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どこからきて、どこへゆくのか 詩だな [心の進化]

Love nwantiti という曲を聴いている。黒人の

グループの曲らしい。特に好みでもなんでも 

ないが、デスクトップにスピーカーが内蔵され 

ているので、久しぶりにヘッドホンを通さずに 

音を聴いている。これは調子がいい。 

新鮮に音楽自体が聴こえている、といった 

感じで初めて離島を歩いた時の雰囲気が 

蘇る。音楽がそこにあるのだ。 

頭の中でなく。 

耳の中でなく。

昔、一斗缶をたたいて、リズム中心の曲を 

作曲したことがあるが、やはり原始的な 

音楽に似たものになった。単調なリズムが 

多いので、少しのメロディのニュアンスが 

違うだけで、その国や地域の民族臭が 

際立つことになる。今は次の次の曲に 

移っていて、インドになっている。

यह हमारे सोशल मीडिया के कुछ लिंकは 

ナーガリー文字だが、半世紀も前に1年 

習ったが、もう忘れている。辞書がある 

ので、これが曲のなにを示したのか、

調べればわかるだろうが、印度ー英語 

辞書なので、訳は英語で、もう一回翻訳 

しなければならないので手間だ。 

Adele の曲になった。急に洗練される。 

今のスピーカーの性能がいいのか、高音 

の抜けがいい。

書く時に気分に合う音を探して、youtube を 

サーフィンしたものだが、今は音に合わせて 

書くという何かがない。なくていいのだろうから、 

このほうが気楽だ。なにか核のある、真理とか

真実とかかしこまるようなことを書くのが、飽き 

たというのも多少あるが、それよりもこだわり 

のないことに慣れてきたようだ。生活をサーフィン  

するのが楽になった。それこそおしゃべりの 

骨頂だから。 

こういうようになると、そこらに転がっている 

幸せを拾って、今を楽しめばいい。 

そうか、クリスマスでもある。X’マスは気に 

したことはなかった。しかたなくつき合うという 

態度だったから。ほんとうに楽しいという人 

なら一緒にいても楽しいだろうが、そんな人は 

いない。子供くらいだ。 

その雰囲気だけで、今は十分。 

朝起きると、布団の周囲は数百冊の本が 

積まれている。これを読むと思うだけで、 

実際に読むのではない、そう思うだけで 

幸せだ。釣りをしていても、時にそう思う。 

針に餌をかけるのをやめるか。魚が遊びに 

来てちょっかいを出すから。餌がなければ 

それもないから、浮きも静かなものだ。 

釣りには引き上げのタイミングとその 

合わせの心との駆け引きが必要になる。 

やめて、糸を垂らしているだけでいいん 

じゃない?忙しくならないから。 

と、思ったりする。 

何もしないほうがしあわせだ、と思うのが 

僕はその範囲や都度で多いほうだ。 

そろそろ泥遊びに移行する時期が近いの 

かもしれない。粘土の焼成は作品ができる 

までもが長いので、晩年に手をつける 

つもりだったから。  

文化の成熟度もあるし、人間の成熟度 

もあって、自分がどういう基準に沿って 

いるのか、どんな基本と思われている 

ものに信用状を渡して、それに動かされ 

ているか、定かでないのが僕らという 

集まりだ。自然は千変万化だから。 

速く変化するものも、千年単位で変化 

するものも、僕らの寿命という単位から 

それらが長いとか短いが測られている 

のが、いつもの現状だ。 
 

こういう気分はもう飯なんか食べなくて 

いい、というものだ。寝なくてもいいし、 

そうすれば起きなくて済むと考えるような 

不精な思考だ。

そういう時、僕らはどこにもいなくなる。 

気づかないほどに。 

そして、消え去るとかは、ない。 

自分というのはもっと骨格があり、 

はっきりしたものだと思っていた。 

個性というのは僕らが犬や猫とは 

生き方も性質も違うくらいに、選択 

できる際立ったものだと思った。 

ヒとか、チャーとかをリズミカルに 

連続で単調に歌うのと、人生の 

基底音というのはそれほど変わらない、 

と気づかされる、それがわかるという 

のが僕の自分なのだろう。 

よい変化より悪いと感じる変化が多い 

のは僕らの現実への適応の問題で 

現実の流れの細かい理解が追い付か 

ない、謂わば速度の問題に見える。 

細かいきっかけに気づけないのは 

僕らがそれに適応するだけの、体と 

心を備えていなくて、たぶん、その 

理解に足るだけの感覚なりを備える 

のは非常に負荷がかかるのだ。 

それよりも楽しむほうを選んだのが 

進化後の僕らではないか。 

自由を発明しただけで、それは理想の 

色に包まれて、制限あっての可能な 

ものという、それには眼をつぶるように 

なったのではないか。

それを歪みと捉えると、この世のあて 

にならない事情のある程度の解釈が 

できるような気がする。そして、同時に 

だからと言ってどうなんだと思うのも 

避けられない。まず、僕らの怠惰と恐怖 

がまずあるからだ。それを克服するのは 

僕らが僕らであるのを否定するような気 

もする。だからと言って、救えないという 

ような深刻なことではあるまい。 

いい加減でいい、といういい意味での 

適当さ加減に僕らは漂っている。だから、 

仏陀は僕らは苦の中にいる、と言った 

のだろう。それが中心で、それが基底・ 

基本なのだから、生と死の両極端に 

行ってみなければ、僕らのその状態は 

しかと見ることはできないと。 

(Last Christmas はいい曲で、クリスマス 

でなくても心ウキウキとしてくれる。) 

Baybe ・ ・ ・ 、

君の瞳は  僕を 見ている ・ ・ 



ま、仏陀はそれで死(我慢)の方向に 

行った。生は少し死よりも難しい。愛の 

方向にありながらも、過去の愛自体は

死に隠されているので、僕らはその  

感情の情熱をわかりながらも、愛を確保 

することができずにいる。そのため、それ 

を育てることも忘れてしまった。 

愛があるとか、奪うとか、ないとか、それ 

以前の無知な状態に陥っている。 


どうしたらいい、というのはそれがその人 

に真剣な問題であることであって、普通は 

そこまで行っていない、たとえ絶望しても 

その途端に自動で体が自滅したりしない。 

僕らは自分をどう生かしたいのだろう? 

どうして同じ時代を繰り返し、その飾りを 

変えるだけで、僕らは変われないのだろう? 

それは僕らが変わりたくないからでは? 

