだだろうが、そう

いう人が、必ずしもいつもブッダの道を

進むわけではない。その人にとって、

それが必要でわかりやすかった道なの

だろう、と思うだけだ。


精神が安定したと見える人は、その人

本人に会ってみれば、なるほどそれで

しあわせで十分な道を心得ているのだ、

と納得できるのかもしれないが、もう

その人たちはいない。はた目には

とても幸福とは思えない生涯を送って

いるというのが、実情だ。

だから、僕らが何に悩み、不安を抱え

るのか、僕にはわからないが、それも

彼らの生活から比較すると、贅沢な

悩みではないか、と思うことすらある。

聖人は悩まなかったかもしれないが、

精神が安定したからといって、現実の

不可思議・不条理・理不尽さに襲われ

なかったということではなかった。

僕らとそれほど変わらない。それ

なのに、僕らだけ大騒ぎをするの

だろうか。

ブッダは自分が死んでも悲しむこと

はない、法を順守して進め、ということ

を言ったが、誰も理解しなかったの

だろう、入滅して弟子どころか、象もトラ

も泣いた(?)そうだから。(伝記)


だから、3000年以上も同じことが

くり返されている。仏典を読んで、理解

したという人も、やはり、性格が違うの

だろう、新しいブッダが現れることは

なかった。つまり、ブッダは人生の全体

を克服したのではなかった。でき

なかった。

僕らはだから、今でもひとりなのだが、

ひとりになりたくないと、救いを求め

続ける。本来的に仏教、キリスト教、

儒教、新興宗教の数多・・・・・などの

教えに拠ろうとしたりしている。誰も

それを否定してやらない。信教の自由

という憲法上の逃げ道がある。問題

はそこではないのに。

役に立たないのなら、権威でもない

だろうに、宗教法人関係の人の

話や議論や相談は無駄なのだが、

話は向こうのほうが論法を心得て、

例えの使い方もうまい。飛び込み営業

だって、相手の反論にどう答えるか

くらいは用意して、練習して各家を訪問

する。話してもどうにもならなくなって

言いくるめられるのは主婦のほうが

よく知っているだろう。


つまり、今は煮詰まっている、ということ。

それは精神的に追及の段階途中の場合

はいいことだ。あと少しでこの緊張は

破れて、新しい道が開かれる可能性

がある。いいことばかりを言う政治家や

宗教団体とは異なるのだから、僕らには

その用意が必要だろう。

それはなんだろう。まず自分という個人

事実を受け止めること。

受け入れずに、それをよく検討すること。

楽になりたいという気持ちが強いと、

見当なんかどうでもよくなる。それでは

また、時代をくり返す、旧人類と同じこと。

旧人類と決められるほど、大転換が

あるのを期待するのも違う気がするし、

・・だが、それはある。


もうこれ以上はない、と思ったその時が

開ける。その矛盾が僕らを踏みとどまら

せる。すべてはそこまでしか道案内は

できない。そこから自己犠牲とやらを

信じた、捕虜の処刑が決まってその人

の身代わりを申し出た神父などは(のちに

聖人に教会から列せられたが) 中途半端

に気づかず、道は開かれないだろう。

もっと大きな、 ・・ それを明かした者

はいないように思う。言葉も、音楽も、

絵画も中途半端だからだ。そして、

それを思わせる疑似的な世界は

数多くある。数多くの錯覚させる神秘

が、 ・・・。



・・ は、人間よ、これらの世界を

楽しみたまえ、苦しみたまえ、と

言っているようだ。僕にはそう聴こ

える。邪魔な声だ。

愛と悲しみが混ざり合う、そういう

世界なのだ、ここは。  7 . 26 




:::

新人類ということからは、ミュー

タントとかのSFじみたおとぎ話が

もてはやされるが、体が変わるの

が最もそれとわかるからだろうが、

その進化人類は希望に終わる

だろう。それはアンドロイドなどの

科学技術がそれに近い形で実現

させつつある。

体を決めるのは自然環境が大変化

して、絶滅の危機が訪れて、それを

回避する人間が、恐らく突然変異した

子供が生まれるのだろうが、そういう

時だ。

僕らは旧人類のまま、変えるべき

なのはそれではないと知っている

はずなのだ。根本的な改革が必要

だという意識が伝播しなければ、何

も起きず、何も変わらないだろう。

そういう記事も情報も仮説も、見た

ことがない。過去に拠った偽書か想像

によるものか不明な仮説を持ってきて、

そこから何を言っても、また批判しても、

それはいつの時代も繰り返されたこと

だ。そのダ・カーポ、ダ・カーポを

続けて、フィーネはどこ行った?

