SSブログ
自分と知 ブログトップ

ひとり舞台はひとり事情がやってくる [自分と知]

さて、ひとりに なってみよう。

それだけで 僕は完成して しまう、と

いった 印象をこの夜に  思う。

完成って、どんな意味でも 現実には

ありえない世界 のことなのに  

そう思うのは  どうしてだろう。

それを保証しそうな 言葉がある。

それは 僕は どこに いるか、と 

感じて、 また感じて 

感じまくって いることだ。  

どんな疑問  もない。

ここに      いる。 

それが  宇宙の果てから 祝福され

讃えられて  ここに  いる。

ということであり、 観照されている、

ということ。

その 充実感。   やや 誇らしくもある。

その確実感から  心の裏で  

反語になって  

僕は  どこに いるか、となって  

その言葉が  自分のその位置を 

また 確かなものに  するのだ。  

その ロンドは 完成して、

僕の周りを  巡り、  

ここにいる  どこにいる  

その循環が  そのまま  僕になる。

自分で  確かな自分を  確かめられるのは

純粋に  しあわせの 一形式だと  

はっきり  感じる。 

だから  僕は  夜になる  

この暗い 空気を  腹いっぱい  

吸い込む 。

透明な 遠くを求める  感触に  

全身を  浸す、  泳がせる 。



事情が  やってくる、

複雑で  困難な、  信じられない、

疑惑に満ちた  様々な事情が  

黒い 執事のような格好で  

報告に  現れる。  

もう、  君には  見慣れた。 

僕には  君は 

ただの  骸骨だ  

聖骸布で  顔を  拭こうとはしない、 

誰も

誰も、  涙を  ぬぐえない  

事情が  やってくる。 

ああ  いつも  

そして   また  

この  苦しみ  この  悲しみ  

もだえて  あがいて  のたうちまわって  

そんな日が   あったとは  

それが  なぜか  美しい光に よって  

照らされた  舞台になっている。 

こうやって  台詞になり、  

こうやって  演じられ、  

僕の  血と  肉は  はぎ取られ 

高く  天へと  屠(ほふ)られる。

いくつもの  演劇だった。

事情が  ため息とともに  

やってくる。

僕を  納得させるまで  

影法師のように  現れては  

忘却の 扉を  何度も  

開け閉め しては  

眠りと 共に  消えてしまう  

儚い  影 。



これは  なに?  

これは  なにちゃん?

幼い子が  わかっているように  

聞いてくる。  

これは  なに?って  

なにを  指して  いうのか。

春よ  

鯨の  歌う 宴よ 。

島々 の空を  円を描く  空の

生き物 よ 。

さあ、  学校へ 行く時間、

いってらっしゃいと  

ハッピーと 言いたそうな  

人たちが  寝不足で  

大あくびを  する  スルー、 

なにかを  スルーした  運命の

順番を 。 



運命の順番は  覚悟の  通り名。

隔絶と 受胎の  別の名。 

それは 見られていることに  拠る。

不思議なのは  誰も彼もが  

そこに  神を 見ようとすること 

あるいは  ご先祖様とか  

守護霊? 幽霊??

知は  鏡の反作用を  よくする。

僕が  見る時、  僕は  見られる。 

見るということが  見られるを 補完する。

意識を  透過してごらんなさい、 あなた 

闇に想像してしまう  そこは  

反射鏡のある、 知という、 また  

自分という、 底のない場所にあるのは  

意識の 反りかえる  処。

残念、 それは 見えないのだから、 

突き抜けては  まずい。

抜ければ、知の ボロが出て  

鏡に映った  見えない自分を 

感じるのみ。 

ああ  この半世紀  神を感じたことが 

一度でも あれば  それを

探したろうに!  

その安心・安全・愛の満足と  契約が 

交わせたろうに!  

