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アルマジロに :自己喪失: [自分と知]

今日も、書くことがあるという”感じ” が胸から上がってくる。この感じについて  

思考を沿わせていたら、気づきか、思いつきか、分別のない独り言が あった。  

半分は自分のために、残りは深層心理に興味のある人に、書いておこうと・・。  


書くと長くなる。原稿10枚くらいは、15分か、30分か、ボーッとしていると、  

まとまってしまうからだ。 僕は自分が書こうと思うのは、ひとつの特殊な癖だと

考えていいような気がした。それもまた仮説なのだが、19歳で深層意識に

落ちた(たぶん、)ことは何度も書いた。  それは人間の取りつく島のない世界

で、個人的に”無”とか、”無限”とか呼んで差し支えないものと認めている。  

その10年後もしてか、の頃にどうしてそれだけの脅威に晒されて、恐怖を  

覚えなかったのかが、自分ながら不思議に思った。 近くは、底なしの闇を予想  

するのに、感じてもおかしくはないのに、少しも恐怖ではなかった。  これで  

二つのことがわかる。一つは対象が広く、大きすぎて、深すぎて(?)、なんせ  

取りつく島がないのだから、まったく新しい経験によるものなので、認識が  

追いつけず、できなかったということ。ある意味、ポカーンとしてしまった。  

これと対峙したのは、明らかに自分である、なのでこれを認識しようとしたのは  

明らかに知性だ。

このことは逆に、知性が過去のことを考える源泉や根拠にしていることを

裏づける。これが二つ目。過去に経験がないので、類似の経験で想像から  

認識に結びつけることもできなかったほど、衝撃的で、新しかった、ということ  

だろう。  知は、直近では見たもの、聞いたもの、味わったもの、他感覚から  

の情報をもとに言葉(=認識)に換える。その1次情報から(言葉や、色彩、音  

など)の二番煎じで、学や、アートや、交響する音に変換する。 知は必ず、  

自然の二番煎じである、ということ。 僕らが喜ぶものは、僕らが知っているの

だから、僕らのもの(人工物)に換えるのも、これ自然なことだ。 ただ大元は 

自然にある。  誰だったか、明恵上人だったか、のんびりしていては悟れない  

とばかりに、片耳をそいでしまった人だが、彼が「自然がわかったのなら、  

さして仏典を学ぶ必要はない」と言ってのけていた。  

さて、本題に入ろう。  

50代で、自我が育てた自分が一度クラッシュした。自己喪失である。これは  

資料がない。一つだけ、アメリカ人のキリスト教信者の女性が書いた体験談  

「自己喪失の体験」バーナデット・ロバーツ著(紀伊国屋書店)がある。僕は  

瞑想経験を映像では見ることができず、周波数かチャンネルがちがうらしい。  

彼女は夢遊病のように時を置いて、無自己の状態に陥るのだが、その感覚が  

僕の体験と同じ質であるのに、まず驚いた。彼女とは異質であるのに、その  

不可思議なFeering は同じだとわかる。そういう貴重な資料で、これまでで  

その感覚に出会ったのは、この本以外にはない。(近似のものはJ ・クリシュナ

ムルティの「生と覚醒のコメンタリー」(1~3)の中の、いくつかの短いエピソード  

に現れるだけ)  

その彼女であるが、キリスト信者らしく、「人格神はいない」と直感したらしく、そう  

書いている。 しかし、その後で、「私は新しく真の神を求める旅に出る」、という  

決心を書き残す。それが今、気になったので当時は続編が出ていなかったので  

その後のことは知らなかったが、出ていた。「神はいずこに:キリスト教における  

悟りとその超越」と大層な題で、(日本の出版社、または翻訳者によるものだろう)、

原題は「The Path to No-Self : Life at the center 」、であれば、「無自己への

小道: 生の中心のライフにて」 くらいの直訳だろうか。  

要は「無自己」では、日本で売れない、と考えたのだろう。「悟り」と「神」ならば、  

わかりやすい。 いずれにしても、彼女、主婦だった、はまだ神を探しているらしい。  

僕はキリスト教徒らしい、と単純に考えた。彼女は「人格神はいない」という  

その意味合いが理解できなかった、と。 彼女の体験は彼女が書いている通りの  

「この経験は神との結合に向かう瞑想の第1段階に属するものではないことを  

強調しておきたいのです。(略) 私の話は、(略)神と自己との結合を越えた彼方  

にある「不可知のもの」の沈黙と寂静の領域への旅の記録なのです」(はじめに)  

とあるように、それは「不可知のもの」への旅なのだ。この「不可知」がヒントで  

それは思考は感じられない、第三者からは幻想、神秘への内面旅行に読める  

だろう。  

しかし、はっきりと自己を失くしたことを感じている。つまり、自己と知は本来  

一体なのかもしれなかった。この自己喪失感が、だけが、他の幾多の神秘

体験と意を異にしている、ちがっている。   

彼女は幼くして瞑想経験を始めて、神と自己との一体を求めて、「自己とは、  

力の源泉であり静寂点である神にもとづいた肉体と霊魂、知性と感情を 

統合した存在であり、本当の自己はその深奥で神につながれ、神と離れて  

は存在しないと」思っていた。

続けて、「そこで私は本当の自己を含めて自己と呼びうる一切が失われる  

恒常的な状態を迎えて、非常に驚いたのです」 と。この感覚的な認識は  

とても正しい状態を伝えるのに、全体の判断ではこれを特別な状態として  

否定しようとする、おかしな彼女を僕は見てしまう。なにが、彼女にそう  

させるのか?  