新しいというのは、流行のくり返しの

ことではなく、新旧の違いが如実に

見えるということだ。それを現した

言葉がまだ出現していない。だから、

自分の言葉で語り始めるしかない。

誰かが言った言説ではない。そういう

ルートを辿らなければ、なにかを言う

ことはできない。悟り、とか天とか、神

とか数千年も使い古されて、まだ当時

の意味合いが残っていると思うのなら、

平安の源氏物語の古文など、僕らは

今でもすらすら読んで、当時の意味合い

で理解できるはずだ。それほど平坦な

意味の比較で、それらのことを僕は

言っているつもりだが、 ・・・・。


            追加・推敲 7. 31



:::

旧人類と新人類が分かれるのではない

気がする。そこで二つの人類がどうの

こうのは、これまでしてきた考え方の

まったくの踏襲で、それで新しい時代の

幕が切り落とされたことはない。

何が変わるのだろう?

まったくそうだ。

何が変わるのだろう、その入り口を

見つけようとしている。それはそれを

受け入れる準備が整いつつある、と

いう前代未聞のことに聴こえる。

それは僕らが目の前にしているもの

に現れているのだが、僕らが新しくは

ないので、気づこうにも気づけない。

まったくそうだ。

何が変わるのか?

                  8. 5
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どこからきて、どこへゆくのか 詩だな [心の進化]