見たのは  何千・何万・何億という 

その憧れと  希求ばかり。 

知りもしない、わかりもしない  

怪奇・神秘現象やら 錯覚の物象に  

人間特有の 自己保存の、 超現実の、 

想像物を  追加してみせただけ。

知性は  自らの影であるから 

そこに  いませて  自らを  裏返す。

僕らは  自然な状態の なかで 

自らの背中を  見ることには  

気づけないし、  また 見ても  その

背中を  知らない。



僕がこう語るのも  そこから 

紡ぎだされた  目視現象で  あるから

して  これが 語ることの  なにかは  

僕の真実の  一部ではあろうが、 

その中身を  書けはしないので  

僕は  その 外面を  書くだけで  

満足と  しなければならない。

真実は  人によってその  見せる面が  

違うのが  本質である。 

だから、知において、  まったく何も  

まったく 何も、である  ( これが

理解されれば、楽なのだが ) 

信じるものが  排除されたときに 

つまり、善も 悪もなく、  右も 左もなく、

考え得る愛も 神もなく、  1も 2も なく、 

ゼロも 無限もなく、  運も 導きもなく、

希望も 絶望もなく、  悟りも 無知もなく、

夢も 現実もなく、  恥も 上品もなく、 

教養も 歴史もなく、  唯心も 唯物もなく、

科学も 数学もなく、  仁も 義もなく、

・・・・ ・・・・もなく、  ・・・・・・・、


どうして 僕は  こうも  挑戦的 

なのだろう。  種を  明かすべきか。

(ここで胃痛のため、 中断。 胸も

神経らしき 痛み。) 

もう書いてきたことなのだが、あなたが

感じてもいないことを理解しろ、という

のはそもそも無理なのだ、とは知って

いる。



無意識は知にとって、無限であるし、

そこには知の性質を逆手に取った

知的な反世界も存在している。

だから、そこではすべての知の産物

が見事に否定されている。それは

そうだろう、知の介入は不可能なの

だから、知の産物の言葉や数式など

は受け付ける筈もない。ひとえに

無関係だから、それだけのこと、―と

言える。

例えば、この世の人は闇といっても、

相対的に生活で捉える。それはそれ

を解釈するのがその人の知による

ものだから、比較するのだ、光と。

だから、光が闇に差せば、明るくなる

と勘違いする。そこが真に闇であれば、

(僕は闇を体験している)光は差せ

ないし、明るくもならない。それは僕ら

が人間だからだ。僕らの眼の構造

では、光が何かに当たって反射して

返って来なければ、光は見えず、

したがって、明るさもない。真の闇に

差す光は、そのまま闇に吸い込まれる

のか、返ってくることはない、ないのだ。

闇の中を、それが例えあなたの横を

通過したとしても、その闇は空気ではない。

真空でもないし、空間でさえない。だから、

走る光の姿は空気・空間に反射しない。

あなたが見ることも、その暇もなく、その

まま闇に突入して、・・・・・・そのままだ。

その後のことは誰にもわからない。

無意識はそういう闇の性質をもっている。


僕らの言葉で概念や精神的な言葉の

ほとんどは無意識の側からは裸にされて

意味を失う。それはただの事実で、だから

どう僕らの現実世界と関わっているのか、

わからないことだらけだ。

そう、だから、わからないことだらけと

わかるくらいなら、その残りが少しは

わかってきている。それも無限分の1

だろうが、(・・・未来永劫)。

そうして、僕は感じてもらえない、理解に

苦しむことばかりを書いてきた。

僕のように初めてのことが好きで、誰も

挑戦したことのないことへのチャレンジが

大好きな人間だからこそできたのだろう。

これがたったひとりの精神の冒険になる

のは、わかりきっていた、と思ったが、

そうでもなかった。

そういうそれを孤独と思っているようでは

とてもやってこれないむなしさの極限の

試練があって、それを慰撫する熱波が

僕を補った。

そういう激情を挑発されることから離れ

ようと自分が思うとは思わなかった。

寂しさとか苦しさとか、絶望とか孤独とか

そういうものがひ弱に感じられる状態が

やはりあった。それは人間ゆえに強制

された状況だったが、そういう状況に

耐える精神性というものは、僕には

発見できなかった。

ではどうしてそういう試練に耐えられて、

負けなかったのか、それは慰撫されて、

助けられたからに他ならない。誰に?

