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自分(知)という形態が依存を自然発生させる [依存]

星雲というのはきれいな渦巻で、

見ていると手を突っ込んでみたく

なる。

洗濯機の水流の渦ではないから

そんな巨大な手を突っ込めない

だろうし、そんな巨大な手も

想像でしかない。

そんな気持ちになるのは、宇宙が

まるで手に負えないからだろう。

あまりに距離があるので、光速で

年数で達した距離というのは、秒速

30万kmという光の速さを利用した

ものだろうが、億光年というと、やはり

時間で感覚してしまう。時間を距離に

置き換える意識の移動が楽ではない。


昨日まで、と言っても7,8年前だが、

宇宙は電波望遠鏡でかすかな光を

頼りに分析していたが、地球の外に

望遠鏡を設置してそこからの観察で

いろいろ新しい情報が入ると、これまで

の宇宙の科学常識が次々に覆されて

しまった。

宇宙の物質はほとんどがわからない物質

で満たされている、と仮説が立ったが、

それはダークマターと呼ぶことにした

だけで、そこで止まっている。

その観測にしてもヨーロッパだったと

思うが、その一度成功しただけで、それ

が基になっている。

つまり、今までは宇宙物理学で推測した

もので間違いでないだろう、とかなり

高くその説を支持していたのが、全部

崩れてしまった。

ではこれまでは科学の言うことだから、

大丈夫だろうということで、教科書で

教えられていたことが、見事に観測で

否定されてしまった。

でも、はっきりしたことがわかる

まではこれまで通りに間違った説が

教えられていくのだろう。それが

これまでも、そしてこれからも続け

られていく教え方、というか、歴史

の無頓着・無差別だからだ。

40年近く前に社会がかなりいい加減な

教育の基に置かれていて、確実なこと

は思っているよりもほぼない、という

ショッキングなことも経験した。

これは内部の爆発のような自己消失

だったので、修復するのが大変だった。

それで調べていくと、ノーベル賞の

湯川博士の本などで、辻褄が合わない

処は教えず、合理的に説明できるもの

だけを教える物理の先端学を批判して

いるのも知った。

太宰治の心中自殺にしても、話がそれ

で広まったのが速くて、本当の処は

無視されたらしい。駐在の警官が太宰

の下駄の跡が心中場所に残っていて、

太宰はひとり引き返すのに登ろうと

してできた跡だという。死にたく

なかったのだ。「人間失格」という

題は自分のことだろうが、女を残して

ひとり助かろうとしたのならば、その

非情さ・弱さの人間性が人間失格で

間違いではなかったのだろう。

駐在の警官はもう噂が広まってしまった

ので、口を挟む余地はなかったと、言っ

ているそうだ。

自分の毎日の生活でもよほど覚えている

ようなことでも、時間が経つと、合理的

な解釈をして自分で無意識に変えてしまっ

ている。自分でも自分の日常や事件は

朧気な記憶なのだから、歴史の記憶は

もっと危ない、確かさは疑ってあまり

あるというのが、本当の処なのだろう。

自分がどこでどの本や情報で考えや

気持ちを変えているのだが、それが

はっきりと整理されているという人は

稀(まれ)だろう。

江戸の大奥では眉は剃ったし、歯は黒く

染めたのだが、時代劇ドラマで大奥で

そんな女優が出てきたことはない。

見れたものではないからだろう。現代

の感覚に合わせて、ドラマの設定は

現代風に変えられるのは、良し悪しで

なく、その時の世間の現代感覚に寄り

添うからだ。


僕らは生まれた時からそういう教育を

受けた親から、そのまた親から同じ

社会の風潮のような感覚を受け継いで、

時にそれが断ち切られて、違う情報を

常識や習性だと思って何の抵抗もなく

子供の頃から受け入れてゆく。

その理由は多岐に渡っている。根源的

には僕らが知的なオーダーに従って

いることが第一原因で言葉を学ぶ時点

ですでに同じ為政の命令に取り込まれ

るが、それは情報操作がされる戦時中

とか、マスコミや教育機関が他国に

支配された時などは歴史が改竄される

のは世界の歴史上、どこでも起こった

し、現代でも同じだ。

中国が当時主張したのは南京大虐殺で

日本軍が南京の中国人民を30万人殺し

たということだが、その一部でも南京