Love nwantiti という曲を聴いている。黒人の

グループの曲らしい。特に好みでもなんでも 

ないが、デスクトップにスピーカーが内蔵され 

ているので、久しぶりにヘッドホンを通さずに 

音を聴いている。これは調子がいい。 

新鮮に音楽自体が聴こえている、といった 

感じで初めて離島を歩いた時の雰囲気が 

蘇る。音楽がそこにあるのだ。 

頭の中でなく。 

耳の中でなく。

昔、一斗缶をたたいて、リズム中心の曲を 

作曲したことがあるが、やはり原始的な 

音楽に似たものになった。単調なリズムが 

多いので、少しのメロディのニュアンスが 

違うだけで、その国や地域の民族臭が 

際立つことになる。今は次の次の曲に 

移っていて、インドになっている。

यह हमारे सोशल मीडिया के कुछ लिंकは 

ナーガリー文字だが、半世紀も前に1年 

習ったが、もう忘れている。辞書がある 

ので、これが曲のなにを示したのか、

調べればわかるだろうが、印度ー英語 

辞書なので、訳は英語で、もう一回翻訳 

しなければならないので手間だ。 

Adele の曲になった。急に洗練される。 

今のスピーカーの性能がいいのか、高音 

の抜けがいい。

書く時に気分に合う音を探して、youtube を 

サーフィンしたものだが、今は音に合わせて 

書くという何かがない。なくていいのだろうから、 

このほうが気楽だ。なにか核のある、真理とか

真実とかかしこまるようなことを書くのが、飽き 

たというのも多少あるが、それよりもこだわり 

のないことに慣れてきたようだ。生活をサーフィン  

するのが楽になった。それこそおしゃべりの 

骨頂だから。 

こういうようになると、そこらに転がっている 

幸せを拾って、今を楽しめばいい。 

そうか、クリスマスでもある。X’マスは気に 

したことはなかった。しかたなくつき合うという 

態度だったから。ほんとうに楽しいという人 

なら一緒にいても楽しいだろうが、そんな人は 

いない。子供くらいだ。 

その雰囲気だけで、今は十分。 

朝起きると、布団の周囲は数百冊の本が 

積まれている。これを読むと思うだけで、 

実際に読むのではない、そう思うだけで 

幸せだ。釣りをしていても、時にそう思う。 

針に餌をかけるのをやめるか。魚が遊びに 

来てちょっかいを出すから。餌がなければ 

それもないから、浮きも静かなものだ。 

釣りには引き上げのタイミングとその 

合わせの心との駆け引きが必要になる。 

やめて、糸を垂らしているだけでいいん 

じゃない?忙しくならないから。 

と、思ったりする。 

何もしないほうがしあわせだ、と思うのが 

僕はその範囲や都度で多いほうだ。 

そろそろ泥遊びに移行する時期が近いの 

かもしれない。粘土の焼成は作品ができる 

までもが長いので、晩年に手をつける 

つもりだったから。  

文化の成熟度もあるし、人間の成熟度 

もあって、自分がどういう基準に沿って 

いるのか、どんな基本と思われている 

ものに信用状を渡して、それに動かされ 

ているか、定かでないのが僕らという 

集まりだ。自然は千変万化だから。 

速く変化するものも、千年単位で変化 

するものも、僕らの寿命という単位から 

それらが長いとか短いが測られている 

のが、いつもの現状だ。 
 

こういう気分はもう飯なんか食べなくて 

いい、というものだ。寝なくてもいいし、 

そうすれば起きなくて済むと考えるような 

不精な思考だ。

そういう時、僕らはどこにもいなくなる。 

気づかないほどに。 

そして、消え去るとかは、ない。 

自分というのはもっと骨格があり、 

はっきりしたものだと思っていた。 

個性というのは僕らが犬や猫とは 

生き方も性質も違うくらいに、選択 

できる際立ったものだと思った。 

ヒとか、チャーとかをリズミカルに 

連続で単調に歌うのと、人生の 

基底音というのはそれほど変わらない、 

と気づかされる、それがわかるという 

のが僕の自分なのだろう。 

よい変化より悪いと感じる変化が多い 

のは僕らの現実への適応の問題で 

現実の流れの細かい理解が追い付か 

ない、謂わば速度の問題に見える。 

細かいきっかけに気づけないのは 

僕らがそれに適応するだけの、体と 

心を備えていなくて、たぶん、その 

理解に足るだけの感覚なりを備える 

のは非常に負荷がかかるのだ。 

それよりも楽しむほうを選んだのが 

進化後の僕らではないか。 

自由を発明しただけで、それは理想の 

色に包まれて、制限あっての可能な 

ものという、それには眼をつぶるように 

なったのではないか。

それを歪みと捉えると、この世のあて 

にならない事情のある程度の解釈が 

できるような気がする。そして、同時に 

だからと言ってどうなんだと思うのも 

避けられない。まず、僕らの怠惰と恐怖 

がまずあるからだ。それを克服するのは 

僕らが僕らであるのを否定するような気 

もする。だからと言って、救えないという 

ような深刻なことではあるまい。 

いい加減でいい、といういい意味での 

適当さ加減に僕らは漂っている。だから、 

仏陀は僕らは苦の中にいる、と言った 

のだろう。それが中心で、それが基底・ 

基本なのだから、生と死の両極端に 

行ってみなければ、僕らのその状態は 

しかと見ることはできないと。 

(Last Christmas はいい曲で、クリスマス 

でなくても心ウキウキとしてくれる。) 

Baybe ・ ・ ・ 、

君の瞳は  僕を 見ている ・ ・ 



ま、仏陀はそれで死(我慢)の方向に 

行った。生は少し死よりも難しい。愛の 

方向にありながらも、過去の愛自体は

死に隠されているので、僕らはその  

感情の情熱をわかりながらも、愛を確保 

することができずにいる。そのため、それ 

を育てることも忘れてしまった。 

愛があるとか、奪うとか、ないとか、それ 

以前の無知な状態に陥っている。 


どうしたらいい、というのはそれがその人 

に真剣な問題であることであって、普通は 

そこまで行っていない、たとえ絶望しても 

その途端に自動で体が自滅したりしない。 

僕らは自分をどう生かしたいのだろう? 