僕らは自分で考えるより、人の指示に従う 

ほうが楽だと知っているし、そうしてきた。 

巷で意見を言うのは好きにできるし、それ 

以上になにを我慢しなくてはいけないのか、 

勘弁しろよということだろうか。 

食べる生活だけでその他でこれ以上我慢 

するのはたくさんだ、というのは妥当な意見 

で、相当に困ったらその時に行動しようという 

のも、妥当なこと、生きる方法なのだろう。 

それが人口比で一番多いと感じるのは僕の 

意見なのだろうか。 

人生からのゆるい逸脱が人々の始末という 

ものなのだろうか。もう2,3年もしたら、

例えば杖をついて、曲がった足をかばうように  

歩きにくそうに歩くのが、僕の態度なのだろうか。 

そうはならないだろう。 

だから、映画やドラマを観ても、その完成画 

という払われた費用・人的労働・多くのスタッフ 

の見えない映像がとても邪魔になる。参加 

したのじゃないが、その映像を作ることが 

ほんとうに必要だったのだろうか。それは 

当たらない危惧なのだが、この文化全体 

にダメ出しをしている。それはまったく、 

僕という自分にダメ出しをしていることだと 

気づく。それらすべてがアスファルトの地面 

に掌を当てて、唾を飲み込んでいるようだ。 

唾を吐くのは簡単だが、放浪して乞食に 

なるのもそれなりに大変だと思う。 

そういう昔からの形に嵌める意味では 

ないが、似たような境遇で暮らすのは 

自分の理想だとは知っている。 

しかし、それは憧れというもので、僕の 

本当の望みではない。僕の友人がそれ 

をやって、洗濯物をリュックに差した棒に 

かけて乾かしながら、日本の街道を歩い 

たことがあった。野宿旅だった、そう長くは 

続かなかった。僕が続けてもよかった 

だろうに、僕はその後を継がなかった。 

そして、そのころの願望を今は果たしたが、 

だからといって、放浪は憧れのままで 

したいのなら、とっくにしていただろうに、 

それは僕がすることじゃない、と思って 

いる。ダメなことだからではなく、僕が 

今することの優先順に入っていない 

ようなのだ。 

本を開くと、そう思う。本に書かれたことは

それが例え、著者の思想の完成形であった 

としても、僕には本から吹くその風がすべて 

著者の悩み・歪みに見える。それに自分が 

自分に答えてゆくことが、つながるなにかが 

僕の道の一つの方向だと、そう感じるから 

だろう。僕はそこにいる。 

かなり傲慢な気持ちだと批判される意見だ 

とは承知するが、僕のしあわせ感がそうする 

のか、やがて嫌われる運命と思いながらも 

書いておこう、と止める気がしないのだ。 

これ以上はそっとしておいたほうがいい。 

もう一枚ベールをめくると、本当の恐怖 

やら怠惰(楽観)やらの憂鬱の素因が 

出てくるだろうから。いい加減で終わらす 

のも、生活の一部だが、それなりの知恵 

なのだろう。 

または、それを突破することもできる。 

その方向では、それに応じた喜びと 

虚無のむなしさが、あなたのエネルギー 

に対応して、比例の形でもたらされる。 

この世の喜びを超えた歓喜も、歓喜を 

超えるし、これ以上はないという、絶望 

さえが優しく感じる氷のような厳しいむなしさ 

がもたらされる。それが僕の例だが、それ 

ぞれ違うだろう。他の人の例はまだ知らない。 

僕の経験と言っても、僕も人間だからそれに 

耐えられた理由を知らない。推測で、ずっと 

過去からの人の愛が僕に作用したのだと 

しか思えない。僕の深層心理がその解釈を 

求めて、それを愛でるために、そういう考え 

に落ち着くのかもしれない。 

僕はそれを信じるのはた易い。朝日が昇る 

のと変わりなく、まるでいつものことである 

かのように、神秘はない、愛のほうが僕の 

状態を知っていたからだ。それとも、体が 

死を感じて、自己麻薬を脳に流したからだ。 