彼女のこだわりが、神と自己は合一する、という”予定(期待)”が、そのはずだ、

そうならねばならない、という信条に(心情に)あるからだ。 神は僕らが頼りやすい  

アイテムだ。彼女は自己喪失の事実を感じても、そのアイテムを手放す気には  

なれない。それは当然のこと。生まれた時から、家庭はキリスト教一色だった

ろう、幼い子に瞑想をさせるくらいだから。そうして神は子供の頃から、すでに  

”実在している” 存在として、子供心に刻まれたのだから。  

彼女は悟りの第1段階に1歩を踏み出した途端に、宗教という先祖代々の  

環境に邪魔されてしまった、 のではないか。 その自己喪失という状態は  

体験しないとどうにも説明の不可なものだから、僕が言っても仕方ないのだが、  

神が実在ではなく、彼女やその先祖代々の概念であるなら、それが知の作り

出した、人間の完全への願望を投影したところにできる偶像であるならば、自己

が喪失した時点で、知の生んだ神も喪失するはずである。ただ在るという存在

の世界が、きっちり捕らえられたのならば、そこに人格神がいない、のは当然の

話ではないか。 彼女は新しく神を求めるのが信仰の道だと信じているから、  

「神はいずこに」と結果なるのもまた当然ではないだろうか。彼女の求めている

のは知的結果である「神」という幻影だから。  

信じることは、難しい。それは本質では、選択の問題ではないから、・・・。  


では、個人的な本題に入る。   

自己を喪失しても、自己の枠というものは新しく必要になる。水に自己を求めて 

も変幻自在なので、器に入れないと、それはなにも主張できない。 くまさんの  

形の器に入れれば、くまさん発言ができる。その他も。しかし、一度自己喪失を  

味わうと、自己というよりも変幻な主体になり、自分にこだわらなくなる。 僕は  

はじめは気づかなかったが、第二の自己に、第二の知を背負わせたらしい。  

自意識の左脳的な知、右脳的な知ではなく、体や脳の他に第二の知を心の  

内奥に据えたようなのだ。そう考えると、はじめはちょっとした疑問が浮かんだら、  

それをポンとインプットして(どこだかわからないが)、忘れてしまうと、あとで  

答えがふっと出てくる、という不思議な現象の説明がつく。これは面白いので、  

初期には面白半分で、矢継ぎ早にどんどん入れていったら、普段の思考力が  

落ちて、思考が遅くなるという、副作用があるのがわかった。それからは 

適度に、適当に使うようになったが、文章がその場でほぼ推敲なしで書ける  

というのも、この潜在力のおかげに違いない。 これが「自分と知性が双子の

性質をもつという論」の、傍証であり、そもそも自身が知性を二重に持つことで、

知性同士の比較ができるという客観性から得られたものではないだろうか。  

これには一種のすごさがあって、自意識である自分が考えるよりも、その先を  

考えた優れた結論を出してくる時が、ままあるのだ。 これは文章をよくする人

には必ず現れる兆候で、文章を書くことで、その場でその先の考えに発展する

ことだ。  文字という形を現実に取ることで、頭の中では夢のようにあいまい

だったものがはっきりするので、それを見てピースとピースがつながるのだ。

書くことで、新しい思考の展開・発展へと進める。それが文章を書くことの(発見

という)醍醐味なのだろう。 

僕はいつも自意識よりも、深層の知性の方が上手(うわて)だと思っている。それは

僕が望むことを僕よりも知っていて、気がつかなったけれど、こうしたかったという、

本来、僕が考えたよりも、よりよい結果を送り込んでくるから。 時には、書かれた

文章を推敲するようによく読んで、そのよく練られた考えに賛成するのだ。  
 

でも、二人だと感じたことはない。彼は飽くまでも、僕の情報を吟味して、その  

狙いを誤ることなく、深掘りができるようなのだ。僕が考えているのだが、自意識 

では乖離があって、考えていないような ・・・。 

そうだ、題の「アルマジロ」だった、 なんだろう? なにを考えて、この妙な題に  

したのか? こりゃ、ダジャレだな。 僕はこの文で「あるまじき」ことを言ってしまう

かもしれない。それが、ぽっと、「アルマジロ」に変わった。面白いので題にしよう。  

あとはなんとかなるさ、と思ったら、どうしても、つながらなくても、題は「アルマジロ」  

だったのだ。こんな言い訳こそ、あるまじき、いや、「アルマジロ」だろう (笑)。   


*この文章はよく推敲をしたほうで、追加した言葉(5~6文字×2?)、2,3語

 (助詞)を置き換えたり、と 全体で数%くらい後から手を加えている。削除はなく、

 文章の流れも変えていない。最近、小さな修正は多い。



                              20 . 2 . 28
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