どうして同じ時代を繰り返し、その飾りを 

変えるだけで、僕らは変われないのだろう? 

それは僕らが変わりたくないからでは? 

僕らは自分で考えるより、人の指示に従う 

ほうが楽だと知っているし、そうしてきた。 

巷で意見を言うのは好きにできるし、それ 

以上になにを我慢しなくてはいけないのか、 

勘弁しろよということだろうか。 

食べる生活だけでその他でこれ以上我慢 

するのはたくさんだ、というのは妥当な意見 

で、相当に困ったらその時に行動しようという 

のも、妥当なこと、生きる方法なのだろう。 

それが人口比で一番多いと感じるのは僕の 

意見なのだろうか。 

人生からのゆるい逸脱が人々の始末という 

ものなのだろうか。もう2,3年もしたら、

例えば杖をついて、曲がった足をかばうように  

歩きにくそうに歩くのが、僕の態度なのだろうか。 

そうはならないだろう。 

だから、映画やドラマを観ても、その完成画 

という払われた費用・人的労働・多くのスタッフ 

の見えない映像がとても邪魔になる。参加 

したのじゃないが、その映像を作ることが 

ほんとうに必要だったのだろうか。それは 

当たらない危惧なのだが、この文化全体 

にダメ出しをしている。それはまったく、 

僕という自分にダメ出しをしていることだと 

気づく。それらすべてがアスファルトの地面 

に掌を当てて、唾を飲み込んでいるようだ。 

唾を吐くのは簡単だが、放浪して乞食に 

なるのもそれなりに大変だと思う。 

そういう昔からの形に嵌める意味では 

ないが、似たような境遇で暮らすのは 

自分の理想だとは知っている。 

しかし、それは憧れというもので、僕の 

本当の望みではない。僕の友人がそれ 

をやって、洗濯物をリュックに差した棒に 

かけて乾かしながら、日本の街道を歩い 

たことがあった。野宿旅だった、そう長くは 

続かなかった。僕が続けてもよかった 

だろうに、僕はその後を継がなかった。 

そして、そのころの願望を今は果たしたが、 

だからといって、放浪は憧れのままで 

したいのなら、とっくにしていただろうに、 

それは僕がすることじゃない、と思って 

いる。ダメなことだからではなく、僕が 

今することの優先順に入っていない 

ようなのだ。 

本を開くと、そう思う。本に書かれたことは

それが例え、著者の思想の完成形であった 

としても、僕には本から吹くその風がすべて 

著者の悩み・歪みに見える。それに自分が 

自分に答えてゆくことが、つながるなにかが 

僕の道の一つの方向だと、そう感じるから 

だろう。僕はそこにいる。 

かなり傲慢な気持ちだと批判される意見だ 

とは承知するが、僕のしあわせ感がそうする 

のか、やがて嫌われる運命と思いながらも 

書いておこう、と止める気がしないのだ。 

これ以上はそっとしておいたほうがいい。 

もう一枚ベールをめくると、本当の恐怖 

やら怠惰(楽観)やらの憂鬱の素因が 

出てくるだろうから。いい加減で終わらす 

のも、生活の一部だが、それなりの知恵 

なのだろう。 

または、それを突破することもできる。 

その方向では、それに応じた喜びと 

虚無のむなしさが、あなたのエネルギー 

に対応して、比例の形でもたらされる。 

この世の喜びを超えた歓喜も、歓喜を 

超えるし、これ以上はないという、絶望 

さえが優しく感じる氷のような厳しいむなしさ 

がもたらされる。それが僕の例だが、それ 

ぞれ違うだろう。他の人の例はまだ知らない。 

僕の経験と言っても、僕も人間だからそれに 

耐えられた理由を知らない。推測で、ずっと 

過去からの人の愛が僕に作用したのだと 

しか思えない。僕の深層心理がその解釈を 

求めて、それを愛でるために、そういう考え 

に落ち着くのかもしれない。 

僕はそれを信じるのはた易い。朝日が昇る 

のと変わりなく、まるでいつものことである 

かのように、神秘はない、愛のほうが僕の 

状態を知っていたからだ。それとも、体が 