僕らは自分の判断力以外に心理錯覚と 

実在の影響とを判断しきれない。歯の 

痛みと頭痛は同じ痛みでも天地ほどに 

違うと、僕は神秘が関わったものと 

自然な環境の経験とを区別できると、 

過去の経験から学んでいる、(と信じて 

いる。)人間にそれ以上の確信はない 

だろう、という僕の常識だ。 

そして、またしてもそれは僕と対峙して 

話し尽きるまで交差してみなければ、 

わからないのが僕らの環境だ。書いた 

ものを読んでいる段階では、そこに 

届かない。言葉で証明するのは、厳格 

な意味で、できないから。 


Universe ・ ・ ・ 

せめて、宇宙へのわずかな一歩なのだから 

その夢を語ってほしかった。 どれだけ 

出発にわくわくしたか、その上での行動 

であってほしかったのだが、 ・・。 



僕らは何であったらよかったのだろうか。 

僕らは自分が人間であったことの意義を 

考えたことがあるだろうか。それを考えて 

何になるのだろう?という一つの答えを 

選ぶのだろうか。どうして僕はこの問いを 

選んだのだろうか。僕には人間がなにか 

納得できないようなのだ。僕らの単思考は 

それを否定・肯定として白黒で考えることが 

主流だが、それは人の自意識がどこに 

あるかによる。自意識がこの世で精一杯 

であったら、生きていることを秤の上に 

載せるようなことはしないだろう。 

僕らはなぜ人間なのか、に答えはない。 

それと僕が人間に納得しない理由は 

直接は関係ないだろう。今の人間が 

今という進化の果てならば、僕に答えは 

与えられないのだろう。だから、僕が例え 

わずかでも人間とは、に答えという 

きっかけをするのが順序だ。僕にそれに 

値する答えがないようだ、と感じている、 

思っているのが問題なのだろう。 

僕が人間であればいいのだが、 ・・。 

僕は人間だが、どうも自分の人間を 

信用していないのだろう。それは世間や 

多くの信念、善とか、悪とか、真理とか 

過去の人の語った今では常識になった 

ものを頷けないからだ、否定するまで 

ではないが、まったく疑いの魔になった 

のだ。避けられているのは、疑っている 

自分が疑うのを、疑問にはしないことだ。 

形而上の疑いは退けられている。

なにもないとしたら、そういう僕を支える 

ものが想像つかない。こういう時によく 

使われるジョークを知っているが、さすが 

にそれを出す気にはなれない。 

しゃべるだけで、集中してまとめる直感も 

訪れないようだから、よき年末を想って 

みよう。近づくのは破壊の音しか聞こえ 

ないのだが。 

それが今の、なんでもないしあわせを 

より感じている理由だとしたら、 ・・ 、 

考えるのをやめよう。  

 
クリムト1.jpg


クリムト : ベートーヴェン フリーズ<第二の壁> 

        1901 世界の名画センペンバンカより

この作品は高さ2メートル、幅34メートルの壁に 

直接、色刷りの彫刻をされている。重さは4t 

にもなる。画像は中壁の、そのまた一部で

「敵対勢力」を表した。作品は不評で、特に 

この中の不貞・淫欲・不節制の三姉妹は 

非難を浴びた。さらに男根・女陰・精子・卵子が 

ふんだんに描かれていたのも問題だった。

壁には「敵対する勢力。怪物テュフェウス、

この怪物に対する戦いでは神々さえ無力だった。

デュフェウスの娘、すなわち3人のゴルゴーン。

肉欲と不貞、不節制、心を責めさいなむ苦悩を

象徴している。人間の希望と憧れはこれらを

越えて飛び去ってゆく。」と。 

ベートーベンの第9交響曲を象徴的に書き換えた 

ものだとクリムトは言っている。よくわからない。 

僕には。笑。


            2021.年末に
 

 



 


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