の人口を超えている。資料を読むと

そこらあたりは嘘だと読めて来る。

それぞれ調査の複雑な事情があって、

すべてを書くことはできないが、

韓国の戦時中の慰安婦の問題でも

韓国は戦後に欧米で政界のロビー

活動をして、日本の卑劣な行為を

話し、書き立てた。アメリカの、

そしてドイツの学者もそれを信じて、

日本を非難する論文を書いている

始末だ。

頭脳優秀とされるお偉いさんでさえ

騙されてしまう。知的依存というの

はここを指している。

自分という精神のこしらえものは、

なにかに拠ら(頼ら)なければ

ならない。考えるとはすべて、なに

かとなにかを比較して、その違いを

明らかにすることだ。僕らがわかった

という理解を示す場合は、その違い

が明確になったことを示そうとして

そう言う。

自分を支える存在は家族や親戚では

ない。それは表に出た部分で根本は

考える知自体が、支える主体では

ないから、常に他力本願なのだ。

そう言う(互いに)自分(たち)が

集まった集団というのが通常の

世間という状態だ。お互いがそれ

なりにお互いに依存しようとして

いる、そして実際にしている。

それが結果として責任を持つ形で

はないので、風説が流れやすい状況

をつくっている。


ヘーゲルの19世紀では、大論理学

で:外面と内面は内容に従えば、単に

等しいだけでなく、両者は同一だ:

と言っている(キルケゴール本内引用

から)。どうもヘーゲルは小論理学

でも書いているように、:感情や心情

の側からしばしばなされる主張は、

(概念は生命のない、空虚な、抽象的

なもの)という理解は低いもので、実際

の事情はまさに逆であって、概念は

むしろあらゆる生命の原理であり、従っ

て同時に絶対に具体的なものである。:

と概念を主観も客観もなく真理扱いを

しているのは驚くべきことだった。

哲学者・思想家キルケゴールは当時

大ヘーゲルに対して孤独に立ち向かっ

たらしい。「あれかこれか」を書いて

内面と外面は違うと論を展開したと

いう。新聞にキルケゴールを皮肉った

漫画が載せられたり、街を歩くと、

見ろ、あれかこれかが行くぞ、と

揶揄された。

そして、ヘーゲルもキルケゴールも

古典哲学として観念派と実存派だろ

うか、それぞれ歴史に残っている。

社会は哲学の判定はしないらしい。

この間のノーベル経済学賞も同じ

経済理論を提唱した二人が受賞した。

それはわかるが、彼らのその理論で

出した結論は互いに逆の結論だった

と聞いている。ノーベル委員会は

論の正しさは判定しないで、同じ

論を提唱したことに対して賞を

与えているものだ。

これにはその考え方があって、貴重

な理論を社会に公表したことに対して

評価する、というものでこれは西洋の

伝統らしい。

なぜなら、1,2世紀前の有名な数学

の方式の賞については3人を受賞にした。

その一人はその理論を最初に考えた

数学者から盗んで自分の理論として

発表したものだった。それはおかしい

だろう、と批判がありそうだが、その

最初に発見した数学者は秘密主義で

その理論を発表するつもりがなかっ

た。そこでその盗人の数学者が発表

したことで陽の目を見たのだ。

同じ論を展開したもう一人の数学者も

同時期ということで一緒に受賞した

のだが、盗人の数学者は社会に有益

な理論を(盗んだとはいえ、)公表し

たことに対して拍手を送ったという

わけだ。道徳的には割り切れない部分

が残るが、それは東洋の道徳の考え方

を僕らがしているからだろう。



こういう関係を僕らが感情から理解し

て強めようとして、協力や絆という

社会の在り方が自然に出てきて、支持

されたものだろう。

しかし、精神だけの理由だけがその

原因ではないだろう。僕らの体の仕組み

が精神と同じくらいの重量・重要さを

もって僕らの依存を促している。

これは自然環境と僕らの体の依存と

対応が進化の流れをつくったように、

適応変化と太古からの習慣によって

出来上がった生活習慣とが文明文化

の元になっている。

それはテーマが大き過ぎて、全体を

一度に書くのは無理だし、そもそも

それを扱うまでの手には届かない。

その一部は面白いテーマになると

思うので、できれば一章なりとも

この先に扱ってみたい。




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