そう、それがわからない。

それは小さな、細い感覚の針先からの

想像に任せるしかない。僕はそれは

これまでに亡くなった死者のエネルギー

によるもの(僕との共感)を感じたと

考えるよりなかった。

::以下、(想像)たぶん、のこと。



それが無意識の愛のテリトリーに

集まっていた。それが僕が落ち込もう

とすると、反応するようで、僕をあたた

かく静かに伝えて、強力な情熱を吹き

込み、生かした。それに2年間も翻弄

されたのだから、そこから離れるのは、

僕としては一大決心だった。(上記の

「離れようと自分が思うとは思わ

なかった」のくり返し)

つまり、僕は人間に関われる、愛と死

という無意識について学んだけれども、

それ以外のその世界については

これからも永劫に無知のままだと

理解しているし、理解させられても

いる。(知の反動・反射として)

だから、天才科学者・発明家にして

霊視者のスェデンボルグにしてもその

別な側面を見たのだろうと、あまりに

リアルな霊界報告をちら読みして、

そういう理解しがたい世界を思う。が、

彼が対話した神にしても天使にしても

信じがたい。わからない世界のことで、

自分が体験もしていないし、どこまで

が錯覚か区分できないことについて、

たとえ似たような体験があったとしても

(それ次第だが)、一概に信じるという

のは、うかつなことだと思う。

で、僕はカントと、たぶん同じ見解か、

近い見解で、スェデンボルグを夢見る者

とみなし、考えている。

知を’否定すること’と、知を’根本的に

見ることで批判的になる’とは、まったく

違うことだが、知の中にいて、それは

見えない。



僕らの生活が99%以上が人間が人間

のために作った物質という生活製品で

取り囲まれている。見まわして、人間に

よって生産されたのではないものを

見つける方が大変。サボテンや花でも

品種改良されたものかもしれない。

僕らは知によって生み出された自分

だらけのものに囲まれているのに、

ふだんは意識もしない。健康が乱れて、

おかしくなりすぎると、田舎や自然へと

逃げて、体調や気分を回復しようとする。

休日には観光地や公園などの準自然

に近い土地に出かけてみたりする。

それは気持ちや感覚になんとなく

従って、皆がそうしている。

体はわかっているからだ。健康ならまだ

しも、知の疲れはほぼ、神経疲れだ。

現代の精神障害は、すべて神経障害

からきている。

薬をどこまで使い、どこから使わないか、

またはどういう時使うか、使わないか、

誰も、医者でも確実には知らない。

精神の不調には神経のストレス・衰弱

が関わっているから、治療の確立して

いる病気とは違い、向精神薬では僕ら

の神経は朦朧とさせられている。(精神

科クリニック・知的障害者のホームの

仕事を通して、その症例を幾つも見て

来た。)



仮想空間は実在している、と最近は

以前より考える。それはデジタルの

仮想空間のようにゲームの世界ではない。

小さな空間だが、おそらく世界に多く

散在・点在しているのだろう。それは

地球上での話だ。全部併せても小さな

亜空間・あの世だろう。

僕らの過去の累々たる死者が残して

いった、現代で工場製造できる目に見え

ないくらいのICチップよりもさらに小さな

脳波チップのようなもので、それを感知

してしまう人は、電波?脳波?障害を

起こす人が増えて、そこに霊とか死者

だと勘違いして、会話さえする人もいる

のだろう。巷の霊能者といわれる類似

の仲間だ。

量子コンピュータはそういうチップに

障害されるのかもしれない。そういう時に

微妙な誤作動を起こすトラブルはそれ

を扱う技師の神経から?脳波から?

