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僕の運命において [運命]

次のテーマを考えてみたが、決まる感じはするが、 

具体的に何のヒントもないのは、そうしたものか、と 

思案する。 

まだ体の芯に疲れがある。書こうとすると、急に 

眠気が来るのでわかる。一瞬、閃いた考えは  

どんなものだったろう?  

自分以外に気兼ねせず、と言っても自分の中にも 

想定読者は居る。そこにも最低限の礼儀はある 

だろう。 そして、自分の方向以外には気を取られ 

ない。と言うと、これは今まで通りか、と。また、 

実験、発想、妄想、観察、直感などにもう少し、 

関連付けを後からしてもいいのではないか、とも。 

今までは、書くと言って、先延ばし、その取りこぼし 

が多く、残されたテーマは数多いのではないか、 

という気が反省を誘っている。それをまともにやって 

みようという気は、持っていないのがそもそも、まとも 

ではないのだが、新しい世界を開きそうで、それは 

興奮・高揚することではあるが、ふつうに怖い気もする。 

それに立ち向かうのが怖いのではなく、それが大きな 

テーマで新発見ともなれば、志なかばになってしまうのが 

怖いのだ。つまらない取り越し苦労なのだが、まず感じて 

から通過するものだ。目の前にあるから、取り組むしか 

ないが、することはすっきりする。が、それを予想している、 

緩い段階では、緊張が足りないので、不安が席を求める 

余裕がある、という・・・。  

僕が望む限り、そういうことに終わりは来ない。僕にとって  

これほど確かなことはない。安心したりはできないが、そう 

いう展開が適時、適切に僕を訪れた。だから、僕はいつも 

見守られているという感覚を手放すことはできない。それは 

僕の意向・意志とは無関係だから。  

僕の想いが続く限り、この運命が続く。たかが人の寿命だ。 

知れている、そんな時間で確かなものなど知れている、と。 

それは知っている。が、それは他人の想像だ。それがどう 

いうように僕にタッチしてきて、僕が何を受け取ったかに 

ついては伝える手段がない。言葉で間接的に、不十分に 

想像してもらうのみだ。不満だが、そういう事情は、自然の 

事情だから、人間に、今の僕にどうこうできるものではない。 

そうやってできた僕の頭の世界が100%完全でなく、せいぜい 

70%なら満足するしかないという客観化する定理も知っている。 

だが、それは最後にできてきたものだが、崩れはしなかった。 

信頼はそこにあった。また繰り返してしまうが、僕が捨てるべき、 

と思ったものも、その完成品だ。この世と世界という見取り図も、 

内容の多様性も、すべてを初めから見直す、否定するつもりで 

新しく対応していこうということで、これまでに思いもかけない 

効果があった。完成とかいうものが、いかに僕らの儚い夢に 

過ぎないかが、改めて認められた次第だった。自分のものが  

失くしてしまうことで、がっかりどころか、満足するのもこのこと 

の特徴でもある。

なぜ、僕らは終わらないことに満足するのか、喜びを感じる 

のか。法隆寺が建築の柱の一本を逆さに設置することで 

自ら完成を拒み、永劫に完成を拒むことで、反対に永劫を 

願ったのは、僕も意識せず同じことをしているのかもしれない。 

その意味でなら、心理的歴史はくり返すのだろう。  

体は疲れている。が、僕はなんと疲れていないのだろう。 

流れるように書ける。思ったまま書けばいいだけだ。  

感性の新鮮さを感じる。これは気持ちいい。音楽に感謝 

するバージョンだ。気持ちよく、リードされたい。 

僕らは、・・なんて、・・ ここに、 いるんだろう!  

ここにいることの、  ‥ 素晴らしさ!!  


生がこれほどまでに、踊り、光り輝くものとは、 、 、 

僕は  生とともに   ここにいる。 。  。  。  

この感興を、  人々は  ’永遠’に例えたかったのだろう。 

他に  たとえようがないではないか、 と   ああ、  



 ・・ 思ったことだろう。  


ここに坐りながら、  すべての宇宙が、  

見知らぬものばかりが    集まり、  

僕の  周りを  回るのだ 

そんな想像が   喜びに   変わる  

そこになにもの か、  僕のすべてという 

空想が  

透過して ゆく   

海の上を  果てなく   滑ってゆくようだ  

その  快適さ、  心地よさ  

これには  逆らえない、  そう  逆らえなかった!  

だから、  これは   そう   

答えなんだ  

僕というものの  中の。   

僕は 宇宙に従属することに  深い満足を覚える   

そして、      

同時に  宇宙は  僕のものだと   感じる   

これこそ、   答えではないか!  

自我は  プライドを  発生させる!!  

それは  従属と  所有という  折り合わない  

二つの 様相から   成り立っている  

もとから  それが  成立要因であり  要素だった  

だから、  

!  

プライドは  扱いにくい  僕らの  

生命の 始動からの   根幹だった   

否定 できないはずだ  

愛は  それと  対立するように見える  

従属も  所有も  認めない  

ただただ  公平  平等に  扱い  

僕らを  まったく  差別しない  

そのために  究極の 弱さも   抱擁してしまって  

しかし、 それのない世界は  

まったく 考えられない  

泣けない世界など  生きているとは   言えない  

これが  

半世紀で  つかまえた  

僕という  根本の  その性質という  

答えなのだろうか  

少なくとも   ’僕には’ 真実であることがわかる  

それは  その人のものだから  

万人の 真実?  そんなものは  

たぶん、  ない   

愛でさえ  僕を最初から  

エコひいき   したではないか  

僕が  ほんとうに  死に損なったから?



同じ 実感を 伴うだろうが   

その人だけが  それぞれ  

たどり着くべき  ものがある、 なにかがある   

それが  この世の 実相だと  

僕には     見える   

僕の 運命に おいて   ・・  






:::

僕の聴いていた頭の中のシンフォニーは、これ 

だった。これだったんだと。自分が自分である間は、 

決して明らかにしてくれない。わからないというより、 

気がつくことが不可能なのだ。自分が青いサングラス 

なら、目の前の青色は、決して見ることができない 

ように。

50年もかかるとは、鈍いのか、よかったのか。 

 ・・・ 笑えない。   (笑)
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