死を感じて、自己麻薬を脳に流したからだ。 

僕らは自分の判断力以外に心理錯覚と 

実在の影響とを判断しきれない。歯の 

痛みと頭痛は同じ痛みでも天地ほどに 

違うと、僕は神秘が関わったものと 

自然な環境の経験とを区別できると、 

過去の経験から学んでいる、(と信じて 

いる。)人間にそれ以上の確信はない 

だろう、という僕の常識だ。 

そして、またしてもそれは僕と対峙して 

話し尽きるまで交差してみなければ、 

わからないのが僕らの環境だ。書いた 

ものを読んでいる段階では、そこに 

届かない。言葉で証明するのは、厳格 

な意味で、できないから。 


Universe ・ ・ ・ 

せめて、宇宙へのわずかな一歩なのだから 

その夢を語ってほしかった。 どれだけ 

出発にわくわくしたか、その上での行動 

であってほしかったのだが、 ・・。 



僕らは何であったらよかったのだろうか。 

僕らは自分が人間であったことの意義を 

考えたことがあるだろうか。それを考えて 

何になるのだろう?という一つの答えを 

選ぶのだろうか。どうして僕はこの問いを 

選んだのだろうか。僕には人間がなにか 

納得できないようなのだ。僕らの単思考は 

それを否定・肯定として白黒で考えることが 

主流だが、それは人の自意識がどこに 

あるかによる。自意識がこの世で精一杯 

であったら、生きていることを秤の上に 

載せるようなことはしないだろう。 

僕らはなぜ人間なのか、に答えはない。 

それと僕が人間に納得しない理由は 

直接は関係ないだろう。今の人間が 

今という進化の果てならば、僕に答えは 

与えられないのだろう。だから、僕が例え 

わずかでも人間とは、に答えという 

きっかけをするのが順序だ。僕にそれに 

値する答えがないようだ、と感じている、 

思っているのが問題なのだろう。 

僕が人間であればいいのだが、 ・・。 

僕は人間だが、どうも自分の人間を 

信用していないのだろう。それは世間や 

多くの信念、善とか、悪とか、真理とか 

過去の人の語った今では常識になった 

ものを頷けないからだ、否定するまで 

ではないが、まったく疑いの魔になった 

のだ。避けられているのは、疑っている 

自分が疑うのを、疑問にはしないことだ。 

形而上の疑いは退けられている。

なにもないとしたら、そういう僕を支える 

ものが想像つかない。こういう時によく 

使われるジョークを知っているが、さすが 

にそれを出す気にはなれない。 

しゃべるだけで、集中してまとめる直感も 

訪れないようだから、よき年末を想って 

みよう。近づくのは破壊の音しか聞こえ 

ないのだが。 

それが今の、なんでもないしあわせを 

より感じている理由だとしたら、 ・・ 、 

考えるのをやめよう。  

 
クリムト1.jpg


クリムト : ベートーヴェン フリーズ<第二の壁> 

        1901 世界の名画センペンバンカより

この作品は高さ2メートル、幅34メートルの壁に 

直接、色刷りの彫刻をされている。重さは4t 

にもなる。画像は中壁の、そのまた一部で

「敵対勢力」を表した。作品は不評で、特に 

この中の不貞・淫欲・不節制の三姉妹は 

非難を浴びた。さらに男根・女陰・精子・卵子が 

ふんだんに描かれていたのも問題だった。

壁には「敵対する勢力。怪物テュフェウス、

この怪物に対する戦いでは神々さえ無力だった。

デュフェウスの娘、すなわち3人のゴルゴーン。

肉欲と不貞、不節制、心を責めさいなむ苦悩を

象徴している。人間の希望と憧れはこれらを

越えて飛び去ってゆく。」と。 

ベートーベンの第9交響曲を象徴的に書き換えた 

ものだとクリムトは言っている。よくわからない。 

僕には。笑。


            2021.年末に
 

 



 


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