影響されてかもしれない。

と、想像ばかりだと、根拠のない話が

続くばかりだ。とまぁ、考えると、それほど

に他愛もない、となる。

その知に僕らは頼り切っているし、それ

が唯一「わかる」ということだと思っている。

でも、わかるというのはいつでも「分かつ」、

ということだ。分けてみて、分けたものを

比較して見るだけ。物事の物には名前を

認識して、ことは出来事を概念で組み立て

て、また、科学ではその時の物象・事象の

性質を実験・分析してその時の法則を

数式にする。

それは500年続くものもあるかもしれ

ないが、地球を単位にしたら、秒単位

で消えてゆく運命を課せられた法則に

過ぎない。

僕らはその時代の人類や地球に合わせた

法則を発見して、交換し続けたり、棲み分け

しなくてはならない。天動説は地動説に

取って代わられたが、自分(地球)が太陽

の周りを回っているか、太陽が自分を

回っているか、それはただの事実だ。

法則とも呼べない。

事実は太陽系の惑星間の関係が変化

すれば、僕らが考えた理科系の熱や

密度とか、質量とか理科年表の数字は

すべて変化して、法則も数式が変わって

しまう。それが因果という奴だ。その表情

のことを大まかな心情で無常という。



いつしか、胃痛も胸の痛みも忘れた。



自由というのは、説明できない。という

のは、今は心情も心境も自由だからだ。

自由になりたいと、知りもしない状態に

憧れる筈もない。これこそ、ほんとうに

今がよければ、それでいい、なにも

望まない、ということだろう。刹那的?

いやそんな切羽詰まったものはガラス

の細かい欠片ほどもないよ。



音楽があれば、それは音とともにある。

言葉があれば、それは中身への想像

と共にある。絵があれば、それは色調

やタッチの感覚とともにある。その時

には自分はない。が、思いつけば、すぐ

に僕は存在する。在るものは、あるの

ではないし、ないのでもない。無いものは、

ないのではなく、在るのでもない。

点は・・・・・、 ユークリッドでは、・・・・、

酸化は、・・・・・、ビタミンでは、・・・・・、

参政権は民主主義の、・・・・・・、山登り、

・・・・・・、ウサギ狩り、 ・・・・・・・・・・・、

マークシート、 ・・・・・・、ヘブライ語の、

・・・・・・、つまらないものを、・・・・・・・、

書いた、  ・・ あとは、よろしく。





迷いの追記 ::

宇宙には涯があるという説があるから、

そこまで行き着いた重力は撥ね返って

くる。この瞬間的にして果てしない

重力波の無差別な影響を僕らは個人

で気がついたり、気がつかなかったり

しているが、それを証明してさらに

その意味を感じ取ってもいい日は 

それほど遠くに見据えなくてもいい

のではないだろうか。

 ポカン・アレ (ポアンカレ

        数学者ではない。笑)


nice!(9)  コメント(0) 

アルマジロに :自己喪失: [自分と知]

今日も、書くことがあるという”感じ” が胸から上がってくる。この感じについて  

思考を沿わせていたら、気づきか、思いつきか、分別のない独り言が あった。  

半分は自分のために、残りは深層心理に興味のある人に、書いておこうと・・。  


書くと長くなる。原稿10枚くらいは、15分か、30分か、ボーッとしていると、  

まとまってしまうからだ。 僕は自分が書こうと思うのは、ひとつの特殊な癖だと

考えていいような気がした。それもまた仮説なのだが、19歳で深層意識に

落ちた(たぶん、)ことは何度も書いた。  それは人間の取りつく島のない世界

で、個人的に”無”とか、”無限”とか呼んで差し支えないものと認めている。  

その10年後もしてか、の頃にどうしてそれだけの脅威に晒されて、恐怖を  

覚えなかったのかが、自分ながら不思議に思った。 近くは、底なしの闇を予想  

するのに、感じてもおかしくはないのに、少しも恐怖ではなかった。  これで  

二つのことがわかる。一つは対象が広く、大きすぎて、深すぎて(?)、なんせ  

取りつく島がないのだから、まったく新しい経験によるものなので、認識が  

追いつけず、できなかったということ。ある意味、ポカーンとしてしまった。  

これと対峙したのは、明らかに自分である、なのでこれを認識しようとしたのは  

明らかに知性だ。

このことは逆に、知性が過去のことを考える源泉や根拠にしていることを

裏づける。これが二つ目。過去に経験がないので、類似の経験で想像から  

認識に結びつけることもできなかったほど、衝撃的で、新しかった、ということ  

だろう。  知は、直近では見たもの、聞いたもの、味わったもの、他感覚から  

の情報をもとに言葉(=認識)に換える。その1次情報から(言葉や、色彩、音  

など)の二番煎じで、学や、アートや、交響する音に変換する。 知は必ず、  

自然の二番煎じである、ということ。 僕らが喜ぶものは、僕らが知っているの

だから、僕らのもの(人工物)に換えるのも、これ自然なことだ。 ただ大元は 

自然にある。  誰だったか、明恵上人だったか、のんびりしていては悟れない  

とばかりに、片耳をそいでしまった人だが、彼が「自然がわかったのなら、  

さして仏典を学ぶ必要はない」と言ってのけていた。  

さて、本題に入ろう。  

50代で、自我が育てた自分が一度クラッシュした。自己喪失である。これは  

資料がない。一つだけ、アメリカ人のキリスト教信者の女性が書いた体験談  

「自己喪失の体験」バーナデット・ロバーツ著(紀伊国屋書店)がある。僕は  

瞑想経験を映像では見ることができず、周波数かチャンネルがちがうらしい。  

彼女は夢遊病のように時を置いて、無自己の状態に陥るのだが、その感覚が  

僕の体験と同じ質であるのに、まず驚いた。彼女とは異質であるのに、その  

不可思議なFeering は同じだとわかる。そういう貴重な資料で、これまでで  

その感覚に出会ったのは、この本以外にはない。(近似のものはJ ・クリシュナ

ムルティの「生と覚醒のコメンタリー」(1~3)の中の、いくつかの短いエピソード  

に現れるだけ)  

その彼女であるが、キリスト信者らしく、「人格神はいない」と直感したらしく、そう  

書いている。 しかし、その後で、「私は新しく真の神を求める旅に出る」、という  

決心を書き残す。それが今、気になったので当時は続編が出ていなかったので  

その後のことは知らなかったが、出ていた。「神はいずこに:キリスト教における  

悟りとその超越」と大層な題で、(日本の出版社、または翻訳者によるものだろう)、

原題は「The Path to No-Self : Life at the center 」、であれば、「無自己への

小道: 生の中心のライフにて」 くらいの直訳だろうか。  

要は「無自己」では、日本で売れない、と考えたのだろう。「悟り」と「神」ならば、  

わかりやすい。 いずれにしても、彼女、主婦だった、はまだ神を探しているらしい。  

僕はキリスト教徒らしい、と単純に考えた。彼女は「人格神はいない」という  

その意味合いが理解できなかった、と。 彼女の体験は彼女が書いている通りの  

「この経験は神との結合に向かう瞑想の第1段階に属するものではないことを  

強調しておきたいのです。(略) 私の話は、(略)神と自己との結合を越えた彼方  

にある「不可知のもの」の沈黙と寂静の領域への旅の記録なのです」(はじめに)  

とあるように、それは「不可知のもの」への旅なのだ。この「不可知」がヒントで  

それは思考は感じられない、第三者からは幻想、神秘への内面旅行に読める  

だろう。  

しかし、はっきりと自己を失くしたことを感じている。つまり、自己と知は本来  

一体なのかもしれなかった。この自己喪失感が、だけが、他の幾多の神秘

体験と意を異にしている、ちがっている。   

彼女は幼くして瞑想経験を始めて、神と自己との一体を求めて、「自己とは、  

力の源泉であり静寂点である神にもとづいた肉体と霊魂、知性と感情を 

統合した存在であり、本当の自己はその深奥で神につながれ、神と離れて  

は存在しないと」思っていた。

続けて、「そこで私は本当の自己を含めて自己と呼びうる一切が失われる  

恒常的な状態を迎えて、非常に驚いたのです」 と。この感覚的な認識は  

とても正しい状態を伝えるのに、全体の判断ではこれを特別な状態として  

否定しようとする、おかしな彼女を僕は見てしまう。なにが、彼女にそう  

させるのか?  

彼女のこだわりが、神と自己は合一する、という”予定(期待)”が、そのはずだ、

そうならねばならない、という信条に(心情に)あるからだ。 神は僕らが頼りやすい  

アイテムだ。彼女は自己喪失の事実を感じても、そのアイテムを手放す気には  

なれない。それは当然のこと。生まれた時から、家庭はキリスト教一色だった

ろう、幼い子に瞑想をさせるくらいだから。そうして神は子供の頃から、すでに  

”実在している” 存在として、子供心に刻まれたのだから。  

彼女は悟りの第1段階に1歩を踏み出した途端に、宗教という先祖代々の  

環境に邪魔されてしまった、 のではないか。 その自己喪失という状態は  

体験しないとどうにも説明の不可なものだから、僕が言っても仕方ないのだが、  

神が実在ではなく、彼女やその先祖代々の概念であるなら、それが知の作り

出した、人間の完全への願望を投影したところにできる偶像であるならば、自己

が喪失した時点で、知の生んだ神も喪失するはずである。ただ在るという存在

の世界が、きっちり捕らえられたのならば、そこに人格神がいない、のは当然の

話ではないか。 彼女は新しく神を求めるのが信仰の道だと信じているから、  

「神はいずこに」と結果なるのもまた当然ではないだろうか。彼女の求めている

のは知的結果である「神」という幻影だから。  

信じることは、難しい。それは本質では、選択の問題ではないから、・・・。  


では、個人的な本題に入る。   

自己を喪失しても、自己の枠というものは新しく必要になる。水に自己を求めて 

も変幻自在なので、器に入れないと、それはなにも主張できない。 くまさんの  

形の器に入れれば、くまさん発言ができる。その他も。しかし、一度自己喪失を  

味わうと、自己というよりも変幻な主体になり、自分にこだわらなくなる。 僕は  

はじめは気づかなかったが、第二の自己に、第二の知を背負わせたらしい。  

自意識の左脳的な知、右脳的な知ではなく、体や脳の他に第二の知を心の  

内奥に据えたようなのだ。そう考えると、はじめはちょっとした疑問が浮かんだら、  

それをポンとインプットして(どこだかわからないが)、忘れてしまうと、あとで  

答えがふっと出てくる、という不思議な現象の説明がつく。これは面白いので、  

初期には面白半分で、矢継ぎ早にどんどん入れていったら、普段の思考力が  

落ちて、思考が遅くなるという、副作用があるのがわかった。それからは 

適度に、適当に使うようになったが、文章がその場でほぼ推敲なしで書ける  

というのも、この潜在力のおかげに違いない。 これが「自分と知性が双子の

性質をもつという論」の、傍証であり、そもそも自身が知性を二重に持つことで、

知性同士の比較ができるという客観性から得られたものではないだろうか。  

これには一種のすごさがあって、自意識である自分が考えるよりも、その先を  

考えた優れた結論を出してくる時が、ままあるのだ。 これは文章をよくする人

には必ず現れる兆候で、文章を書くことで、その場でその先の考えに発展する

ことだ。  文字という形を現実に取ることで、頭の中では夢のようにあいまい

だったものがはっきりするので、それを見てピースとピースがつながるのだ。

書くことで、新しい思考の展開・発展へと進める。それが文章を書くことの(発見

という)醍醐味なのだろう。 

僕はいつも自意識よりも、深層の知性の方が上手(うわて)だと思っている。それは

僕が望むことを僕よりも知っていて、気がつかなったけれど、こうしたかったという、

本来、僕が考えたよりも、よりよい結果を送り込んでくるから。 時には、書かれた

文章を推敲するようによく読んで、そのよく練られた考えに賛成するのだ。  
 

でも、二人だと感じたことはない。彼は飽くまでも、僕の情報を吟味して、その  

狙いを誤ることなく、深掘りができるようなのだ。僕が考えているのだが、自意識 

では乖離があって、考えていないような ・・・。 

そうだ、題の「アルマジロ」だった、 なんだろう? なにを考えて、この妙な題に  

したのか? こりゃ、ダジャレだな。 僕はこの文で「あるまじき」ことを言ってしまう

かもしれない。それが、ぽっと、「アルマジロ」に変わった。面白いので題にしよう。  

あとはなんとかなるさ、と思ったら、どうしても、つながらなくても、題は「アルマジロ」  

だったのだ。こんな言い訳こそ、あるまじき、いや、「アルマジロ」だろう (笑)。   


*この文章はよく推敲をしたほうで、追加した言葉(5~6文字×2?)、2,3語

 (助詞)を置き換えたり、と 全体で数%くらい後から手を加えている。削除はなく、

 文章の流れも変えていない。最近、小さな修正は多い。



                              20 . 2 . 28
nice!(18)  コメント(0) 

紙の上を滑ってないで雪を滑ろう [自分と知]

 ”紙(観念)の上を滑ってないで 雪(リアル)を滑ろう”



ともかく 僕は 頭に狭い世界を  つくってしまった  

狭いと言っても 地球の全世界だから  一言では  

片付かない   

それでも だ   狭いものは  狭い   

どうしよう  この軋(きし)みながら  

そばのように 伸びるもの  

もう 実践して  経験する  貴重な時は  

去ってしまった     

それでも  ここに 残らねばならないとする   

ある意志 が ある   

その”意志” を 机の上に 置いて  

話しかけてみるのだ   君に   

「君は  このままでいいのか」   

「君は 意見を 言っているだけでいいのか」  

「君は 正しさだけで  いいと思っているのか」  

君に 言いながら  どうやら   

僕にも  言っている   

この 正しさという 呪縛から  どうやって  

逃れたらいいのか   

それは 知に頼らないことを 示しているのだが  

”知に 頼るとはなにか”いう処から  始めなければ  

ならないのだろうか   

考えていることは  ほんとうは 正しくない  

というのは  半分で  それが  正しくもあり  

正しくもないという  命題を抱えてしまっている  

これから 何年経っても  これは子供が成長するように  

いつも  ついて回る   

他に 指摘してくれている 著書(小林秀雄)もあるし、 で  

ホカして  先に進んでしまっていいだろうか と 

今 ここで  考えてみてしまうのだ   

逡巡とか  迷うとか  いうのが そうだ   

この程度なら  君は そのうちに  考えてくれるのではないか、 

という 甘い期待もあるが  自分の”知の働き” を  

そのシステムにおいて 疑うというのは  やはり  

高度な 技に なるのだろうか?   

技というより  知の 負の面に気づくという  

少し ややこしい 気づきのことなのだが ・・  

自分というのは  この知とは 親戚のような 

双子のような  親しい  また  似たもので  

くっついて 動く   

自分が  気づかれたくない面には  知も  

同調して  遠慮してしまう  もちろん  

その意識はない  

知に 気づくか  自分の負の動きに 気づくか  

どちらから 先でもいいのだが   そこには  

自然には(自分に まかせては)  行かない  

ストップ装置が かかっている   

それを外すのは  先入観をはずす  とか  

偏見を なくす   と 呼ばれている   

それを そもそも 偏見とか 先入観とは  

思っていないから  そう呼ばれているので  

気づくまでは  それは 正しい指針とか  

正しい信条と  自分で  思っている  

自分で  決めたつもりでいるが   ある偶然が  

世間の常識(誰かの著書とか=認められたこと) を  

君が 取り入れたものだ  

君は 賛成しただけで  それを 作り出したわけではないが  

それは君のものに なっているから  さらに その上に  

君の一部になっている  なぜなら  それを  

疑っていないから。    疑うにも  正しく疑うことが 

必要で   なにを 確信にするかは  その時  

大切なことになる    

For Example:  

「地球が 丸い とかいうのも  僕は 疑っている  

僕は 地球を 一度も この眼で見たことはないし  

飛行機からも  地球というものは  見えなかった」  

この 例え話は おかしく聞こえるかもしれないが  

なにも前提に していない点で 正しい   

どんな映像も  どんな記録も  どんな噂も  

自分で確かめたものは 一つもないのだから  

たった ひとつも。   

そこまで 疑っていては  なにも確定して  

そこからの話や 推論を 進められない と  

言うのなら   君は  自分の話をする時  

どこまで確かめたことを 基準にして  それを  

話すのか   全部が無理なのかは  わかっている  

問題は  大前提として  すべてのことを  

疑うことができる、という点だ   

すべてを疑え というのとは 話が違う  

それは カン違いというやつで  本筋は  

疑うのは  常識と自分では思われることこそ  あやしい  

そこから 疑うのでないと  僕らは ただ  世間の知識を  

上塗りしているだけ  となってしまう   

自分を がんこにさえ  している となってしまう  

(これに 気づいて  ほんとうだと  確認すると   

話は 速いのだが ・・・ )   

不思議なことに  その意識がないと  その知識が  

引き寄せられない   意識があると  それなりに  

TVや  書店や  広告でも  違和感があって  

そこに  疑いが発するのを  感じる  

またややこしいが  常識も必要   

歴史を 疑っても  なにも 始まらない  

いくらでも 乱暴な仮説を  それなりに 説得力を  

もって  語ることは可能だからだ  

歴史の常識を  覆していたら  キリがない  

そうしたら  なにを  疑うのだろう?  と  

考えた人は  すでにハマっている  なにに?  

自分という前提を  すでに 信じている   

すでに 信じてしまっている   ここに問題があるのだが  

大きな意識の壁が  それを見させない  

鏡のように  それが鏡ではなく  自分の顔だと  

確認させているのだ   

自分の顔を見ているので  それを映している鏡に  

気づかないように  僕らは 自分の正体に 気づかない  

そういうように  知が させている   

そういうように  自分という あり方がある  

めんどう?  

まだ  時間は  あるよ   

僕の趣味は  スキーで  

直滑降をすると  風に乗る瞬間がある  

その時  風は止まるのだが  風と一緒に  

滑降しているのを  感じる  

なんと言っていいか  風の空間世界が  

シンクロして  世界ごと動いている、という

この感じは  経験しないと わからない  

スキーでさえ  そうなのだ   

紙の上では  世間なんて  チリほども  

わからないよ   



*親父がアルバイトで彼の雀荘で便所掃除をさせられたが、  

 それが大層いいことだみたいなことを言われたが、それは  

 もうすでに知っていたことだった。 仕事って嫌なことが多いが

 便器に向かって気持ちを正面にして積極的に、便器をきれいに

 してやる!と手を抜かないと、不思議にきれいな便器に満足する

 ものだ。時給とかのケチくさい計算も必要だろうが、なんでも

 一生懸命にすると体が満足するものなのだ。その仕事がわかって

 いないのに中途にしたり、サボると、自分はそれでいい、と適当、

 つまりいい加減になる。サボるのは、仕事を覚えてしまえばあとで

 いくらでもできる(笑)。それは緊急・重要の優先と体を動かす

 健康の調整ができるようになるから、自分のための、また仕事の

 ためのサボリの調整もできるようになる。悪いと言われる常識が  

 ほんとにすべて悪いわけではない。これは言ってはいけない  

 ほんとのことだったろうか?(笑)



nice!(20)  コメント(0) 
自分と知 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。